晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『未完のレーニン』 その2

2010-08-30 20:44:14 | Weblog
 著者は、レーニンの革命に対する考え方として、『革命という言葉は、「いまここ」の世界がまったく違うものへと変容するということを含意するわけだが、同時に新世界は「いまここ」の世界からしか生まれようがない。つまり革命とは、断絶かつ連続であるほかない。』(P16引用)と述べる。

 この言葉から私は、発達心理学者の浜田寿美男氏の言説を連想する。氏は、健常者、障害者ともに、私たちはそれぞれが今持っている力を使って「いまここ」を全力で生きる以外にない。その結果として、力が身につくことがある。別の世界が開けることがある。という。

 レーニンの無政府主義者との違いは、連続性の思想かどうかであり、レーニンは徹底した現実主義者である。

 しかし、一方では、「ここではない、もっと別の、もう一つの」断絶した世界を夢想し、そのために現実から飛躍した実践家としてのレーニンもいる。ここに、悲劇が生じる原因があるのではないか。

 私も若い年代の頃に感じていたが、おそらく多くの方も経験したのではないかと思うが、今の自分は本当の自分ではない、もっと別の自分があるはず、こんなはずの自分ではないという思いである。

 しかし、自分を、現実を知るにつれて、「いまここ」以外の自分はありえず、「いまここ」から始める以外ないということを徐々に知ったのである。



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『未完のレーニン』 その1

2010-08-28 15:40:30 | Weblog
 Pasta Express Basil(ベイジル)でカツカレー、札幌市清田区平岡公園東1丁目11-12 厚別中央通沿い、道央自動車道との交差点付近

 パスタ専門店ですが、本日はカツカレーを食べました。まろやかに摩り下ろしたタマネギがたくさん入ったルーが甘くかつ辛い。

 私が、カルボナーラにはまっているのもこの店からです。カレーにもはまりそう。



 『未完のレーニン <力>の思想を読む』(白井聡著 講談社選書メチエ 2008年刊)

 著者は、1977年生まれの若い研究者、その白井氏は、古い書棚の奥からレーニン全集を引っ張り出してきて、新自由主義経済路線など資本主義の本性が再び剥き出しになっている今こそ、再びレーニンの思想に学ぶべき時だと主張する。

 私は、レーニンにこそソ連型社会主義体制の欠陥の原因があり、レーニンではその繰り返しになる危険が大きい、著者の肯定的評価を批判的に読もうと思った。

 出だしから引っかかる。著者は、『レーニン考えでは、本質的にラディカル(根源的・急進的)であるのは、現実、「リアルなもの」そのものだけであった。革命家が脳髄の中に所有する思想でもなかった。』(P2引用)と述べる。

 レーニンからの引用でないので、レーニン自身の言葉なのかはわからない。しかし、後段の表現は、埴谷雄高の前衛党批判を意識しているのはまちがいない。埴谷の言葉は、何も読まず、何も考えず、ただ党の方針に盲従し、機関紙を売り歩くのが現実への働きかけ(革命)と錯覚している党員を批判したものである。もちろん、私は埴谷を支持する。

 この一節の中に、理論と実践、前衛党という組織形態、組織の中の個人、大衆と前衛など考えるべき事がたくさんある。
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『かくて老人は何も読んでいないのである』

2010-08-26 19:09:45 | Weblog
 無知蒙昧なプロレタリアートに対して、ブルジョアインテリゲンチャから生まれる先駆的部隊(前衛党)が、階級意識を外部注入し革命に導くとしたのは、レーニンである。

 それでは、この国で唯一の前衛党(自称?)と称す日共の党員はどのような文献を読んでいるのだろうか。

 日共の党員教育システムには、学習会などの「集団学習」と党員個人が自習する「独習」があり、独習指定文献が定められている。この制度は、1962年に宮本顕治書記長によって始められたということだ。

 参考までに、2001年頃の日共の独習指定文献を調べた。(宮本、不破、志井などによる党文献を除く。)

■初級では、レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』 、マルクス『賃金、価格および利潤』 、エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』

■中・上級 では、レーニン『カール・マルクス』、エンゲルス『ルードウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』、マルクス『ゴータ綱領批判』 、エンゲルス『反デューリング論』 、レーニン『唯物論と経験批判論』 、マルクス『資本論』 、レーニン『資本主義の最高の段階としての帝国主義』

 ちなみに、もっと前から若者は読むのを止めていた。

 日共の党員養成機関である日本民主青年同盟(民青)の独習指定文献(1997年12月改定)は、

■第一課程に、指定文献に古典は含まれていない。

■第二課程では、レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」、エンゲルス「空想から科学への社会主義の発展」、エンゲルス「ルードヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結」、マルクス「賃金、価格および利潤」、レーニン「青年同盟の任務」

■独習指定文献を読了した同盟員がめざす文献としては、エンゲルス『反デューリング論』、レーニン『唯物論と経験批判論』、マルクス『資本論』

 日共の指定文献は不変ではなく、レーニン『国家と革命』などは日共の平和革命路線と合わなくなったので削除された。また、2004年になり日共はこの指定制度を廃止した。その、理由は常に変動する政治情勢に対応するためということだ。

 今や、この国で老人党といえば、「立ち上がれ日本」か、「日共」だが、かくて、老人はすでに読むことを止めていたのである。

 このような先駆的な党員からなる前衛党が我々労働者を指導していくということなのか。
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『老人よ、レーニンなんか読むな』

2010-08-24 20:32:45 | Weblog
 『若者よ、マルクスを読もう』(内田樹、石川康宏著 かもがわ出版 2010年刊)その2

 社会への関心の持ち方は、人によって様々なアプローチがあると思うが、私が感じている一般的な傾向を述べる。

 先ずは、初期マルクスの哲学中心の著作に学んで活動家へというパターンである。疎外論をかじって「思い込んだら命がけ!」という龍馬伝の福山雅治みたいな活動家である。

 もう一つは、マルクスの晩年、経済学の著作「資本論」で資本主義社会の客観的法則を学ぼうと思った者の、学者風傍観者へというパターンである。あらゆる事象や本質を自分にとって「外部化」してしまう。(まさに、私自身のことと自覚している。)

 ここで、突然レーニンの登場である。キーワードは、「客観性の中において在る」である。客観性を外部化するのではなく、自分をその中に存在させる。それは、龍馬になるということか。

 レーニンは、一昔前は英雄、今は誰も触れたくない存在。社会主義思想は、ソ連・東欧型社会主義の崩壊で地に堕ちた以降、近年マルクスを語る者は少し復活してきているが、レーニンは未だにタブーの領域にあるのであろう。

 私などは、嫌われ者で遠ざけられ蔑まれ、人々の話題に乗ることも無い存在でも、結婚をしているというだけで、その人にはきっと良い所があるのだなどと思ってしまう。(逆は真ならず。)

 レーニンには、歴史的にとてつもない取り返しのつかない欠陥と、もしかしたら今を切り開く可能性の魅力があるのだろうか。


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ずる休み

2010-08-20 19:50:45 | Weblog
 松ぽっくりでできたワニです。



 今週は、水曜日の夜に突然38℃の熱が出て、木曜日の朝も熱が下がらず会社を休んでしまいました。丸一日半、寝床の中にいたのですが、聞こえるのは窓の外からの音ばかり。

 夜は、秋を感じさせる虫の音がその日は一段と大きく、痛い頭にキンキンと響きました。

 夜明けとともにカラスが出動です。カーの1回鳴き、カーカーの2回、カーカーカーの3回、・・・カーカーカーカーカーカー6回鳴き、回数と強弱は、群の間で何かを伝えていました。

 早朝散歩をする人々の声も聞こえます。夫婦や仲間同士なのでしょうか。

 昼を過ぎると、子ども達が学校から帰ってきました。朝の登校時は、とても静かだったのですが、下校時は声が弾んでいました。子どもたちの中での学校というものがわかります。
 
 夕方になり、熱も下がり気力が甦ってきました。すると、小学生の頃、急に学校に行きたくなくなってずる休みをしたことが何回かあり、フトンの中で本を読んだことを思い出しました。
 
 「ガリバー旅行記」や「東海道中膝栗毛」は、確かその時に読んだのだと記憶しています。

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『ポストモダンの共産主義』

2010-08-16 20:26:56 | Weblog
 相性というのは重要です。人も本も第一印象で魅かれる場合、少し付き合っていくうちに良さがわかる場合があります。

 多くの人がいい人だと言う場合でも、多くの人が面白い本だと言う場合でも、自分にとっては自分で評価する他ありません。

 もちろん、途中で評価が180℃変わり、笑劇から悲劇になることもあります。



 『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』(スラヴォイ・ジジェク著 ちくま新書 2010年刊)

 結論を最初に言う。これは全くの駄本だ、と私は感じた。

 原題は、『はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』である。『ポストモダンの共産主義』という書名は、訳者か書店が付けたのだろう。まんまと共産主義という言葉に惹かれて読んでしまった自分が悪い。

 本書のどこが悪いか?それは、いくら読んでも何を言いたいのかがわからないからだ。

 著者は、執筆の意図を、第1部「肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!」で、資本主義イデオロギーの核心にあるユートピア性を浮かび上がらせる。第2部「コミュニズム仮説」では、新たな形態のコミュニズムが実行される可能性に向けた開かれた現状の諸相を示す、と述べている。

 しかし、現代の様々な言説や事象の引用し、バッサバッサと批判しているようだが、肝心の何かにつながる手懸りが無い本なのだ。現状批判に際する思想、コミュニズム仮説に中身が無い。

 私の能力の問題なのだろうが、要点を話してみろと言われてもどうにもこうにもまとまらない。

 今、私の頭の中に類似の人物が想い浮かぶ。金子勝氏もデータや様々な事象に対して現状批判をしているが、ではどうすれば良いかというラジカルな対案の無い方である。宮脇淳氏(北大経済)も、思想の輸入業者、新聞からの切り抜きレベルの言説を垂れ流しているが、彼も何を言いたいのかわからない方である。
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陰謀史観

2010-08-13 17:47:42 | Weblog
 かかと痛対策として、ニューシューズを購入。ちょっと目立つ色に。

 先日、コンサVS横浜FC観戦のとき、カズさんが練習で見せてくれた「体幹」を鍛える体操。四つんばいになって、右手と左足を水平に、左手と右足で身体全体を支える、これを交互に繰り返す。一時は腰痛に効いたように思えたが、再発。

 体幹を鍛えるように、脳みその中心も鍛えなくては。脳幹を鍛える体操を編み出すぞ!



 真偽の程は定かでは無いが、栗本慎一郎氏が語っている。「アメリカ金融資本の破綻と鳩山民主党政権の行方―政治と大衆意識の地平―」(2010.4.7三上治氏との対談 Niche Extra Number Vol.2 批評社 2010.6刊より要旨を部分引用)

 米国の政治情勢の中で後退している旧ブッシュ政権の軸だった強硬派、つまり旧トロツキストのネオコン(ウォール街ユダヤ金融資本とも繋がっている)イスラエルロビーグループが米国内の反オバマ運動と地下で連動して、日本の検察を使って小沢潰しをしている。

 私は、小沢タタキは、この国の現状に対する検察の正義か、米国の意向か、どちらなのだろうかと思っていたが、栗本説は後者である。

 栗本氏は、今回の構造は、小沢はもちろん亀井静香もよくわかっていると述べている。

 世の中は動いているが、政界は民主党の代表選挙待ち、なんともノンキナとおさんである。しかし、小沢が動くとどこからか圧力が加わる構図は依然として変わっていない。

 
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「棟梁 堂営大工の世界」

2010-08-12 09:17:17 | Weblog
 3日間の夏休み、台風接近で雨模様、晴走とはならないかも。

 初日、行きつけのKKR札幌の理容室で散髪。行きつけの床屋さんという表現は合わないか。でも、他に行きつけなど無し。総合整髪で料金は2.100円。
 毛髪の分量が少なくなってからは、全体に刈り込んで短くした方がいいよとアドバイスしてくれたのは、ここのおばさん。
 いつもながら手際のよい鋏さばき。これを理容師の「技能」という。

 JRタワープラニスホール(札幌エスタ11階)で開催されている『棟梁 堂営大工の世界』(竹中大工道具館開館25周年記念巡回展)を観る。無料、立派な図録は100円。必見の価値アリ。

 寺院(堂)、神社(営)など大型の木造建築物を手がける専門家集団いる。堂営大工の心得、修行、設計、墨掛、刻み、木組み、式祭、道具を工程順に模型や実物を見せて説明している。

  展示物の中で、一番見ごたえのあったのは、太い丸太から円柱を作る場合、一度正八面体を作ってから削り出しをして円柱に仕上げることだ。そのため出来上がった円柱は二周りも細くなってしまうのだ。私たちが日常見ている寺などの太い柱には、もっともっと太い原木を使っているということだ。

 丸太から円柱の削りだし、狂いの無い刻みと組み立て、つるつるに仕上げた木材表面・・これは、大工職人たちの持つ「技能」である。

 武谷三男は、「技術を、人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。」と定義した。

 これによると、木の性質を知り、数学や力学を応用して構造計算を行い、釘などを使わないで大きな地震にも耐えることのできる木造建築を作り上げる、これを「技術」という。

 
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『若者よ、マルクスを読もう』

2010-08-10 20:17:21 | Weblog
 臓器移植法が改訂され、本人の同意が無くても家族の同意で臓器の摘出が可能になったということで、その適用第1号の移植が行なわれた。ちょっと乱暴な気もしたが、医学技術的には可能、脳死判定という倫理上の問題は残っているというところか。

 私は、もう一つ経済学的問題が全然議論されていないと思う。そもそも需要と供給がミスマッチ。今回の改訂は供給を増やすためなのだろうが、需要に追いつくとは思えない。また、症例が増えた場合の医療費の問題も内在したままなのではないか。派生して、経済格差の問題、移植を受けることが出来るのは金持ちだけになるのではないか?

 これを、マルクスなら何と解く!



 『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』(内田樹、石川康宏著 かもがわ出版 2010年刊)

本書の帯には、「いいから黙って読みなさい」と挑発的なフレーズが書かれている。ターゲットは、高校生。札幌の書店には、「高校生は、これを読め!」というコーナーがあるが・・。

高校生が1,000人いたとして、その内何人が書店に足を運び、その内何人がこの本を手に取り、その内何人がこの本を買い、その内何人が最後まで読み通し、その内何人がマルクスの原本を読んでみようかと思うだろうか。

私の学生時代、1970年代の大学では、哲学と社会思想史の教官がそれぞれ同時期に、「経哲草稿」や「フォイエルバッファ論」を教材に堂々と「疎外論」を講義していた。否、今から思うとあれは講義というより、アジだったかの知れない。田舎から出てきて、免疫の無い頭が空っぽの学生にとって、「疎外」なんていう概念を聞いただけで、ワクワクしてしまったことを覚えている。

本書は、マルクスの若い頃の著作を題材に、二人の著者による往復書簡という形をとっている。先に、石川氏が、マルクスのオーソドックスな読み方を提示する。それに、内田氏が、少しずらした位相でコメントを付すというスタイルである。この順番が逆ではこの本は成立しない。石川氏がマルクスからの引用部分を自分の持っているマルクスの原本に線を引いていけば、自然と読み進めることができる。

本書で取り上げられたのは、「共産党宣言」「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」で、マルクスの25歳から29歳にかけての哲学的思考であり、晩年の「資本論」に体系化された経済学研究に至っていない段階の著作である。

本書の中には、若きマルクスの感性が光るフレーズも多く、それをノートに写すだけでも、思考の出発点になりえる。

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「人民の海は深いか、浅いか」

2010-08-04 20:15:17 | Weblog
 高齢者の所在確認の話題でニュースが盛り上がっています。最初の報道があった時、直感的にこのような例はたくさんあるだろうなと思いました。韓国からは、あの几帳面な日本人が何といい加減なことをやっているのか、と驚きの声が伝わってきています。

 夜逃げ、駆け落ち、失踪、行き倒れ、逃亡、潜伏、ホームレス、死亡届けや住民票の異動手続きが面倒臭い、知らなかった、そして今回のような年金などの不正受給(未だ断定されていませんが)のためなど、人には様々な生活の上での事情というものがあります。

 交番の掲示板には指名手配のポスターが貼られていますが、なかなか見つからないようです。そういう意味では、人民の海は深いのだと思います。長妻厚生労働大臣の調査すれば解決できるような発言は、氏がいかに世の中の事情というものを知らないのか、また、育ちがいいせいなのかノーマルな生活しかイメージできない方であることを示しました。

 「せまい国土に交通機関・通信機関が発達し・・ている現代の日本社会では、・・全国的な規模での内乱の形で革命をはじめることはきわめてむずかしく、・・不可能に近い。遊撃隊戦術もまた、山間の流民隊と化する以外にはない。当時の極左方針の分析には、こうした条件、とくに社会的条件と技術的条件についての本格的関心はほとんどみられなかった。」(上田耕一郎著「マルクス主義と現代イデオロギー」(上)1963年刊所収「「大衆化現象」と極左冒険主義」P54より引用)

 これは、1950年から1953年にかけて山村工作隊など農村への潜入戦術など日共が掲げた毛沢東型の軍事革命路線の破綻を総括した論文の一部です。この20年後にも連合赤軍が同様の戦術から壊滅しています。

 革命のため潜るには、この国の人民の海は浅すぎたのだと思います。
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