晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』

2020-04-21 16:48:50 | Weblog

コロナ、コロナで自粛生活をしているうちに4月も半ばを過ぎてしまった。思えばこのブログを始めたのが2006年4月なので15年目に突入したということになる。今は、ツイッターやフェイスブックなど比較的短いフレーズで思いを伝える方が多いのだろう。ブログやホームページをシコシコやっている人は減っているのではないか。「産んだ子は育てなければならない」と思いもう少し続けたい。

 

『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(小熊英二著 講談社現代新書 2019年刊)

本書においては、この社会においてあえて明文化されていないが多くの人が何となく感じている暗黙の、そして慣習化してしまっているルールを浮き彫りにされている。特に雇用システムが取り上げられ、読者の年代にもよるが僕などの世代(65歳の無業者)では、これまでの自分の直接に経験したこと、友人などから間接的に聞いたことなどと照らし合わせると「そういえば、そうだったな」「なるほど、そういうことだったのか」と実感できるところが多いと思う。

世の中を上手く渡って行け!とは思わないが、「高校生はこの本を読め!」と言いたい。若いうちほどいい。社会のモノサシがわかる。世間をナメていた僕にはもはや手遅れだ。コロナで学校が休みで時間がある今こそ読んでそして考えるいい機会だと思う。

本書を読み進めながら僕自身のこれまでを振り返ってみた。会社がほしかったのはこういう人材だったのか。当時は就活という言葉は無かったが、採用試験の前にわかっていれば・・。会社には、その会社ごとに社風や文化があり独自のルールがあることは誰しもわかっている。それに加えて、今でも当たり前のように行われている新卒一括採用や定期人事異動。それらのしくみもこの国では明治以降の歴史的な条件の中で培われてきた共通の考え方に基づいていることがわかる。給与制度や定年制などの思想も起源を同じくしており、それらも自分の生活設計に大きく影響されたと実感できる。

1970年代の僕は、高校生、予備校生、大学生だったが、その時代に各種高校の果たした機能、受験競争の実感、予備校でのコース選択、学生生活と就職などは、自分で進路を決めてきたように思っていたが、はたしてそうではないようだ。社会のしくみの中で本人の自覚のある・なしに関わらず大きな力によって誘導されていたことがわかる。

一例をあげれば予備校のクラス選択である。通常は、「国立理系」「国立文系」「私立理系」「私立文系」と分かれるが、それは数学ができるかどうかで決まるというのだ。「国立理系」に行くのは、その生徒が理系に向いているかどうか、理系をやりたいかどうかではなく、単に数学の得意、不得意で分かれるというのだ。高校は、理系と文系が分かれており、僕は理系で数Ⅲを選んだ。数学の問題は何となく解けたと思うが、では数学が好きだったのかといえば好きでも嫌いでもなかったと思う。なるほどそういうことだったのか。

小熊英二氏の著作を編んでいく手法は立花隆氏に似ていると思う。膨大な資料や文献を読み込み、既存の知識をコーディネートしてひとつの仮説を見出していく。そこで、小熊がしていることは何か新しい理論を構築するのではなく、その分野の知を体系化していくことである。立花氏が多様な分野においてまとめあげたように、著者のこれまでの仕事も『単一民族神話の起源』『〈民主〉と〈愛国〉』『1968』『社会を変えるには』『生きて帰ってきた男』とテーマが他分野に広がっている。これからどのようなテーマを手掛けるのか注目したい。小熊英二は立花隆の後継者なのである。

 

 

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