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「♪こんにちは、こんにちは、世界の国から・・」三波春夫の歌は今でも口ずさめる。岡本太郎の「太陽の塔」は当時賛否があったと記憶しているが、健在だ。月の石を見てきたという同級生がうらやましかった。翻って、大阪・関西万博に行ったという話を聞かない。魅力が無いのは、国力の劣化したこの国を象徴している。終わって残るのは大きなツケだろう。
『小さきものの近代 第1巻、第2巻』(渡辺京二著 弦書房 2022、2024年刊)その1 絶筆・未完 徳川社会 明治維新
このブログ2025.1.21 に明治について、津田正夫著『百姓・町人・芸人の明治革命 自由民権150年』(現代書館 2023年刊)を書評という形で掲載した。本書は、明治維新、自由民権運動など歴史の大きな渦の中で、渡辺京二氏の視点「小さきもの」から見た明治だ。著者は、「創られた『近代」』に適応してゆかざるをえない者たちのことを「小さきもの」と形容してみた」(緒言 Pⅲ)という。また、「私は支配される人びと、あえて言えば小さき人びとが、維新以来の大変動をどう受け止め、自分自身の『近代』を創り出すために、どのように心を尽くしたかを語りたい。」(P22)と本書のねらいを語る。
著者が90歳から執筆を始めた本書は、「維新が開いた近代国民国家建設の過程が、いつゴールにたどりついたかと言えば、結局は1945年の敗戦だったというのが私の考え方である。」(P15)と敗戦までの歴史を描くことを目指した。年齢との闘いの中で、少しゴールを手前に寄せて関東大震災までを何とかして、その後、一応の「終点」は「大逆事件あたりにしようと思い定めている。」としていたが、第2巻は「激化事件と自由党解体」で終わってしまった。著者は、2022年12月25日に92歳で亡くなった。
僕は渡辺氏から歴史の見方を多く学んだ。一番インパクトがあった著作は、『逝きし世の面影』だ。読後、江戸時代に対する認識がガラッと変わった。どのように変わったのか。それは江戸と明治をそれぞれどのように捉えるかという点だ。かつて僕らが教科書で習った江戸時代は、鎖国により世界の中で遅れた社会、強固な身分制のもとで貧しく停滞感に覆われた社会、それが明治維新によって一気に近代化、西欧化したという歴史観だ。大衆から圧倒的な人気を得ていた司馬遼太郎もその一翼を担っていた。それを早い時期から批判していたのが渡辺氏だ。江戸時代の再評価の先駆者だった。最近放映された、NHK『3ヶ月でマスターする江戸時代』も新たな歴史観に基づく内容だった。
もうひとつ著者は、戦後歴史学に大きな影響を持ったマルクス主義的な進歩史観も批判する。これについてはその2で述べたい。
本書「第二章 徳川社会」では、「維新革命はいかなる社会、いかなる国家を打倒さしたのだろうか。」(P27)について書かれている。
(要約)長崎出島の蘭人は、徳川社会は、世界のどこよりも安心で安全が保証されていて、最高の教育、それに応じて美術工芸、産業、技術学問が進歩していると評価している。
農家の苦難を象徴する年貢は、検地実施時点では、米は全量徴収、農民は雑穀を食べろだったが、幕末には生産性が向上し五公五民どころか、3割を切ったという。
幕末には、278の藩校があり、すでに近代国民国家(明治)に必要な知的レベルの官僚群が育成されていた。
士農工商(身分制)も、それぞれの社会的機能を家として世襲的に分担したものであり、誇りをもって納得していた。農民は食料生産を担う国の基だという自尊の念を持っていた。
歌舞伎などの演劇、琴・三味線を伴う音曲や踊り、生花・茶道などの芸事、俗文学の発達、社寺参詣など旅の盛況、国学など学問の勃興など文化も盛んだった。
識字率は4割。寺子屋は天保期には1万を越えていた。かような社会だったのだ。
『カクテル・パーティー』(大城立裕著 岩波現代文庫 2011年刊) 沖縄 レイプ事件 米軍統治
友人の薦めで読んだ。本書は、今から60年ほど前も1967年に文芸春秋より刊行された作品を文庫化したものである。作者の大城氏は1925年生まれ、作品の舞台は本土復帰前で米軍統治下にあった沖縄である。親しい(と思っていた)4人のパーティー。そのとき米兵による高校生レイプ事件が起こる。
すると、それぞれ自分が日本人、沖縄人、中国人、米国人だったのだということを意識しはじめる。和気あいあいとしていた親善パーティーの空気が一変してしまいう。それぞれが出身国を代表するかのような言葉を吐き始める。米国によるヒロシマ・ナガサキに対する原爆投下を非難する日本人になってしまう。日本によるパールハーバー奇襲攻撃を忘れていない米国人、日本軍による南京虐殺の記憶を持つ中国人。沖縄人はもっと複雑だ。米軍の攻撃を受けた際に日本軍によって住民が殺戮された事実、日本も米国も信用していない沖縄の人。突如、ひとりの人間から○○人になってしまうのだ。
僕は、この小説を読んで「ひとは国家を背負った時点で戦争への加担がはじまる」と思った。
ひとりの人間として他者との関係を持つときは友好的なつきあいができているのに、自分は○○人だなどと思い始めた瞬間から、国家間の軋轢や憎悪が出現しいやがうえにも国家を背負うことになる。個人的な恨みなど無くても、他国を許すことができなくなる。その先には、祖国のために戦う光景が見え始める。
著者はラジカルな考えの持ち主なのだろう。この小説で親善パーティーなどというのは欺瞞で、その本質を暴露したと言いたいのだろう。だが、僕には暴露したところでそこから何ものも始まらないと思う。かえって、終わりなき諍いが始まるのではないか。僕は、著者の欺瞞性の暴露を批判しているのではない。暴露の先で、国家など意識するとろくなことにならないと思うのだ。国と国との争い、戦争に至る道を歩んではいけない。
「○○人などと胸を張ることを止めよう!」
本書には、ほかに『戯曲 カクテル・パーティー』『亀甲墓』『棒兵隊』『ニライカナイの街』が所収されている。
『しょうがない』 ブログの引っ越しとアブレーション
『goo blogサービス終了のお知らせ 予定日2025年11.月18日(火)』との表示が現れた。
先週から頭の中のどこかに、「♪ 雨が空から降れば オモイデは地面にしみこむ 雨がシトシト降れば オモイデはシトシトにじむ ・・・ しょうがない雨の日はしょうがない しょうがない雨の日はしょうがない ♪」(別役実作詞 小室等作曲)の曲が流れている。別役実と言えば、劇団釧路北藝の『この道はいつか来た道』をシアターZOOで観たのは10年ほど前のことだったろうか。不条理を書けばピカイチの別役。
60歳の時に不安定狭心症でステントを冠動脈に入れる手術を受けた。その2年後くらいから発作性心房細動(不整脈)が現れてきたので服薬で抑えてきた。転倒して鎖骨骨折をしたこともあったが、年間1,000~1,500kmほどのランニングも続けていた。
昨年12月に70歳になったのだが、今年に入ってからどうも体調がすぐれない。先週、医師の勧めもあり、6月の初めに心臓カテーテルアブレーションという不整脈の原因となっている神経を焼く手術をすることに決めた。不安はあるが腹をくくったところだ。しょうがないと思っている。
それで、サービスが終了してしまうこのブログをどうしようかと考えている。三択だ。
①goo blogのまま引っ越ししないで、自分に万一の場合はとともに世の中から消え去るか。
②ブログの引っ越しをして、自分亡き後に痕跡を残すという考えもある。
③もちろん一番いいのは、引越しして自分も元気になってブログを継続することだ。
どうなることやら。今はしょうがないのである。
2006年4月に始めてから19年、およそ7,000日で1,400本ほど書いたことになる。このブログを読んでいただいた方に感謝したい。日々の雑感の備忘録のつもりなのだが、公開を前提としているので、気取ったところやいい振りこきの文章になっていると思う。後で読み返して、汗が出ることはしばしばだ。ブックマークをしている二つのブログも長いこと更新されていないが、それぞれの方の軌跡を残す方法はないのだろうか。
マスコミも「天皇制」という言い方をしますが、元々「天皇制」という言葉は左翼用語です。「皇室制度」が正しいです。その上で僕は「天皇制」を使います。天皇制について語ることに何かしらの怖さを感じています。しかし、僕の周りでは僕も含めて、賑やかに、遠慮なく、真実もゴシップも楽しく自由におしゃべりしています。
『天皇問答』(奥泉光 原武史著 河出新書 2025年刊) その3 反天皇制 旧宮家 女性天皇 女系天皇 悠仁親王
小説家と政治学者が「令和の天皇」について問答した。僕が、なるほど!と思った発言を以下に引用する。(*)は僕のコメント。
(*)この問答のねらいが「まえがき(P3~P10)」に書かれている。
(奥泉)「天皇制を考えるとは、天皇制のない日本を考えることだ。」「天皇なしには『国民の統合』はできないのか?」「個々の『主権の存する国民』にとって天皇とは何なのか?」
○反天皇制の理由(P185~188)
(奥泉)「私自身は天皇制には基本的に反対だ。政治主体としての国民が社会形成するためには天皇制はないほうがいいのではないかと思う。天皇を中心にしたイノセントで純一な日本人共同体のイメージでは、社会形成をしていけないのではないか。アジア太平洋戦争開戦から敗戦に至る過程で天皇の果たした役割を考えたとき、犠牲になった人々を正しく悼み、歴史の経験を糧に社会を成していくには、日本国民が天皇から離れて『自立』することが必要ではないか。」
(原)「別の理由から天皇制には反対だ。それは、天皇制というシステムは女性の方に多くの負荷を生じさせる。ある種の性差別のシステムに他ならないからだ。」
「(その理由の)一つは、現行の皇室典範のもとで、男子を産まなければならないことだ。このプレッシャーは女性だけが背負わなければならない。たとえ女性天皇や女系天皇を認めたとしても、女性が子どもを産まなければならないこと自体に変わりはない。もう一つは、女性の血の穢れの問題がある。生理とか出産のときに女性をある種の穢れた存在として見なすという考え方がいまだにある。掌典職のなかで女性の内掌典だけがそういうしきたりを今なお厳格に保っている。皇族の女性だって生理にあたれば祭祀に出られない。プライバシーが守られない仕組みが未だに保たれている。選択的夫婦別姓が実現されないのも、皇室に姓がなく、女性が嫁げば必ず姓を捨てなければならない天皇制というシステムの存在と無関係ではないと思っている。」
(*)僕は、奥泉氏の方がオーソドックスな見解で、現行の立憲君主制を廃し共和制へ移行するという考え方は正論だと思う。それに対して、天皇制研究を専門としている原氏は、正面からの議論を避けており、性差別の指摘はその通りだが、であればどうしたらいいのかという展望を示していない。
○天皇制は続くのか(P197~P202)
(原)「仮にこのまま男系を続けようとするのであれば、悠仁親王が結婚し、相手の女性が男子を産むしかない。女性天皇・女系天皇を認めたとしても絶対に子どもは産まなければならない。皇室の女性に子どもを産まない自由はない。多様性やLGBTQを認めていこうとする時代とはまったく乖離している。」
(奥泉)「旧宮家を再興するという考え方はどうなのか?」
(原)「検討に値しない。GHQが11宮家を解体したものを復活させるわけだが、11宮家の『源流』である伏見宮家が天皇家から分かれたのは、いまから600年以上も前の南北朝時代だ。戦後に平民として暮らしてきた『伏見さん』とか『久邇さん』が皇族になりたいかという問題がある。また国民が突然皇族になった人を、皇族として認められるかという問題もある。」
(奥泉)「天皇の権威は、天皇自身に由来するわけではない。天皇は天皇の子どもだという点にその権威は由来する。皇祖に遡る血の連綿性の神話こそが権威の根本。」
(原)「現天皇は歴史を研究しているのだから、自分が理想とする天皇とはどういうものなのか、もっと積極的に語ろうと思えばできると思う。」
(奥泉)「天皇に頼らない国民(日本人ではなく)の統合を、さまざま利害対立があることを前提に、対話的に構築できるような社会をつくるしかないと、理念的には思う。非常に困難な道だということは認めたうえで、少なくとも天皇制がない日本を考えておく必要がある。」
(*)僕自身は、天皇制が無くても生きていけると思っている。だが、この国における天皇制は、廃絶のスローガンを唱えるだけで簡単になくなるようなものではなく、ずっと深く根を張っていると捉えている。大多数の国民の内にある天皇制は、こころの拠り所、伝統的な制度や考え方などという特別なものではなく、何か自然にそばにある存在のように思える。敗戦時に占領軍がこの国を効率的に統治のため天皇制を残し、かつ昭和天皇を退位させなかったのはそういう理由からだったのだろう。
今後の天皇制を考えると、天皇家の祭祀を見てもわかるが、本質的に天皇は稲作文化を背景に持ち豊饒を祈るのがその存在の本質であり、生き神様と思う。だが、社会の方が変化している。水田農業の衰退、コメの消費量の減少、そして最近のコメ価格の高騰と、国民のコメ離れが進んでいる。この情況は、天皇制の足元を脅かす現象だと思う。
天皇制の歴史的価値が「万世一系」すなわち男系男子による皇位継承、男性天皇の種(たね)によって保たれてきたことにあるとしたら、今その継承が最大の危機に立たされている。現在の皇室には皇位を継承できる男性が4人しかおらず、それぞれの年齢を考えると現実的には悠仁親王しかいない。非常に悩ましい事態にあるが、女性天皇、女系天皇を創設するという方法は、連綿と続いてきた男系男子という原理を根本から否定することになる。また、大正天皇までは何代かにわたり側室の子どもであるが、今の時代に男子の生まれる可能性を増やすため、側室制度を導入することは、こちらも民主主義国家の原理を根本から否定することになり難しいだろう。容易な打開方法は見つからない。
なお、天皇制については、2017.12.13に『〈女帝〉の日本史』(原武史著 NHK出版新書 2017年刊)、2015.10.7、16、23、25に『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)を書いた。
おまけ!
(P110)(原)「三笠宮は実は双子なのだが、双子はよろしくないということで圓照寺に押し込められたという説がある。」
少しだけコンサ・サッカー専用スタジアム構想、その14(2024.12.30)の続き。コンサ愛を断ち切って1年余、ここに来てわずかな光明が見えてきた。石水社長は、3月25日に三上GMを解任、そして矢継ぎ早に、27日に北広島市とのスポーツ協定を発表。その際、エスコンでレバンガが試合を行ったことに触れ、「サッカーの試合もできたら最高」と注目すべき発言をした。29日には、Jチームの夏合宿誘致の組織を設立した。僕の妄想が膨らむ。 追記(2025.4.5)石水社長がスタジアム建設に言及(北海道新聞4.5付け)
『天皇問答』(奥泉光 原武史著 河出新書 2025年刊) その2 令和の皇室は? 皇后の体調 秋篠宮家
小説家と政治学者が「令和の天皇」について問答した。僕が、なるほど!と思った発言を引用する。(*)は僕のコメント。
○宮中祭祀という使命(P171~P173)
(原)「コロナで行幸はしばらくできなかったが、祭祀だけはやっている。現天皇(令和)もそこは熱心にやっている。」
(原)「秋篠宮が宮中祭祀に熱心なので、天皇も熱心にならざるをえない。」
(奥泉)「秋篠宮家が平成の皇室のスタイルを受け継いでいる可能性がある」
(*)兄弟の間に見えない確執があると思われる。なにしろ次の天皇は秋篠宮家の悠仁親王なのだから、まもなく主体の変更が行われるのだろう。
○天皇が私たちの代わりに死者を悼む(P173~P177)
(原)「本当に戦争に対して反省するのであれば、加害の責任を負うべき場所にも行かなければならない。それを令和の皇室は意識しなければいけない。ただあまりそういうことを考えているようには見えない。」
(*)令和の皇室に対しては厳しいコメントだ。現上皇・上皇后は、被災地や戦跡を足繁く訪問したが、それが憲法で定められた天皇の国事行為ではないことに注意すべきだ。公的な行為だが、必ずしなくてはならない行為ではない。僕は、令和は令和のやり方でやればいいと考える。
○一人一人と相対してきた厚み(P177~P181)
(原)「外国語で直接話すことのできる令和の皇室は外国人に対する目線がちょっと変わるかもしれない」
○国民は「象徴」の意味を考えてこなかった(P181~P185)
(奥泉)「平成の天皇が示した象徴の役割がずっと受け継がれるとは限らない?」
(原)「令和になって既に半分崩れていると思う。令和の皇室はコロナでしばらく行幸啓ができなくて、オンライン行幸啓とか言っていたが、実際に人々の傍らに立つことができなくなってしまった。」
「2024(令和6)年1月1日に能登で大きな地震があった。天皇と皇后が被災地を訪れたのは、現地が落ち着きをかなり取り戻した3月下旬になってからだ。平成の時はもっと早かった。行幸啓を再開しても、皇后の体調に配慮するスケジュールが組まれ。天皇が単独で動く日も少なくない。平成流はもう半分くらい崩壊している。」
○平成と令和の皇室の違い(P188~P190)
(原)「令和の皇室は、皇后の体調が万全でない。天皇は終始皇后の体調に気を遣っている状態だ。行幸啓が復活しても、日程的に短くするから、地方を回れる範囲が限られる。」
(*)皇后が体調を崩してしまった要因を考える時、(その1)に書いた大正天皇のことが参考になる。病弱ながらもフランクな人柄だった大正天皇が、様々な制約のなかで次第に病んでいき最後は役割を果たすことができなく、摂政(後に昭和天皇)を立てられてしまった。現皇后も外交官として活躍していた生活が、非合理的な慣習が多いと思われる皇室に入り、子どもを産むこと、それも男の子を産むことのプレッシャーにさらされて変調をきたしたのではないかと推察する。結婚後しばらくは肉声を聞けたが、その後は全く話す場を与えられていない。僕は皇后が可哀想だと思う。
○秋篠宮家の存在感(P190~P193)
(原)「眞子さんが皇室を離脱して小室圭さんとニューヨークの行ってしまったときの会見で、『私』を優先すると言ったことは皇室のイメージを変えた。」
(原)「世論調査では女性天皇を認めるべきだとする割合が非常に多い。これは、皇室典範を改正し、愛子さんに天皇になってもらいたいと考えている国民が多いということだ。女性天皇を認めてしまえば、王朝の交代を意味する女系天皇に道を開く可能性がある。」
「悠仁親王の誕生によって秋篠宮家が台頭してきたのも、平成と令和の違いといえる。令和は上皇夫妻と『皇嗣』と呼ばれる秋篠宮夫妻がいて、天皇・皇后の存在感が相対的に低下する状態になった」
○令和の空気(P193~P197)
(奥泉)「平成の天皇・皇后がほとんど完璧だったために、次(令和)がつらいということがある」
(*)毎週発行されている女性週刊誌の広告を見ると、皇后、愛子さんに対しては賛辞の見出しが躍るが、秋篠宮家に対しては厳しい、バッシング的な言葉が並んでいる傾向がある。天皇家を取り巻く関係者が二分されていてそれぞれがネタ元になっているのだろうか。僕は、このままでは、悠仁派と愛子派が並び立つ「シン南北朝時代」になってしまうのではないかと妄想する。
北海道新幹線の札幌延伸が8年遅れて2038年度末になるという。僕ら高齢者たちは、乗れないかも知れないと一抹の不安。そこで、今さら言っても論を2つ。一つは、なぜ難工事が予想された、かつ人口希薄地帯をとおる現ルートを選んだのか。太平洋側の室蘭―苫小牧―千歳の方が良かったのではないか。二つ目は、そもそも新幹線は必要だったのか?新千歳―羽田は90分。新幹線は5時間だ。
『天皇問答』(奥泉光 原武史著 河出新書 2025年刊) その1 大正天皇 有栖川宮威仁親王 山縣有朋 西園寺公望 原敬 御用邸 摂政
今年は、昭和100年にあたる。僕は、明治100年があったことを記憶している。だが、なぜか大正100年は影が薄くスルーだった。では一体、大正天皇とはどのような人だったのだろうか。小説家と政治学者が「天皇」について語り合った。僕が、なるほどそうだったのか!と思った発言を引用する。(*)は僕のコメント。
○神出鬼没の大正天皇(P62~P65)
(奥泉)「大正天皇は皇太子時代、わりと気軽にいろいろなところに行っている。そんなにひょこひょこ出歩くな、とはならなかったのだろうか。」
(原)「あちこち出かけるようになるのは、皇太子(大正天皇)の教育方針に大きな変更があったからだ。東宮輔導になった有栖川宮威仁親王が、皇太子の健康を重視し、実地での学習を兼ねて皇太子が結婚した1900(明治33)年から地方を本格的に回らせた。それとともに、天皇の行幸に見られたような規制を大幅に緩和した。その結果、皇太子は旅行好きになり、行く先々で奔放に振る舞うようになった。突然いなくなるとか突然現れるとか。そして、言いたい放題言った。」
(奥泉)「皇太子時代の大正天皇は結構うまくやっていたとも言える。」「天皇に即位した後も、大隈重信とか原敬とか、政権中枢にいた人たちとの関係はうまくいっていた。」
(原)「大正期の政治家の中でも、山縣有朋みたいに明治を理想とするタイプと、原、大隈のように柔軟に対応するタイプがいて、後者を大正天皇は好きになった。」
(奥泉)「大正天皇は山縣が嫌いだった。」
(*)山縣の天皇観は「玉」というもので、統治の手段としての天皇、そのために有用かどうかだったのだろう。山縣の理想から遠かった大正天皇は、「巻物を丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだ」というような風評を流されたということなのだろう。僕は、とても気さくで普通の人という印象を持った。
○大正天皇という人(P106~P110)
(原)「明治が終ったときは第2次西園寺公望内閣だったが、原敬と西園寺が話し合う。大正天皇が頼りなさすぎるのでどうしたらいいか、と。」
(原)「大正天皇は、明治天皇と違うスタイルを築こうとした。天皇になって最初の陸軍特別大演習を1912(大正元)年11月を川越でやるのだが、川越までの道を自分に決めさせろと言う。大正天皇は明治天皇とは異なり思ったことを言ってしまう。」
(奥泉)「大正天皇のほうが自然というか、当たり前の人だね。」
(原)「とにかくおしゃべり好き。」「カメラ好き、写真好き。自分が撮られることに対してもまったく無頓着。」
(原)山縣は、一貫して明治天皇を玉扱いしてきた。これではだめだと、大正天皇にガミガミ言った。」
○封じこめられる「大正流」(P111~P115)
(奥泉)「大正天皇が頼りないと支配的エリート層は思っている。一方で、政治の領域では天皇機関説が主流になる。」
(原)「天皇機関説を採れば、大正天皇が少々頼りなくても大丈夫である。一機関にすぎないのだから。天皇の意思が絶対ではないということにしておけば安全。」
(原)「大正天皇には自分なりの考え(大正流)があった。大正天皇は、皇太子時代から葉山、日光の御用邸が大好きだったから、天皇になっても夏と冬は必ず行っていた。ところが時代がそれを許さなくなった。1914(大正3)年の第1次世界大戦、1918(大正7)年の米騒動では、御前会議のため宮中に呼び戻された。あるいは1915(大正4)年の京都での即位の礼と大嘗祭でも、日程を短くしろとか簡素にやれとか言っているが、無視されている。」
(*)そういえば、秋篠宮も現天皇の即位の経費に対して発言している。皇族が、想いを率直に表明すると斥けられる傾向は昔からであり、自由にはものを言えない環境にある。
○君主制の危機と新しいイメージ(P115~P117)
(原)「大正天皇は耐えきれずに体調を崩してしまう。だが、周囲は大正天皇を見放し、皇太子裕仁を前倒しして事実上の天皇にしようとした。原も山縣も合意した。」(P65)、そして「1921(大正10)年11月25日、裕仁が摂政になった。」
(原)(P120)「大正天皇が、もしも病気にならないまま在位し続け、山縣をはじめとする明治の元勲たちもみないなくなって『大正流』が定着していたら、全然違っていたと思う。」「神格化なんて絶対なかった。天皇はその辺を歩いていて、気軽に通行人に声をかける。そんな存在になっていただろう。」
(*)歴史に「たら、れば」は無いのだろうが、絶対君主として政治に利用されることもなく京都に戻って俗世間とは距離をおいてひっそりと生活していたかも知れないと思う。
『下山事件 暗殺者たちの夏』(柴田哲孝著 祥伝社 2015年刊)
このブログ2024.9.24に、安倍晋三事件を推理した小説『暗殺』(柴田哲孝著 幻冬舎 2024年刊)を取り上げた。それを読んだ方から、同じ著者による本書も読み応えがあって面白いよという情報をいただいたので、図書館から借りて読んだ。
下山事件は、国鉄初代総裁下山定則が1949(昭和24)年7月5日、三越日本橋本店に入った後に消息を絶ち、翌6日未明に、東京都足立区の常磐線と東武伊勢崎線が交差する付近で、轢死体となって発見されたが、自殺説、他殺説があり真相は未だに闇の中というものだ。発生後70年以上経つが、NHKドラマや小説、新たな証言の登場など人びとの関心が絶えない事件である。
著者の柴田氏がこの事件に興味を持ったきっかけは、著者の祖父である柴田宏(ゆたか)がこの事件のキーマンのひとりだったのではないかと思ったことだ。祖父宏の妹(著者の大叔母)が著者に対して「兄が犯人かも知れない」と告げたことから、調査と推理が始まる。(この小説の中では、宏を豊の字に変えている。)祖父の豊は、この事件の鍵を握っていると著者が推測する「亜細亜産業」という会社の社員だ。
この小説を読むにあたっては、1949年、敗戦後わずかに4年という時代情況を思い浮かべる必要がある。当時のこの国は、未だ占領下にありマッカーサーをトップとするGHQの命令は、政治、経済、社会全体に対して絶対的な権威をもっていた。だが、GHQの内部は一枚岩ではなく、容共派と反共派の路線対立があり、これも事件の背景として重要な要素なのである。
この小説の登場人物は、数十人を超え、事件への関わりも複雑で多岐にわたる。(あまりにも人物たちが複雑に絡むので、小説のストーリーを追うのが苦手な僕は、人物の相関関係図を作りながら読んだ。)それは、戦中を生き抜いた人たちであり、様々な過去を持った人たちであり、彼らが社会の中枢を占めていた時代だ。大陸で諜報活動をしていた人物、憲兵、右翼、共産党転向組・・・内部対立を抱える労働運動、警察、検察、フィクサー、法医学者たちの学閥・・そして電力利権、腐敗除去・・
筆力のある著者による迫力あるエンターテインメント小説だ。★★★!
松本清張『日本の黒い霧』にも取り上げられているが、氏の(日共系)労働運動弾圧を狙ったGHQによる謀略説よりもはるかに真実に迫っている。
食糧管理法が廃止された1995年当時、コメが投機対象になったかつての歴史が繰り返されるといわれた記憶がある。今の事態は、コメが国民の命を繋ぐための食糧という位置づけから、市場で価格が決まる商品に変質したことが原因だ。大儲けをしている輩がいるとすれば決して許すことはできない。
『コンビニ人間』(村田沙耶香著 文芸春秋 2016年刊) 『昭和問答』 吉本隆明 関係性 幻想論 逆立
なぜ本書を読もうと思ったのか。それは、『昭和問答』(田中優子、松岡正剛著 岩波新書 2024年刊)の中で、「◎昭和を知るための本」リスト(P166~170)に田中氏が推薦していたからだ。近くの図書館から借りた。
本書の帯にはこうある。主人公は古倉恵子、36歳未婚、大学卒業後も就職せずコンビニで18年間バイト。毎日コンビニ食を食べ、夢の中でもレジ打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、安らかな眠りをもたらしてくれる。ある男性から、コンビニ的生き方を恥ずかしいと突き付けられるが・・芥川賞受賞作
『昭和問答』で、田中氏が本書を評している。「現代日本のさまざまな関係のなかでしか成り立たない人間のあり様、いまの若い人たちが陥っている関係というものが描かれている。他人のまなざしをつねに内面化しすぎてしまっている。社会という漠然としたもののまなざしとか、誰かのまなざしとか、そういう外からのまなざしによって自分を判断する。そういうことをしつづけている主人公が、最終的にただコンビニのなかで商品を並べ替える、そういうあり方を『発見』する。コンビニは社会システムの一つなのだが、それを自分の社会として選ぶというようなところに帰っていく。いまの日本文学は、自分とは何かを問うような近代文学とは違うところに来ていると思った。」(P269)
僕は、人間は他者との関係性の中で生きているということには同意したい。ただ、この主人公は、他者からのまなざしを意識して自分を判断しているというよりも、主人公には多くの他者とは異なる特性を持つということの比重が多いと思う。端的にいうと、変わっている人なのだ。
「関係のなかでしか成り立たない自分、それは精神の問題というよりも身体の問題としてとらえられていて、自分の身体はこういうふうにしか生きられない。こういう時間配分のなかでしか動けない。自分が何を考えているではなく、自分のカラダがどういう状況のなかで動けるかということだけに注目している。しかもそうやって見出したものを、それが私なのだとは言わない。ただそういうふうにしながら、これからも生きていくのだろうなと終わっていく。関係のなかの自分にようやくたどり着いたとも言える。」(P270)
僕は、どちらかというと心的な問題だと思う。カラダが勝手に動くのではない。他者との関係性において、自己の特異な特性がよりわかってくるのだろうと思う。
また、僕は、村田氏が吉本隆明の『共同幻想論』を意識して本書を書いたのではないかと思う。いや、そうでないとしても結果的に『共同幻想論』で語られている幻想の3層構造を小説の中で見事に表していると思った。吉本の考え方は、社会というものは個人から成り立っていて、その個人が集まって社会を形成する一方で、個人と社会との中間には、家族や夫婦、異性間の関係があるというものだ。そしてそれらはそれぞれの幻想の上に成り立っていて、個人は個人(自己)幻想に、家族や夫婦は対幻想に、また社会は共同幻想にそれぞれ存立の基礎を持つ。ここでの幻想は観念と言い換えてもいい。
小説に戻る。主人公が生きていく中で、彼女自身が納得できる論理、居心地の良い環境などは必ずしも周囲の人たちと同様ではない。そのため、彼女と関わりを持つ人たちは彼女に違和感を抱いてしまうが、彼女自身は必ずしもそれに気付いていない。生きづらさを持ちながらも何とか周りに合わせいる。これが彼女の自己幻想である。
そこに突然ある男性が関わってくる。この男性も周囲からみると、あまりうまく生きていけないひとと見られている。二人はチグハグなのだ。二人の間には対幻想がある。主人公を取り巻く家族、同級生、コンビニ職場の同僚たち、さらに世間の常識というものの中に共同幻想が存在する。
吉本は、自己幻想は原理的に共同幻想に必ず逆立(対立)するという。個人は社会に対して対立的にならざるをえない存在だという。主人公は本質的に周囲とは違和感を抱きながらも、最終的にはコンビニに居所を見つける。本書は、吉本のいう3つの幻想を巧みに表現しているのではないか。
『昭和問答』(田中優子、松岡正剛著 岩波新書 2024年刊)
昭和天皇の在位期間を昭和としているが、なぜ今年をことさらに昭和100年と呼ぶのだろうか。確か明治100年というのはあったと思う。調べてみると、慶応から明治に改元された旧暦の明治元年9月8日(新暦1868年10月23日)」から丁度100年後の1968年(昭和43年)10月23日に、政府主催で明治百年記念式典が開催されている。では、なぜ大正100年はなかったのだろうか。『天皇問答』(奥泉光、原武史著 河出新書2025年刊)から大正天皇の影が薄かった理由がわかる。
『昭和問答』に入る。本書で触れられているが、著者である松岡正剛は昨年8月に亡くなった。本書も多岐にわたる内容で、注目すべきポイントはたくさんあるが、僕は松岡の共同体に関わる発言に注目した。学生時代に党派活動家だった松岡が、どのような思想的な遍歴を経て、さまざまな葛藤を乗り越えて現在に至っただろうか。
以下、本書から引用する。(*)は、僕のコメント。
「5.本を通して昭和を読む」(P165~P214)
○「雑誌も本も読んでいた」(P173)
「(吉本隆明)『自立の思想的拠点』『共同幻想論』(ともに昭和41年・1966年)を読んで、国家というのは幻想にすぎない、リアルな共同体というものを国家に奪われてはならない、と受け止めた。以後しばらくは、『じゃあその奪われてはならない共同体ってどこにあるんだ?』と考えつづけた。『共同体』をめぐる闘いがぼくのその後の読書のテコになっていった。20代の読書では『共同体って何だ』という問題意識を行ったり来たりしていた。」(P177)
*僕も吉本の国家論から影響を受けたと思う。国家は人びとの幻想の中にあるのだ。だから人びとが幻想を抱かなければ国家は存在できない。国家に権力が集中するからロクなことがおこらない。いま国家がやっているようなことは、町内会のゴミ当番のように皆で順番にやればいいのだ。だが、松岡がいうリアルな共同体とはどういうものなのか。おそらくコミュニズム社会を構想しようとしたのだろう。
「鶴見俊輔『限界芸術論』(昭和42年・1967年)、つげ義春『ねじ式』(昭和43年・1968年)など、一方の極には民衆や大衆が生み出していったもののほうに重きをおく連中がいて、もう一方の極には天皇を置いた日本の幻想的な共同体というものを問題にする連中がいて、僕の青年期の読書は、対極的二軸を睨み読みするというものだった。」(P178)
*天皇制もこの国の歴史上独特の幻想の共同体であり、その本質を追及することは一大テーマだ。
○「日本のナショナリティを読むための本」(P189)
「敗戦した昭和日本のなかで左翼幻想と共同体幻想という二つが生まれていったのはなぜかということに、ずっと引っかかっていた。学生のときは左翼運動に引っ張られていたが、その一方で明治維新を研究した色川大吉が秩父のコミューン(困民党)、松本健一が隠岐のコミューンに着目するとか、そういうものも気になっていた。でも、ぼくにはそういうコミューンという発想を持てなかった。」(P189)
*学生時代に、雑誌『現代の眼』に松本健一氏が時々寄稿していたので論稿は読んでいるが、この人は右なのか、左なのか、敵なのか、味方なのかよくわからないなと感じていた。振り返ると、僕の思考の前提に先ずは右か左かという弁別があったと思う。色川大吉氏については、民衆史ブームがあったことを覚えているが特別の興味は持たなかった。
「そのうちに、そもそも日本は、左翼に行くか共同体に行くかということを、どこでどう考えるようになったのか、敗戦したから考えたのか、それ以前からあったのか、という疑問が出てきた。やがて、日本の知識人たちが左翼幻想とか共同体幻想に行くというのは違うのではないかと思うようになった。それが、社会主義のプリンシパルや指導原理がもとになっているのではないか。つまりソビエトや中国共産党の指導のなかに日本がはまっていただけではないか。イデオロギーの限界を感じた。しかも、そうしたイデオロギーには『日本』や『日本史』が入っていない。だとしたら日本が本気で思想しているとは思えない。」(P189)
*この松岡氏の発言は、氏の思想のターニングポイントを示す重要な部分だ。氏は自分の思考の軌跡を述べている。まず、共同体に関わる思想を歴史的に捉え直すと、疑問が生じる。やがてその理由が、この国で影響力を持っている思想がこの国が独自に生み出したものではなく、ソビエトや中国共産党のイデオロギーに端を発したものだったのではないか。そのイデオロギーは、借り物であって日本や日本史が不在だった。だから、日本とはどういうものなのか、本気で捉える必要を感じたのだろうと思う。言い換えれば、「左翼の病」の自覚症状を感じた瞬間であったということだ。
「左翼幻想とか共同体幻想に走りすぎた昭和日本というものが、日本のナショナルなものの見方に混じってくるところがあって、そこをあえて混ぜることを試みた著作に惹かれるようになった。そこから、廣末保、中村真一郎、井上ひさし、山口昌男、白洲正子、石牟礼道子を読むようになった。」(P191)
*松岡の読書の幅が広がっていることがわかる。
「ぼくの周辺では左翼幻想や共同体幻想がラディカルな言説をもって流行していたし、ぼくも学生時代はそういうものに惹かれていたが、それらの『おおもと』が何かを考え始めてみると、自分が生まれる前に書かれた(無頼派の)織田作、安吾に入り直すことになった。」(P193)
*さらに、思想的に懐の深いものになっていくのがわかる。
○「石牟礼道子の言葉」(P203)
「『苦海浄土』(昭和44年・1969年)、『椿の海の記』(昭和51年・1976年)でいう石牟礼道子さんの言葉は、九州の大正炭鉱をめぐる『大正行動隊』、雑誌『サークル村』、つまり谷川雁を中心とするコミューンの中で育まれた。石牟礼らの考え方は左翼共同体幻想とは違う、ぼくが知っているコミューンをはるかに超えていると思った。(P203)
*さらなる松岡の変化だ。僕の感覚からいうと、地域共同体とはそれほど心地の良いものではないと思う。人と人との距離感が近く、相互扶助的であるとともに、お互いの束縛が強いという側面がある。地域共同体を過大評価してはいけないと思う。
○「昭和は『祈り』と『憧れ』を失った」(P207)
「ぼくがなぜ有吉佐和子の『一の糸』(昭和39年・1964年)、大原富枝の『婉という女』(昭和35年・1960年)とか、閉じられた社会や、封じ込められた場所の物語に関心をもったのかというと、吉本隆明の言う『幻想の共同体』ではなくて、新島、三里塚と同じ、あるいはアパッチ族の砲兵工廠跡と同じような、特定の出来事に見舞われる場所でつくられた言葉に惹かれたからだと思う。」(P207)
*昭和の一断面からも学ぶことは多いと思うが、それは息苦しい社会だと思う。それも昭和なのだろう。
「6.昭和に欠かせない見解」(P215~P286)
○「日本の古層を再生した折口」(P222)
「西洋のコミューンとか民主主義ではない、独自の社会や制度が日本にあったのではないかということを網野さんたちが言い出します。天皇や神社仏閣と直接的につながっている『神人』『寄人』『供御人』、『非人』と呼ばれた被差別者たちが、職能民として独自のネットワークをつくっていたといった、それまでほとんど顧みられることのなかった歴史が、浮上した。ホッとしました。このへんはぼくの読書遍歴のなかでもうれしい陽射しになったところです。」(P227)
*松岡の辿りついた境地といってもいいだろう。日本の文化的な独自性を手掛かりに進む決意が述べられている。
2025年は、昭和100年、敗戦後80年の年だ。ちなみに、「昭和って最初と最後が7日間しかないんだよね。」(『昭和問答』P2松岡談)。昭和元年は、1926年12月25日から31日、昭和64年は、1989年1月1日から7日までなので、昭和は62年と14日間なのだ。
『江戸問答』(田中優子、松岡正剛著 岩波新書 2021年刊) 蔦谷重三郎 江戸文明 渡辺京二 海禁 出島
江戸時代にブームが来ていると感じる。NHK大河ドラマは、江戸のメディア王蔦谷重三郎が主人公の『べらぼう』が、またEテレでは『3ヶ月でマスターする江戸時代』が放映中だ。ではなぜ、今、江戸時代なのだろうか。僕は、対外的な危機が意図的に煽られているこの国にあって、およそ260年間対外的な戦争をしないで平和な時代を続けたこと、そこから我々が学ぶべきなのだと思う。江戸時代はしたたかなのだ。その理由は本書でわかる。
僕が学校で歴史の時間に勉強した江戸時代、そのイメージは、士農工商という強固な身分制度のもとで武士は威張り庶民は小さくなって暮らし、農民は重くのしかかる年貢のために困窮していた。また、鎖国政策をとったことにより外国からの文物や情報が入って来なかったために、国際情勢にも疎く、また技術水準も劣る前近代的な社会というものだ。それが、明治維新によって開国し、西欧に追いつけ、追い超せと一気に近代化を進めた。江戸から明治への変化を進歩として捉える見方だった。多分にマルクス主義的な歴史観、唯物史観のもとにあったのだろう。
さて、『江戸問答』では、田中優子氏、松岡正剛氏が江戸時代の真の実力について縦横無尽に対談している。上記のイメージが変わる。なお、江戸時代の評価については、このブログ2019.6.8に『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(渡辺京二著 葦書房 1998年刊)を取り上げた。
以下本書から引用、それに僕のコメント(*)を付す。
「オランダ(東インド会社)のアジアにおける拠点は、ジャカルタとバタビアで、それ以外に約20カ所の支店を持っていた。長崎の出島は最小の支店だった。だが、日本はそこから入ってくるもの(情報、文物)を非常に重要なものとして受けとめた。『アジア風説書』はアジア中に出まわっていたが、日本人はそこから世界の情勢を理解して、ナポレオンが何をしているかということまで把握していた」(P181田中談)
(*近年は鎖国という言葉を使わずに、海禁というそうだ。海禁の意味は、海外渡航禁止令であり、この国からの出国を厳しく制限するものだ。外からの情報は、長崎の出島や朝鮮通信使のもたらす情報を幕府は感度よく入手していた。決して、孤立政策ではなかった。)
「イギリスの東インド会社は、オランダより前に来ていたが、イギリスの持ってくるものは、日本の需要とマッチしなかった。たとえば、ウールは気候が暖かくて木綿が普及し始めていた日本では、売れなかった。イギリスは商品の競争でオランダに負けて撤退する。」(P182田中談)
(*だが、外からの情報を全て丸呑みしていたわけではない。必要な情報を取捨選択する能力は持ち合わせていた。)
「中国の文物も日本にずっと入っていた。日本にとって真っ白な生糸はハイテク商品で、日本で作れなかったので、絶えず輸入している。(だが)織物や刺繍の技術は発展していたので、織物の輸入は必要なかった。」(P184田中談)「江戸時代の日本人は大量には買わない。」「買ったものを真似てつくる職人がいて、あっというまに国産化してしまう。」(P186田中談)「レンズが入ってくると、日本産のレンズをつくる。ガラス製品が入ってくると、和ガラスをつくる。」(P187田中談)「技能もあったし、意匠替えもうまかった。」(P187松岡談)「日本は、季節によって(日照時間の長短)時刻が変わる不定時法採用していた。ヨーロッパから入ってきた時計をわざわざ不定時法に合わせるように改良して、複雑な動きをする独特な時計をつくった。」(P177松岡談)
(*原料を製品化する技術のレベルは相当高かった。もともと職人の持つ技能が優れていたのだろう。)
「オランダ船が運んでくるものは、80%が中国のもので、残りがインド(木綿)、東南アジア諸国(ジャワ更紗)のもので、ヨーロッパ製品は、ほんの少しだ。なぜならヨーロッパは「ものづくり」ができないためである。」(P185田中談)「インドも中国と並んで高度技術国家だった。」P186田中談)
(*ヨーロッパよりも中国、インドの製品のレベルが高かった。ヨーロッパが世界をリードするのは産業革命技術の展開以降のことだ。)
「レンブラントは日本の和紙を購入して版画をつくっている。オランダが日本に文物をもたらしただけではなく、オランダの側も江戸からいろいろなものを入れている。」(P182松岡談)「伊万里の柿右衛門が、ヨーロッパ磁器の模範になり、ドイツのマイセン、イギリスで柿右衛門がつくられるようになった。」(P182松岡談)
(*文物を外から一方的に輸入していただけではない。職人たちが時間と技を込め、芸術品のように仕上げた文物を輸出していた。)
僕は、江戸時代とは、限られた資源を活用して作り上げたしたたかさを持った国際的に比較してもハイレベルな社会だったと思う。渡辺京二氏の江戸文化ではなく「江戸文明」だという見解に同意したい。
書評 『百姓・町人・芸人の明治革命 自由民権150年』 (津田正夫著 現代書館 2023年刊)
今から150年ほど前のこと、「権利幸福きらひな人に自由湯をば飲ましたい オッペケぺ オッペケペッポー、ペッポッポー」という風刺の効いた歌詞とラップのようなリズムの『オッペケぺー節』が、自由民権運動の応援ソングとして一世を風靡した。(You Tubeで聴取可能)本書が取り上げた民権運動の担い手たちは、著名な政治家だけではなく、これまで歴史の表舞台から忘れられたような、旧旗本や士族、貧農や下層細民、町民や商工業者、都市知識層、さらに芸人や博徒など、実に多彩な人びとだ。本書は、異色の自由民権運動史である。
では、これまで広く世間に行き渡っている自由民権運動とは、どのようなものであったのだろうか。教科書的にまとめると、民権運動は、明治六年の政変(1873年)で下野した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平たちが、大久保利通・岩倉具視らによる藩閥政治を批判して、150年前(1874年)に『民撰議院設立建白書』を提出し、憲法に基づく国会の開設を要求したことに始まる。その後、各地での士族反乱と西郷隆盛の西南戦争(1877年)、板垣自由党、大隈重信の立憲改進党の結成、全国的な激化事件(1882~86年)、政府の弾圧、そしての帝国憲法制定(1889年)、帝国議会開会(1890年)までを運動期とする。
教科書の歴史は、いつ、どこで、誰が勝ったのか、負けたのか、誰が何をなしたのかというような、主語に重点が置かれた歴史といっていいだろう。従って登場人物は、板垣、西郷、大隈らということになる。これに対して、著者が描こうとしたのは、その時、その場所で、何が起こっていたのか、何をなそうとしていたのか、そして何が語られていたのかという、述語を中心とする歴史ではないか。評者は、忘れ去られた人びと、名も無き人びとの日々の営みは、記録されることがなく埋もれてしまい語られてこなかったが、歴史を動かした原動力は、これらの小さきことの中にもあり、それも大きな意味を持っているのではないかと考える。(ここは、田中優子氏の考え方を参考にした。)
著者の津田正夫氏は、1943年に金沢市で生まれ、1966年からNHKのディレクター・プロデューサーとして報道を担当し、『東海・自由民権事始~志士・内藤魯一』というテレビ番組も作っている。立命館大学教授などを経て、現在、妻の出身地である岐阜・美濃を拠点にNPO「てにてにラジオ」で活動している。本書の特徴は、著者がテレビディレクターとして培ってきた題材に対する視点の定め方、また取材した素材をドキュメンタリー作品のように編集する手法によって、そのまま文章化したようなテイストがすることだ。
本書に入る。著者は、「まず身近な岐阜・美濃の自由民権運動の実情を知ろうとした。第二に、富国強兵・足尾鉱毒事件に翻弄され続けた僕自身の家族史に重ねて、百姓・庶民の実相を知りたかった。そして民権運動史にほとんど登場しない女性たちの生きた水脈をたぐってみた」と述べ、庶民が経験した民権運動像に迫る。
まず、著者は、居住している地域の民権運動を捉えるため、岐阜・美濃を拠点としながらフットワークを利かせ、周辺地域の歴史的な施設への訪問、イベント参加をとおして、歴史を発掘し保存活動を行っている実践者、民権運動関係者の子孫たちを取材する。
すると、教科書に載っている人物の意外な側面を知る。明治維新の元勲である板垣退助が、遊説先の岐阜で暴漢に襲撃された際に、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれ、民権芝居では大見得を切る場面だが、実は、後に板垣が書いているが、「アッと思うばかりで声も出なかった」というのが真相らしい。さらに注目すべきは、遭難後、政府が放つ刺客との対決も辞さない構えだった板垣と自由党陣営が、天皇からの見舞いの勅使が来ると聞いてひるみ、恐懼して迎えたという事実だ。板垣は、政府を批判するがあくまで忠実な勤皇家だった。それは、板垣自由党が主導して全国で多くの憲法草案が作られたが、天皇を排して共和制にすべきという案が一つもなかったことからも納得できる。
岐阜県各務原は、古来、列島の中で軍事的・政治的な要衝だ。大海人皇子の「壬申の乱」(672年)、鎌倉幕府を揺るがせた「承久の乱」(1221年)、関ヶ原の戦いの前哨戦「米野の戦い」(1600年)など、いくつもの“天下分け目の戦い”に関わってきた土地だ。
各務原における自由民権運動には特徴がある。坪内高国という旧旗本が率いた民権運動は異色だ。彼の思いは、自由や民権の実現などとは全く異質な「徳川の治世」の復活を願うものだった。旧幕臣や旧士族たちにとっての明治社会は生きにくい世の中で、幕藩体制への思慕の方が勝っていたということなのだろう。
また、庄屋、農民、巡査、小学校教師などに加えて、義侠心にかられた博徒たちの運動参加もこの地域独特のものだ。
次に、足尾鉱毒事件に関わった著者自身の家族が描かれる。茨城県谷中村は、著者の母の故郷であり、政府に立ち退きを迫られた時の村長は、曽祖父茂呂近助だった。近助ら大多数の村民は泣く泣く買収に応じて近隣に移った。だが、天皇に直訴し、最後まで抵抗したといわれてきたのが民権家・田中正造だ。しかし、著者は、その田中らが近助たちに対して「裏切り者」という言葉を浴びせていたことを知り驚く。その後、近助と少数の村民たちは、「去るも地獄、残るも地獄」という中で、生き抜くための究極の決断を行い極寒の北海道のサロマへと移住する。評者の世代では、田中正造といえば1960年代から70年代の反公害闘争の中ではカリスマ的存在だ。板垣同様、田中のイメージが大きく変わった。田中の「裏切り者」発言からは、本当にこの人は地べたで生きる人びとの気持ちを理解できていたのだろうかと疑問が残る。
さらに、著者は、自由民権運動史にほとんど登場しない女性たちの生き方をたどる。冒頭の『オッペケぺー節』を唄って踊るのは壮士芝居の役者・川上音二郎。「日の丸の軍扇をかざし、鮮やかな緋色の陣羽織に後ろ鉢巻き、滝縞模様の袴をつけた」姿で現れる。読者は、この著者の表現を映像で見るように思い浮かべることができるだろう。彼は、自由や民権という抽象的な概念を具体的な形で印象づけ、庶民から大喝采を浴びた。
この音二郎と劇的に出会うのが貞奴という芸者だ。彼女の人生は波乱に満ちている。貞奴は、実家を助けるために芸者置屋の養女になり、16歳で初代総理大臣・伊藤博文に水揚げされる。その契約期間が終ると、音二郎とともに演劇界の革新を目指して欧米に学び、この国の近代演劇を確立する。また、自らも日本初の女優となる。音二郎の死後、福沢諭吉の養子・桃介のパートナーとして実業界に乗り出す。だが、晩年、桃介は本妻の元に帰ってしまう。貞奴は桃介と過ごした各務原の地に菩提寺を建立し眠った。その時々における彼女の気持ちを推察すると、明治の女性が何とかして独立して生きていく方法を見つけることがどれほど困難だったのかということが見えてくる。
自由民権運動とは何だったのだろうか。近代国家を目指した政治家、禄を失い生活に困窮した不平士族、経済政策に翻弄された農民、商人、改革を志した知識人、芸人。価値観の異なる人たちが、その蓄積されたエネルギーをさまざまな方向にほとばしらせた運動だったのではないか。150年後の今、そこから何をくみ取ったらいいのだろうか。本書は、多様な現実を多角的に見て考えることの大切さ、逆にいうと、一面的に捉えて簡単に決めつけてはいけないということを教えてくれる。
(参考)『日本問答』(田中優子、松岡正剛著 岩波新書 2017年刊 P3432,3)
今年もこのブログを読んでいただきましてありがとうございます。2025年は、昭和100年、敗戦80年だって。きっとノスタルジックな特集が増えるのだろうが、関心を示すのは高齢者だけだろう。新聞、テレビなどとは無縁の人が増え、これまで花形職業ともてはやされていた報道職場は、昭和の初め以前に「ブンヤ」と呼ばれまともな稼業とは認められていなかった頃に戻るのではないか。
北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その14 レバンガ北海道ホームアリーナ建設 コンサ・ダブルフランチャイズ 秋春制移行 熊本 宮崎
道内のプロスポーツチームである、北海道コンサドーレ札幌とレバンガ北海道が岐路に立たされている。それは、旧札幌ドームとの付き合いを切り、自前の球場を建設した北海道日本ハムファイターズの成功モデルを前にして、この先どのように進んでいくのかということである。
コンサドーレについては、J2降格により予想通り「負のスパイラル」に飲みこまれ主力選手の流出が止まらない。スポンサーもキープできているのかどうか疑問だ。三上さんは強がりを相変わらず言っているが、シーズンが始まれば数字で結果がでる。コンサドーレが使い続ける旧札幌ドームも同様の情況に置かれている。
一方、ファイターズはチャレンジングだ。年末にエスコンでBリーグのレバンガ戦を開催し2日間で3.5万人を集め話題を提供し続けている。
新年には少し早かったが、レバンガの「初夢」を見た。それは、日本ハムがメインスポンサーになってレバンガのホームアリーナ(バレーボール、フットサル、コンサートも開催できる)をBPエリア内に建設するというものだ。これは、日本ハムにとってレバンガ戦は寒い時期を中心に開催されるためプロ野球オフシーズンの集客対策につながり、また飲食店などの売り上げ、JR新駅や駐車場のなどインフラも共用できるメリットがある。長崎スタジアムのサッカー場とバスケ競技場の併設に学ぶ発想だ。ついでに、旧札幌ドームに近接して月寒体育館を移転改築する計画があるが、市民の税金投入に賛同が得られるか疑問だ。
一方、コンサの夢も見た。それは、秋春制移行への対応策だ。ずばり、ダブルフランチャイズ方式だ。チーム名は、「北海道コンサドーレ札幌・熊本」となる。秋春制移行は、寒冷地のチームにとっては大きなハンディだ。旧札幌ドームは屋内施設なので12月、3月でも何とか試合はできる、だが、屋外での日常の練習環境は厳し過ぎてケガにもつながる。選手のパフォーマンスも上がらない。それで、現在の2次キャンプ地である熊本をセカンドホームにし冬季の試合を開催する。また、TSMCなど半導体関連企業をスポンサーにする。熊本にはこだわらない。温かい「 ・宮崎」でもいい。旭化成に応援してもらう。
前例の無いことをチーム・サポーターの共通目標を掲げることによって、わくわく感を共有したい。挑戦する姿勢を見せることによって、その先に「サッカー専用スタジアム」構想が現実化できる。最終戦で掲げられたサポーターの横断幕の言葉「この失敗の要因を徹底的に検証し、トップリーグに居続ける為の明確なビジョンを示せ」応えなければいけない。
スタジアム用の土地はある。このブログで、JR北広島駅から徒歩3分の石屋製菓北広島工場に隣接する空き地(石屋製菓所有)(その3、2017.10.29)、BPに隣接する道立北広島高校を移転し用地を生み出すことを提案した。(その12、2024.3.22)
『日本問答』(田中優子、松岡正剛著 岩波新書 2017年刊)
知識量、読書量、そして本質を突いた鋭い発言、突出した才能の持ち主である田中優子氏、松岡正剛氏による対談。本書は、『日本問答』、『江戸問答』、『昭和問答』と続く三部作の第一作だ。面白くて止まらず師走に入ってから一気に読んでしまった。二人は日本について縦横無尽に、それぞれが持っているすべてを動員して語る。喧々諤々の議論をワクワクしながら読み進むことができる。ただ、僕の持ち合わせている知識では、聞いたことも見たこともない事柄が多く、どこまで本質的なことを理解できたかは全く自信がない。
はじめに、僕が発見した本書の効果的な読み方を示したい。まず、頭の中に円をイメージしてほしい。円の中心は一つの点だ。次に、楕円を浮かべてほしい。楕円には二つの中心がある。本書を読み進めるにあたって、二つの中心を持つ楕円をイメージすると理解しやすいと思った。そうするとデュアルを視覚化できるのだ。
第一作で二人は、この日本という国がどんな価値観で組み立てられてきたのかと問う。それはナショナリズムに由来するものでもなく、運命を共にしようという共同体でもない。本書は、日本にあったはずの方法、しくみ、それを支えていた理念を言語化しようという試みなのだ。
結論をいうと、日本文化や日本の発想法を一つの言葉であらわすと「デュアル構造」ということになる。「デュアル構造」は「二重の構造」、「二つの中心を持つ構造」のことであり、日本を語る基本なのである。二項対立でもダブルスタンダードではなく、対照性を帯びたものの併存、共存によって、安定した仕組みが作られているのだ。
「デュアル構造」は、江戸時代よりずっと以前、日本文化が成立したはじめからある。例えば、真名(まな)と仮名、漢語(漢詩文)と和語(日常生活に即した手紙文)、学問と和歌、正と狂、伝統と俳諧、儒と仏、神と仏・・対照性を帯びたものの共存が日本文化の特徴である。日本文化は単一性におさまらない。
さらに、「出し入れ」、「顕わす隠くす」など、動的であることも重要な特性である。例として、「善悪」を取り上げると、悪が過剰なエネルギーの噴出とすると、善はその制御に動くという動的イメージだ。
この国を、「神の国」とか、「美しい日本」などという単一の言葉での表現は、本当の日本を理解していない薄っぺらなフレーズということがわかる。
最初はなかなかしっくりいかないだろうが、徐々にテンポがよくなるので読み進めてほしい。
北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その13 三上大勝さんの責任 石水コンサ新社長就任
セコマの招待券が当たったので今季初めて最終戦を観戦した。その理由は、試合後のセレモニーで三上さんがJ2降格となったことに対してどのような説明するのかに興味があったからである。
結果的には、三上さんの説明は大ブーイングのなかで行われ、しどろもどろ状態で何をいいたいのかわからないままで終わった。
コンサ応援スタンドの横断幕には、「社長・GM兼任体制の限界が見えた今、チームの現在地を正しく認識、運用できる経営を」、「強化の責任を果たさずに何が『集大成』?その場凌ぎの言葉に重みなし」、「この失敗の要因を徹底的に検証し、トップリーグに居続ける為の明確なビジョンを示せ」という言葉が掲げられた。
これらの言葉に僕は全面的に賛成だ。三上さんに対する評価も全く同じだ。
来期以降の展望が全く見えなかった三上さんの挨拶だったが、続いて登場のスポンサーを代表した石屋製菓石水創社長の挨拶で僕を含めサポーターたちは救われたと思う。
「私が代表権を持ち、コンサを支えていきたい」と言い切ったのだ。経営のかじ取りを前面に立って行うというのだ。頼もしく期待が膨らんだ。
今も石屋製菓の社長室にはコンサドーレ専用スタジアムの構想図が掲げられているのだろうか。先代の故石水勲社長が抱いていたチームの夢である。現社長もこの考えを持ち続けているだろうと思いたい。機が熟した時には、ビックプランが発表されるのではないか。経営は夢を見せることだと思う。
このブログで、その3(2017.10.29)では、JR北広島駅から徒歩3分と近い石屋製菓北広島工場に隣接する空き地(石屋製菓所有)がカシマスタジアムと同等の面積(4.5ha)であることから適地だと述べた。今年は一部をファイターズ戦の駐車場として利用していたが、現在は雑木が茂っていた部分も伐採し、一体的な更地となっている。その7(2019.10.8)では、ボールパーク内に用地を確保すべきと書いた。また、その12(2024.3.22)では、日ハムBPに隣接する道立北広島高校を改築移転し、その跡地の活用を提案した。
ガンバ大阪は吹田に、京都サンガは亀岡に、そして今年はV・ファーレン長崎がピーススタジアムを開設した。スポーツが単なる観戦から、まちづくりの核になる場所に変わってきていることがわかる。変貌していくファイターズを見ていると、コンサドーレの潜在力ももっと評価されていいと感じる。
試合の初めから「この情熱は揺らがない。お前達の戦う場所に俺達は必ずいる」と横断幕が掲げられていた。