晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

〈私〉とはどのようなものか その2 採用試験 履歴書  

2023-03-25 09:50:09 | Weblog

ようやくWBCの大騒ぎが終ったようだ。サッカーワールドカップと同じテイストがした。今のテレビ番組からワイドショーとバラエティとスポーツを除いたら何が残るのだろうかと思う。新聞も売れなくて経営が崖っぷちにあるが、テレビも若者にはすでにそっぽを向かれている。マスコミは人気の就職先だがこれからはどうだろうか。僕は、絶滅危惧種のように見えるが独自の姿勢を貫く小さな出版社の仕事に希望を持っている。

 

〈私〉とはどのようなものか その2 採用試験 履歴書  

(その1)では、世界は私とともにあり、私とともに終わるだろうと書いた。私は、舞台の主役であり、私を囲む人たちは私劇場の登場人物にすぎないのだと。だが、私は広大に広がる砂丘の中のたったひとつの砂粒のような存在の思えるとも述べた。

(その2)かつて働いていた頃に社員採用試験に携わったことがある。受験者の合否を判断する材料は、履歴書、健康診断書、志望動機などが書かれたペーパー、そして筆記試験と短時間の面接だった。これらから受験者がどういう人物かを判断し、雇い入れることが会社のメリットになるかどうかを決めるのである。もちろんこれは受験者の人生をも左右する責任ある業務だった。

承知のとおり履歴書には、氏名、年齢、性別、出生地、出身学校、職歴、賞罰、課外活動、趣味などその人の係るアウトラインが書かれている。健康診断書からは、職務に耐えられる身体状況かを判断する。志望動機のペーパーからは、職務に対する関心、意欲、さらに論理構成力、誤字脱字の有無などがわかる。常識試験や専門試験では知識の取得状況、面接では人物評価を行う。だが、僕は、これらの手続きを進めてもその受験者のことをほとんど把握できなかった。みんな仕事に前向きで、情熱を持っているように見えるし、面接試験対策などしっかり準備してきていた。よくわかなかったが、決めなければならなかった。「〈あなた〉とはどのようなひとなのか」という問いに答えは得られなかった。

立場を逆転してみる。もし僕が受験者であったなら、私とはこういう人間なのだということを伝えきれただろうか。僕も気合を込めて自己アッピールをしただろうが、採用する側は僕の一部分しか掴むことはできないだろう。この方法では「〈私〉とはどのようなものか」ということを伝えることができないということだ。

〈あなた〉とはどのようなひとなのか、と問うてその答えは中々得られず、であれば反対に〈私〉とはどのようなものか、と自分に問うたとしても〈あなた〉のことすらわからないのであるから、まして〈私〉のことなどそう簡単にわかるはずはない。

 

 

 

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〈私〉とはどのようなものか その1 舞台劇 北辰病院 砂粒 

2023-03-16 14:40:35 | Weblog

3月14日は、北海道日本ハムファイターズが新しいエスコンフィールド北海道で初めての試合(オープン戦)を行いテレビ報道などはこの話題一色に染まった。一方で同じ日に、日ハム移転後の活用として札幌ドームをカーテンで仕切り規模を小さくして使うという方策が発表された。この札幌市の明と暗を印象付けられても構わないというような公表タイミングのセンスの無さに驚いた。

 

〈私〉とはどのようなものか その1 舞台劇 北辰病院 砂粒

今年の春のテーマを「〈私〉とはどのようなものか」と掲げてこれから数カ月間考えてみようと思う。もちろん正解なんてない難問だろう。考える過程を楽しもうというものだ。

僕には子どもの頃からずっと消えないひとつの幻想を持っていた。それは、僕の見ているこの世界、僕の生きているこの世界は劇が進行しているのであり、僕はその舞台上にいるのだ。僕の周りの人たち、家族や友人、教師、街を歩いている人々など僕が見ている人たちはその劇の登場人物なのであり、見えている風景は僕の目の前だけに精巧に作り込まれた舞台セットなのだ。人々は、僕と接触している時だけのその人物を演じているのであり、僕が眠って居る時、いや僕が見るのをやめた瞬間には舞台裏に隠れその動きを止めているのだ。いざ僕が眼を覚まし活動を始めると、僕の意識がなかった間にもずっと活動を続けていたかのようにリセットした人物たちが舞台上に再び登場しているのだ。こんなカラクリ仕掛けの世界に自分は生きているのかも知れないという思いを完全に否定しきれずにいた。

それが、ちょうど20歳、虫垂炎で生まれて初めて入院を経験した時のことだ。そこは北1条通りに面した北辰病院。8月のある日の夕方、病棟の端っこの廊下の窓からぼんやりと外を眺めていると、沈んでいく夕陽の中で帰宅を急ぐ車や道往く人々を見ていたら、このまま自分がこの世界からいなくなったとしても、きっとこの世の中はいつもと同じように動いていくのだろうなと思った。それは、それまで抱えていた僕が世界の中心にいて僕が死んだら世界が終る。僕がいなくなった世界は存在するわけがないというかすかな幻想が消えた瞬間であった。

〈私〉とはどのようなものか

多くの人々の中にあって〈私〉はそのうちの一人であり、どうってことのないちっぽけな砂粒のような存在なのだろう。その考えをそれはそうだろうと肯定する自分もいるが、それではあまりにも虚しいではないか、せっかくこの世に生まれてきたのに、自分にとってはかけがえのない自分なのにと思っている自分もいる。

 

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エスコンフィールド北海道 

2023-03-13 13:03:12 | Weblog

エスコンフィールド北海道

 

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白鳥潤一郎、高橋和夫 『世界の中の日本外交』 日本占領 冷戦 日米パートナーシップ 同盟 

2023-03-08 14:05:55 | Weblog

「女性の働きやすさ」ランキングで日本は下から2番目、最下位は韓国。この情況を打破するため立憲民主党は女性を党首にするべき。辻本、蓮舫、西村・・いやいや新人ながら代表質問を担った肝っ玉の据わる大築紅葉(くれは)を起用したらブームを呼ぶぞ。足らざるは皆で補え!

 

『世界の中の日本外交』(白鳥潤一郎、高橋和夫著 放送大学教育振興会 2021年刊)    

第4章「日本とアメリカー同盟国の絆と摩擦」要約ノオト

1.日米関係―変わるものと変わらぬもの

世界の多くの国にとって、アメリカとの関係は何らかの意味で最も重要な二国間関係である。戦前の日本にとってもアメリカは縁のある国であった。

2.日本占領

1945年8月、日本の「敗戦」は日米二国間の関係を決定的に変えた。日本の占領は事実上アメリカの単独占領、また天皇と日本政府を通じた間接統治という形となった。占領初期から中期にかけて行われた改革の主たる目的は日本の非軍事化と民主化に置かれた。さらに最大の占領改革であり、その後に大きな影響を与えたのは日本国憲法の制定である。

占領の潮目が変わったのは1947年である。冷戦が始まる中で早期講和への動きは頓挫し、アメリカは占領政策を転換した。日本は無力化すべき旧敵国ではなく冷戦下のパートナーとして育成する対象となり、経済復興を重視する方向に重点は移っていくこととなった。

3.日米「パートナーシップ」の形成

1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結された。同日には日米安全保障条約も締結され、米軍は日本に駐留を続けることになった。独立直後の日米関係の実態は、日本がアメリカにほぼ一方的に依存した関係として捉えられる。「ドルと核の傘」とも言われるように、日本は西側陣営の一員として経済・軍事の両面でアメリカの庇護を受ける対象であった。

日米間には解決すべき大きな戦後処理の問題も残されていた。政治的に特に重要だったのは安保改定と沖縄の施政権返還であった。日米関係は、講和後約20年をかけて、日本の一方的な依存関係と講和の代償を解消し、アメリカの政策を日本が補完・代替するパートナーシップへと変容していく。この間、アメリカの対日認識は「中立日本」への懸念から「大国日本」への警戒に転じることとなった。日米の相対的な経済力の差が埋まり、アメリカは徐々に日本に様々な負担分担を求めるようになっていく。

4.世界で最も重要な二国間関係?

1980年代を通じて日米両国の関係を「同盟」と表現することが日本国内で受け入れられていった。冷戦終結によって両国内で「平和の配当」を求める声が高まったこともあり、日米同盟は一次的に「漂流」とも言われる状況に陥った。しかし、1996年4月の日米安保共同宣言に結実する日米安保再定義を経て、日米両国の同盟関係は深化することとなった。

5.冷戦後の日米関係

日米同盟は2021年で発足から70年となる。この間、同盟は深化を遂げ、日米間の協力関係も重層的なものとなった。だが、アメリカがヒト(在日米軍)を提供し、日本がモノ(基地)を提供するという根幹は変わっていない。

 

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