晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

大地の牙

2009-02-28 18:56:16 | Weblog
 痛んでいた奥歯の神経を抜く。1時間以上かかる難工事、キンキン削られ、今も疼いて痛み止めを服用する。
 今日のはじめの歯科医の方針は、抜歯。「今日は、歯を抜く覚悟で来ました?」「いいえ、抜かない覚悟で来ました。」と私。

 麻酔をして歯を抜くのは誰でもできることで、そんなの治療でも何でもない。抜かないで、治してほしいというのが私のリクエスト。

 「じゃ、患者さんの希望を取り入れ、神経を抜いて根の治療をしましょう。でも、予後が悪いなら抜くことにしましょう。」ということで一致。

 今まであったところにあるべきものが無きなった状態、「なんという喪失感!」


 
 『狼の牙』(3匹の子豚と狼のその後) (国語の先生たちとの会話から、芝居の素材として)

 レンガの家に住んでいて生き残った末弟の子豚が、狼に兄たちが殺されたと証言をしたことから狼は容疑者となっている。

 しかし、狼の言い分は少し違う。あれは偶発的な事故だったのだ。本当は、
小豚たちと仲良くしたくて家を訪問したのに、私を拒むものだから押し合いへし合いしているうちに家が崩れ、子豚が下敷きになって死んでしまった。私は、目の前に死んだ子豚がいたから食べてしまったのだ。はじめから殺すつもりはなかったと。

 今、この牙が無ければと狼は苦悩している。この牙が無ければ自分は獲物も捕まえることができず食べ物が無くなってしまうのに、この牙のせいで他人から恐れられ嫌われている。

 自分はどうしたら良いのだろうか。
①みんなの中に入るため、岩に牙を打ち付けて牙を折ろうか。
②牙を隠し続けてみんなの中でやっていくことができるだろうか、
③ひとりでも仕方がないじゃない、自分は狼なのだから。

 さて、あなたに「牙」はありますか。あなたの「牙」って何ですか。あなたは、自分の「牙」をどうしていますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まるまる一日 ニキ・リンコ

2009-02-22 20:18:07 | Weblog
 ダイニングバー PRIMO HITS(プリモヒッツ)中央区南2条東2丁目2条市場北側 定食500円 ナポリタン650円 プラスコーヒー100円 安くて結構美味い。



北大100年記念会館で、『子どもの生きづらさを考える~自閉っ子の「困らな感」と「がっかり感」~まるまる一日ニキ・リンコ』と題した講演会を聞く。

 講師のニキ・リンコさんは、自らをアスペルガー症候群、自閉症スペクトラムと公表し、著述活動をしている。

当ブログでも、2007.10.27に「俺ルール」というニキさんの著作を取り上げた時にはコメントが多数寄せられ中々いい論争が起こった。その後、2008.1.13にも「自閉っこ、深読みしなけりゃうまくいく」を取り上げた。

 午前中の講演では、本人の物事を認識する方法、そのため時々ニキさん特有の「事件」が起こることなどを実際の体験を踏まえて話された。

 例えば、物事の認識、理解を音声を中心にする人、画像を中心にする人、間隔優位か視覚優位か?また、全体を認識できず、細部の記憶やこだわりが強くなってしまうなど。

 エピソードでは、たまたまマックで求人募集が出ていた時にお腹が空いていて美味しかったら、求人募集が出ているとマックに入ってしまう。自転車を買うとき、本当は性能の高いのがほしかったのに、色で選んでしまった。地図を記憶して行ったのに、記憶が変形して迷ってしまったなど、が紹介された。


 
 認識の特徴は人それぞれだろう。私は視覚型だと思う。受験勉強は、参考書、ノート、黒板の画像を思い出して解答したと思う。私は、方向音痴です。地下街から地上に出たり、雑居ビルから表に出ると方向がわからなくなることが多い。



 正常と異常、障害と健常、支援者と被支援者・・・境界はとても曖昧だと思う。我が内なる欠陥、欠落事項も多いと感じる。しかし、人間には物事を認識するため、理解するために線を引く分類する習性があるのではないか。それも、様々な差別のように悪意からではなく、支援者の心根のような善意を以って。

 ただし、善意の支援者には、その善意に含まれる差別を感じる感性が欠落していることが多いように感じる。なぜなら、支援者は自分が余りにも正しいことをしていると一方的に思い込んでいるゆえに。

 それを、「福祉の悪事」と名付けたら挑発的だろうか。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国語の時間

2009-02-21 18:52:15 | Weblog
 高校での国語の先生の思い出といえば、石倉先生は国士舘大学出身でいつも「柳田(國男)先生、柳田先生」と言っていたこと。古文の男澤先生には、父と私の親子2代が習ったこと。漢文の吉川先生は、演劇部の顧問で私たちより2年上級の生徒に殴られたことなどです。

 先日、高校で国語を教えている先生たちと話すことがありました。どこかで聞いたことがあったので、「なぜ、教科の名前を国語と呼んで日本語と呼ばないのですか」と尋ねた。

 曰く「全くそのとおりで、他の国でそのような例はほとんど無い。フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語・・・でしょう。」

 「歴史は、国史と言わず日本史です。国史というのは、戦前の言い方で、皇国史観に基づく歴史です。」

 「標準語という言い方もおかしい。裏を返すと方言などは非標準語ということになる。共通語というべきだ。」

 「表日本、裏日本という言い方も間違い。日本海側、太平洋側というべき」

 さすが、言葉に対する知識が凄かったです。話しが段々と進み、チョイと酔っ払ってくると、

 「中華人民共和国、中国いう言い方は、中華思想から来ていて、自分たちが世界の中心と言う意味があり驕りのある言葉使いです。それに反して、支那(シナ)は、戦前の日本が蔑称として使ったためイメージが悪いが、歴史的には正しい呼び方だと思う。」

 「中華思想に基づく例では、卑弥呼の卑という字は、卑しいという字で、通常は名前に使う字ではない。これは、中国からみた日本を属国扱いしているからである。」

 「中国より南方の民族を南蛮と呼んだり、北方民族を匈奴と呼んだりするときに使っている字は、中華思想を表している。」など、実に楽しい歴史と言葉の勉強であった。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮人強制連行 その2

2009-02-17 20:30:10 | Weblog
 「バレンタインデーと歯医者さん」

 私は、歯医者さんが嫌いです。随分前から(何ヶ月前か忘れました!)歯痛が始まっていました。段々ひどくなっていくのもわかっていました。でも、歯医者さんで歯を削られるあの音と痛み(実際はほとんど痛く無いのであるが痛みを創造してしまう。)を考えると、歯痛をガマンしていた方がいいと思ってしまいます。(歯痛<治療の痛み、の状態)

 実は、バレンタインデーとしていただいた大好きなチョコレートも食べることができませんでした。しかし、とうとうガマンできなくなりました。(歯痛>治療の痛み、の状態)それで、ついにバレンタインデー当日(土曜日)に歯医者に行く決心をしました。

 待合室で、歯を削る音が聞こえ、何度帰ろうと思ったことでしょうか。でも、とりあえずの応急的な治療で嘘のように痛みが無くなりました。以前もそうだったことを思い出しました。本当はまだガマンしなければならないのでしょうが、チョコレートも食べています。久々の甘い味です。

 思い出すと、この歯痛との闘いは丁度10年位ごとに繰り返しています。



 引き続き、西成田豊「朝鮮人強制連行と麻生鉱業」(SEKAI 2009.3)から引用する。

 1934年6月被連行朝鮮人鉱夫1000人以上を使用している炭鉱の数は、全国で33鉱、その内、全鉱夫に占める朝鮮人鉱夫の比率が高いベスト6位
① 麻生鉱業㈱綱分炭鉱(全鉱夫2,291人中1,183人52%)
② 嘉穂鉱業㈱嘉穂炭鉱(2,011人中1,020人51%)
③ 北海道炭鉱汽船㈱幌内炭鉱(2,638人中1,318人50%)
④ 北海道炭鉱汽船㈱夕張炭鉱(7,904人中3,763人48%)
⑤ 麻生鉱業㈱吉隈炭鉱(2,298人中1,000人44%)
⑥ 麻生鉱業㈱芳雄炭鉱(2,755人中1,195人43%)

 現首相麻生太郎のルーツを探ると、曽祖父麻生太吉が1872年に炭鉱採掘を開始。現在の麻生グループ(関連会社64社、中核企業は㈱麻生、㈱ラファージュセメント麻生)の基礎を作った。その跡を、祖父の太郎、父の太賀吉が継ぎ、太賀吉は吉田茂元首相の娘和子(麻生首相の母)と結婚。麻生太郎が生まれる。

 太郎は、1973年に32歳で麻生産業の社長になり、1979年衆議院議員に初当選。(横田一「麻生一族の過去と現在」(SEKAI2009.1)から引用)
 

 以上のことからもアッソー首相は、いわゆる庶民とは全く育ちが違い、毎日一流レストランで食事をして、ホテルのバーでお酒を飲むなんことは(毎日、新聞で伝えられる首相動静)、フツーの日常だったのだ。
 
 彼に、庶民感覚を求めることや、経済的に困窮している国民の気持ちをわかるなんてことを期待することは鼻から無理なことなのである。

 アッソー首相の経済的基盤、麻生財閥は石炭採掘で財を築き、とりわけ戦時期において朝鮮人の血を吸った負の歴史を背負っている。このことは、今後の日韓、日朝外交において喉に刺さった棘としていつまでも彼の活動を制約するであろう。

 全てに恵まれて育ったアッソー首相は、必死に勉強する必要も無かった、字を覚える必要も無かった、新聞は読まなくてもマンガだけを読んでいられた、就職活動もしなくて良かった、選挙地盤もあった、党内にばら撒くカネもあった・・・総理大臣にだけなりたかったのである。




 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮人強制連行 その1

2009-02-14 21:06:48 | Weblog
 当ブログ2008.12.21「思想体験の交錯 その1」に寄せていただいた、生住滅氏からのコメントがずっと気になっている。返礼もできていない。(以下、コメントより部分引用)

 『60万人とも言われる在日の素性は、韓半島で食えないから来ただけの人々だからです。(外務省の調査によると、在日61万人のうち徴用労務者は245人に過ぎない 59.7.13朝日より)
 あたかも民族のアイデンティティの虚空は、この島国に因るとかの戯言を聞く気にはなれません。
 また、01.11.14朝鮮日報によると「『外国に移民しても構わない』と答えたものが52%を記録」とあり、20~30代に至っては88%が「移民したい」と。』

 上記と、全く正反対の見解が、西成田豊「朝鮮人強制連行と麻生鉱業」(SEKAI 2009.3)にある。
 
 その中で、強制連行された朝鮮人のデータが以下のように示されている。ただし、この論文ではその出典が明らかになっていない。

 1939年から1945年までの合計は、72万5千人。
 石炭鉱業34万3千人(47%)、金属鉱業6万7千人(9%)、土木建築業10万9千人(15%)、工場その他20万6千人(28%)
 石炭鉱業の炭田別比率は、九州(筑豊など)55%、北海道31%、宇部8%、常磐6%である。
 
 また、歴史的には以下のような経過である。

1910年韓国併合。
日本への渡航者が急増するのは1920年以降。
1923.5月内務省は渡航抑制方針を出す。
1925.10月政府は「内地」渡航阻止制度を実施。
1934.10「朝鮮人移住対策の件」を閣議決定(渡航「阻止」をあらためて強調)。

1939.7月政府は毎年度「労務動員計画」を作成し、この中で朝鮮人強制連行を決定。
1939.7月厚生次官、内務次官から各道府県知事あてに「朝鮮人労務者内地移住に関する件」が発せられた。
1939.9月朝鮮総督府から道(日本の県にあたる)知事あてに、「朝鮮人労務者募集並びに渡航取扱要綱」が発せられた。

1941.11月企画院、内務省、厚生省、朝鮮総督府により「昭和16年労務動員実施計画に依る朝鮮人労務者の内地移入要領」と「朝鮮人労務者内地移入手続」を決定。
1942.2月「朝鮮人労務者活用に関する方策」が閣議決定。
1942.2月朝鮮総督府は「朝鮮人内地移入斡旋要綱」を制定。


 私自身、政治的関心は強い方と思っているが、こと朝鮮問題については、「どうせいくら考えてもこの国が悪いのだから」という理由で、学生時代から金大中拉致事件とかがあったのだが全くの関心外であった。今、その不勉強を感じている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キューバ革命50周年

2009-02-11 13:47:00 | Weblog
 ABC Cooking Studioのモンブラン。その頃、札幌にもあったと思いますが、ABCスタジオは東京ミッドタウンで初めて見ました。ガラスの外観に原色を使ったデザイン、華やいだ感じの料理教室。



お料理を習うのも
まんざらすてたもんじゃないよ(by 拓郎)



 時代が暗くなれば成る程、テレビは無意味にハイテンションなお笑い、バラエティ番組ばかり垂れ流している。従がって、このブログでは、ドラマ以外テレビを取り上げたことはなかったと記憶するが、そんな情況の中、NHK教育テレビ日曜夜のETV特集が健闘している。

 昨年、12月14日には、「加藤周一1968年を語る~『言葉と戦車』ふたたび~」で同月5日に亡くなったばかりの加藤さんが入院する直前、昨年夏のインタビューを放映した。

 1月4日には、「吉本隆明語る~沈黙から芸術まで~」84歳になった吉本さんが昨年夏開催した「芸術言語論」についての3時間にわたる講演を放映した。

 2月1日には、「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」、2004年、脳出血に倒れ、その後はがんで長期入院を余儀なくされた辺見庸さん(64)を取り上げた。

 そして、先週2月8日(22:00 ~ 23:30)には、「キューバ革命 50年目の現実~米国人ジャーナリストが記録したカストロ政権」で、ジョン・アルパートが1972年から記録しているキューバ社会を放映した。

 今年1月、キューバは革命50周年を迎えた。アメリカの経済制裁を受けながらも社会主義路線を堅持してきたキューバ。最大の後ろ盾だったソ連が崩壊した後の経済危機、その後の観光立国、外資導入による経済建て直し、しかし、フィデル・カストロは健康不安で第一線を退き、弟のラウル・カストロが継いでいるが、貧富の格差を容認し賃金の平等性を廃止するなど、立国の精神の放棄に繋がるような岐路に立たされている。

 ソ連、東欧型の社会主義が崩壊後、現存する社会主義国家は定義が難しいが、中国、ベトナム、北朝鮮、キューバ・・位であろうか。かつては、建国の理念の中心にあった「平等」は、豊かさの追求とは両立できず、押しなべて清貧を分かち合うことになってしまった。

 南米には、左翼政権が続々と樹立されているが、それらと社会主義社会のどこが同じでどこが違うのか。また、キューバは、遠からずフィデル後も想定にいれなければならず、さらにオバマの対外政策の変化も見ながら、どのような方向に進むべきなのか。大変困難な舵取りをしなければならない。

 チェ・ゲバラの映画を見たばかりだったので、革命後半世紀を経過したキューバを取り上げた番組に興味を持った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ポスト戦後社会』

2009-02-08 20:36:30 | Weblog
 知人に紹介されました。「パティスリー かずろー」(patisserie kazroo)札幌市清田区里塚緑ヶ丘8丁目15-32にあります。

 ミルフィーユです。クリームが濃厚で、1個で充分です。もう少し、洋酒の香りや、味に変化、例えば3層とも同じ味ではなく、酸味を付けるとか、工夫があってもいいと思いました。私は、ケーキ評論家。



 『ポスト戦後社会 シリーズ日本近現代史⑨』(吉見俊哉著 岩波新書 2009年刊)

 本書の対象とする時代は、主に1970年代半ばより現在までということで、私の学生時代以降と重なる。それなりの問題意識を持ちながら今日まで生きてきたと思っているので、扱われている事象については、同時代で発生し、その時の報道や後に評論などで解説されているので、通史としては「サラッと」した感じを受けた。

 著者は、第1章で「左翼の終わり」として連赤事件、第2章で「豊かさの幻影のなかへ」として消費社会、第3章で「家族は溶解したか」として永山則夫と宮崎勤事件を比較する。両事件を対比する手法は、見田宗介が「まなざしの地獄」(2008.11.16の当ブログで紹介)の分析に全面的に依っている。

 第4章で「地域開発が遺したもの」として、地方自治体、第5章で「『失われた10年』のなかで」として1990年代の震災、オウム、バブル崩壊、第6章で「アジアからのポスト戦後史」として国際関係を取り上げている。

 中でも、著者は、「左翼の終わり」の結びで、「社会運動のポスト戦後」として、以下のような総括をする。
 ①労働運動や左翼政党は、1950年代には大衆的な政治運動の担い手であったが、高度成長システムに組み込まれ、政治的な変革の主体ではあり得なくなった。
 ②学生運動は、現実の政治的変革への展望や回路を失って理念的な空想のなかで自己閉塞的な過激化の道をたどった。
 ③べ兵連やウーマンリブのような、一人ひとりの個の肯定から出発する緩やかなネットワークが新しい社会運動のスタイルとして浮上した。

 いずれも、現象を追いかけるとそのようにも捉えられるが、本質的な分析にはなっていないと考える。労働運動は、帝国主義本国では、組織労働者の上層部に労働貴族を生み出すように、労働力高値販売同盟になった。スポンサーが変われば、政党も同様に変わる。

 学生が、社会運動の先鋭的な役割を果たしているのは、経済的にテイクオフできていない途上国。先進資本主義国の社会運動は完全に資本に包摂されてしまった。

 しかし、21世紀に入り、資本の暴力が剥き出しになっている現在、社会運動も新たな形態を見出す可能性があるのではないか。


 

 昨日の続き、宮内庁HPより

 <在日外国報道協会代表質問>

 問3 今回のベトナム訪問は昨年6月のブラジル訪問以来,4カ国目の海外ご訪問となります。
 殿下のご関心の高い分野である水の問題を抱えるベトナム訪問も,殿下が以前からおっしゃっています公務の見直しについて何かしらの手がかりになりますでしょうか。また,天皇陛下と雅子妃殿下もストレスによってご病気をなされたようですけれども,新しい皇室・公務のあり方についてのお悩みも,お心のご負担になっているということはありますでしょうか。

 皇太子殿下(答え) 水の問題は,今や世界が直面している地球温暖化を含む環境問題や資源問題の重要な課題の一つとなっており,個人的に大きな関心を寄せています。また,国連事務総長からの要請を受け,国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任しており,国際会議への出席などを通じて,水の問題の重要性を広く皆さんに知っていただきたいと努めております。今回視察するメコン河は,この地域の主要な国際河川であり,その視察を通じて,私の研究を更に深めることができ,それが公務を果たす上で幾らかでも役立つことができればと思っております。


 見事に答えていませんね。







 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇太子さま会見打ち切り

2009-02-07 17:19:39 | Weblog
 2月に入り日中の日差しが強くなったことを感じます。昨日久しぶりの降雪があり、凍結した路面で走れなかったのが、雪が積もったので走りやすくなりました。

 今年の冬は、このアシックス製のスノーランニングシューズでトレーニングです。前のミズノ製より、作りがごつく重いのですが、捻挫などはし難いでしょう。



 今年の冬は何色だろう
 せめて君だけ赤く染まれ
 都会の冬も結構いいよ
 僕は一人でも寒くはないよ


 今朝の朝刊に興味を引いた記事がありました。(北海道新聞2009.2.7朝刊16版35ページ「第3社会面」)以下、引用

 見出し:皇太子さま会見打ち切りに抗議 宮内庁記者会

 記事: 宮内庁記者会は六日、宮内庁東宮職が皇太子さまの記者会見を途中で打ち切ったとして、野村一成東宮大夫に厳重抗議した。
 五日に行なわれた皇太子さまのベトナム訪問前の会見で、記者会が事前に内容を伝えていた質問が終った後、東宮侍従が、予定されていた関連質問を受け付けず、一方的に会見を終了させた。
 東宮侍従は五日の会見後、在日外国人報道協会の質問に含まれていた皇太子さまの新しい公務のあり方などの問いに、皇太子さまが答えなかったことから「関連質問で再び聞かれる可能性があったため打ち切った」などと説明していた。
 野村東宮大夫は、六日に開かれた会見で「予定時間を厳格に守ろうとして終了させた。率直におわびする」と謝罪した。

引用終わり。

 一体何が起きたのでしょうか。皇太子が事前に内容を伝えられていた質問に答えなかったのは、なぜでしょうか。

 可能性は2つあります。①事前に用意していた答えを失念してしまった。②「新しい公務のあり方」という質問に答えたくなかった。

 ①の場合は、脳力の問題ですから仕方ありません。この可能性は少ないと考えます。②の場合は、明確な意思を感じます。しかし、その意志は、宮内庁の考え方とは一致していません。過去にも不規則発言があります。事前にすり合わせた上での拒否ですから、宮内庁は慌てて会見を打ち切ったのでしょう。

 皇太子一家から、悲痛な叫び声を感じます。



 この件について、北海道新聞のホームページは以下のように伝えています。記事とは明らかに異なります。通信社から配信された内容の記事ですから、他紙も同様です。

見出し:皇太子会見打ち切りで謝罪 記者会抗議に宮内庁東宮職(02/06 20:17)

記事:ベトナム訪問に先立ち5日に行われた皇太子さまの記者会見で、宮内庁東宮職が一方的に記者の関連質問をさえぎり会見を打ち切ったため、宮内記者会は6日、野村一成東宮大夫に「取材の制限、妨害に等しい」などとする抗議文を出した。
 これを受け野村東宮大夫は同日「予定時間を厳格に守ろうとするあまり記者会見を終了させたもので、率直におわびする」と謝罪する文書を記者会に提出した。
 会見は記者会と外国メディアが事前に質問を提出。5日午後、東京・元赤坂の東宮仮御所で約20分間行われた。皇太子さまが事前質問3問に答え終わった直後、司会役の東宮侍従が「予定時間を過ぎた」として会見を打ち切り、通例となっている関連質問の受け付けを拒否した。
 2005年12月の天皇陛下の誕生日会見でも、当時の宮内庁総務課長が同様に「時間の都合」を理由に関連質問をさえぎり、総務課長が謝罪文を出した経緯があるが、野村東宮大夫は6日の定例会見で「(その件は)後になって聞いた。再度同様の問題が起こって申し訳ない」と釈明した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『グローバル恐慌』

2009-02-06 21:39:39 | Weblog
 JR札幌駅地下街アピアにある中華料理のお店「万豚記」、「ワンツーチ」と読むそうです、の豚バラチャーハンです。量、味、価格ともにリーズナブルでお薦めです。リピーターしています。



 『グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに』(浜 矩子著 岩波新書 2009年刊)

 「私たちは、今どんな時代を生きているのだろうか」という問いが、過去のいかなる時代に比べ、多くの人に共有されている。

 眼前に生じている様々な事象、特に昨秋からの経済情勢をどのように捉え、そしてどうなっていくのだろうかと思索するための道しるべが求められている。

 本書は、平易な表現でわかりやすい譬えを使いながら、著者とともに読者が考えていけるように書かれている。緊急出版と謳われている様に短時間で書き上げているため、統計数値などは少ないが読みやすい。本質を捉えた好著である。

 本書で私がいくつか学んだこと。

①サブプライム問題は、信用力の低い個人向け住宅融資問題=サブプライム・ローン問題ではないということ。サブプライムとは、プライムレート(最優遇金利)よりも金利が高い、すなわち「少し高めの金利でよければお貸しします。」ということ。そこには、購入した住宅の価格が値上がりすることが前提とされていたが、需要が頭打ちになったことで破綻した。

②近年の世界的な金余り現象の原因は、日本にある。長期にわたるゼロ金利政策と量的緩和措置が続いているため、国内で、金利を稼げないジャパンマネーが世界中に出稼ぎに行ったため。

 次に、経済を歴史的視点で捉えている点を評価したい。

 インフレとバブル、そしてこの「恐慌」に見舞われている近年の経済情況の原点を、1971.8.15、すなわち、金とドルの交換を停止したニクソン・ショックに置いたこと。著者は、マルクス経済学者ではないが、近代経済学者にありがちな、メカニカルなだけの分析視点ではない点を評価したい。

 最後に、著者は、この恐慌の特徴を、①世界同時多発性、②モノとカネが決別する構図で展開、③恐慌を克服したはずの管理通貨制度の下での発生とした。

 本書の限界は、現象の表現と分析、背景までしか述べることのできないところにある。私たちの一番の関心事、今後はどうなるかについては述べない。それは、誰にも予測できないことだからであろうか。

 私は、ひとつだけ問いたい。「社会主義体制が現存していたら、どうであったのだろうか。」と。以前に、資本主義と社会主義の負け比べと書いた。1989年にベルリンの壁が崩され、その後に社会主義が一足早く崩れた。それから20年、資本主義が崩れかけている。

 資本主義社会も歴史性を有している(終わりがある。)と捉えると、展望が拓けてくる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土曜の夜は

2009-02-01 20:32:04 | Weblog
 インターネットのYOU TUBEで、吉田拓郎を検索すると1970年代初期の曲をはじめ1,400余りの映像を見る事ができる。自分の中で歌と時代がリンクしていて、高校生だった頃の土曜の夜を思い出した。

 列島最果ての街、釧路で受験勉強をしながら、時々薄くなったりザラザラする電波から、毎週土曜の夜には、TBSラジオ「桂三枝の大放送」という公開放送を聴いていた。

 小さなナショナルのトランジスタラジオにイヤホンを付けて、三枝とアシスタントのマリー・クリスティーヌの軽妙なやり取りにクスッと笑ってみたり、ため息をついたり。

 何をしたいか、大きな目標も見つからず、特別楽しいこともなく、女の子と付き合うことも知らず、ひとりを噛みしめる時間だったと思う。受験体制のこと、政治のこと、社会の矛盾のこと・・・、考えなければならないことがたくさんあったのに、とりあえず先送りをしていた。むなしさ一杯の時間だった。

 そんなことより、テストが妙に好きだったりして、明日の模擬テストが重要で、微分・積分を解く方が当面の課題だった。

 ラジオからは、当時、ガロの「学生街の喫茶店」が聞こえ、小林麻美がステージで引退を発表、デビュー曲「初恋のメロディ」を泣きながら歌っていた。「これが最後のドライブなのに・・・♪」と。

 どちらかというと、あまり目立ちたくない、人とはあまり深く付き合いたくない、寡黙なやるせない時期、しかし、後から振り返ると大事な時期だったと思う。

 しかし、その後、幾年もしない内に、コペルニクス的転換を遂げるのであるが・・

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする