晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『世界共和国へ』

2008-05-31 16:12:19 | Weblog
 『世界共和国へー資本=ネーション=国家を超えて』(柄谷行人著 岩波新書 2006年刊)をようやく読破?
 読破とは、読み終えて少なくても内容が理解できたことだろうが、2年前と同様、やはり良くわからない。私たちにもうひとつの世界を提示しているのだろうが、こうわかりにくくては、誰もそこまでたどり着けないのでは。



 石原信一作詞 吉田拓郎作曲 「遙かなる」の詞が浮かぶ。おそらく、柄谷氏の心情はこういうことなのだろう。

ここじゃない もっとどこかへ 行ってみたくて
ここじゃない もっと遠くへ 行ってみたくて
ここじゃない もっとどこかを 私は探した
ここじゃない もっと遠くを 私は探した

Another World まだたどり着けない
Another World まだたどり着けない
Another World  Another World



 氏は、これまでの社会主義は、国家社会主義で「統制的」性格が強いので、「自由度」を強めた「リバタリアン社会主義」(アソシエーショニズム)を提唱する。

 それは、マルクスのように「生産」から考えるのではなく「交換」や「消費」から考えるところに、労働者階級の復権のチャンスがあるとする。「市場経済」ではなく、ある種の「共同体」の回復が必要である。などと問いていくのであるが、霧のかなたに行き先がぼんやりとも見えない。

 最後は、人類の直面している緊急課題としては、戦争、環境破壊、経済的格差がある。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成すること。これが、アソシエーションの実現ということになる。

 柄谷氏は、前人未到の領域を示している大思想家なのか、ほら吹きペテン師なのか。



 旅は2日目に入り、信州大学を訪れる。早朝のキャンパスは学生も少なく静か。どこでも大体寄ってみる学食はまだ営業していない。こじんまりした敷地に緑が多く、張り紙、立て看も少なかった。



 

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「無理な恋愛」

2008-05-27 19:32:08 | Weblog
 本日の北海道新聞夕刊によると、時代は「枯れ専」なのだそうだ。今、若い女性に人気があるのが、枯れオヤジの児玉清、小日向文世などで、「ちょい悪男」は、既に時代遅れなのだそうだ。

 火曜日の夜には、フジテレビの「無理な恋愛」がある。見続けている数少ない連続ドラマ。堺正章がいい味を出している。ああいうのを「枯れオヤジ」というのだろうか。60歳の恋愛ドラマなど一昔前は考えられなかった。

 これも、昭和回顧ものと同様に、団塊の世代のリタイアに合わせた企画なのであろう。ポスト団塊世代の我々は、いつも時代の中心にいる団塊世代への反発を持ちながらも見入ってしまう何かがある。

 ストーリー自体は、男女が近づいたり、離れたりの平凡なものだが、夏川結衣が上手く堺と絡む。堺の実生活の仲間のかまやつひろし、井上順が出てきたり、中でもチュートリアルの2人は役者としても今後に期待できる。



 信州そば、確かに枯れています。



吉田拓郎の『情熱』から。

 このまま二人でどこかへ行きたいね
 こんな小さな世界で恋すると
 知らない人まで後ろを振り返る・・

 二人で行こう、二人の国へ

 これは、森下愛子の事を詩にしたのでしょうか。頭の中で流れています。全然枯れることができません。






 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耐震補強工事

2008-05-26 19:59:16 | Weblog
 通りがかりにちょっとトイレを借りた松本市役所の外観です。中はかなり古い感じで、廊下が迷路のように入り組んでいたり、狭いスペースを隙間なく使っていました。その古い庁舎に耐震補強を施したのだと思います。

 古い学校の校舎に耐震補強をするとこういう外観に変わるのでしょうか。

 中国の四川からは地震情報が少しづつですが伝わってきます。各施設が損傷していると言う情報もあり心配です。土砂によりせき止められた川の決壊も心配です。このブログでは、随分と皮肉やウラ読みを書いていますが、他意無く心配です。

 生まれてくる子どもが親を選べないように、たまたまその国に、その地方に、その時代に生まれてしまったため、このような自然災害に遭遇してしまったのでしょう。
 しかし、社会のありよう如何で、災害の規模は大きく変わります。

 社会は自分たちの意思で変えることができます。中国の人民も国のありようを変えるべきでしょう。同様に、われわれもこの国を変える必要があります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴走雨読

2008-05-25 19:27:53 | Weblog
 松本市の人口は、22万人。駅や駅前広場、中心街は大変立派に見える。中心市街地の空洞化のような現象は感じられず、地元資本と思われる百貨店も賑わっていた。反対に、郊外型の大型量販店はほとんど無いような気がした。

 街を歩くと絵画、書道、音楽など芸術関連の店が多く、これらの店が成り立つ土壌があることがわかる。市民イベントのポスターもあちらこちらに貼ってあった。県庁所在地の長野市に行った事がないので、比較できないが、松本城や旧制松本高等学校という歴史的な遺産、信州大学など、文化的なレベルは松本の方が上なのだろう。

 駅には、現在2時間半かかる新宿までを2時間に短縮しようとの垂れ幕が下がり、新幹線の繋がる長野市を意識していることがわかる。



 ようやく風邪も治り、3週間振りに土日でランニングを再開。今日はがっちり走るぞと早起きをしたのだが、朝方から雨の音が。雨が止んだので家を飛び出し長距離走に。本日は、晴走ならぬ曇走、しかし途中で雨が強くなり残念ながら10数kmで中止。来週の千歳(ハーフ)を走ることができるのか心配。

 午後からは、雨読で「柄谷行人」に挑戦中。

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街頭募金

2008-05-24 17:00:24 | Weblog
 街を歩いていると募金をお願いされることがある。今日は、中国大地震の救援カンパだった。マジックインキで「中国大地震救援募金」と書かれた白い箱を持った、小さな子どもを連れた女性と、白い紙に同じような文句を書いたボードを持った男性であった。

 札幌駅前の北海道銀行の角の定位置では、20数年前から同じ男女が、ある時は、ベトナム・カンボジア難民救援、チェルノブイリ原発被災者、阪神・淡路大地震・・・実にタイムリーなテーマを掲げて署名と募金を続けている。

 この2人は、土日も平日も見かける。定職を持っているのであろうか。最初は、当時はそういう時代だったかも知れないが髪の毛もバサバサ、服装も汚い感じだったのが、徐々に小奇麗になってきた。

 マスコミの災害報道もあり、被災者の方たちを大変気の毒に思っている所に、目の前にその方たちへの募金を求められると断るのが何か罪のような意識にさせられてしまう。



 私は、これらの胡散臭い奴らにカンパをしたことはない。また、彼らも私の雰囲気を感じて近寄っても来ない。人々の善意のカンパの使途はどうなっているのだろうかという疑問を持っているから。



 また、私は、由緒正しそうな街頭募金もほとんどしない。赤の羽根も緑の羽根も、交通遺児にもしない。

 なぜなら、国がしっかりと福祉政策を実行すべきと考えているからである。人々の善意をどれほど集めても根本的な解決には繋がらないと思うからである。だから、日本テレビの24時間テレビに感動を覚えたことはない。フジテレビの全く意味の無い27時間テレビの方が楽しい。



 松本駅近く、信州そばの店「こばやし」、ざるそばの大盛りを頼もうとしたら、量が多いので食べることができないでしょうと店の人に言われた。普通盛りにしてたが、ざるが2枚あり、すごい量でした。

 麺は繊細な細麺、タレは東京のようにあまり塩辛くなく、噛んでいるとそばの甘みが感じられて、そばを食べているという実感がするそばであった。

 紹介してくれた、土産店の方、感謝します。



 

 
 

 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶 まるも

2008-05-22 21:21:32 | Weblog
 旅行に出かけても、しばらくの間は、昨日までの日常をしょっていて、時々会社のことを思い出したりします。ところが、ある瞬間、違うところに来たのだなと実感することがあります。



 松本のガイドブックには、「喫茶 まるも」が必ず紹介されています。明治時代に建てられた旅館兼喫茶店で由緒正しい所みたいです。

 しかし、「まるも」という名前の響きが何となく嫌で、そこを探してまで行こうという気持ちはありませんでした。ところが、散策の途中、偶然出現、しかもちょいと一服したいと思っていたところに。

 少し濃い目のコーヒーとアップルタルトのセットを注文し、古臭い家具や建物の天井を見ていたとき、「ああ、松本という街にやって来たんだなあ」と実感。

 長い、長い一日目は未だ続く。



 時計台フォーラムin札幌時計台 柄谷行人氏の巻 2008.5.21を聞いたのだが、さっぱり理解できなかった。参考文献の2年前に出版された『世界共和国』(岩波新書)も途中で挫折したまま。どうにも難しい。悔しいので、『世界共和国』の再挑戦してから書くことにする。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国宝 松本城

2008-05-20 19:36:16 | Weblog
 松本城の歴史には、松本城は室町時代末期(1504年)、この地方に大きな勢力を持っていた小笠原貞朝が築城させたもの。
 戦国時代の1550年、甲斐の武田信玄は時の城主小笠原長時を追放して、この城を信濃への進出の拠点とした。
 その後、1582年のいわゆる「武田崩れ」、及び本能寺の変後の混乱に乗じて、小笠原長時の嫡男小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾により深志城を取り返し、城の名も「松本城」と改めた。と紹介されている。

 大阪や名古屋のように再建された城ではないため、天守閣の上まで登るのは容易でない。階段の幅が、階を重ねるに従がって急で間隔が大きくなる。上りも大変だが下りはもっと大変。

 前を行く年配の夫婦、旦那が、階段の先を行く少し太めの奥さんに「お前が落ちてきても、おれは受け止めることはできないぞー」と声を掛けて周囲を笑わせる。

 最期に殿様が篭城する部屋。この城の窓は皆小さく、戦いに鉄砲が使われていたことを想像させる。

 本州の街は、随分昔から人々が蠢いていたのだろう。時間の経過が長い分、様々な資源を持っている。でも、しがらみも色々あるのだろう。

 夕方が近づき小休止。



『北海道からみる地球温暖化』(大崎満、帰山雅秀、中野渡拓也、山中康裕、吉田文和 共著 岩波ブックレット 2008年刊)

 植物栄養学、魚類生態学、海洋物理学、海洋科学、環境経済学の北海道の専門家による地球温暖化についての研究。著者のひとりと縁があり購入。

 地球温暖化を所与の条件として論理が始まっているため、そこを疑っている私の場合、本当に温暖化?と疑問を抱えたまま読むことになり、内容が身に付かず。

 「田中宇の国際ニュース解説」の方が、余程科学的な論理を展開している。

 


 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本市美術館

2008-05-18 16:11:14 | Weblog
 地方都市の美術館は、常設展示の内容でその質がわかります。企画展示は、人脈、金脈などが巧く回ればどこでも一定のレベルの展示は可能と思います。(多くの美術館を見ているわけではない素人がここまで言って良いのかな)

 松本市美術館の入り口の空間に展示されたオブジェです。松本市出身の草間彌生の作品で、常設展示もされています。評価をする方もいるのでしょうが、作品間の出来のバラつきが多く、感動が起きませんでした。

 企画展示は、『アンカー展 ハイジの国から松本へ 100年の時を越えてぬくもりが届きました』と題して、アルベール・アンカー(1831-1910年)の作品を展示したいました。19世紀半ばのスイスの農村を写実的の描いていました。アルプスの少女ハイジのような女の子を描いた作品からは、何とも気持ちが安らぐ感じがしてきます。



 フォーラムin札幌時計台 上野千鶴「わたしのことはわたしが決めるー自己統治という思想」から その2

 以下、上野氏の講演から。

 障害者、女性、高齢者、子ども、不登校、患者・・社会的弱者とされてきた人たち(当事者)が、「わたしのことはわたしが決める」と決意したとき、すなわち「当事者主権」を確立するとき、「自立」のパラダイム転換が必要になる。

 それは、「自立」とは、依存のない状態を言うのではない。「私は生きるために誰かの助けが必要だ。」「だからと言って、その人に従わなければならない理由はない。」と主張できることだ。

 障害者の権利要求運動に比べて、高齢者の運動は遅れている。介護保険(高齢者)の「自立」概念は、介護を必要としない状態だが、障害者自立支援制度の「自立」は、介助を得て自己決定できる状態をいう。



 福祉の充実のためには、財源として消費税導入は必至、ただ選挙を意識し、それをどこの政党も主張できない。

 上野氏は、この情況を打破するための大連立の可能性について山口氏に突っ込みを入れるが、山口氏は、大連立を肯定せず、民主党を評価できず、自民党の一部(与謝野ら)を良識派として評価した。上野氏に、山口氏は自民党?、タジタジであった。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央本線

2008-05-17 19:18:46 | Weblog
 中央本線の旅です。12:00新宿発特急スーパーあずさに乗車。立川までの車窓からの眺めは、以前青梅マラソンに参加した際に、青梅線に乗り換えるまでに乗ったことがあるので、記憶のある景色でした。

 多摩川を越え神奈川県に入りますが、急に空き地と緑の空間が増えます。その後、電車は坂をどんどん登り、トンネルが続きます。山梨周辺はぶどう畑が続きます。深い渓谷やせまる山の淵を走るイメージでしたが、比較的見通しの良い中を進み終着松本に着きました。2時間半ほどの乗車でしたが、この旅の目的の半分が終りました。



 フォーラムin札幌時計台 2008.5.16 
 第8回は、上野千鶴子氏による(東京大学教授)「わたしのことはわたしが決めるー自己統治という思想」でした。

 さすがフェミニズムの旗手、上野氏が札幌で講演をするということで、会場は満員。60歳の上野氏は噂どおり舌鋒鋭い方で論争が巧く、山口二郎氏がタジタジの場面もありました。

 『当事者主権』(中西正司、上野千鶴子共著 岩波新書)を手がかりに、女性、子ども、高齢者、障害者などいわゆる社会的弱者の権利を主張するための理論を講じておりました。(しゃべりは、過激に聞こえましたが、内容は凡庸でした。)

 その権利の主張を突き詰めていくと、「わたしのことはわたしが決める」という意思決定への市民の参加、いわゆる自治の考え方にたどり着きます。そこでは、住民の意思と議会と首長の意見がねじれる可能性をはらんでおり、代議制民主主義の限界が露呈すると言う論理です。



 私が、今回の講演でなるほどと思ったのは、この場合の代議制民主主義の定義です。(東大法学部の山崎某の定義と言うことです。)

 「代議制民主主義とは、投票によって意思決定権を代表に託すことで選良政治の一種であり、エリート政治であることで、背後には衆愚への警戒心があり、政治参加を4年に1回の投票に限定することで、市民の政治参加を抑制する意思決定のシステムである。」と言うものです。これは、本質を見事に言い当てています。

 市民参加には、代議制民主主義、言い換えれば、首長、議会の否定をはらんでいます。おまけに、市民参加は、今や交通安全同様、誰しも否定できないものになっています。



 風邪のため、今シーズン第3戦、明日の「ランニング・オン・サッポロ」5kmレースへの参加は断念、残念です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーあずさ15号

2008-05-15 19:56:24 | Weblog
 旅の目的は、中央本線に乗ること。新宿発特急スーパーあずさ15号で松本へ向かった。

 時刻表:新宿 12:00 発 八王子 12:32 発 甲府 13:29 発 小淵沢 13:53 発茅野 14:07 発 上諏訪 14:13 発 塩尻 14:26 発 松本 14:35 着



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『疑似科学入門』 その3

2008-05-12 21:08:33 | Weblog
 『疑似科学入門』(池内了著 岩波新書 2008年刊)その3

 最近、ブログについて言及している文章に出会う。

 池内氏は、この著書の中で、ブログについて、自分の意見を表明する手段を持てなかった人たちにとっては画期的なことである。

 しかし、それは、他人を意識する分だけ社会性が高まったというわけではなく、自分はこうなのだと居直り、自己を正当化することが常態になっており、自己中心主義が強くなっている。プライバシーを公開しているようで、それは自分で作り上げた虚像でしかない。

 倫理意識が希薄になり、一面的なものの見方を露骨に表現している。このような、自己中心主義の態度が疑似科学を増殖し、はびこらせる素地になっている、と述べる。

 大澤真幸は、『不可能性の時代』ブログについて言及し、われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではない。逆に、他者にまなざされていることを密かに欲望しており、むしろ他者のまなざしがどこにもないかも知れないということにこそ不安を覚えている。ブログのような私的日記を公開するサイトが流行る理由は、こうした欲望や不安を前提にしないと説明できなまい、と。



 実際にブログを約2年試行している私にとって、いずれもしっくりくる論理ではない。

 不特定多数の誰かが読むという前提に立って書いている部分もあるが、どちらかと言えば、自分の内面の論理を整理するためのきっかけの道具として使っている。そういう面からは、池内氏の自己中心主義の態度である。しかし、疑似科学の温床と言う見解には同意できない。

 また、大澤氏の見解は全くナンセンスである。監視社会こそ批判されるべきである。誰かに見てほしいからブログが流行るのだろうか。否、ブログのほとんどが匿名で行なわれていることに、監視社会への警戒心が現れていると考える。



 写真は、松本市内の古書店です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『疑似科学入門』 その2

2008-05-07 19:45:03 | Weblog
『疑似科学入門』(池内了著 岩波新書 2008年刊)その2
 
 左下の愛犬ブログで、当ブログで先日取り上げた「疑似科学入門」を参考にして、地球温暖化キャンペーンを批判しているので、是非お立ち寄りを。そこで、改めて『疑似科学入門』(池内了著 岩波新書)における「地球温暖化」についての記述を振り返ってみたい。

 著者の池内了氏は、地球温暖化に対して、両論併記のスタイルを採っている。先ず、事実として、地球が温暖化していること、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスが大気中に増えていることを確認する。

 温暖化に対しての、主流の主張は、人間の活動により温室効果ガスが増加したため地球が温暖化している論である。反対の主張は、地球が何らかの原因で温暖化したため、地中や海水中に閉じ込められていた二酸化炭素が放出されて増加したという論である。
 
 続いて、池内氏は、私たちは地球温暖化にどのような態度で対応すべきかと問う。単に自然現象として座視するのか、自分たちの問題として捉えるのかと。それに対し、池内氏は、「予防措置原則」を提起する。

 人間や環境にとって、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきであると主張する。二酸化炭素の抑制を行なうことに投資すべきという意見である。

 しかし、この提起は、客観的な態度を装いながら、マスコミを総動員し批判的な考え方を封じている翼賛型の現在の温暖化キャンペーンに組していることになるのではないか。もし、温暖化と温室効果ガスの間に、因果関係が無かった場合、この取り組みは浪費ということになる。やらないよりやった方が良いといったレベルの問題ではなく、限られた資源の使途の無駄遣いである。

 今、必要なのは、複雑系として未解明なことが多い地球を対象とした「科学的」な分析や考察ではないだろうか。人類は、総力を挙げて、何が真実なのかを突き止めるべきだと思う。

 池内氏は、残念ながらこの問題の最後の部分で、疑似科学に陥っている。



 私の科学的な裏づけの無い直感からは、サミットのテーマになること自体が、とても胡散臭さを感じる。これまでサミットは、先進国による世界的な利権の再分割協議の場であり、地球温暖化対策は、ITに続く世界経済浮揚のための新たな需要分野となるのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『不可能性の時代』

2008-05-06 21:08:18 | Weblog
『不可能性の時代』(大澤真幸著 岩波新書 2008年刊)

 著者は、象徴的な事件や小説の登場を以って、戦後という時代を区分する。

 著者は、1945年~1970年を「理想の時代」と区分する。
敗戦により天皇に変わりアメリカがこの社会の中心に位置するようになる。アメリカへの信頼は、’60年安保で揺らぎ、ベトナム戦争、ニクソンショックで壊れる。境界となる1970年の象徴的な出来事は、大阪万博と三島由紀夫の自決である。

 1970年~1995年を「虚構の時代」と区分する。オタク文化が栄え、盛り場は、新宿から渋谷へと変わる。境界となる1995年には、地下鉄サリン事件、1997年には、酒鬼薔薇聖斗事件が発生し、虚構の時代が終焉する。

 そして、1995年以降を「不可能性の時代」と区分し、それは現在まで続く。



 私は、社会学に学問としての懐疑を持つ。何となれば、そこには原則となる理論が貫かれているように思われないからだ。上記の時代区分や時代の特徴付けは、如何様にも表現できると思うからだ。

 同様のことは、政治学にも感じている。政治と言う対象に対する分析がいく様にも成立しているようで、その実、何も語っていないことが多いからだ。

 また、時代区分というのは、上記の場合もそうだが、時間の経過が大きい程、概ね合意ができる内容になることに気付く。時間と言うフィルターの数が多いほど時代の特徴について明確になっていくからであろう。

 逆に、現在に近いほど、その特徴が掴みにくく、断定が難しいのだろう。この著書もそうであるが、現在に近づくに従がって、断片的な分析には同意できることがあっても、全体を通す論理は難解になっている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊平川マラソン

2008-05-05 17:24:00 | Weblog
 過去何回も名称が変わっている大会ですが、今年からは「アコムプレゼンツ 日刊スポーツ 豊平川マラソン」となりました。ゲストにタレントの里田まいが来ていましたが、ゴールしてから出演まで時間がありすぎ、体が冷え切っていたので観ないで早々に引き揚げました。

 本日のコンディションは、私の住んでいる地区では、昨夜から霧雨が続いていて雨の中を走ることになるのだろうかと思っていましたが、スタート地点の真駒内屋外競技上場付近は、くもり、気温17℃といったまずまずの天候でした。

 しかし、走り出してみて、往路の豊平川水穂大橋までは、強い追い風で背中を押されました。その分、復路はひどい情況で、15kmから17kmくらいの風を遮るものの無い区間では、前に進むのがやっとで、大きな選手に抜かれたら、その方を風除けにしました。

 誰かの後ろに付いているつもりが、振り返ると自分の後ろに列ができていることもあります。人間スリップストリームも結構楽しかったりして。

 今日は、体が動かず途中でエネルギーを使い、ブレーキがかかってしまいましたが、走っていて「暇」なので、水穂大橋を折り返してから下を潜る橋の数を数えていました。札幌は、街の中央を川が流れているので、意外と橋の数が多く、真駒内まで11橋ありました。

 余裕なのか、あきらめなのか。完走という最低限の目標はクリアーして、今シーズン第2戦を終えました。次は、19日の「ランニング・オン・札幌」5kmです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドクターヘリが飛来

2008-05-04 21:29:18 | Weblog
 本当にじっとしていることのない人ね。と言われることもありますが、本日のランニング中に偶然遭遇しました。

 突然、空からヘリコプターが降りてきて、近くの中学校のグラウンドに着陸しました。急降下するヘリを見て、最初は、着陸するような場所が思いあたらなかったので、墜落したと思いました。

 待ち構える救急車と消防車、ヘリのボディには、「ドクター・ヘリ」の文字がありました。着陸から10分以上かかって救急患者が載せられ離陸していきました。出動要請からならかなりの時間を要していることだろう。この間に、近隣の病院に搬送できるような気がしました。

 集まっていた野次馬さんたち(私ももちろんその中の一人)の話しでは、交通事故のけが人らしいとの事。後で調べたところ、ヘリのデザインから、北大病院先進急性期医療センターのもので、手稲渓仁会病院へ運ばれたのではないでしょうか。しかし、載せられていたのは誰なのかはわかりませんでした。



 ドクターヘリは、道内では道央圏にあるだけで、他の地域との格差があったり、また、台数も少なく、救急出動できる回数も限界があると思われます。

 このヘリは、どのような運用基準を持っているのだろうか。私達のような、市井の普通の庶民にも出動してくれるのだろうか。まさか、VIPを特別扱いするようなことはないでしょう。

 
 しかし、どう考えても需要と供給のバランスは取れているとは思えません。全然、供給が追いついていないと思います。

 同種のことで思いつくのは、臓器移植です。必要とする患者数に比べて、提供数は全然充足できていないと思います。

 こういう情況の中で、「公平性」は確保されているのだろうか。これらには、原理的に不公平が内在している事象と考える。


 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする