晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『炎上』

2012-06-30 21:36:21 | Weblog

 『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』(中部博著 文藝春秋 2012年刊)

 1974.6.2「富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦 富士300キロ・レース」第2ヒートのスタート直後の多重クラッシュ事故で、4台が炎上、風戸裕、鈴木誠一が亡くなった。私の当時の記憶は鮮明である。本書で新たな事実の発見や関係者の証言があるのだろうかと期待して読んだが、それはスカ。

 今でもたまにF-1位はテレビで見るが、中学、高校とレースファン(カーキチというやつ)だったなあと改めて思う。道内のサーキットでも観戦した。白老町竹浦に北海道スピードウェイ(HISCO)が開設されたのは1970年、高校生の頃釧路からの夜行列車に乗って見に行ったものだ。グラチャンマシンのレースだったと思う。1973年に閉鎖。倶知安の北海道スピードパーク(HSP)は、1985年開設、2011年に閉鎖。排気量の小さなツーリングカーを見た。本場の富士グラチャンにも行った。

 当たり前のことだが、人の興味、関心というのは変わる。芝居も一時はまっていたが、最近はさっぱり。自分の中で他に事に比重が移ると自然に遠ざかることもある。不易流行?変わること、変わらないこと、変わることは、悪いことでは無いと思う。「転向」が悪という考え方に対しては、国のために殉じよというのと同種の権力性を覚える。

 その頃を思い出した。1973年、浪人、石油ショック、寒くて灯油を売ってくれる石油スタンドを探し回った。トイレットペーパーは五番館から。1974年、大学1年目、高度経済成長が消え去り、暗く耐える時代が始まったとは全然感じていなかった。

 

 

 

 

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『午後の天気』

2012-06-25 20:51:26 | Weblog

 『午後の天気』(吉田拓郎 avex trax 2012作品)

 前作『午前中に』に続く3年ぶりのアルバムが6月20日に発売された。吉田拓郎、66歳とは思えないほどの柔らかな感性を保ち続けることができているのは凄い!すぐに聴いてみた。全10曲について一言コメント。

 

「僕の道」(NHKラジオ「深夜便のうた」)

 一頃より肩の力が抜けている。今を肯定して進みたい。

「昨日の雲じゃない」

 昨日と違う今日、昨日までの君との関係が今日は違う、きっと明日は君とわかりあえるさ。

「慕情」(NHK時代劇「新撰組血風録」主題歌)

 多くを望まない、ただあなたがそこに居てくれるだけでいい。こんな恋唄を唄うことができる拓郎の心は少年のようだ。

「危険な関係」(Kinki kids提供曲)

 僕はいつも君の事を思っているわけではない、君も僕の事をいつも気にしているわけではない、だけど・・・

「この間」

 ? ちょっとわからなかった。

「清流(父へ)」

 これから僕は何処へ行けばいいのだろうか? 父に逢いたい、父の声が聞きたい、なぜか偶然だけど最近の私の気持ちと重なりました。

「恋はどこへ行った」

 恋がありません、叶いません、心というのは変わってしまうのです。

「今さら、I love you」

 もう若くない自分の気持ちを振り絞って、君が遠くへ行ってしまわないように。

「that’s it やったね」(ニッポン放送「ショウアップナイター」2010、2011シーズンテーマ曲」

 応援歌! ガンバレ、コンサドーレ札幌!

「男子の場合」

 俺に友あり、だけど詩になっていないよ。

 

 目指せ!オリコン、最年長ランクイン

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吉本隆明追悼特集

2012-06-22 20:18:32 | Weblog

 『文藝別冊 [総特集] 吉本隆明』(KAWADE夢ムック 河出書房新社 2004年刊)                          

 2012.3.16に吉本が亡くなって3ヶ月余りが経つ。時間の経過と共に文芸誌など月刊誌において吉本追悼特集が続々出版され始めた。本書は、生前2004年に刊行されていたものに「追悼 吉本隆明 戦後最大の思想家のすべてがわかる決定版」と帯を巻いて再刊されたものである。

 私は吉本が亡くなった後も吉本関連本を何冊か買っている。「この問題を吉本ならどのように考えるだろうか?」「この事態を吉本ならどのように判断するだろうか?」と考えながら。しかし、亡くなった者は何も語らない。あの声を聞くことはできない。

 吉本は、誰が何と言おうと「私ならこう考える!」という姿勢を持っていた。「独りでも生きていく」という強い決意を持っていた。と、感じる。ケンカ腰の文体とは異なり、講演などでの語り口は誠実で丁寧、温かみを感じさせる。

 今、私は吉本に父親像を重ねているのだと思う。丁度世代も重なる。「こんな時、親父ならどう考えるだろうか?」と思っても既に相談はできない。判断に迷った時、「どうするだろうか?」と問うている。生きていれば実際には相談などしないのだろうが、父親とはそんな存在なのであろう。

 吉本の思想を追っていることも確かだが、吉本の中に父性を求めている迷いの中の私がいる。

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『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』

2012-06-20 20:49:32 | Weblog

 『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(若松孝二監督 若松プロダクション 2011年作品、シアターキノ2012.6.16封切)

 1970年11月25日、私は高校1年生、母が作ってくれた弁当は毎日2時間目が終った時に食べ、昼休みは学校から離れた所にある釧路支庁の職員食堂で「豚丼」を食べることが習慣になっていた。その日、食堂のテレビからは異様な雰囲気が漂っていた。三島由紀夫という作家が、市ヶ谷の防衛庁に突入したというのだ。咄嗟に考えたのは、自衛隊はクーデターを起こすのだろうか、大変なことになった、というものだ。

 当時、三島の小説は読んだことは無かったが、楯の会という存在は知っていた。確か、毎日2時から桂小金治のアフターヌーンショーというテレビ番組があって、揃いの制服を着た楯の会のメンバーが出演していて、彼らが自衛隊で訓練を積んでいると言っていたような記憶がある。

 若松監督の前作は、『実録連合赤軍』、思い込んだら命がけの所は右も左も共通、三島が東大全共闘の学生との討論会で「君たちが一言天皇と言ってくれれば一緒にやれるのだが」と言ったことからも心情のありようは非常に近い。自分たちの思想に退路を断ちながら行動を追い込んでいく過程も良く似ている。

 映画としては、史実に忠実なのであろうが、坦々と時間の流れに沿って事実を描いているが、三島の思想形成過程や行動を共にした学生たちの生い立ち、なぜ新左翼では無く、民族派に行ったのかなど、ほとんど語られていない所は残念である。

 ただ、最後の総監室での切腹シーンは迫力があり涙する観客もいた。その時、三島は45歳だった。吉本隆明より1歳若い。その後、三島が生きていたら、今頃文芸誌で「三島由紀夫追悼特集」が編まれていたことだろう。

 最後に、若松プロのマークを見ると、銃に赤い星、レッドスターアーミー(赤軍)なのだ。それが全てを表している。

 

 

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比叡山延暦寺

2012-06-16 16:07:23 | Weblog

 今回の目的のひとつは、比叡山に登ることであった。JR湖西線で京都から比叡山坂本駅まで15分程、下車後ケーブルカーの駅まで坂本の街の真ん中を通っている坂を25分くらい登り、ケーブル坂本駅に着く。そこからは、乗ってみたかったケーブルカーで山頂のケーブル延暦寺まで約10分少々であった。復路は、京都市内までバスで急カーブの続く比叡山ドライブウェイを降りた。

 比叡山の山頂は東塔、西塔、横川などいくつかのエリアに分かれており、延暦寺はいくつもの施設から成っている。見学はそれらをバスで巡るのであった。

 比叡山は僧侶のデパートと言ってもいいであろう。鎌倉時代、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、その後それぞれの宗派を起こす僧侶たちがここで修行を行なっている。親鸞などはこの山の中を一日30kmも走る修行を積んだということである。なぜにこのような嶮しい山の上で厳しい修行をしたのであろうかという疑問が生じる。あえて俗世界から離れ、肉体をいじめ抜き、精神を研ぎ澄ますことで何かが掴める、悟りの境地に達することができると言うことか。しかしながら後の親鸞は、大衆には修行ができる時間や経済的な余裕が無いことから、修行の無意味さのようなことを語っている。

 

 私は、仏教と新左翼における共通性を感じた。否、新左翼の思想が宗教的教義化しているといってもいいのだろう。比叡山で修行を積んだ僧侶たちは、それぞれの教義を編み出し、●●宗を開祖し、その弟子が○○宗××派・・と分派していった。この国の新左翼も日共を親とすれば、共産同、革共同がその子供であり、それが△△派、★★派と分派している。

 自然科学の場合、仮説を立ててそれを実験などで実証できるとそれが真理になる。反証が出れば真理を修正していけば良いという比較的シンプルな原理で出来上がっている。しかし、社会科学や人文科学、とりわけ思想や宗教は、真理の実証が非常に難しいゆえ、百花繚乱、諸説入り乱れた情況を呈するのであろう。もっといえば、自説の真理を証明するために、権力的(ゲバ)抗争に明け暮れるような事態に陥るのである。

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室伏志畔

2012-06-10 16:20:49 | Weblog

 生きているから様々な経験ができる。また、数々の出会いも経験する。初対面の印象がそのまま継続するかどうかはわからない。私の場合、主流に属するのは避ける傾向にある。どちらかというと異端と呼ばれている方に魅かれる。

 室伏志畔という歴史家に出会った。私に古代史の知識はほとんど無い。高校の日本史すらあまり良く勉強していない。ただ、古代史は学会だけではなく民間の研究者も含めて新しい発見が次々とあり、多くの人が興味を持って学んでいる一種のブームが長く続いている。しかもそこには多くの説が入り乱れており、今だ定説のようなものは確立していないのだろうと思う。

 その中で室伏志畔は異端に属するのであろう。少しかじっただけでその臭いからわかる。氏の著作だけを読んで決め付けるというのは偏っているというのは重々承知である。でも、自分の中にしっくりと落ちやすい考え方というのがある。

 1999年国旗・国歌法が制定された。様々なセレモニーで国歌が歌われるようになった。しかし、歌の由来や歌詞の意味を説明されたことはあるだろうか。室伏志畔の分析を読んでいくと、現在の国歌の正当性に疑問が浮かんでくるのである。また、その仮説は、明治維新の薩長同盟を成し遂げた坂本竜馬の秘密を解くことができ、さらに、この国の底流に現在でも流れている可能性があり、政治家はその出自で既に運命が決まっているのかも知れないという何とも興味が尽きないものなのである。

 

 写真は、平安神宮の鳥居です。京都に都を定めた桓武天皇も興味深い存在です。

 

 

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『別海から来た女』

2012-06-05 20:41:44 | Weblog

 『別海から来た女 木嶋佳苗悪魔祓いの百日裁判』(佐野眞一著 講談社 2012年刊)

 週刊誌の見出しに躍った「毒婦」という言葉、私自身ワイドショー的興味から購入した。著者がこれまで何冊か読んだことのある佐野眞一ということで、この事件をどのような視点から取り上げたのか読んで見たくなったからである。

 佐野氏は、『東電OL殺人事件』で、当時一流企業と言われていた東京電力(原発事故への対応から三流以下ということが判明したが)に勤務する女性が殺され、容疑者として捕まったネパール人が冤罪の可能性があるというものであった。時あたかも、近日中にゴビンダ氏に係る再審の可否が決定されるという。

 本書は、本当に佐野氏の筆によるものなのだろうか?あとがきには取材スタッフの名前が掲載されているが、佐野氏はスタッフからの原稿をチェックもしないでそのまま出版したのではないかという疑問がある。

 この事件については、直接的な証拠や供述のない中、裁判員制度のもとで裁かれているが、そのことの是非についての言及はほとんどない。すなわち、木嶋被告を最初から最後まで犯人として疑問などを持つ余地も無く描いている。反対にその犯罪の質は史上最高のものであるという評価である。

 佐野氏の取材対象への配慮がたりないことである。別海など取材対象が少なく固有名詞が特定される恐れのある田舎なのにほとんど配慮を欠いている。またその描き方も必要以上にダーティーなイメージとなっている。被害者の描き方もその人自身にも隙(だまされる方が悪い。)があり、被害を受けるのも不思議でないような表現になっている。また、第二部の百日裁判は、法廷内のやり取りを記録し、文章に起こしただけで、それについての論評がほとんどない。

 全体に、これまでの佐野氏が維持してきた良質な社会性が欠如している作品である。このところ多作で本書については手を抜いたのであろうか。残念である。

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『第32回千歳JAL国際マラソン』 

2012-06-03 16:44:02 | Weblog

 大丸百貨店京都店地下2階、イノダコーヒーグリル店にて

 

 ハーフマラソン完走!タイムは相変わらず低空飛行が続いているが今日は何ともいえない満足感が得られている。15kmからの残り6kmの走りが自分なりに良かったと思う。いつもならへばってしまうところだが、坂を下って15kmポイント付近からの平らな舗装道路に出た時点でエネルギーの残量がまずまず残っていて、ロングスパートになったなという実感がしている。

 5月5日の豊平川」以降、営業や旅行でほとんど練習できず、完走できるかどうかも不安だったので、前半から抑えすぎなくらいペースを落としてスタミナを温存した。スタート前に食べたサザエの大福餅も効いたのかも知れない。また、気温がスタートの時で10℃位と非常に低かったのも良かったと思う。中盤までほとんど汗も出ず、暑さによるロスも無かった。

 現在は肉体の疲れもあって頭の中も空っぽ状態。これが実に心地よい。今日走りながら考えたのは、率直に言って自分には人徳というか、徳がないなあと思ったこと。人望と言い換えてもいい。そのために日頃から努力というのをしない性格だと思った。仲間とか人との付き合いをもう少しやればいいのだが、自分の中でそれが楽しみになるより我慢になってしまう。他人に好かれようとも思わない性格は中々直るものではない。こんなことを考えたが、今から変えようとする気持ちまでは起こらなかった。

 もうひとつ感じたこと。お腹が空いた時は何でも食べたいと思う。反対に満腹な時は何かを食べたいというイメージがわかない。要するに、自分には強い食べ物へのこだわりが無いと言うことである。

 先週は、夜の営業が続いて金曜日の時点でクタクタだったが、週末も遊びと営業で超ハード。土曜日は、早朝から午前中の営業、午後は、道立美術館で大原美術館展と道新ホールでザ・ニュースペーパー札幌公演、本日は早朝から千歳でひとっ走り。貧乏暇なしというやつである。

 

 

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『桓武天皇 平安の覇王』

2012-06-01 21:04:52 | Weblog

 『桓武天皇 平安の覇王』(三田誠広著 作品社 2004年刊) 

 桓武天皇(山部王)の母(高野新笠)は百済系の渡来人武寧王から10代目、父光仁天皇(白壁王)は末端の皇族であり、皇位から最も遠い出自を持つ皇族だったが、自分の運命は誰にもわからない、図らずも皇位に就くことになる。

 本書では、大仏を鋳造した聖武天皇、藤原仲麻呂、孝謙女帝と道鏡、和気清麻呂、吉備真備、次の時代を築いていくことになる最澄、空海などの個性的な人物が登場する。山部王は彼らと関わりながら、奇蹟のように天皇に上り詰め平城京から長岡京、平安京へ遷都し京都千年の文化の礎を築いた。

 桓武天皇に関して触れなければならないのは、2001年12月18日の誕生日前の記者会見における天皇発言である。「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本書紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言である。当時日韓共催でサッカーワールドカップが2002年に予定されていたが、この発言の真意はどこにあるのだろうか。

 

 ここまで、図書館から借りながら何冊かの三田誠広作品をランダムに読んできたが、『時代順の整理』を行なってみる。

*奈良時代(710年平城京、784年~長岡京、794年~平安京)

○道鏡(700年?~772年)

○桓武天皇(773年~806年)

*平安時代(794年~1185年、1192年)

○平清盛(1118年~1181年)

○西行(1118年~1190年)

*鎌倉時代(1185年頃~、1192鎌倉幕府~1333年)

○親鸞(1173年~1262年)

○日蓮(1222年~1282年)

*室町時代(1336年~1573年)

 三田作品はまだまだ刊行されているので、気長に読み続けていけば、各人物の点の歴史が線と繫がって膨らみをもっていくと思う。

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