晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『初期マルクスを読む』 その4

2011-03-27 15:32:12 | Weblog

 KKRホテル札幌(中央区北4条西5丁目)2階レストランマイヨールでランチ、地階の理容室には30年以上通っています。

 

 

 気温が上がりません。ダラダラと走ってしまうジーちゃん走りを脱却するため、今日は短距離の全力疾走を取り入れました。明日、全身筋肉痛になれば、効果があったということになります。

 

 

 震災の経済学が語られなくてはいけません。生命保険会社が大変だというレベルでなく、この国の経済が、社会保障費の重みに加えて、復興費を捻出しなくてはならなくなりました。

 

 さらに、震災により政治が翼賛化しています。救国とか挙国一致という言葉が出てくるでしょう。

 

 復興費への集中投資のため、国政、地方政治ともに、国民には忍耐が求められます。「欲しがりません、復興するまでは!」

 

 

  

ノオト その4

 

第二章 対自然・対人間 -『経済学・哲学草稿』を読む1-

    『経済学・哲学草稿』の位置

第一草稿の四「疎外された労働」

 

○疎外とはなにか

 資本主義社会における労働は、労働者の思いを対象化ないし現実化するという人間的な面と、疎外する、疎外されるという非人間的な面を持っている。

 さらに、労働生産物が疎外される喪失感を金銭的な見返りで埋め合わさざるえなくなっている。

 

○労働の価値と意味

 ヘーゲルは、労働こそが人間的な行為であると考えた。しかし、行為の最高位には、労働ではなく、国家の支配、国のための戦争、また学問や哲学を位置づけた。

 マルクスは、労働が最も人間的な行為であり、最も人間的な生命活動である。

 

○労働の疎外と労働の人間性

 労働が人々の生活の中で圧倒的な比重を占める社会にあっては、労働の疎外は、疎外の中でも最も非人間的な疎外である。

 

 では、マルクスの描く疎外されない本来のポジティブな労働のイメージは、以下である。

 ①労働は人間の生命活動であり、生きていることを確証するものである。

 ②労働は人間と自然との交流である。

 ③労働は人間の意識的で自由な活動である。

 ④労働は人間の類的生活を作り上げ、発展させるものである。

 

○自然と労働

 前記①から④を繰り返して説明すると、

①生活のただなかでの生命活動として労働がある。

②人間が自然の中で生きていくには、自然との物質的代謝が必要である。

③労働の対象、労働の素材として自然がある。

④自然が人間を、植物、動物、鉱物を包んでいる、と同時に自然の全体を人間が対象化し、自分たちの身体に合うように作り変える。これが、自然と人間の調和である。

 

○自由な意識的活動としての労働

 人間と自然の関係も意識的で自由である。

 

○類的存在、類的生活

 人間は、自然とのつながり、他人とのつながりを意識化する。共に生きている。そして、自己を相対化する。

 

*マルクスの生きた19世紀、資本主義経済の生成期にあっては、人間の持つ生産力が今ほど強大では無かったので、対自然の哲学はこのようなもので良かったのだろう。人間が自然の中で生きていくという本質は変わらないのであろうが、21世紀の生産力は、自然や環境の持つキャパシティギリギリのレベルまで達している。

 

 また、今回のような大規模な自然災害(原発は、人災である。)に直面すると、これまでの人間の尊大なふるまいに我々は改めて謙虚にならなければならないことを教えられる。

 

 この章で、著者は労働が本質的に持っているポジティブな面を強調する。しかしながら、労働が疎外されている現状では、人間の本質を解放する(それが、革命)必要があるという論理を展開する。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『初期マルクスを読む』 その3

2011-03-26 16:07:24 | Weblog

 大丸デパート札幌店地下1階、UCCカフェメルカードは、いつも混んでいますが、たまに空いている時があります。ここでは、ひとりひとりに違うコーヒーカップで淹れてくれます。

 

 

 春は会社の異動シーズンです。この春は、私も担当が変わったので、自粛ムードとはいえ歓送迎会が多くあり、挨拶の機会もまた多くあることでしょう。

 

 かつての上司から、普段中々顔を合わせない人たちとの会合などでの挨拶は非常に重要であり、紋切り型ではなく、自分をしっかり表現すべきと教わりました。

 

 私も挨拶の内容を随分と考えます。その場の求めに合わせて、そこに集まる人に合わせて、お礼など言わなければならないことを忘れずというところを基本としています。

 

 笑いを取れる人たちか、自分の考えをどこまで言える場か、当たり障り無く行くか、ラディカルに毒を交えるか、悩みどころです。

 

 

 週末ランを継続しています。この時期としては、順調以上に体重が落ちています。正月に比べマイナス3kg!体重計が壊れていなければ良いのですが・・・?

 

 

 

 ノオト その3

 

○初期マルクスの人間観・自然観

 初期マルクスの著作は、1841年マルクス23歳『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』、184325歳『ヘーゲル国法論の批判』、『ユダヤ人問題のために』、1843-4426歳『ヘーゲル法哲学の批判・序説』、184426歳『経済学・哲学草稿』、1844-4527歳『ドイツ・イデオロギー』であり、著者はそこにマルクスの人間観・自然観を読み取ろうとしている。

 

○『ヘーゲル国法論の批判』

 マルクスは、近代批判としてヘーゲル批判をする。

 ヘーゲル批判の第一点:家族、市民社会が元になって、そこから国家や国家の理念が出てくるのに、へーゲルでは、理念及び国家が、家族や市民社会を生み出すことになっている。そこには、主語と述語の転倒がある。

 ヘーゲルは、家族、市民社会は矛盾に満ちたものなのだが、最後に国家が覆いをかけて全ての矛盾を解決する。従って、時代が国民国家に向かうことを肯定する。

 

○市民社会と政治的国家の非連続性

 ヘーゲル批判の第二点:ヘーゲルは国家制度が人間を作るとしたが、マルクスは民衆が国家制度を作るとした。

 マルクスは、立憲君主制の方が民主制に比べて抽象的・非現実的な面を持っているとして、民主制の方が現実性を持つとした。

 ヘーゲル批判の第三点:ヘーゲルは市民社会と国家が連続的につながり、国家が市民社会の矛盾を解決し、統一していくとしたが、マルクスは市民社会と政治的国家は非連続性であるとした。この矛盾の解決のために、国民国家とはちがう、新しい共同体を構想する。

 

○マルクスのユダヤ人問題(『ユダヤ人問題のために』)

 ヨーロッパ国家は、キリスト教を国家宗教としていたが、政治的解放とは、国家が宗教から解放されることである。(政教分離)しかし、この政治的解放は、真の人間的解放ではない。

 

○共産主義社会の原イメージ

 政治的生活においてどんなに人権が確立しても、利己的な関係の中で、格差、貧困、差別などの問題が解決されない限り、現実の生活の問題は解決されない。

市民社会と政治的国家の二重性が、市民社会の側から解体・克服されていって、政治的国家の生活が市民社会の生活を豊かにするような方向性を持つ。これを人間的解放という。

 

○人間の解放(『ヘーゲル法哲学の批判・序説』)

 理論は、それが人間に向けて展開されるとき、大衆をつかむことができるが、人間に向けて展開するにはラディカルでなければならない。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『初期マルクスを読む』 その2

2011-03-21 14:04:45 | Weblog

 中華料理「香州」(南3西4西側、狸小路をすすきの方向に曲った所)で、中華風鶏肉カレー、1959年の老舗でメニューも豊富。

 

 

 昨夜は、『冬のサクラ』の最終回。肇(佐藤健)がキーマンでしたが、残念ながら萌奈美(今井美樹)に奇跡は起きませんでした。

 

 

 

 『初期マルクスを読む』 ノオト その2

 

○ヘーゲル哲学の四つの基本的性格

 ヘーゲル哲学の特徴は、①人間主義:人間というものが地球上の物質的・精神的な活動の成果として存在している、人間により自然が開発され、新しい可能性が生まれてくる。

 ②合理主義(理性主義):論理的な道筋から新しい世界が見えてくるという態度。

 ③現実主義:この世界で起きていることは、この世界で解決できるという考え方、あの世を設定する宗教を否定する。

 ④進歩主義:歴史は着実に前進している。

 

 *このヘーゲル哲学の四つの基本的性格はマルクスにも継承されている。これらは、私の思考のベースにもある意味自明のこととして存在している。しかし、ここに来てこれらの根本が問われている。

 

 今回のような大規模な自然災害を経験する中で、また地球レベルの環境問題に直面する中で、自然に対する人間の驕りや無力さを感じる。人間主義は人間中心主義として批判的に捉え直す必要がある。

 

 人間は宗教を克服しきっていないどころか、この国におけるオウム真理教事件、世界史におけるイスラム教世界、キリスト教世界の動きからは、人間は宗教上の大問題に直面している。

 

 既にメッキの剥れた言葉に「進歩的」という誉め言葉があった。戦後民主主義者、進歩主義者といわれた人たちである。資本主義社会は必ず社会主義社会に転化するという歴史法則=唯物史観をベースにした言い様である。進歩主義も、1989年以降のベルリンの壁、「ソ連型社会主義」の崩壊を眼前にして大きく揺らいでいる。

 

○近代の肯定と否定―マルクスのヘーゲル批判

 ヘーゲルは、歴史上の出来事は、すべて近代的な思想の中に流れ込んでいって、近代的な世界はその集約点、到達点としてなりたっている。

 しかし、マルクスは近代批判を課題とした。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『初期マルクスを読む』 その1

2011-03-20 17:04:44 | Weblog

読書の途中でランニング。1時間半ほど汗を流す。気温が上がって(4~5℃)汗が出るようになった。

 

長距離を走ると身体に変化が生じる。髭が伸びる。その理由は、顔の表面の脂肪が減って髭が伸びたようなるのである。

 

 

 

『初期マルクスを読む』(長谷川宏著 岩波書店 2011年刊)

 

書名に魅かれて購入。30数年前の学生時代、初期マルクス、疎外論が流行していた。『経哲手稿』『ド・イデ』、『フォ論』を読んだ。

19世紀の思想家であるマルクスにとって21世紀の現代を想像するのは所詮無理である。それは、時代的制約として仕方が無いことだが、そもそもマルクスの思想には内在する欠陥があるのではないだろうか。そんな問題意識を持ちながら読み進めてみたい。

 

ノオト その1

 

第1章 ヘーゲルからマルクスへ ―マルクスのヘーゲル批判―

○大いなる転換期

ドイツ観念論は、集団における中心となる人間に決定を預けるのではなく、近代以後、単独の個人を考える主体として設定した。また、近代以前の神様の声が真理を告げるのではなく、自分の内面に用意されている能力によって、真理に到達できると考えた。

ヘーゲルが社会や歴史へ関心を持った時代背景として、市民革命、産業革命、国民国家の成立がある。

 

○現実への肯定感と体系的なるもの

ヘーゲルは近代社会に対して肯定感を持っていたと同時に体系的な思想家であった。対象に否定的であったり批判的であったりすれば、大きく視野を広げた全体的な体系を作るのは難しい。

 

*ここに、私も含めた左翼が絶滅種化した根本原因があるのではないか。現状における矛盾を否定的に、批判的に捉えることはできる。しかし、全体的な体系を持ちえていないのである。

 

卑近な例では、日共は消費税を批判しながら、福祉、医療、介護などの充実を求める。そこにバランスシートは存在しない。前衛と称しながら未来社会の展望を提示できない。

 

民主党政権の欠陥も、これまでの野党として批判はできるが、政権を運営しながら現状を変えていくというバランス感覚が乏しい。

 

 残念ながら良かれ悪しかれ自民党は、清濁併せ呑む器量を持ち合わせていた。野党が批判する点は百も承知、できるなら一緒になって批判できたらどんなに楽であろうかと思ったこともあったのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間と技術

2011-03-19 20:32:49 | Weblog

 

震災募金をするコンサ選手、中山選手と握手しているのは私だが、突如前におじさんが出現しピンボケに。私の「サッカーもがんばって!」に対して、ゴンちゃんは「どうもありがとうございます」と応えてくれました。左は、砂川誠選手。

 

民放は、「東日本大震災」と言っていますが、なぜか犬HKだけは「東北・関東大震災」と使っていますね。

 

 

から30数年ほど前の事だが、工学研究者だった恩師が晩年に「僕は最近、技術というものがわからなくなってきたよ。」と口にしていたことを覚えている。その言葉が何を思ってのことなのかはわからないのであるが、この国の高度経済成長と共に技術も一直線に進歩してきたのが、公害問題(環境問題とは言わなかった。)がクローズアップされ、巨大技術が行き詰まりを見せていた頃であったと思う。

 

1981129日、北海道電力泊原子力発電所1,2号機第1次公開ヒアリングが北海道における原子力発電への端緒だったのであるが、旧泊中学校体育館の周辺を「実力阻止!」を叫びながらデモっていた中、私はこう考えていたことを思い出す。

 

この反対派の論理には幾通りかあるなと。①ひとつは、原子力はそもそも人間になじまない、人間が手を染めてはいけない領域なのだ、というものである。

②もうひとつは、現在の人間の技術が未熟なのだから危険なので、技術が進歩すれば必ず制御できる、というものである。

③また、電力資本が進める資本の論理のもとでは危険なのであって、資本主義社会でなければ安全なのである、というものもあった。

 

 

さて現在を見ると、

 

①今日の先端技術の領域、核融合、遺伝子操作、臓器移植、バイオ、ナノテク・・を眺めるとその進歩の驚くと共に人間にとって制御が可能なのかなと思ってしまう。

②今回の原発のような事故を目の当りにすると、ノーベル賞受賞でせっかく取り戻したかに思えた技術への信頼がまた揺らいでしまうであろう。

③とりわけ電力会社の下請会社(テレビでの関連会社という言葉こそその本質を覆い隠そうという意図を感じる。)における原発労働者の使われ方などにおいては、資本の論理は現在も貫徹されている。

 

しかしながら、今の私は、技術への懐疑、迷いはあるのだが、思考のベースには、超常現象などを否定する合理主義、神を必要としない現実主義、人間の歴史に信頼を置く進歩主義がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬のサクラ

2011-03-18 21:29:03 | Weblog

 韓流ドラマは見たことがありませんが、題名から「冬のソナタ」を連想させます。この冬、唯一見ている連続ドラマの最終回が震災の影響で明後日に2話合体で放映されます。

 見ていない方には御免なさい。

 果たして、脳腫瘍に冒された今井美樹(萌奈美)の命は助かるのか。

 草薙剛(祐:たすく)の愛が彼女を救うのか。

 心通わぬ萌奈美の夫、心臓外科医の高嶋政伸(航一)は、妻の命を救うため全身全霊を賭けて手術に踏み切るのか。

 私は、キーマンは祐の弟、佐藤健(肇)ではないかと思う。兄の父とは異なる彼の父こそ、先代の病院長、すなわち航一の父ではないだろうか。

 すなわち、航一と肇は異母兄弟なのではないだろうか。

 無事手術が成功し、萌奈美の笑顔が戻り、皆で春のサクラを見ることができる、ハッピーエンドを期待したい。

 いずれにしても、日曜日の夜、全てがわかる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北地方太平洋沖地震

2011-03-12 14:50:43 | Weblog

 

 

 この名称が相応しいのか?東日本全域が震源となっている。まるで、小松左京の「日本沈没」のようだ。

 

 2011.3.11は忘れられない日となった。昨日の午後3時前、地震速報の30秒後から始まった周期の大きな揺れ、徐々にわかる被害、帰宅してからテレビをずうっと視聴している。

 

 自然に対立させて人間を位置させることが果たして正しいのだろうかとの疑問を持つ。自然の力に対して余りにも非力な人間。原発が暴走し始めている。原発労働者が被爆している。最悪の情況。自然に対してもっと謙虚であれと教えられている。

 

 私たちは、目前に起こっている事象を意味づけして認識することが難しい。断片的な情報から全体像を作り上げようとする。しかし、私たちが想像する以上に被害の影響は大きいであろう。特に放射能の影響は世代を超える。

 

 崖っぷち総理、断末魔だった菅直人が命拾いをした。大災害を前にした政治休戦。菅は正直な人だから、深刻な顔をすればするほど内心が透けて見えるが、何か持っている、彼は運の強さを持っているのだ。だから、考えて発言し、考えて行動しろよ!ドジを踏むな!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エネルギー問題

2011-03-06 17:29:46 | Weblog

コンサ初戦完敗で意気消沈!週末ラン継続、少し距離が伸びた。

 

 

情況論ノオト 第24回 エネルギー問題   

 

この冬のガソリン、灯油価格の値上がりが私たちの生活を直撃している。その原因を探ると需給バランスだけの単純な原因だけでないことがわかる。

 

1970年代、オイルショックの頃、「石油の寿命」はあと30年とか言われたが、それから30年が経過するが、最近はそのような事は聞かれなくなった。

 

可採年数C=確認埋蔵量A(地下に存在すると確認された資源のうち、技術的、経済的に採掘可能な資源量)÷年間生産量B  A,Bともに可変的な数字である。

 

1980年、A=667.2億バーレル、B=6,672万バーレルで、C=29.0年であった。それが、2008年では、A=1,258.0億バーレル、B=8,182万バーレル、C=42.0年ということだから、供給面では全く問題が無いということになる。

 

原油をめぐっては、米英の石油メジャーズと1960年に設立されたOPEC(石油輸出国機構)の闘いの歴史であった。その点からは、1973年、1978年の2度のオイルショックは、南北問題の産油国的解決だった。

 

1980年代以降、非OPEC産油国の生産拡大、経済のソフト化、サービス化のよる石油消費量の減少によりOPECの地位が低下した。

 

そんな背景を持つ石油の歴史であるが、21世紀に入っての原油価格高騰の原因は、①中国をはじめとした発展途上国の急成長による石油需要の増加、②産油国の追加石油供給能力低下、③イスラム原理主義の台頭など政治体制の不安定化、④投機性資金(グローバルマネー)の原油市場への流入である。

 

 

中東情勢まかせの政府の無策ぶりに対して、私の持つ疑問は、かつてオイルショックの経験から苫小牧東部、むつ小川原、志布志などに原油備蓄基地を作っているが、価格安定のために備蓄原油を使ったことがあるのだろうかというものである。もちろん備蓄の目的は、戦乱などで原油供給が途絶してもこの国の経済を一定期間もたせるというものであるが。

 

もうひとつの疑問は、北海道内のプライスリーダーであるコープさっぽろの灯油価格交渉が真に生活者側に立っているのか。簡単に値上げを認めているように見えるが、生産者の言いなりになっていないか。生産者の利益を保障していることになっていないか、というものである。

 

「石油の寿命」の心配が無くなっている事と、私の疑っている地球温暖化防止キャンペーン、すなわち石油消費の抑制が底流で繋がっているのではないか、というものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大逆事件

2011-03-05 22:09:19 | Weblog

  ケータイカンニング事件がトップニュースになっているが、それほど重大に扱う必要のある事件なのだろうか。確かに不正行為と思うが、韓国などでは既に発生していたのであるから、それに学んでいなかった大学も無策であったことを反省すべきと思う。

 

 

 

大逆事件 死と生の群像』(田中伸尚著 岩波書店 2010年刊)

 

 大逆罪は、1882(明治15)年施行の旧刑法第116条「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

 また、1908(明治41)年施行の刑法第73 「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 」(1947年削除)を根拠とする罪である。

 

 大逆事件は、今から100年前の1910年に「無政府共産」思想を以って天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水ら24名に死刑判決、うち12名は無期懲役に減刑された事件。

 

 この事件の特徴は、具体的な実行行為が裁かれたのでは無く、人が懐く思想が裁かれたのである。人の心、内面が国家によって決め付けられ裁かれる事に恐怖を感じた。人の思想というのは、多面的で、流動的で、ある意味混沌としているものではないか。それを、「無政府共産」と決め付けられ、その関係者として国家に殺された事件である。

 

 さて、私たちは大逆事件を100年前の明治時代のことだったとして、民主主義の発達した現代とは違うとして済ますことができるだろうか。現代には無いと言い切れるであろうか。私は、時代を今に引き付けて本書を読んだ。

 

 背後に何らかの意図を感じる小沢一郎強制起訴、オウム真理教事件も異臭騒ぎの時点で警察はサリンの存在を知っていた可能性があり、地下鉄事件は泳がされた可能性もあるとの見方もある。鈴木宗男氏も「国策捜査」と言っている。

 

 国家や行政による人の内面への干渉、例えば教育現場で子どもたちに対する「心の教育」が行なわれている。今のところ、『生命を大切にし、他人を思いやる心、美しいものや自然に感動する心などの「豊かな心」をはぐくむとともに、子どもたちに豊かな人間性や社会性などの「生きる力」を育てるためには、学校、家庭、地域社会が一体となって心の教育に取り組むことが重要です。』(北海道心の教育推進会議より引用)とあり、当たり障りの無い抽象的な目標である。

 

 しかし、ここには、「邪悪な考えを持ってはいけません、正しい心を持ちなさい」などと、矯正的な教育に転化する可能性があり、ある意味ここにも恐怖を感じる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする