天皇が政治的発言をしてはならないということを前提とする。宮内庁長官の発言が話題になった。現天皇が今般の情況について思う所を間接的におそらく先代にならって表明したのだろう。だが上皇夫妻は長年にわたって努力を積みかさねた結果、徐々に言葉に重みがあった。今回のこの唐突感は、まだ令和3年の半ば、国民が現天皇をまだ一人前の天皇と感じていないからではないか。「そしたことから、いずれにしましても」今回のスガのスルーは適切な対応だったと思う。(この先日和らなければ珍しく誉めたい!)
『フランシスコへ』(吉本隆明著 講談社文庫 2016年刊 初出2013年) 立花隆死去 知の巨人 戦後思想界の巨人
「知の巨人」立花隆氏が亡くなった。氏の『日本共産党の研究』、『中核・革マル』など何冊か読んだ。テーマに関する膨大な資料を収集して読み込み、体系化した論理を構築する能力は天才的に突出している。ただ、僕が不満に感じてきたのは、氏の仕事は他者の著作や研究成果などを接ぎ木するスタイルで、氏自身がオリジナルとしてどのように考えるのかがいまひとつ物足りない。「知の巨人」と称えられているが未踏の分野を切り開くような思想家ではなかったということなのだろう。
立花の訃報を聞いてもう一人の巨人のことを思い出した。それは「戦後思想界の巨人」吉本隆明氏だ。丁度、書棚の一番近いところにあったのが『フランシスコへ』という飼い猫の死に対する想いを語った吉本最晩年の著作だ。吉本が亡くなったのは2012年3月16日、本書はその3カ月ほど前の2011年12月頃に語った内容をまとめたものだ。自身の体力、気力が衰えてきたところに愛猫の死、大きなショックを受けている様子がよく表れている。
本書は吉本がこれまで考え抜いてきたことを、そのテーマも行ったり引き返したりしながら、最後の最後に脳髄の表面に残ったエッセンスだけを言葉にしたものだ。そこでは、難しい論理をこねくり回すのではなく平易な語りが残されている。さらに、様々なテーマと格闘してきた吉本だが、結局最大の関心事は親鸞についてであったということがわかる。親鸞の生き方、考え方に自分を重ね合わせて、どのように関心を持ち、どのような影響を人生や思想に受けたのかを振り返っている。親鸞と吉本に共通するのは、それぞれ既存の宗教や思想に対する破壊者であったことだと思う。納得できないことに疑問を持ち、それを徹底的に掘り下げ、独自の考え方を作り上げる。許すことができなければ師匠の教えも否定する。思想の前では親友とも袂を分かつ。吉本は、論争の人でありながら迷える人であり、情熱の人でありながら謙虚でシャイな人であったと思う。
僕は自分がこれからもっと老化が進み、死ぬことがそう遠いことではないと感じられ始めた時に、何についてどう考えるのだろうか。最後の関心事は一体どういうことになるのだろうか。