晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

伊藤邦武他責任編集 『世界哲学史6-近代Ⅰ啓蒙と人間感情論』①「国家を考える」ノオト その2 

2020-10-29 15:17:52 | Weblog

近頃の首相動静を見ると、スカ総理は秘書官など取り巻き以外との会食がほとんどないことがわかる。これは財界人など旧来の自民党応援団さえスカ氏に期待を持っていないことの現れなのだろう。スカ氏の役割は次期政権までのつなぎを担う悪役といったところか。もっともあのしゃべりと悪相では会話が盛り上がるはずない。自助してください。

 

『世界哲学史6-近代Ⅰ啓蒙と人間感情論』(伊藤邦武他責任編集 ちくま新書2020年刊) 「国家を考える」ノオト その2  

本書の「『もし統治機関がない世界で人間が生活を送ったら』という思考実験」(P76)は、重要な問いかけだと考える。第3章「社会契約というロジック」(西村正秀)では、ホッブズ、ロック、ルソーなどの社会契約論を解説している。統治機関がない世界では、「自分の欲求を満たすという人間の利己的性格が容赦なく発揮されて、様々な争いが生じると予測できる。だが、この世界には警察も裁判所もないので、争いは上手く解決できない。(自然状態)そこで、人びとは多少窮屈な思いをしても、自分たちを法的拘束のもとで保護してくれる統治機関(国家)を合意によって設立するというのが社会契約論の基本構造である。」と説明される。

ホッブズは、「自然状態では物を手に入れるための競争、互いの不信感、自分の優位性を他人に示そうとする行為が生じて『万人の万人に対する戦争』という状態が生じるというわけである。」(P79)という。これを回避するために国家(統治機関)が必要になり、これが国家の起源の理論的根拠として示される。

僕はこんな疑問を持つ。このホッブズ的な自然状態は本当にそうなのだろうか。自然状態すなわち統治機関(国家)が存在する前の世界はどのようであったのだろうか。「自然状態でも何らかの決まりがあるのか、自然状態で生活する人間はどのような本性を持つのか、自然状態は現実的に存在するのか」(P77)今僕が人類学に興味を持ちはじめている理由である。

ポイントは国家の起源にある。およそ通説は、このようであろう。1万年前、人類は農業を開始し必要な栄養を効率的に得ることが可能になったため、移動性の狩猟採集生活を脱して、定住を始めた。そこに文明・文化が興り国家が出現した。果たしてこのストーリーは真実なのだろうか。引き続き、問題提起の書である『反穀物の人類史』(ジェームズ・C・スコット著)から学んでいきたい。

ホッブズ的な自然状態に対する懐疑から見えてくるものがあるのではないか。

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ジェームズ・C・スコット 『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』①  「国家を考える」ノオト その1 

2020-10-20 13:20:14 | Weblog

世論調査の方法に疑問!共同通信は「全国の有権者をコンピューターで無作為に選ぶRDD法を実施。固定電話では、実際に有権者がいる世帯にかかったのは731件、うち505人から回答、携帯電話は1,239件、うち506人から回答を得た。」という。統計的にはこれで有意なのだろうが随分と少ない!電話に出なかった世帯の件数もわからない。この時代、見知らぬ番号からの電話に出る人はあまりいないのではと思う。

 

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』①(ジェームズ・C・スコット著 みすず書房 2019刊) 「国家を考える」ノオト その1

7月にNHK-Eテレ「100分de名著」で、先崎彰容氏が吉本隆明著『共同幻想論』をコンパクトに解説していた。限られた時間の中で国家の成立というとてつもなく大きなテーマを100分で。(先崎氏の考え方には様々な評価があるだろうと思う。)その刺激もあり国家の誕生に関する著作を少し読んでみようと思った。

国家を考える時、一例を挙げればコロナ禍において、国家(政府)は十分な働きをしたのだろうかと疑ってしまう。国家が果たした役割はいったい何だったのだろうか。地域の実情が様々に異なる中で、国家が全国一律に対応方針をしめすこと自体に無理があったと考える。実際に行われていたことは地方自治体や現場の保健所、医療機関への丸投げばかりだったのではないか。突き詰めていくと、国(政府)にしかできないことは財源対策だけである。それも自らの努力ではなくただ赤字国債を発行して財源を生み出し、あとは自治体などにお金を配分している、それだけのことだ。それで僕は国家の必要性についてのまします疑問を深めている。

僕は、今の国民国家は黄昏を迎えており、そろそろ賞味期限がきているのではないか、そこで国家が無くなればどのような社会になるのだろうかなどと夢想してきた。先史時代には国家が無かった時代があったが、それはどのような社会だったのか、それから国家がどのようにして誕生したのだろうか。そんな問いに答えてくれそうなのが本書であり、高校の世界史やこれまで学んできた通説とは随分違うことに驚かされる。

否定される通説と著者の主張を対比する。(P-ⅸ、ⅹから引用、*は僕の補足)

・「動植物の家畜化・作物化(*ドメスティケ―ション)が定住と固定した畑での農業に直接つながった」⇒「定住は動植物の家畜化・作物化よりずっと早かった。定住も家畜化・作物化も、農耕村落らしきものが登場する少なくとも4,000年前には存在していた」

・「定住と最初の町の登場は、ふつうは灌漑と国家が影響したもの」⇒「(*その登場は)たいてい湿地の豊饒の産物(*の採集)だ」

・「定住と耕作がそのまま国家形成につながった」⇒「国家が姿を現したのは、固定された畑での農耕が登場してからずいぶんあとのこと」

・「農業は人間の健康、栄養、余暇における大きな前進」⇒「初めはそのほぼ正反対が現実だった(*前進なんかではなかった)」

・「国家と初期文明はたいてい魅力的な磁石として見られ、その贅沢、文化、機会によって人びとを引きつけた」⇒「初期の国家はさまざまな形態での束縛によって人口を捕獲し、縛りつけておかなければならず(*外部へ出ることができない)、しかも群衆による伝染病に悩まされていた」、「初期の国家は脆弱ですぐに崩壊したが、それに続く『暗黒時代』(*国家が崩壊した後)には、実は人間の福祉が向上した跡が見られることが多い」、「国家の外での生活(『野蛮人』としての暮らし)(*外界に留まった人びとを野蛮人と呼んでいる)が、少なくとも文明内部の非エリートと比べれば、物質的に安楽で、自由で、健康的だった」

歴史の流れを「農業→定住→国家」と単線系で捉えるのは誤りなのだろう。次回以降、重要と思われる記述をノオトし、僕なりに国家を考えてみたい。

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青山透子 『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』

2020-10-01 14:56:00 | Weblog

「来年9月の総裁選でアへ再々登板」と書いておこう。黒川を検事総長に据えることができなかったことで、桜とマルチ商法、アンリ1.5億円・・の捜査がアへに及ぶぞ!という大ピンチを、病気を理由にして逃亡退陣。スガは居抜き内閣でアへ政治を継承し、1年間の時間稼ぎの中でアへ待望論を醸成。アへはすでに元気みたいだが「超画期的新薬」の効果があり復活、そして総選挙、悲願の憲法改悪へ、これ以上の悪夢は、「日航123便墜落」しかないだろう。

 

『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』(青山透子著 河出書房新社 2021年刊)

青山氏の著作は、このブログで2017.8.22に『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社 2017年刊)を書いた。氏はその後の3年ほどの間に『日航123便 墜落遺物は真相を語る』、『日航123便 墜落の波紋―そして法廷へ』と矢継ぎ早に著作を出しているが、僕は未読。

3年前の著作には、ひとりの書き手として純粋に真実を求めたいという氏の情熱が感じられ共感を持って読んだ。僕もずっと以前から、『疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない』(角田四郎著 早稲田出版 1993年刊)を読み政府の正式見解である圧力隔壁説に疑問を持っていた。

しかし、本書における青山氏の論理展開は少し雑になっていると感じた。政府の文書に「事故」ではなく「事件」と記されていたこと、事故調査報告書の別冊に「異常外力着力点」と書かれていたことを新しい発見として自説にかなり強引に繋げていくくだりは、氏の中においては既に結論ありきであるとともに少々論理に飛躍が見られると感じた。また、現在の政権を批判するくだりなどは本書で特にページを割く必要がない埋め草的な文章にしか読めなかった。

では、どうして氏のスタンスが変わったように感じてしまうのか。逆説的なことだが、最初は孤立無援に見えた氏の勇気ある発言が、この間で多くの人々の共感を得たからだと思う。氏の言説が真実を求める運動のようになってきていることと、氏を批判する挑発的な著作も出ていることからそれに対するある種の政治性を帯びた活動がメインになってきたことが原因だと考える。僕は氏がもう一度原点に立ち戻って、冷静な気持ちを失わず様々な協力者を得ながら一歩一歩真実に近づいていってほしいと願う。

僕は、本書に書かれている現段階の内容からは、墜落の真実を明らかにする方法は、相模湾に沈んでいる123便の尾翼の残骸を引き揚げて検証するということの一点につきると思う。では、引き揚げの課題は何なのか。海中からの引き揚げは技術的に可能なのか、残骸の所有者は誰なのか、他者による引き上げは法的に可能なのか、費用負担が課題なのか。

僕は、真実を知りたいという気持ちを持って青山透子氏を応援し続けたい。

 

 

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