晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

夏目漱石 『夢十夜』(漱石全集第12巻)

2020-02-29 13:17:12 | Weblog

『アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~』2020年 2月24日放映のテレビ東京開局55周年特別企画スペシャルドラマを観た。吉田茂の仕事には功罪あるのだが、彼の最大の功績は政界に若手官僚の中から佐藤榮作、池田勇人、大平正芳、宮澤喜一、福田赳男など優秀な人材を招いたことだ。今はその人材も尽きてしまい大衆の生活実感を持たないような世襲議員ばかりになってしまった。その中にあって、玉木雄一郎(国民民主党だが)は人材であり僕のイチオシである。総理になれる器だと思うが如何だろうか?

 

『夢十夜』「漱石全集第12巻」(夏目漱石(金之助)著 岩波書店 1994年刊)

明治41(1908)年7月25(26)日から8月5日まで『東京(大阪)朝日新聞』に連載された短編小説である。『三四郎』の連載が9月1日から始まっているのでその直前に発表された作品である。

「こんな夢を見た」で始まる十の物語は、夢の世界を描いているので各所で辻褄の合わない幻想的な世界を文字化したストーリーである。それは、まるで自分が見た夢のように。

自分で覚えている夢がある。同じようなパターンで何回も見る夢もある。自分の車を駐車した場所がわからなくなってしまい会社の周りを探し回る夢。スタート時間がせまっているのにマラソンのスタート地点にたどり着くことができないでさまよい歩く夢。おしっこがしたくなってトイレの場所を探しているが体育館にも廊下にもなく学校内をウロウロする夢。気持ちが焦ってしまう夢は覚えているものだ。

カラスを枕にして寝ていることに突然気付いて悲鳴をあげた夢。大きなネズミに噛みつかれて身体を振り回された夢。これらの夢は体調が悪くてうなされていた時だったと思う。真っ直ぐの道を、上り坂も苦しみもなくランニングや自転車で疾走する夢は絶好調の時だ。

僕の夢はほとんど日常生活の延長線上にあり現実の世界にとどまっているが、漱石の夢は読んでくれる人を意識した完全な創作だ。だから全く別世界を描いていて荒唐無稽で面白い。読者を不安に陥れようとする不気味さを漂わせながら神秘的で非合理の世界を作り上げている。読む者は、自分の中で登場人物を映像化してしまうだろうから、ずっとその人物が付きまとってくることになる。朝からこんな不気味な小説を読んで一日を過ごすというのはどんな気分なのだろうか。

 

「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」という言葉を噛みしめながら。

 

 

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夏目漱石 『それから』(漱石全集第6巻)

2020-02-16 09:58:41 | Weblog

政府は海上自衛隊の護衛艦を政治的複雑さが増している中東海域に派遣した。そこで万が一にも、自衛官が命を落とすようなことが起きた場合は、国家による補償は破格な額にすべきであろう。人間の命は国家財政を覆すほどの価値を持っていると考えるからだ。政府はそれだけの覚悟を持って命令を下したのだろうか。毎晩のように飲み会三昧のアへ首相はその重みを感じているのだろうか。

 

『それから』「漱石全集第6巻」(夏目漱石(金之助)著 岩波書店 1994年刊)

大学生だった『三四郎』の成長した姿が『それから』の主人公長井代助に描かれているという。

『それから』は本末転倒男の物語と感じた。主人公は、大学を卒業したのはいいが、まもなく30歳になろうとしているのに定職にも付かず父からの経済的な支援を受けてブラブラしている。おまけに、一生懸命に働いている者に対しては、穢れているなどと軽蔑感を露わにする。僕がこれまで読んだ漱石の作品には、このような何をするのでもない高等遊民タイプの人間が必ず登場する。漱石のこの非生産的と思われるような人間へのこだわりは一体何なのだろうか。先ずは経済的に自立することが一人前の大人であり、それなくして他人を評価することは許されないというのが常識であろう。漱石はそこを覆してくる。

そんな男に結婚を勧める親もまたどうかしている。生活の基盤を作ってから結婚というのが順番であろうに。親も親だ、後先が逆転している。しかし、主人公には意中の人がいるため。親の勧めの方は断る。想いを寄せる人は、親友の妻である。かつてその人を好きだったのに友人に譲ってしまったという過去がある。その人を忘れられないとは、何を今更である。時間が逆転している。

それなのに、自分の足元さえも固まらないのに、その人に告白をしてしまうが、結局その重みに耐えることができなく逃げ出す。どうするつもりだったのか。全てが、本末転倒している男の物語である。

優柔不断で頼りない、世間知らずのお坊ちゃんである主人公の心の葛藤が描かれるのだが、これをこいつはどうもならん男だとバサッと一刀両断に切り捨てることは可能だ。しかし当時の新聞読者は、この男は一体全体どうなってしまうのだろうかと毎日ハラハラさせられ、現在の連続ドラマを観るようなわくわく感を持ったのではないかと想像する。漱石の読者を飽きさせないストーリー展開は流石に巧い。

ただ、僕には漱石の読み取り方が未だによくわからない。登場人物に、「文明は我等をして孤立せしむるものだ。」「西欧の生活欲が日本古来の道義欲を圧迫した」などと言わせているが、こういうところから漱石の時代評価、近代をどう捉えているかを読み取ることができるというのか、僕には未だピンと来ない。

 

「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」という言葉を噛みしめながら。

 

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夏目漱石 『三四郎』(漱石全集第5巻)

2020-02-03 14:57:38 | Weblog

東京2020に向かって盛り上がっているかな。コロナウィルスは終息が見えない、まさか夏までは続かないだろう。上皇・上皇后の健康も心配だ。厚底シューズにクレームがつきそうになったがこれはクリアー。次から次と暗雲が立ち込める。噓から始まった五輪だからしょうがないか。

 

『三四郎』「漱石全集第5巻」(夏目漱石(金之助)著 岩波書店 1994年刊)

昨年中途で挫折していた漱石に今年も挑戦することにした。最初は、『三四郎』の再読。初期作品を読んだ中では一番印象に残っていたのでもう一度読もうと思った。『三四郎』については、2019.4.22にこのブログに書いている。

同時代の小説を読んでいないので、思いつきレベルだが、100年以上も前に書かれた小説がそれなりに今をも表現できていて、そこのところを漱石が切り開いたのではないかと感じる。長く読まれている理由がそのあたりにある(らしい)。漱石がこの国の近代を初めて小説に描いたといわれているような実感を未だ得ることはできない。僕にとっての次の壁としては、鴎外もいるし、まだまだだ。

少しわかったことは、今に通用する形式の一つとして、上京物語という設定である。青年が田舎から都会へ出てきて様々な経験や他者との関係において成長するという話は、その後この国でパターン化されており、いつの時代でも共感を持たれてきたと思う。ただ、近年少し変化があるようで、都会生まれ、都会育ちの主人公に変わってきているのではないか。

もう一つは、成長物語、人間関係物語といっても良いだろう。学問のため上京した主人公の三四郎は、様々な人たちと出会い互いに認め合う関係を築いてゆく。最初はその人を知るために、どのように接し、何を話せばよいのか、きっかけを作るために話題を探し、またどの様な顔をしていたらいいのか、大いに考え込むタイプであり、そこに自分を重ねることができる。人の中でもまれて大人になっていく様に共感できるのである。

三四郎への距離が再読により少し近づいたと感じる。がんばれ三四郎、越えてゆけそこを、超えてゆけそれを、そして大人への階段を昇って行け、すっかり爺さん応援団になっている自分がいる。今、『それから』を読みはじめた。『三四郎』の少し成長した姿が描かれているという。漱石を少し面白く読めるようになってきたのだろうか。

 

「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」という言葉を噛みしめながら。

 

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