晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

見田宗介 『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』

2018-08-26 13:05:36 | Weblog

友人から薦められて、NHKテレビ『チコちゃんに叱られる』を観た。キメ台詞の「ボーっと生きてんじゃねーよ❢」はシルバー世代への叱咤激励なのか、なかなかインパクトがある。ただ、番組内容は、教えてやる的なNHK臭さがプンプンする啓蒙番組で鼻につくが。

 

『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(見田宗介著 岩波新書 2018年刊)             

本書から読者は、現代社会と人間精神の方向性、未来への見晴らしを切り開くことができるだろうか。確かに今僕らは高原に立っているのだろうが、すっぽりと霧がかかっていて見晴らしが開けず、僕には何か憂かない感じが残った。

さて、「序章 現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと」における現状認識と論理展開についてだが、僕が放送大学で受講した魚住孝志教授による『哲学・思想を今考えるー歴史の中で』(放送大学教育振興会 2018.3.20発行)とそっくりなのが引っかかっている。それは、BC600年から0年に、ギリシャで自然哲学、中国で諸子百家、インドで仏教、キリスト教の原型である古代ユダヤ教がほぼ同時に生まれたというヤスパースの「枢軸時代」理論に始まり、その後の人類は右肩上がりの進歩を遂げたが、20世紀後半に至り情報化、消費化社会が極まり、環境、資源、廃棄の面で地球の有限性という壁に当たっている、というものだ。この情況の中で、魚住氏はアメリカ先住民の思想に、本書の見田氏はアマゾンのピダパンという民族の生き方に、どちらも自然との共生から学ぶべきという。どうしてこれほどまでに相似しているのか不思議である。

内容は、一章で、日本の青年たちの価値が、シンプル化、素朴化、ナチュラル化の方向に動いている。二章で、フランスでは「非常に幸福」と感じている青年たちが急速に増大している。これを踏まえて著者は、「高原期(成長ではなく定常という意味)に人間を形成した最初の世代たちが、理論による認識よりも先だってすでに、その生きられる感覚において、環境容量のこれ以上の拡大を必要とはしない方向で、無数の〈単純な至福〉たちの一斉に開花する高原として実現するという方向で生き始めているように思われる。」(P122引用)といい、この新しい「胚芽」に期待する。

最後に「補章 世界を変える2つの方法」で「コミューン(萌芽のことだろう)は小さいものでなければならない。権力をもたないものでなければならない。自由な個人が、自由に交歓するする集団として、あるいは関係のネットワークとして、ほかのさまざまな価値観と感覚をもつコミューンたちと、互い相犯さないものでなければならない。共存のルールをとおして、百花繚乱する高原のように全世界にひろがりわたってゆく、自由な連合体associationでなければならない。」(P154引用)と目標を提示する。

僕は、この目標社会の像に対して概ね異議なし!である。しかし、問題なのはここからではないかと思う。国益を巡る国家と国家が争い、会社や組織の存続、生活のために必死で働かなくてはならない、世界大から個人レベルまでにおける格差など、この今の現実にかかっている「霧」をどうやって晴らしたらよいのだろうか。理想を具現化するプロセスが見えない。

これまでこのブログを書きながら、僕も僕なりに「国民国家の黄昏」という現状認識のもと、「国家は開かれた方がいい、国家は無くなる方に向かうべき」だ。「人が人に対して権力的に振舞うことが極力少ない社会」・・などを考えてきた。しかし、現実に対していま一歩足りていないと考えている。

 

 

コメント (2)
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北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その6 兼 北海道日本ハムファイターズボールパーク構想

2018-08-13 09:13:59 | Weblog

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その6 兼 北海道日本ハムファイターズボールパーク構想       

いくつかコメントをいただいたので、返信も含めて再掲する。

○Unknown (希望の歌)2018-04-23 そうか、やっぱりJRか! 北海道にも北広にも札幌にも、この際力を入れてもらうのはJRか! 地下鉄、北広延長は稚拙な発想だったか!

●がんばれ、JR北海道 (晴走雨読)2018-04-28 希望の歌さま、コメントをいただきましてありがとうございます。

地下鉄東豊線福住駅から北広島駅、東西線新さっぽろ駅から北広島駅、どちらも10km以上離れていて、建設費が莫大にかかり、札幌市営の地下鉄が行政界を超えて営業するのは結構難しいと思います。

地下鉄に関して言えば、これもお金がかかりますが、ゴムタイヤをやめてレール軌道に変更し、JRと相互乗り入れをするといいと思います。50年前になぜ現在のような互換性の無い方式にしたのか疑問です。(この件については、判明したので別稿で触れる。)

新幹線が札幌駅まで来ることがわかっていたのに、駅舎、JRタワーの建設時になぜホームの空間を確保しなかったのも疑問ですが。

何事も後ろ向きなJR北海道を立て直すのは、麻生財務大臣が言っていたように、JR東日本との合併が良いと思います。麻生さんも良いことを言う時があります。

○Unknown (郷土愛の強い道民)2018-08-03 >最悪だが道外移転という可能性は0ではない。

となれば北海道を12球団の共通準フランチャイズ、札幌ドームの運営会社はNPBのパートナー企業となり、年間60試合程度北海道での「地方開催」を行い、日本シリーズの第1戦を北海道開催にでもしないと道民プロ野球ファンの気は治らないのですが。使用料は値上げする形で全球団それぞれ負担、という形で。

●コメントから考える (晴走雨読)2018-08-12郷土愛の強い道民さま、コメントをいただきましてありがとうございます。

考えるところがありましたので、別稿といたします。

 

さて企業にとって、プロ野球球団を持つということは財界におけるひとつのステイタスであると同様にプロ野球球団が所在する11の都道府県も自治体としての大きなステイタスと考える。

繰り返すが、札幌市が日ハムを市外に流出させたのは、秋元市長の大失政と考えるが、今は人口6万人の小さな自治体にまかせてしまうのではなく、北海道全体でBP実現に向けて頑張る時だと考える。

何せ、BPの直接投資で500億円、付帯するインフラなどを含めると800億円に近いような大事業。また、その後継続する球団運営による経済効果も莫大なものがある。これをみすみす道外に取られるようなことはあってはいけないことだ。

僕は、江別の自然保護団体の行動が大局的なことを考えた上でのことか疑問だ。まして、札幌か北広島かと候補地が決まる前の段階における真駒内の市民団体のような率直な気持ちの表明は当然あって良いと考える。しかし、江別の自然保護団体は候補地が決まってからの表明で、後だしジャンケンのようなものでフェアな行動とは思えない。なぜ今ごろ?

しかも今は候補地が決まったという段階で、正式決定ではない。道外流出と言う最悪の事態も想定しておかなくてはならない。プロ野球球団の空白地域は、北陸、四国、山陰などだが、人口や交通の利便から新潟、静岡、長野などは球団を誘致したいのではないかと推測する。

繰り返すが、日ハムのBPを実現させないと北海道はとてつもなく大きなものを失う。

最後に、BPの話題だけになってしまったが、僕の主たる関心は、北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアムの実現だ。

この話題については、2016.6.19その1、2017.6.3その2、2017.10.23その3、2018.2.13その4、2018.4.19その5で書いた。

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放送大学

2018-08-07 17:26:45 | Weblog

 放送大学     

6月28日以降、このブログの更新をサボっていました。(以下、その言い訳です。)

無業者生活になった昨年(2017)4月からお試し気分で単年度だけの専科履修生として放送大学に入りました。放送大学はどうせNHKのように公正中立で無味乾燥ではないのかという先入観を持っていました。しかし、その内容はオーソドックスに身に着けるべき知識のほか、講師の考え方もしっかり述べられていて、僕の持っている今の学力水準に比べレベルは高いものでした。理解するのに結構難儀することがあります。

昨年度は、「日本政治思想史」(講師 原武史)、「日本政治外交史」(御厨貴、牧原出)、「日本近世史」(杉森哲也)を受講しました。(6単位取得)

理系出身の僕は、我流で人文科学や社会科学系の本も読んできましたが、どうしても好きなモノしか食べない偏食傾向の自覚がありました。そこで、しっかりと歴史、哲学、思想の基礎を学びたいと思っていました。

放送大学は、基本的には通信制で印刷教材(教科書)と放送教材(テレビ、ネット)視聴で勉強するのですが、登校して直接講師の話を聞く機会もあります。

昨年は、「宗教社会学」(講師 岡本亮輔)を聴講しました。(1単位取得)また、基礎ゼミでは社会科学専門書の読み方を直接指導してもらいました。題材は「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン著)ですが、自分では読むことのない本だと思います。

1年間のお試しを終えて、今年度からは全科履修生に入学しました。40年以上前に取得していた単位が一部認められ3年次への編入です。何年かかるかわかりませんが、124単位を取得すると教養学部の卒業ということになりますが、卒業を目標にはしていません。

2018年度の1学期は、「哲学・思想を今考える」(講師 魚住孝至)、「日本の古代中世」(佐藤信 近藤成一)、「歴史からみる中国」(吉澤誠一郎)の3教科を受講し8月4日(土)に単位認定試験が終ったところです。結果はともかく学生時代より勉強していると感じています。試験対策のため、暑い日は冷房を求めてあちこちで長居をしました。図書館では、受験生に混じってジジ―がいるという客観的に見ると違和感を持つ構図でしょうが、自分では自分の姿が見えないのですっかり学生気分でいます。

今は疲れが出てヘロヘロ状態ですが、そろそろ2学期の科目を選択しなければなりません。僕は放送大学の学生サークルに入れてもらい、学生としての先輩、いや皆さん人生の先輩でもありまして、様々なアドバイスをもらっています。仲間の皆さんは、それぞれ異なった人生経験を経て、そして学ぶ強い気持ちを持っておられるので、大いに刺激をもらっています。ひとりで通信教育を続けるのは結構しんどいと思いますが、仲間が見つかったことは励みになっています。

 もし、誰かから放送大学ってのはどうなの?と聞かれたら、以上のような説明をして、あとは自分で決めて下さいと答えようと思います。そして、放送大学受講の効果が、このブログの文章に出てくるといいのですが・・

 

 

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