友人から薦められて、NHKテレビ『チコちゃんに叱られる』を観た。キメ台詞の「ボーっと生きてんじゃねーよ❢」はシルバー世代への叱咤激励なのか、なかなかインパクトがある。ただ、番組内容は、教えてやる的なNHK臭さがプンプンする啓蒙番組で鼻につくが。
『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(見田宗介著 岩波新書 2018年刊)
本書から読者は、現代社会と人間精神の方向性、未来への見晴らしを切り開くことができるだろうか。確かに今僕らは高原に立っているのだろうが、すっぽりと霧がかかっていて見晴らしが開けず、僕には何か憂かない感じが残った。
さて、「序章 現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと」における現状認識と論理展開についてだが、僕が放送大学で受講した魚住孝志教授による『哲学・思想を今考えるー歴史の中で』(放送大学教育振興会 2018.3.20発行)とそっくりなのが引っかかっている。それは、BC600年から0年に、ギリシャで自然哲学、中国で諸子百家、インドで仏教、キリスト教の原型である古代ユダヤ教がほぼ同時に生まれたというヤスパースの「枢軸時代」理論に始まり、その後の人類は右肩上がりの進歩を遂げたが、20世紀後半に至り情報化、消費化社会が極まり、環境、資源、廃棄の面で地球の有限性という壁に当たっている、というものだ。この情況の中で、魚住氏はアメリカ先住民の思想に、本書の見田氏はアマゾンのピダパンという民族の生き方に、どちらも自然との共生から学ぶべきという。どうしてこれほどまでに相似しているのか不思議である。
内容は、一章で、日本の青年たちの価値が、シンプル化、素朴化、ナチュラル化の方向に動いている。二章で、フランスでは「非常に幸福」と感じている青年たちが急速に増大している。これを踏まえて著者は、「高原期(成長ではなく定常という意味)に人間を形成した最初の世代たちが、理論による認識よりも先だってすでに、その生きられる感覚において、環境容量のこれ以上の拡大を必要とはしない方向で、無数の〈単純な至福〉たちの一斉に開花する高原として実現するという方向で生き始めているように思われる。」(P122引用)といい、この新しい「胚芽」に期待する。
最後に「補章 世界を変える2つの方法」で「コミューン(萌芽のことだろう)は小さいものでなければならない。権力をもたないものでなければならない。自由な個人が、自由に交歓するする集団として、あるいは関係のネットワークとして、ほかのさまざまな価値観と感覚をもつコミューンたちと、互い相犯さないものでなければならない。共存のルールをとおして、百花繚乱する高原のように全世界にひろがりわたってゆく、自由な連合体associationでなければならない。」(P154引用)と目標を提示する。
僕は、この目標社会の像に対して概ね異議なし!である。しかし、問題なのはここからではないかと思う。国益を巡る国家と国家が争い、会社や組織の存続、生活のために必死で働かなくてはならない、世界大から個人レベルまでにおける格差など、この今の現実にかかっている「霧」をどうやって晴らしたらよいのだろうか。理想を具現化するプロセスが見えない。
これまでこのブログを書きながら、僕も僕なりに「国民国家の黄昏」という現状認識のもと、「国家は開かれた方がいい、国家は無くなる方に向かうべき」だ。「人が人に対して権力的に振舞うことが極力少ない社会」・・などを考えてきた。しかし、現実に対していま一歩足りていないと考えている。