整列の中に「差別」が見えます!
『反障害原論』 その3
第四章 「障害者が障害をもっている」とは
著者は、いわゆる学者などアカデミズムの世界に住んでいる方ではなく、本人は自らを吃音者=障害者と宣言している。従って、学術論文のような明快な論理構成がとられていない章もあり、著者自身の理論的な模索情況をそのまま言葉にしている部分がある。
一節 「身体が意志を妨げるーそのことのつらさ」ということへの対話
二節 「『中途障害者』の苦しみ、病気や公害における『障害』の否定性」への批判
三節 「『配慮を必要とする』というところに、『障害者が障害をもっている』といえることがある」ということへの批判
四節 「標準的人間像を描くということは自然の理であるということ」への批判
著者が謬論として退けている言説としては以下のとおりである。
障害者を妨げるのは社会が作った障壁だけでなく(前掲のイギリス障害学定義)、自らの身体も意志を妨げる。これを、著者は、その意志を「外」からの刷り込み(後天的に獲得したもの)という。
介助を必要とする障害者は障害をなくしたいと思うものだ。ひとは自分のことは自分でやりたいものだ。(身辺自立は、ひとの自然的感情)
病気の苦しさ、死への恐怖ということが「『障害』の否定性」の根っこにある。
人の痛みは他者にはわからない(各私的)から、そのことと類比しえて、障害も「障害者」といわれる人が持っているといえる。
著者は、相互扶助的な範疇から外れた「介助」という言葉は、資本主義社会の成立の中で、生産性の論理が貫徹する中で、『標準的人間像』が描かれることと平行して生まれた、という。
障害ということが違いとして認識される。障害の異化に障害者が障害を持っているということの根拠があるといわれている。
障害者は、生産性が低いということで異化していく。(異化の使われ方=差別の意味か)
著者は、今日「障害」概念の拡大(ADHD注意欠陥多動性障害、LD学習障害、性同一性障害など)は、自然的なことではなくて「社会的」なことである、という。
補節 杉野昭博「『障害』概念の脱構築―『障害』学会への期待」との対話(『障害学研究1』明石書店)
杉野氏は、障害―排除型の差別しか問題にしておらず、抑圧型の差別(例としては、ろう学校における手話の禁止、口語主義の押し付け)を取り上げていない。
著者は、リハビリテーション論理を批判し、「障害」に対するリハビリは、「本来のあるべき姿」を想定し、それが「標準的人間像」=「健常者」に近づくという意味合いでなされる。「本来あるべき姿」を想定すること自体が差別である。
また、ある確率でいろいろ差異をもって生まれることがある、その「差異」が、なぜ「異化」(=差別?)として浮かびあがるのかが問題である、という。
第五章 障害問題のパラダイム転換
一節 パラダイム転換とは何か?
著者は、パラダイム転換とは何かを、トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術新書)から説明している。
二節 ‘障害’概念のパラダイム転換
補節 物象化とパラダイム転換
物神化と物象化の違い、物神化は、価値判断が普遍性を有し、価値判断が共同主観的に固定化され、広がりを持っている「絶対化」されている事態。マルクス的な用語としては「人と人との関係が物と物との関係としてみる」とか「社会的関係を自然的関係としてみる」とされる。
著者は、廣松渉氏の物象化論に拠って、ゲシュタルト心理学でいう地―図から、「図として浮かび上がる」-異化ということを物象化の端緒―根源としてとらえる。その浮かび上がる事態を自然的なことととらえないで、関係性の中でとらえる。
物(もの)的世界観から事(こと)的世界観への転換、実体主義から関係の一次性への転換。
著者は、この反障害原論を、実体―属性という近代知の地平から、実体主義批判というパラダイム転換の試みにしたいという。
『反障害原論』 その3
第四章 「障害者が障害をもっている」とは
著者は、いわゆる学者などアカデミズムの世界に住んでいる方ではなく、本人は自らを吃音者=障害者と宣言している。従って、学術論文のような明快な論理構成がとられていない章もあり、著者自身の理論的な模索情況をそのまま言葉にしている部分がある。
一節 「身体が意志を妨げるーそのことのつらさ」ということへの対話
二節 「『中途障害者』の苦しみ、病気や公害における『障害』の否定性」への批判
三節 「『配慮を必要とする』というところに、『障害者が障害をもっている』といえることがある」ということへの批判
四節 「標準的人間像を描くということは自然の理であるということ」への批判
著者が謬論として退けている言説としては以下のとおりである。
障害者を妨げるのは社会が作った障壁だけでなく(前掲のイギリス障害学定義)、自らの身体も意志を妨げる。これを、著者は、その意志を「外」からの刷り込み(後天的に獲得したもの)という。
介助を必要とする障害者は障害をなくしたいと思うものだ。ひとは自分のことは自分でやりたいものだ。(身辺自立は、ひとの自然的感情)
病気の苦しさ、死への恐怖ということが「『障害』の否定性」の根っこにある。
人の痛みは他者にはわからない(各私的)から、そのことと類比しえて、障害も「障害者」といわれる人が持っているといえる。
著者は、相互扶助的な範疇から外れた「介助」という言葉は、資本主義社会の成立の中で、生産性の論理が貫徹する中で、『標準的人間像』が描かれることと平行して生まれた、という。
障害ということが違いとして認識される。障害の異化に障害者が障害を持っているということの根拠があるといわれている。
障害者は、生産性が低いということで異化していく。(異化の使われ方=差別の意味か)
著者は、今日「障害」概念の拡大(ADHD注意欠陥多動性障害、LD学習障害、性同一性障害など)は、自然的なことではなくて「社会的」なことである、という。
補節 杉野昭博「『障害』概念の脱構築―『障害』学会への期待」との対話(『障害学研究1』明石書店)
杉野氏は、障害―排除型の差別しか問題にしておらず、抑圧型の差別(例としては、ろう学校における手話の禁止、口語主義の押し付け)を取り上げていない。
著者は、リハビリテーション論理を批判し、「障害」に対するリハビリは、「本来のあるべき姿」を想定し、それが「標準的人間像」=「健常者」に近づくという意味合いでなされる。「本来あるべき姿」を想定すること自体が差別である。
また、ある確率でいろいろ差異をもって生まれることがある、その「差異」が、なぜ「異化」(=差別?)として浮かびあがるのかが問題である、という。
第五章 障害問題のパラダイム転換
一節 パラダイム転換とは何か?
著者は、パラダイム転換とは何かを、トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術新書)から説明している。
二節 ‘障害’概念のパラダイム転換
補節 物象化とパラダイム転換
物神化と物象化の違い、物神化は、価値判断が普遍性を有し、価値判断が共同主観的に固定化され、広がりを持っている「絶対化」されている事態。マルクス的な用語としては「人と人との関係が物と物との関係としてみる」とか「社会的関係を自然的関係としてみる」とされる。
著者は、廣松渉氏の物象化論に拠って、ゲシュタルト心理学でいう地―図から、「図として浮かび上がる」-異化ということを物象化の端緒―根源としてとらえる。その浮かび上がる事態を自然的なことととらえないで、関係性の中でとらえる。
物(もの)的世界観から事(こと)的世界観への転換、実体主義から関係の一次性への転換。
著者は、この反障害原論を、実体―属性という近代知の地平から、実体主義批判というパラダイム転換の試みにしたいという。