晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『反障害原論』 ノオトその3

2010-02-28 15:34:49 | Weblog
 整列の中に「差別」が見えます!


 『反障害原論』 その3

第四章 「障害者が障害をもっている」とは
 著者は、いわゆる学者などアカデミズムの世界に住んでいる方ではなく、本人は自らを吃音者=障害者と宣言している。従って、学術論文のような明快な論理構成がとられていない章もあり、著者自身の理論的な模索情況をそのまま言葉にしている部分がある。

一節 「身体が意志を妨げるーそのことのつらさ」ということへの対話
二節 「『中途障害者』の苦しみ、病気や公害における『障害』の否定性」への批判
三節 「『配慮を必要とする』というところに、『障害者が障害をもっている』といえることがある」ということへの批判
四節 「標準的人間像を描くということは自然の理であるということ」への批判

 著者が謬論として退けている言説としては以下のとおりである。
 障害者を妨げるのは社会が作った障壁だけでなく(前掲のイギリス障害学定義)、自らの身体も意志を妨げる。これを、著者は、その意志を「外」からの刷り込み(後天的に獲得したもの)という。
 介助を必要とする障害者は障害をなくしたいと思うものだ。ひとは自分のことは自分でやりたいものだ。(身辺自立は、ひとの自然的感情)
 病気の苦しさ、死への恐怖ということが「『障害』の否定性」の根っこにある。
 人の痛みは他者にはわからない(各私的)から、そのことと類比しえて、障害も「障害者」といわれる人が持っているといえる。

 著者は、相互扶助的な範疇から外れた「介助」という言葉は、資本主義社会の成立の中で、生産性の論理が貫徹する中で、『標準的人間像』が描かれることと平行して生まれた、という。

 障害ということが違いとして認識される。障害の異化に障害者が障害を持っているということの根拠があるといわれている。
障害者は、生産性が低いということで異化していく。(異化の使われ方=差別の意味か)
 著者は、今日「障害」概念の拡大(ADHD注意欠陥多動性障害、LD学習障害、性同一性障害など)は、自然的なことではなくて「社会的」なことである、という。

補節 杉野昭博「『障害』概念の脱構築―『障害』学会への期待」との対話(『障害学研究1』明石書店)
 杉野氏は、障害―排除型の差別しか問題にしておらず、抑圧型の差別(例としては、ろう学校における手話の禁止、口語主義の押し付け)を取り上げていない。
 著者は、リハビリテーション論理を批判し、「障害」に対するリハビリは、「本来のあるべき姿」を想定し、それが「標準的人間像」=「健常者」に近づくという意味合いでなされる。「本来あるべき姿」を想定すること自体が差別である。
 また、ある確率でいろいろ差異をもって生まれることがある、その「差異」が、なぜ「異化」(=差別?)として浮かびあがるのかが問題である、という。

 
第五章 障害問題のパラダイム転換
一節 パラダイム転換とは何か?
 著者は、パラダイム転換とは何かを、トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術新書)から説明している。

二節 ‘障害’概念のパラダイム転換
補節 物象化とパラダイム転換
 物神化と物象化の違い、物神化は、価値判断が普遍性を有し、価値判断が共同主観的に固定化され、広がりを持っている「絶対化」されている事態。マルクス的な用語としては「人と人との関係が物と物との関係としてみる」とか「社会的関係を自然的関係としてみる」とされる。

 著者は、廣松渉氏の物象化論に拠って、ゲシュタルト心理学でいう地―図から、「図として浮かび上がる」-異化ということを物象化の端緒―根源としてとらえる。その浮かび上がる事態を自然的なことととらえないで、関係性の中でとらえる。
 
 物(もの)的世界観から事(こと)的世界観への転換、実体主義から関係の一次性への転換。

 著者は、この反障害原論を、実体―属性という近代知の地平から、実体主義批判というパラダイム転換の試みにしたいという。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『反障害原論』 ノオトその2

2010-02-25 19:29:02 | Weblog
 Ⅱ 障害とは何か

 第三章 障害とは何か
一節 障害の反転と異化―認識論的なところからの論考
(イ)障害の反転:例として、ろう者―手話、視覚障害者こそが、ひとをみる(とらえる)ことができる、車椅子使用者が福祉のまちづくりへの提言ができる、自閉症を文化の違いとしてとらえ、子どもから何がひとにとって必要なのかを教えられたなど、「障害者」が障害差別の中で、ときおり反転させていることの中に、反転しえる社会の可能性を示しえるのではないか、と著者は提起する。(オルタナティブの可能性)

(ロ)「障害」の異化:障害とは、「標準的人間労働」という物象化された資本主義社会における労働のあり方に規定される。また、「身辺自立」という資本主義の成立の中で起きた近代的個我の論理からきている。(反資本主義社会の視座)

(ハ)「障害」の異化の根拠と歴史:認識論的なとらえ返しとしては、「異化」→「同一性」→「相違」と概念化が起きる。例としては、「健常者」という言葉は「障害者」という言葉より先には生まれない。
 
二節 障害の異化における土台としての「できるーできない」という問題
 なぜ「できないこと」が問題なのか。どのような「できない」が問題になるのか。なぜ、自分の身の周りのことが自分でできるということが必要なのか。

補節一 「障害者」にとっての「労働」

補説二 障害はどこにあるのーある絵本との出会いの中からー
 「こころは、自分と周りにいる人やものとの間にある」→「ふたつのできないことの出会いで障害がおきる」
 間主観性は、「今、ここで」(臨床)、間に、間主観的に起きていること。相互主観性は、そこでの意思の働きかけあいのことで、共同主観性に規定される。
 臨床をやっている人たちは、「今、ここで」ということを関係性から切断してとりあげ、その場を規定している共同主観性を捨象してしまう。
 障害は、間主観性だけではない、共同主観性にある。

 私にとってその書籍の良し悪しの判断基準は、資本主義社会に対するオルタナティブの可能性、反資本主義の視座を持っているかどうかです。ここまで、本書は、それを感じさせるものがあり、もう少し読み進むこととする。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『反障害原論』 ノオトその1

2010-02-21 15:36:09 | Weblog
 『反障害原論―障害問題のパラダイム転換のためにー』(三村洋明著 世界書院 2010年刊) ノオトその1           

(はじめに)
障害の社会モデル:「障害とは、社会が障害者と規定するひとたちに作った障壁である。」(イギリス障害学)
障害概念のパラダイム転換:医学・生物学モデルから「社会モデル」、関係モデルへ

序章
一節 「障害者」をとりまく状況
 「障害者が障害をもっている」「障害者に障害がある」「福祉は、障害をもっているひとたちへ恩恵を与えること」という考え方は誤っていることから、社会モデルへの転換

二節 「運動」の現状
 法制度へ向けた運動は、資本主義社会という差別構造の中では、過渡的なものとしてせめぎあいの法律という意味しかもちえない。

Ⅰ 障害規定
第一章 「障害者」を表す言葉
一節 ‘障害’という言葉をめぐる混乱
 障害、障がい、しょうがい、障碍
 全国障害者解放運動連絡会議は、「障害者とは障害者差別を受けるものである」と規定する。

二節 「○○の不自由な」という論理批判
 「『ひとには手があるものだ』『ある長さであるべきだ』という考え方自体がおかしい。」
「差別の中に『比較する』行為があり、しかも自分の基準を絶対的なものとする価値観がある。」「『標準的人間像』から外れる者に『障害者』というレッテルをはっている。」

三節 「障害をもつ」―「障害のある」という論理批判
 「ろう文化宣言」では、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点ではなく、「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言葉を話す、言語的少数者である」という社会文化的視点への転換がされている。
 障害が負価値的に異化する場合と畏怖として異化するという異化には両義性がある。

第二章 障害規定
一節 法制度に見られる障害規定
aWHOの障害(者)規定では、①損傷:心理的、生理的、もしくは解剖学的ないしは機能の喪失または異常。②能力不全:人間として普通と見なされている方法ないし範囲内で活動する能力が制約され、または欠けること。③不利:損傷または能力不全によってもたらされる特定の個人にとっての不利益で、その個人の年齢、性別、社会的ならびに文化的要素に従って普通とされる役割の充足を限定または妨げられること、と規定される。

b国連の障害者権利宣言では、先天的か否かに拘わらず、身体的能力又は精神的能力の不足のために、通常の個人的生活又は精神的能力の不足のために、通常の個人的生活又は社会的に必要とされることを、一人ではその全部又は一部、満たすことのできない人を意味する、と規定される。(WHO②規定)

c障害者基本法では、「障害者」とは、身体障害、精神薄弱又は精神障害があるため、長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう、と規定される。(1993年)

dアメリカADA法では、(A)主たる生活活動の一ないしそれ以上を実質的に制限する身体あるいは精神障害、(B)上記の障害の過去の記録、あるは、(C)そのような障害をもつとみなされること、と規定される。(1990年)


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申し訳ありませんでした

2010-02-01 20:04:24 | Weblog
 2010.1.30当ブログで、科学的根拠の無い記述を掲載し、多くの方のお気持ちを害してしまいましたことをお詫び申し上げます。

 関係した部分の削除とともに、当ブログは当分休止させていただきます。
 
 私が否定して止まない、「自分だけが正しいと思っている人」に自分自身が陥っていたことを反省しております。
 
 なお、1件1件のコメントはしっかり読ませていただきたいと思っています。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする