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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

アナキズム その1

2011-01-30 15:13:01 | Weblog

 最高気温マイナス3~4℃、毛糸の帽子に手袋、ウインドブレーカーで走り始めると、寒いながらも10分もすると帽子の中、ブレーカーの背中に汗が噴き出す。

 

 冬の競馬場で競走馬から湯気が立っていることがあるが、同じ現象が人間でも起きる。

 

 また、足元が滑るので自然と肩の辺りに力が入ってしまい、翌日に肩こりが出現することもある。

 

 人は何ゆえこうしてまで走るのか、私にはわからない。

 

 

 

 『チョムスキーの「アナキズム論」』(ノーム・チョムスキー著 明石書店 2009年刊)

 

 コンサドーレ札幌の赤黒縦縞のユニフォームは、イタリアのACミランをモデルにしているが、赤黒はアナキズムのシンボルでもあったということで、コンサにはもっともっと縦横無尽なプレーを期待したいものだ。

  

 本書は、チョムスキーの1968年から2004年までのアナキズムに関する論稿をまとめたもの。第1章は、1968年に書かれた「ベトナム戦争とスペイン革命―客観性とリベラルな学問」で、1930年代のスペイン内戦において共産主義者が「革命への服従」から「反革命への服従」に転じる中で革命の主体を担っていたアナキストが裏切られていった過程を描いている。

 

 

 私にとって、アナキズムは、まだ食べかけの最中で、美味なのか不味いのかの判断がつかないところであるが、どういうわけか最近アナキズム論が流行し始めていると感じる。まあ、新型インフルエンザのように爆発的に流行するようなことがあったら、世の中ひっくり返ると思うが。

 

 今、なぜアナキズムなのかを荒っぽく素描すると、それは思想の行き詰まりの中でアナキズムを含む左翼思想(マルクス主義、社会民主主義など)が再評価されているのだ。

 

 明治の日本でもそうであったが、最初はマルクス主義もアナキズムも反権威、反権力という共通項を持ちながら友好的な関係だったが、ロシア革命でソ連国家が生まれ、それがスターリン主義という抑圧体制に転化する中で、アナキズムはマルクス主義と袂を分かつ。

 

 一方の資本主義体制においては、ケインズ主義に基づく労資協調の福祉国家体制によって豊かな社会が実現した。その中でアナキズムの出番は無く埋没していった。ただ、この論文の1968革命の頃、芸術的表現の分野では異彩を放っていた。

 

 それが、1980年代後半の冷戦終焉以降、資本主義体制における新自由主義経済路線に基づく改革の結果、格差社会といわれるような新たな貧困が現出した。それが、蟹工船ブームやアナキズムの再評価となっているのである。

 

 私流に言えば、国民国家の黄昏の中で、東の空に アナキズムの星がかすかに輝き始めた、というところか。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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『読書の方法』

2011-01-24 20:22:55 | Weblog

 真冬日が続く厳しい寒波だったが、昨日は久しぶりに暖かに感じた日曜日。でも気温は最高でもマイナス1℃。

 

 午前中に近くの歩道が、「さあ、走りなさい」と言わんばかりにきっちり除雪された。せば!、ということで午後からジョグ。

 

 徒歩だけではあまり汗をかくことは無いが、しっかり汗を出した後のシャワーでは、肌の表面の油が水を弾き丸い水滴を作り、久々の運動を証明する。

 

 私の趣味のために除雪していただき感謝!

 

    

 

 『読書の方法 なにを、どう読むか』(吉本隆明著 光文社 2001年刊)

 

 近くの図書館から借りて読む。本書は、1960年から1999年までの40年間における著者の読書や書物についてのエッセイやインタビューを集めたものである。

 

 冒頭の、「何に向かって読むのか」(文京区図書館報501972330日)では、 本を読むということは「生活のたしになることもなければ、社会を判断することのたしになるものでもない」し、「有益なわけでも有害なわけでもない」と、いきなり読者に先制パンチを食らわす。題名から創造するようなノウハウ本では無い。

 本書は、第1章「なにに向かって読むのか」(読書原論)、第2章「どう読んできたか」(読書体験論)、第3章「なにを読んだか、なにを読むか」(読書対象論)という3つの視点から著者が語る。

 途中にいくつかの読書リストが挙げられているが、古典が多い印象。学生時代に古典を読みなさいとよく言われたが、本当に幅広い分野の古典を著者は読んでいる。毎年多くの書物が発刊されているが、果たしてその中で何冊が古典として残るのであろうか。やはり、風雪に耐えて生き残った古典には良い所があるのであろう。

 

 では、なぜ読書をするのだろうと改めて自分に問う。役に立つ知識を得ることができるから。他人から教養があるように見えるから。感動や新たな出会いがあるから。好きだから。楽しいから。か?

 今から思うと、私は高校生の頃までほとんど本を読んでいない。受験勉強が生活の中心になっていたため、そのような時間が無かったという言い訳もあるが、本当はしっかりとした動機に欠けていたからであろう。それが、大学に入った途端、時間はたっぷり。そして、考えることを先送りしていた「問題意識」というのが沸々と湧き上がってきたのだ。まわりの友との会話や読書から、猛烈な知識欲が生じた。恋愛と同じように「相手のことがもっともっと知りたい!」と思うようになったのだ。ここが、私の読書の原点。

 

 読書リスト部分をコピーしてから返却しよう。

 

 

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『いじめを考える』

2011-01-22 16:09:00 | Weblog

 サツエキ紀伊国屋札幌店2階イノダコーヒーでクリームシチュー、正月にイノダの福袋を購入、その中の食事券を利用しました。

 

 大丸デパートが見える窓に面した席で本を読みながらコーヒーを飲む人、テーブルを囲んで談笑する人。月に2,3回、買った本を開きながらコーヒーを注文すること、それがささやかな私の贅沢。

 

 

 『いじめを考える』(なだいなだ著 岩波ジュニア新書 1996年刊)

 

 10数年前の著作であるが、当時もいじめ問題が深刻化していたのだ。著者は、いじめは昔からあったという。差別もいじめと捉えられ、被差別、障害者、公害病患者、らい病患者、女性やこども・・様々な差別は社会におけるいじめだという。さらに、運動部と軍隊に存在する有無を言わせぬ上下関係もいじめの温床であるという。

 

 著者の状況認識では、社会においては人権意識の高まりや法制度の整備によりいじめが少しずつ減る方向にあるが、学校にだけはいじめが残ってしまった。その理由は、学校の内と外にある二重規準によるという。触法的な非行に対しては警察権力が介入できるが、いじめは学校の教育的機能にゆだねられている。その機能が限界にあるのではないかという分析をしている。

 

 

 子どもの中に発生する現象は、社会の反映という考え方がある。政治家やタレントに対するバッシングが垂れ流される報道に毎日接している子どもは、みんなでひとりをターゲットにやっつけていいと思ってしまうのも無理はない。

 

 先輩タレントからの嫌がらせにも笑って応えている若手芸人や、爽やかなイメージのスポーツ選手がきっちり上下関係を踏まえている姿を見ている子どもは、それが当たり前に思えてしまうのも同じである。

 

 私は、いじめの報道から、被害者といわれる子どもに、皆と協調できない、上手くやっていけないというような何かある種の共通性を感じる。そこで、いじめは秩序の再構築であるという仮説を立ててみたい。秩序に同調できない者を秩序に強制的に従わせる試みなのではないかと思うのである。(決して、いじめを肯定するものではない。)

 

 一方、学校運営も管理や秩序といった価値観で貫かれているため、秩序の再構築を試みている加害者と同調する、黙認する要素を抱えている。よくある例は、教師のいじめへの加担である。いじめが発覚した時の校長らの会見は、被害者への謝罪よりも、学校経営の失敗に対する挫折感を漂わせていないだろうか。

 

 さて、私の考えるいじめ問題の解決は、反秩序、反管理を認めることである。現状の学校の原理がそれになじまないのであれば、いくら「いじめを考える集会」重ねても、学校の中でいじめを根絶することは不可能と考える。しからば、学校に変わって子どもたち一人一人の個性、特性、思想が尊重される自由な空間を構築しなければならない。

 

                       

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『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』

2011-01-18 19:41:00 | Weblog

 『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子著 講談社 2010年刊)

 年末の新聞各紙の書評欄で多くの評者が本書を絶賛していた。1958年生まれの筆者がこの本の出版とほぼ同時にガンで他界したことも選ばれた理由のひとつだろうが、読んでみて純粋にエンターテイメントとして成立しており楽しい読み物であった。(推薦!)

 その理由は、著者が、堺利彦という初期の社会主義者の中でどちらかというと裏方に徹した人物に注目したこと。堺の活動が、運動の弾圧の時代にあって「売文社」という会社を立ち上げ、自分の生計のみならず、多くの社会主義者たちを食わせた功績に光をあてたことなどである。

 歴史上のある人物に着目、資料に丹念にあたり物語化していく手法は珍しいものではないが、著者の筆の力が無いと凡庸な伝記になってしまうが、著者が命を削って遺した本書は名著といってもいいのではないか。

 

 さて、本書を読んでいて私の頭に浮かんだのは宮本顕治だ。今日の株式会社日本共産党と揶揄される、機関紙(赤旗)を売って専従職を雇うという党を支える財政システムを作ったのが宮本だからだ。しかし、宮本と堺の決定的な違いは人間的な度量の差ではないか。一方は意見を異にする者たちを除名などで徹底的に排除したが、堺は社会主義者、アナーキスト、文学者、浪人・・誰でもその才能を見抜き、仕事を与え、面倒をみたのだ。

 もうひとつは、冬の時代といわれた当時の弾圧のレベルだ。堺の盟友だった幸徳秋水らは大逆事件のフレームアップで死刑に処せられた。権力に命を取られる様な弾圧の時代である。現在の弾圧で一番厳しいのは、「過激派」「テロリスト」というレッテルを貼られ地域や職場からパージされる位であろうか。

 

 

 

 

 

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『異論な視点』 

2011-01-15 15:58:45 | Weblog

気付くとこのブログの記事も700を超えていました。我ながらよく続くものだと感心しています。瞬間的な切れ味は無いのですが、マラソンと同様に持続系が性に合っているのでしょう。

 

外へ出ないので写真が無くなりました。古いところから、倉敷のきびだんご屋さんの店先です。

 

 

 

これこそはと 信じれるものが
 この世にあるだろうか
 信じるものが あったとしても
 信じない素振り

 

   「イメージの詩」by吉田拓郎

 

 昔は、「新聞くらい読まないといけないよ!」などと教師に言われたものだが、今は、新聞を真剣に読めば読むほどバカになってしまうのではないか。それほど画一的で決め付け的な論調をマスコミは垂れ流している。

 

 そうした中で、北海道新聞が「現代かわら版」「それって本当ですか? 異論な視点」を5回シリーズで連載した。外部から社内の事情はわからないが、少なからず現在の報道姿勢を良しとしない記者たち(荻野貴生(2本)、長谷川紳二(2本)、森畑竜二)が読者へ問題提起をしようということになったのではないかと推測し、この動きを大いに評価したいと思う。

 

 その内容だが、

15日は「検診寿命は延びない」と題し、新潟大学医学部の岡田正彦教授が、過剰な医療は健康へのリスクになる。

 16日は「日本は財政危機ではない」と題し、経済アナリスト菊池英博氏が、消費増税を狙う「官僚の虚構」である。

 17日は「日本の食料自給率40%はウソ」と題し、月刊「農業経営者」副編集長淺川芳裕氏が、農業予算増額のため「弱い農家」演出している。

 18日は、「『法令順守』は企業に弊害」と題し、元東京地検特捜部検事郷原伸郎名城大学教授が、萎縮した対応は「思考停止」招く。

 112日は、「地球温暖化CO2主因説に疑問」と題し、東大生産技術研究所渡辺正教授が、薄い科学的根拠によって既成事実化進んでいる。

 

 と、それぞれ主張している。

 

 これらの中に、私が以前から肯定していた考えもあるが、大切なのは読者が自分で考え判断できるよう新聞紙上には様々な言説が取り上げられるべきだということである。先ずは、道新紙上において今回限りに終らず今後のフォローを期待したい。

 

 

 自分たちだけが正しいと思っている特に左翼の病理は、自己の反省も含めてこのブログで批判してきた。それでは、果たして「真実」というものがそもそも存在するのか、さらに「真実」はひとつなのだろうか。

 

 

 ひとつのテーマについて、異論な、色んな視点、複眼的な視点が必要である。しかしながら、全てのことを相対的に捉えてしまうと「何事もどうでもいい」ということになってしまう。

 

また、現時点において判断できないことに対して、「それは、歴史が証明する」と言われたこともあったが、歴史によって証明されたことはかつてあったであろうか。  

 

 

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自由 その6

2011-01-10 16:58:48 | Weblog

理由無き小沢切りが進むにつれ、マスコミの現政権をとりあげるスタンスに変化が生じてきている。菅首相も根拠の無い自信を見せている。

 

否、理由も根拠もあるのだ。そこに米国の意向が働いている。小沢排除で米国が現政権を認知し始めている。このまま小沢は角栄と同じ道を辿るのか。

 

 

『生きるための自由論』(大澤真幸著 河出ブックス 2010年刊)の第2論文「連帯の原理としてのリベラリズム」で、一見矛盾しているリベラリズム(自由)と連帯の両立の可能性を提起している。(以下、単純化した論旨の要約)

 

 著者は、社会構想において二つの矛盾する目的があり、ひとつは、全体主義(ファシズム、スターリニズム)への対抗としての自由、多様性、もうひとつは、社会保障、福祉を実現するための統合と社会的連帯である。そこから、両方の要素を含む、「多様性へと開かれた連帯は可能か」と問題を立てる。

 

 古典的なリベラリズムは、「私は私である」というアイデンティティの単純な肯定の上に立っている。また、「(私が)この身体であること」という身体の自己所有も肯定される。

                     

 しかし、自分の身体を売る行為の自由に対し、嫌悪が生じるという逆立が生じる。自分の身体なのだから自分でどうしようと自由だ、例としては、臓器売買、買売春の自由、極限は、自殺の自由などである。

 

 そこからは、身体は、自己のものであるが完全には自己に所属しきれていない、自己ならざる者、不定の他者に所属している。

 

 「他者がいなければ無際限の自由が可能だ」(古典的リベラリズム)とは逆に、「他者がいなければ自由そのものが不可能だ」ということのなり、ここにおいてリベラリズムが連帯の原理になりうるとする。

 

 

 私は、「自由 その3」で、「自分の内面を意識化で制御できる」、「自分の身体を意識化で制御できる」の二つの自由を最低限確保されるべきとした。

 

 大澤氏は、この本で、脳科学の成果から思考が必ずしも意識化で制御しきれていない例を、また、自己の身体には他者が入り込んでいることを示している。そして、「第三者の審級」や「他者との連帯」と、いずれも自由の波及エリアは自己の外に及ぶとしている。

 

 そこには、相変わらず自由の主張が他者の自由に対して関与し、それが権力化して抑圧に転化する可能性が横たわったままなのである。解決できないやっかいな堂々巡りが続いている。

 

 

 

 

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自由 その5

2011-01-09 15:52:19 | Weblog

  風邪等をひいた以外で、一日に一歩も戸外へ出ないという日はほとんどないと思う。本日は、そんな日、これもまた良し。

 

 

 

 

 自由を語ることには、ある種の堂々巡りが付きまとうが、『生きるための自由論』(大澤真幸著 河出ブックス 2010年刊)の第1論文「<自由>の存在」では、我々はいかなる意味において自由なのか、自由意志は存在するのか、と自由について真正面から問い、脳科学の成果も取り入れながら論理を展開している。(以下、ノオト的に引用する。)

 

 はじめに著者は、「心―脳」問題として、心的出来事(心)と物的出来事(脳)の間には、同一性は成立しない。心的出来事(自由が機能している。)が基底=地をなしていて、その上に物的出来事(法則に基づく因果関係に規定されている。)が重ね描きされているという。

 

 盲視、幻肢、エイリアン・アーム・シンドロームなどの例から、脳の中には、独立した複数の認識システムが存在し、システム相互のコミュニケーション(社会性)が機能している。脳それ自体は、<社会>である。

 

しかし、脳科学では捉えることができない意識の現象がある。人は脳科学が前提としている快感原則に従って行動するが、快感原則を超える例として、辿り着かない欲望(例えばお金は、儲けても儲けてもその目標に限度が無い場合がある。)というものがある。その究極には、苦痛そのものの中に快楽が見出される(自己否定=自己破壊)という逆転現象まで至る。現状の脳科学は、自己の内的社会性までは探求できているが、外的社会性の分析までの方法を持ちえていない。

 

 このように欲望の対象を充足しても足り得ないのは、欲望の原因自体が満たされていないためである。(例としては、おもちゃ(対象)を欲しがる子どもにおもちゃを与えても泣き止まない。本当は、母親の愛情(原因)が不足していたのである。)著者は、その原因を他者の愛や承認=「第三者の審級」にあるとする。

 

 そこから、自由とは、他者との関係、第三者の審級との関係の中にあり、社会的な現象であるとする。その第三者の審級とは、規範の普遍的な妥当性に対する保証人である。

 

しかし、現代社会は、その第三者の審級が失われていることによって特徴付けられている。従って、我々は自由そのものの基盤を失いつつある。

 

何をしても良いといわれる。

何をしたら良いのか。

何をすべきなのか。

何をしたら本当に生きていることになるのか。

 

自由の過剰と自由の空虚化が同時進行しており、それが現代社会における自由の困難となっている。

 

 

 私は、自由を巡るこういう議論を前に立ちすくんでしまう。著者は、心―脳問題から出発するが、脳を分析する脳科学には外的社会性まで探求できないという限界が示される。そこで、唐突に、自由は第三者の審級との関係の中にある社会的な現象であるとされる。しかし、その第三者の審級は無く、自由は困難に直面しているという。

 

 では議論のスタートで、自由が機能しているとされた心的出来事の方はどこへ行ってしまったのか。

 

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国民国家の黄昏 その2

2011-01-08 20:38:19 | Weblog

  雪の無い穏やかなお正月だなあと言っていたら、ガツンと降りました。朝からの雪かきと午前中は営業があり、本日は少し消耗気味です。

 

 午後からは、やっぱり今年も「イノダ」で一服となりました。

 

 

 

 『民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理』(なだいなだ著 岩波新書 1992年刊)

 

 刊行されたのが1992年、ソ連・東欧型社会主義体制の崩壊直後である。スターリン主義の現実が明らかになっていたが、わずかながらも社会主義に希望を抱いていた左翼に虚脱感、無力感が漂い始めた頃だった。私自身も、株と思想は下がった時に売ってはいけないと思っていたのを思い出す。

 

 ちなみに、日本の共産党は、当時「ソ連社会主義の崩壊に諸手を上げて歓迎する」というコメントを行ったことを記憶している。何だかんだといっても日共が子どもなら、ソ連はその親ではないか。親の死を歓迎するというナンセンスに驚いたものだった。

 

 今回あらためて本書を読み返してみて、「国民国家の犠牲」という私の認識がこの本から影響を受けたことを再確認した。

 

 著者は、人間の歴史を素描しながら、連合王国から国民国家への変貌において、民族というフィクションに基づくナショナリズムの果たした役割を強調する。この国で言えば、藩から明治維新への変革である。民族というフィクションを構成するのは、国語、標準語、国旗、国家・・である。

 

 筆者は、国民国家を超える原理として依然として崩壊したばかりの「社会主義」を掲げる。ただし、その本来の理念を手がかりとして。社会主義は、国境を超えて存在する労働者をひとつにまとめようとした、「共産党宣言」で「万国の労働者よ、団結せよ」と叫びながら。

 

 私としては、この展開に概ね異議は無い。しかし、’10年代に入った現在、資本は、グローバル化によって容易に国境を超える存在になっている。しかし、国民国家はその限界を露にしてはいるが、現実には国家という制約で資本を規制している。また、労働者は、本来インターナショナルな存在なのだが、一部の頭脳労働者と低賃金労働者を除いて、企業に束縛され、国家の壁を超えていない。

 

 

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『晴走雨読』の看板を掲げてはいるものの・・・

2011-01-03 16:11:16 | Weblog

 走る仲間が読んでいる月刊「ランナーズ」という雑誌があります。毎年1月号の付録に「ランナーズダイアリー」(今年の表紙の色は黄色です。)が付きます。練習結果や体調を記録しています。10数冊目になりました。走る人たちにとっては、大事な宝物です。

 

 

 走り初めをしました。気温0℃と暖かな中、近所を45分ほど、休み休み8km位の距離だと思います。練習後の体重は63.8kg、体脂肪13%(正確では無い)が今年のスタートです。身体の重さ、走力、持久力、疲労感、各部位の張りや痛み・・今持っている力を改めて確認しました。

 

 大晦日には、形ばかりの走り納めをしました。昨年は、色々言い訳は思いつきますが、ランニングに関しては、これまでで最悪、最悪というより気持ちの乗らないままに過ぎてしまった1年でした。過去の貯金があるのでいつでも走ることができるような気分でしたが、現実は普通の人以下の情況です。

 

 ふくらはぎや太ももの筋肉が落ちた分、お腹周りに脂肪が付き、今の体重は自分の中のベストイメージは58kgなので6kgオーバー、せめて60kgくらいに絞りたいが、それでも4kgの減量が必要です。9月の下旬から涼しくなったので通勤に徒歩を取り入れ、110,000歩を目標に歩いていますが、やはりランニングに比べ消費エネルギー量が少ないようです。

 

 それで、今年の目標は、ゼロからの出発、走行距離、タイム、体重、体脂肪率など、全てにおいてとりあえず昨年を上回りたいと考えています。このブログを『晴走雨読』としてはいるものの、最近は走りに関する内容が全然ありませんでしたので、今年は意識して「ランニング」の話題に触れたいと思っています。

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このブログを読んでいただきありがとうございます。

2011-01-01 17:29:10 | Weblog

 新年明けましておめでとうございます。

 このブログを始めて5回目の新年を迎えています。

 2007.1.1は、「初日の出」として、ブログを試行して9ヶ月の経過と、この日から写真の掲載を始めました。

 2008.1.1は、「ホームレス中学生」の感想と新聞各紙が洞爺湖サミット、総選挙、地球温暖化を社説にとりあげていることを書きました。

 2009.1.1は、「新年明けましておめでとうございます」としましたが、12月30日、31日に緊急帰省と、ドタバタの予感を記しました。

 2010.1.2は、「トラストDE」の感想でした。

 2011.1.1の本日は、ここを覘いてくださる皆様への感謝とともに、極私的今年の目標を表明すれば、もうひとつのご飯の食べ方を模索する1年にと考えています。

 この会社にぶら下がっていられるのも最大であと4,5年、生きている限りは「ご飯を食べる」ためは何かをしていかなければならないので、今とは別の収入を得る方法の手がかりを本気で考えようと思っています。

 私たちの世代は、団塊の世代が大量に退職したあとを追いかけて行っているのですが、彼らは今までもそうですが、社会を徹底的に食い荒らしていくので、その後に残ったスキマを見つけていかなければならないと思っています。

 

 新年から字のポイントを大きくします!

 

 

 

 

 

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