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長縄宣博 「イスラーム教徒と帝国の戦争」 2022年度北大スラブ・ユーラシア研公開講座『溶解する帝国』 第3回(2022.5.16)

2022-06-24 14:37:20 | Weblog

最近勉強して自分の認識が大きく変わったことがある。ファイザー、ビオンテック、モデルナ、アップル・・今をときめく企業の創業者は移民もしくはその子孫だ。移民は排斥の対象ではなく社会に新たな活力をもたらす。(放送大学高橋和夫氏)内向きのこの国から創造性は生まれず。

 

長縄宣博 「イスラーム教徒と帝国の戦争」 2022年度北大スラブ・ユーラシア研公開講座『溶解する帝国』 第3回(2022.5.16)    

(僕の感想)現在のロシアとウクライナの戦いで、双方の国民は国家への愛国的な忠誠を求められることと人間を殺せという理不尽な行命令の間で葛藤している。ロシアとウクライナともに戦意の喪失感が高まってきているとの報道もある。この戦いがどのような形になろうとも、現在の政治体制を溶解させるだろう。歴史は、かつて強国を誇ったロシア帝国も幾度かの戦争を経るなかで最終的に崩壊したことを教えてくれる。

【第3回】講義ノオト

◎幾度かの戦争から生まれた改革とロシア革命によりロシア帝国が溶解した。ロシア帝国の中におけるムスリム(イスラーム教徒)は、国家への忠誠と戦争への疑念の中で葛藤した。

・ムスリムとしてのタタール人(ヴォルガ、ウラル地域の住民)は、露土戦争、日露戦争、第一次世界大戦(70万人から150万人)に動員された。

○1874年、ロシアで20歳以上の成年男子に国民皆兵制が導入される。(ちなみに日本は1873年徴兵令施行)ムスリム男性も国民軍に組み込まれた。一方、ロシアに併合される前の中央アジアやコーカサスでは、ムスリムは異教人として差別された。

○露土戦争(1877~78年)

・キリスト教徒のスラブ人がイスラム教徒のトルコ人に勝利した。ロシア軍内のムスリム兵士の心境は複雑。

○日露戦争(1904~05年)

・5~6万人のタタール人(ムスリム)が動員され、それはロシア軍兵士の2割を占めた。ムスリムは愛国的に開戦を受け止めモスクで皇帝への忠誠を示し戦勝を祈念した。だが、モスクの指導者が戦争に動員されて宗教行事が停滞し、また男手が失われてムスリム女性は窮乏化した。

・大阪浜寺収容所には、旅順でのロシア軍捕虜2万2千人以上を収容した。日本は国際法を遵守する文明国を目指していたため捕虜の扱いに留意し、信仰に応じて別個の兵舎、食事、礼拝所、墓地を用意した。なお、ムスリム兵士は650名ほどいて、識字や宗教の勉強会が開かれた。

・ロシア国内のムスリム社会では前線の肉親からの情報で、ロシア帝国主義の破綻、ロシア軍の威信の失墜という情況を直に知ることができた。地域の指導者は、軍内の信仰生活の保障と宗教行政の改革(ムスリム部隊の編制、豚肉や酒を除いた食事、儀礼・祭日への配慮、ムスリム聖職者の兵役免除など)を政府に訴えるべく大小の集会を開き嘆願書を携えた代表を首都に送った。これは、戦争による犠牲の代償を人々が求めたことを意味する。

○第一次世界大戦(1914~18年)

・ロシア国内のムスリムを管轄下におさめている宗務協議会は、モスクを中心とする共同体に募金を呼びかける愛国的な反応を示した。また、ムスリムを戦時協力に組織化する試みを行った。だが、ロシア人兵士はムスリム兵士に対して根深い不信感を抱いていた。

・さらに、ロシア語の不自由さと食生活が、ムスリム兵士たちの境遇をより過酷なものにした。

 

 

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吉田拓郎 ラストアルバム 『ah-面白かった』

2022-06-16 12:55:47 | Weblog

吉田拓郎 ラストアルバム 『ah-面白かった』   

コロナの影響でラスト・ツアーを断念した76歳の吉田拓郎、1970年デビュー以来52年のアーティスト活動にピリオドを打つ最後のアルバム『ah-面白かった』が6月29日(水)に発売される。

会社員に定年退職の日があるように、いつかこの日が来るだろうとは思っていた。誰しも歳をとることは避けられない。でも、頭の中で流れる唄は、今でも、いつでも、拓郎なんだよな。

ライブには欠かさず行ったさ。いつもは北海道厚生年金会館、大倉山ジャンプ競技場での野外コンサートもあったな。『’85 ONE LAST NIGHT in つま恋』は、0泊2日の弾丸ツアーに参加して朝まで騒いだっけ。シングル、LPレコード、CD,DVDも聴いたさ。本も読んだ。たまーにテレビにも出たね。グッズも買った。ファンクラブにも入っていたよ。カーステレオでも学食のジュークボックスでも聴いた。スナックで、カラオケで唄ったさ。

『ah-面白かった』は、どんなアルバムになっているのかな。題名からは成功者としてのメッセージが聞こえてくる。知らず知らずのうちに、大御所的なふるまいをしているように見えてしまう。そうであれば、はたして聴く人の共感を得られるかな。心配しながら期待に胸を膨らましている。僕(67歳)らの世代もそんなに時間が残されていない。拓郎は、ともに歩んできた人生の同伴者だ。いつも励ましてくれた人生の応援団だ。最後に唄ってくれる曲の価値は結構重い。拓郎のそれまでを集大成し、その評価が定まるくらいに重要な作品だ。晩年において懐メロ歌手になってしまう人が多い中で、新曲で現役アーティストとして勝負をしているのは凄い。今の心情を素直に表現してほしい。情景が浮かぶような曲ならいいな。どんなメッセージを発してくれるのか。そして僕らを裏切ってくれ!

 

(参考)このブログで吉田拓郎について、2019.11.24に『TAKURO YOSHIDA 2019 -LIVE 73 YEARS- in NAGOYA』(NAGOYA CONGRESS CENTER / CENTURY HALL)、2013.2.21に『吉田拓郎 LIVE 2012』、2010年に『吉田拓郎 終りなき日々』(田家秀樹著 角川書店 2010年刊)、2009.11.14に『18時開演 TAKURO YOSHIDA LIVE at TOKYO INTERNATIONAL FORUM 2009.07.04(SAT) 17:00開場』、2009.7.11の「吉田拓郎 倒れる!」を書いた。     

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シュラトフ・ヤロスラブ 「ロシア極東のアジア系住民:朝鮮人を中心に 19世紀後半~20世紀前半」 2022年度北大スラブ・ユーラシア研公開講座『溶解する帝国』 第2回(2022.5.13) 

2022-06-13 14:16:39 | Weblog

習近平が静かだ。今は懸命にプーチンの失敗から学んでいるのだろう。台湾に手を出すのは無謀で成功の見込みが無い。経済制裁を受ければエネルギー資源国ロシアより脆弱。仲裁に入ってロシアを抱え込むメリットはあるのか。一方、「検討使」岸田ももっと考えた方がいい。三菱重工業のためにいくら軍備を増強しても、原発に一発ミサイルが当たればTHE・END!だ。

 

シュラトフ・ヤロスラブ 「ロシア極東のアジア系住民:朝鮮人を中心に 19世紀後半~20世紀前半」 2022年度北大スラブ・ユーラシア研公開講座『溶解する帝国』 第2回(2022.5.13) 

(僕の感想)ロシア当局が、極東地域に移住した清国人、日本人、朝鮮人を比較して朝鮮人が一番勤勉だと評価したことに注目だ。もし北朝鮮の政治体制が今と異なっていたとしたら、朝鮮人の勤勉性が活かされてどんな社会が現出していたのだろうかと幻視する。今回の講義のキーワードは朝鮮人の勤勉性だ。

【第2回】講義ノオト

◎ロシア帝国への朝鮮人の移住は、露朝関係樹立前から急激に拡大し、満州に次いで大きなコミュニティが誕生した。

・ロシア極東地域には、ツングース諸族に属しているナナイ人、ウデヘ人、ニヴヒ人、オロチ人などのアジア系住民が住んでいた。19世紀後半になると清国人、朝鮮人、日本人など東アジア系住民が移住した。

 

◎朝鮮人に対するロシアの姿勢は、時期によって変わるが極端な措置が取られることはなく流動的だった。当初、朝鮮人は清国人と比べると勤勉な性格のため、極東開発にとって「有益分子」(労働力)として肯定的な評価が下され、定住化、ロシア正教化、同化を認められた。

○1860年代前半~1883年(移住は比較的自由に行われた。)

・朝鮮側の事情としては、飢餓、自然災害など経済的理由からの移住だった。

・1860年には、朝鮮人商人との取引、また清国人の匪賊・馬賊から保護する姿勢に関するロシア国境警備隊の記録がある。

・1863年、朝鮮人に対してロシアへの定住許可を下した。

・沿海州軍務知事カザケーヴィチは「朝鮮人を保護」、東シベリア総督コルサーコフは食料品を与えた。また、土地を与えたことなどにより朝鮮人は農民共同体(ミール)のような集落を形成し移民は急増した。

 

◎だが、次第に警戒感が強くなり、移民制限策などを行った。だが、1906年以降の北米で起きたようなポグロム(暴動)はなかった。

○1884年~1905年、東アジア系住民の移住に対する中央・地方の移民政策が制度化された。

・1884年に初の露朝修好通商条約が締結され露朝の国交が樹立した。

・沿海州軍務知事ウンテンベルゲルは、朝鮮人を3種類に分類しその種類によって土地分与や国籍取得を認めた。一方、土地購入禁止、入国禁止などの制限を行った。また、人頭税の導入など管理体制の強化が図られた。(なお、日本人は最恵国待遇を受けていたため、朝鮮人・清国人より低額だった。)

・東アジア系住民に対する警戒論が台頭した。ロシア商人は、競争相手として排除する姿勢だった。朝鮮人「自治団」の解散、鉱山労働者への雇用などにおいて規制が強まった。また、日露戦争の敗北は、日清同盟に対する警戒を強めた。

 

◎帝政末期には朝鮮人のロシア国籍取得、徴兵制の対象(1911)などが進み、「ロシア臣民としての朝鮮人」と思われた。一方、1905年以降、対日関係をめぐる緊迫、政府への不満、啓蒙活動を行う知識人の存在など段階的な政治化も進んだ。

○1905年~1917年、移民制限期(~1914年)、契約移民期(~1917年)、当局は規制・取締を強化した。

・日本による対韓植民地政策は、「政治難民」を発生させロシア国籍を持たない朝鮮人移民の大幅な増加をもたらした。

・ゴンダッチ総督は、一般人や農民については土地開拓・植民地化の重要な労働力とみなして同化政策を進める一方、知識人・リーダーを警戒した。また、軍部や治安関係者は、第1次世界大戦前の朝鮮人の忠誠を疑い警戒・猜疑心を持っていた。

 

◎第1次世界大戦期、朝鮮民族運動内で派閥争いが激化し、独立復活・救済措置をめぐる議論、旧政権への不信・不満、戦場から地元に戻った兵士の影響により1917ロシア革命に対する期待感が醸成された。

・治安関係者は「疑わしい」中国人や朝鮮人のリストを作成した。朝鮮人(特に知識人)は、軍部の警戒・猜疑心からスパイ事件・取り締まりの対象となった。「匪賊・馬賊と朝鮮人が」「朝鮮人活動家の一部とドイツ側が」連携しているなどと朝鮮人がスパイマニアの標的になった。

 

◎ロシア革命、内戦期、ソ連時代初期を通して、共通の敵として日本帝国主義との闘い、朝鮮独立への期待が高まった。沿海州、アムール州や満州において多くの朝鮮人パルチザン部隊がソビエト政権側についた。ソ連時代初期には極東地域における朝鮮人は急増した。

 

 

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青島陽子 「ロシア帝国の近代諸改革と西部境界地域」 2022年度北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター公開講座『溶解する帝国―ロシア帝国崩壊を境界地域から考える』 第1回(2022.5.9)

2022-06-03 14:38:22 | Weblog

近道を行くより遠回りした方が色んなものが見えてくる。1ヶ月ブログを更新しなかった。ウクライナのことを考えていた。専門家の言説にようやく幅が出てきたが、やはりよくわからない。GW明けから100年ほど前のロシア帝国の崩壊をテーマにした講演(7回)を聞いた。あの地域の深層部にある複雑さを少し理解できた。

 

青島陽子 「ロシア帝国の近代諸改革と西部境界地域」 2022年度北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター公開講座『溶解する帝国―ロシア帝国崩壊を境界地域から考える』 第1回(2022.5.9)

【講座全体のねらい】これまでの欧米の歴史学では、ロシア帝国に居住していた多様な民族が専制のもとで抑圧されていて、その圧政に対する抵抗として諸民族のナショナリズムが発展したのだと捉えてきた。だが近年の研究は、帝国ロシアによる多民族社会の統治は比較的柔軟で合理的であった。ロシア帝国の統治システムが周辺の境界地域へ広がり、諸民族との接点が拡大する中で、諸民族との関係において、また諸民族相互間の関係が深まった。では、この深化がどう体制を「溶解」させていったのか。全7回で、西部境界地域、極東、ヴォルガ・ウラル、コーカサス、中央アジア、ユダヤ人、ウクライナに焦点を当てた講演であった。

(僕の感想)一筋縄で理解できない複雑さに満ちた地域である。日常言語、教育使用言語、信仰が多様で、例えば、ロシア人は何を以てロシア人なのか、明確な基準がない。また、ロシア帝国の統治形態も、地域が持っている歴史的な経緯や地理的な性格が異なることから大きく異なり、また時期によって方針が大きくぶれることから国家としての統一的な輪郭がつかめない。大雑把にくくってしまうとロシア及びその境界地域というものは複雑怪奇である。

【第1回】講義ノオト

○ロシア帝国の概要

・1721年の対スウェーデン戦勝でピョートルが初代「皇帝」に就いた。

・19世紀後半、人口1億2600万人、民族的構成を使用言語で分類すると(使用言語で区分するしか方法がない)、大ロシア語(5,600万人、44.3%)、マラロシア語(2,200万人、17.8%、ウクライナ)、白ロシア語(590万人、4.68%、ベラルーシ)以上で全体の2/3を占める。その他ポーランド語(790万人)、ユダヤ(506万人)、ラトヴィア語(144万人)、リトアニア語(121万人)、エストニア語(100万人、西部のみ)・・となり多様性に富む。

・1906年まで議会や憲法からの制限がない皇帝の無制限専制体制であり、その統治の正統性はロマノフ家という外来性(ドイツに求める)に基づいていた。

○ロシア帝国の諸地域

・地域によって統治方式が異なった。大きく分けると、西部境界地域は、ヨーロッパと接しており高い文化度の諸民族が居住していると認識している。東部境界地域の統治は、植民地的性格を持ち、未開を「文明化」しなければならないと捉えていた。

○ロシア帝国の近代化の試みと「専制」

・19世紀半ば、皇帝の専制による「上から」の「大改革」(市民的な統合)を試みた。1864年には地方自治組織(ゼムストヴォ)や住民参加を原則とした司法制度を導入した。

・19世紀最後の四半世紀、政治的引き締め「反改革」に転じた。ゼムストヴォ制度は貴族化し、司法制度では治安判事が廃止された。沿バルト地域などにはロシア語教育の実施を要求した。一方、鉄道、鉄鋼、石炭、石油など工業化が推進され経済的な向上が図られた。

・19世紀末、都市化が進展し大衆(労働者)が登場した。そのため都市化を軽減するための移住政策や労働者対策としての社会政策がすすめられ、「ロシア性」が称揚された。

○20世紀初頭の激変

・日露戦争と1905革命の時期、ゼムストヴォ運動、社会主義運動、学生運動、民族運動が激化し、都市と農村が混乱した。

・1904年12月勅令、1904年末には国家評議会にゼムストヴォ代表を入れた。1905年2月には選出性の立法機関の創設を約束した。また10月17日マニフェストで、人権の不可侵、信仰・言論・集会・結社の自由を宣言し、国家ドゥーマ(代表制)の開設へ向かった。これにより多様な集団が当局の承認を得たと捉えその活動を強化した。また政党は選挙戦の準備へ向かった。

○宗教と言語の寛容(1904年12月勅令)

・宗教的な寛容の方針が示されたことから、リトアニア、西ベラルーシ、ポーランドなどの西部境界地域で、ユニエイトから1905年から06年にかけて21万人がカトリックへ改宗した。

・初等教育と私学では母語教育が許可された。これにより民族的意識が涵養され領域意識が芽生えた。

・個人や社会集団の選択の幅が広がり、それが国家内の権利と結びつき新しい集団の在り方が模索された。

○多民族で国会をつくる

・第一、第二国会では、50%以上が農民・雑階級人、40%以上が非ロシア人であり、多様な民族が集結した。ここでは、民族の同権、自治権、言語・教育・信仰、ユダヤ人差別立法の廃止など民族問題が多く提起された。

だが、

・第三国会、1907年6月3日の「クーデター」選挙法の改正により、「ロシア国家の強化」「精神においてロシア的であるべき」とされ、民族議員は議席数を減らし、大地主は指導的役割を持たされ、ロシア系住民の代表権が強化された。また、ウクライナ・ベラルーシの議員は地域選挙キャンペーンの結果、右傾化した。

○ロシア民族主義、諸民族の民族主義、帝国の政策

・諸民族の区分とその活動を促進することにより、住民を帝国の制度に取り込みながら帝国の近代化が進められ、同時に諸民族のナショナリズムも伸長した。

・しかし、そのバックラッシュとしてロシア民族主義も伸長し、第四国会(1912年11月15日から1917年2月25日)では、議長による「帝国の統一性と不可分性、そこにロシア民族性と正教信仰の優位性」が宣言された。

・10月17日同盟、全ロシア・ナショナリスト同盟などの右派政党が躍進した。

・南西部諸県において、ロシア民族主義、反ユダヤ・反ポーランド主義、反地主、ウクライナ民族主義が複雑化した。

・ロシア民族主義への傾倒や抑制、暴力・無秩序を懸念、地域の協力、民族集団への配慮など、ロシア帝国の官僚は統治の舵取りの困難を極めた。

 

 

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