晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

終戦か、敗戦か

2014-08-29 15:25:35 | Weblog

 アへ首相と石破幹事長の会談が伝えられている。石破氏がこの国を代表する顔になる可能性は?

 残念だが、あの顔で、あの話し方では無理でしょう。爽やかさからは遠いし、元気も出ない、まして何を考えているのか、特に外国から見ればミラクルだと思う。

 

 終戦か、敗戦か

 戦後69回目の8月が終ろうとしている。この国では、毎年この時期になると、あの戦争を、第2次世界大戦と呼ぶか、大東亜戦争、太平洋戦争、日中戦争と呼ぶかで論争が復活する。今この国で最も民主主義を体現していると思える天皇陛下は、「先の大戦で・・・」という言い方をしている。

 また、8月15日を、終戦記念日と呼ぶか、終戦ではなくて敗戦であるというかについても論争がある。

 『対談 文学の戦後』(鮎川信夫 吉本隆明著 講談社 1979年刊)の「九、野間宏「真空地帯」と靖国神社」で、二人が面白いことを言っている。吉本氏が、「終戦という観点を、いやだなと思いますね。自分の体験としては、敗戦というふうにそれを受けとめて、そこから何か、という方が正しいし、そういうふうにしてきたと思うんです。」と言う。

 これに対して鮎川氏は、「国家という観念を前提にした場合は、敗戦なんです。けれども、終戦という感覚も、ぼくは絶対あると思っている。戦争に負けてもいいし、勝ってもいいけれど、・・とにかく終わってくれという感覚は、わりあい強くあったと思う。」「何も敗戦ということをごまかそうと思っていっているわけじゃない。」と返す。

 私は、再び戦争をしてはいけないという観点から、「戦争は終わった」といった方が良いのではないかと思う。「戦争に負けた」ということは、今回は負けたが、次は絶対勝つぞという気持ちを保持しているように感じるので、終戦が良いのではないかと思っている。

 靖国神社について吉本氏は、「靖国神社というのは納得できない、・・つまり、あそこはあまりいいところじゃないんだから、そういう人(戦犯)を祭った方がいいじゃないか。・・祭るのはけしからぬという人は、あれはいいところで、死んだ兵隊さんを祭ってあるんだ、だからそういうところに戦争責任者を祭ったらいかぬという意識だと思うんです。」と言う。

 私は、政治家が参拝することには反対と考えていたが、一体どのような所なのか百聞は一見にしかずということで実際に見てやれと、30年近く前に、靖国神社にいったことがある。その時の感想としては、理屈上は受け入れがたいとは思いながらも、歴史的な展示物などは中々迫力があって心に響くところだなあと思った記憶がある。

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集団的自衛権問題の核心

2014-08-24 14:53:55 | Weblog

 気が付くと、猫背で歩いている自分がいる。いわゆる爺さん歩きになっている。そこで、ランニングの時には、姿勢と傾きを意識している。あまり後ろにそっくり返っては前に進むことができないが、前に重心をかける場合は背中が曲がらないように気をつける。これって中々難しい。

 8月の高音・多湿の中で走るのは、最初汗が出るまで苦しいが、汗が出始めた後は快感になる。どっぷりと汗をかく感じは夏にしか得られない最高の感覚である。

 

 集団的自衛権問題の核心

 『ハンドブック 集団的自衛権』(浦田一郎、前田哲男、半田滋著 岩波ブックレットNO.870 2013年刊)が良く売れているようだ。アへ首相が邁進する解釈改憲による集団的自衛権行使への国民の危惧、そしていわゆるタカ派の政治家が主導権を握っている現状に対する危機感がその理由なのだろうと思う。しかし、いずれも法律や制度を巡る政治的な論議であるが、私にはなにかしっくりと来ないものがあった。

 『意識 革命 宇宙』(埴谷雄高 対談 吉本隆明 河出書房新社 1975年刊)は、埴谷氏が26年間の中断を経て、この年1975年に『死霊』第5章を再開したことを受けての対談本である。この両者は、吉本氏が、自己幻想、対幻想、共同幻想というように人と人との関係性をテーマとしているのに対し、埴谷氏は、存在と意識の関係を掘り下げることをテーマとしていることから、そもそも親和性はないのであるが、随所にハッとさせる発言がある。

 吉本氏は、「戦争になれば真っ先に、自分を殺すことももちろんですけれども、相手を殺すこともあんまりそうこたえはしないという、青年が最初につかんだそういう観念というものは、これは、はたから止めることができない、どうすることもできない」(P65から引用)と発言し、自身の戦中時代の心理を吐露している。

 この間の集団的自衛権問題の核心は、制度にあるのではなく(軍人予備軍としての)若者の心は、簡単に変わるものだというところにあるのではないかと感じた。以前このブログで取り上げた、山本直樹氏の『レッド Red 1969-1972』では、連赤の若者たちが仲間を殺戮してしまった心理が描かれている。またイスラム原理主義のジハードからも、「思い込んだら、命がけ!」という怖さを持つのが人間だということがわかる。

 一方、埴谷氏の、「ほんとうに地獄だけへ向いて、そのくせ自分は天使のつもりになっている時代」(P69)という発言からも触発された。私は、会社での仕事で関係している方々や、地域での生活の場面でも、周りはいい人」ばかりだと思う。常識の発達している人、面倒見のよい人、ボランティアで地域のために汗する人、そんな人々がいる。また、現状に警鐘を鳴らしてくれる自分だけが正しいと思っている左翼病の人たちもいる。

 私たちは、人を殺してはいけません、人など殺せませんと言っていた人たちが、親兄弟を守るため、やられたらやりかえせ、といった勇ましい言葉やムードの前に木っ端みじんに絡めとられてしまった歴史を持っているのではないか。私は、人の心に潜む闇にこそ集団的自衛権問題の核心があると考える。

 

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司馬遼太郎

2014-08-18 20:19:40 | Weblog

 『近現代史をどう見るかー司馬史観を問う』(中村正則著 岩波ブックレットNO.427 1997年刊)

 政治家に愛読書は何かと問うと、与野党を超えてほとんどの議員が司馬遼太郎と答える。それだけ司馬氏は日本という国を意識させる国民的な作家ということなのだろう。それとも本など読んでいないので、とりあえず司馬と答えれば良しとしたのかも知れないが。

 前回取り上げたNHKの番組からも、司馬氏が戦後ニッポン、それも高度経済成長の気分に一番ぴったりと合った国民が元気になる作家として取り上げられていた。明治の人たちのように夢と希望を持って努力すれば社会を変えることができる。私も学生の頃に『竜馬がゆく』をワクワクしながら読んだ記憶がある。現在の閉塞感を打破し、夢よもう一度のために司馬氏が担ぎ出されたということか。

 本書で、著者の中村氏は司馬史観を分析する。司馬氏は「暗い昭和」「明るい明治」として、先の戦争を徹底的に批判するが、戦争責任の追及については巧妙に避ける。一億総懺悔と同質である。また、氏の歴史観は、かなり意図的である。自分のストーリーに都合の良い歴史的事実だけを繋いでいて、ほっかむりしている史実も多い。氏の仕事は、所詮、小説の世界でのことである。意図を持った創作、作り話なのである。例えば、私たちが抱いている坂本竜馬像もある意味氏が作り上げたと言っても良いのではないか。

 私は、現在の情況を国民国家の黄昏と捉えているが、国民国家に代わる社会を展望するためには、先のNHK番組における司馬氏の評価、現在に至るも影響力を持った作家という捉え方を超えなければならないと考える。

 またまた、NHKになってしまうが、 E-テレで放映中(金曜日23時)の『ニッポン戦後サブカルチャー史』(10回シリーズ)も毎週視聴しているが、国家に縛られないサブカルチャー史をどこまで描くか注目している。

 

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『日本人は何をめざしてきたのか』

2014-08-13 21:05:50 | Weblog

 『日本人は何をめざしてきたのか』

 7月にNHK E-テレで4回シリーズ『日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち』(NHK戦後史証言プロジェクト2014年度シリーズ)が放映された。知の巨人として番組に取り上げられたのは、湯川秀樹、武谷三男、鶴見俊輔、丸山眞男、司馬遼太郎らである。近頃のNHKのだらけたニュースとは違い、いずれの回も、取材や構成に力が入っている様子がわかり、貴重な映像や証言を興味深く視聴できた。

 紹介された5人は、核兵器の廃絶、原子力の平和利用を主張した科学者、戦争責任、転向、女性の自立などについて多様な言論の場を創出した思想家、民主主義者を唱える政治学者、明治国家の中に民主主義の萌芽を探した大衆小説家であり、いずれも戦後民主主義者の代表格として評価が定まっている人たちである。また、政治的には左翼、リベラル側の人といって良いだろう。

 しかし、だからといって、NHKの左傾分子が番組を作ったと捉えるのは早計であろう。私から見ると、彼らは何れも国民国家日本の存在を前提として、戦後日本人の意識形成に大きく寄与している。言い換えると、戦後日本という容器は、右から左まですっぽりと包摂できるキャパシティを持っていたと言えるのではないか。あくまでも国家の存在が前提とされ、その枠内での主張だから許容されていると言えるであろう。

 そして、なぜ戦後69年のこの時期に、「日本人は何をめざしてきたのか」と問うのであろうか。それは、戦後日本の方向性が行き詰まり、かねてから私が主張する国民国家の黄昏情況を示しているのではないか。番組では、当然のことだが、国家の弱体化、国家の消滅を肯定するような言説が扱われることはない。

 また、もうひとつの前提は、知識人が大衆を啓蒙し、良き世界へ導くという考え方が貫かれている点である。NHKの番組には、教えてやるといった大衆蔑視、逆に知識人にへつらう傾向がある。この特集も大衆の存在は薄く、物言わぬ大衆が「何をめざしているのか」といった分析はあまりできていないと感じる。

 その点、テレビ東京の番組づくりから「大衆が何をめざしているのか」「何もめざしてなんかいないのか」を学ぶことができる。毎週月曜日19時からの「YOUは何しに日本へ」は、国や会社などに対する帰属意識を払しょくしたような外国人に取材を試みていて、この国の人々にオルタナティブな生き方を自然に提唱していると思う。

 

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『吉本隆明―論争のクロニクル』

2014-08-10 20:27:17 | Weblog

 準備、本番、片付け。今年は町内会の役員の当番が当たっていて、夏祭りに時間を取られてしまって、週末の「晴走雨読」生活がままならない。楽しいという人もいれば、半ば義務的にと思っている人も多い。豊作を祈願したり、収穫に感謝したり、先祖を敬ったりと宗教性や歴史性のある祭りは、それなりの意味を持つと考えるが、地域や伝統に根っこのない「ただの夏祭り」というのは、いくら回を重ねても無味乾燥な徒労に思えてならない。

 

 『吉本隆明―論争のクロニクル』(添田馨著 響文社 2010年刊)

 本ブログとリンクしている愛犬日記(2014年6月25日)で本書が激賞されている。

 (以下引用)「思想、哲学に係る批評家連中の本は、ほとんど手にしません。何故なら当該思想、哲学の説明(紹介)であったり、批評家自身の解釈であったり、書かれた時代背景(思想家、哲学者、著者自身)の説明であったり等で・・・・それくらいなら原典を読むべきだ、と。(本書は、)添田馨自身の深い思索の上での洞察、理解、解釈を行い、そのようなに洞察、理解、解釈をした添田馨自らへの立ち位置を透徹した視線で問い質しています。」

 以上の評価を事前に目にしていたので、私は、本書が対象とした論争における論理展開を追いかけるのではなく、著者(添田氏)の吉本思想に対する向き合い方に焦点を絞って本書を読んでみた。その概ねは、吉本隆明の側に立った解説、解釈であったが、所々でその時自分が吉本の考えに対して抱いた違和感や疑問を真摯に表明している。そこが、本書の持つ価値の生命線だと思った。

 私は、興味を持った思想に対して、最初は学ぶ(真似る)姿勢で著者の論理を理解しようとするところから始まる。その後少し距離を置いてみて、これは自分にとって刺激にならないといった場合には、その著者から離れ、なにかしっくり来る感じがあるのであれば、長く付き合うというパターンが多い。思想も人間関係も同じだと思う。

 また、私は、ある思想に対して、随伴しようと、突き放そうとそれは読者の勝手だと考える。しかし、随伴という言葉自体が主体性を放棄しているが、長く随伴してきた思想から離れることで自分の思想が崩壊するとしたら、否、もっというと自身の人格が崩壊するとしたら、それは、●●主義者ということの自己表明だと考える。これは、宗教者、左翼に多いと考える。

 マルクスでも、親鸞でも、吉本でも、それに学ぶことは貴重だと考えるが、●●主義者になってしまうことは自らを失うことに繋がる。

 

 

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2013年7月26日生まれの君へ贈る言葉

2014-08-02 20:21:21 | Weblog

 2013年に生まれた君は、21世紀を生きる人だ。

 君の全てはこれからだ。

 君が君の世界を獲得するためには、まだまだ叫び続け、涙を流さなければならないだろう。

 

 100年前の1913年は戦争と革命が始まる前夜だった。

 第1次世界戦争、ロシアでの革・・

 

 2014年、時代はどのように動こうとしているのだろうか。

 2013年生まれの君が生きている間に国家の死滅が現実になるであろうか。

 

 嵐のような1週間だった。

 そして私自身、もう黄昏なのだということを自覚した。

 

 2013年生まれの君、早く言葉を獲得せよ。

 そして、言葉を使って自分の想いを紡げ。心を切り裂くような想いを語れ。

 

 

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