晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

励ましを戴いていた方の死

2013-09-29 20:57:12 | Weblog

  いつも励ましの言葉を戴いていた方が、8月の初めに亡くなられた事は知っていたのですが、中々気持ちの整理ができなくてご自宅に伺うことができないでいました。2ヶ月ほどの時を経て、ようやく昨日ご仏前に手を合わせることができました。

 奥様から、亡くなったのは不慮の事故によるものであり、JR駅の階段で転倒し頭部を損傷したのが原因とお聞きしました。本人も奥様も全く予期せぬ出来事であり、30数年間毎日通いなれた場所で、今でも起こった事実が信じられない、今にも夫から電話がかかってくるような感覚がすると奥様は言われていました。3月末で退職し、ようやく自分の時間が持てると喜んでいて、欧州への旅行の日程も決まっていたとのことであります。

 人は死と言う事実に直面した時、その心への衝撃をどのようにして鎮めていくのだろうか。それも、突然の死の場合。

 吉本隆明の心のあり方(自己幻想、対幻想、共同幻想)を手がかりに考えた。夫婦間の場合、愛(性愛、同志愛、友人愛・・を包含する。)は、対幻想であるが、その一方の当事者が亡くなった場合、それまでの双方向の交感が一方的な方向になるのだと思う。私は、死者は死に切り、死者の想いとか、魂とかは、生き残っている者が自分の中で自己幻想として作り出しているのではないかと思っている。

 それまで存在できた対幻想は行き場を失うことから、それは生き残った者の中で時間とともに徐々に自己幻想に転化していき、その過程で時間の経過とともに自己対話が繰り返され、死と言う事実のもたらす衝撃や悲しみが鎮まっていくのでしょう。葬儀や仏壇、お墓は、そのための手続きであり装置なのであろう。

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『反教育論』 その2

2013-09-26 20:31:56 | Weblog

 京都4日間滞在中、イノダコーヒーに3回行きました。数年ぶりの本店、大丸デパート地下グリル、そして初めての清水寺店です。

 関西でJRにも何回か乗車しましたが、気のせいでしょうか、道内ほど酷い揺れ方はしなかったと思います。

 『反教育論』 その2

 第2章「われわれの内なるオオカミとサル」で、マーク・ローランズ著『哲学者とオオカミ』から引用があり、かつて読んだ時はあまりピンとこなかった本だったのだが、なるほどそういうことだったのかと少し腑に落ちたように感じる。

 迂回的理解法と言うべきか、最初に読んだ時には、その本の世界に入り切れず理解が深まらない場合がある。しかし、他の本でその本の引用が、別の文脈の中にあり、そこから何かしらの手がかりが見つかり、再読の結果、理解が深まるということが稀にある。

 これは、読書に限らず、人との出会いでもその第一印象が、異なる場面において全く覆る瞬間がある。また、何気ない会話の中での他者の発語の真意が、別の他者との会話から後になって心に響いて来る場合もある。迂回的理解と言っていいだろうか。

 子どもたちは、学校でも家庭でも、夢や希望に向かって努力せよ!と背中を押されている。誰しもウィンブルドンやワールドカップ(甲子園や東大でもいい)に出たいと思う。しかし、その夢が叶うのはほんの極一部の人間でしかないというのも現実である。

 私が大切だと思うのは、夢が破れたっていいんだよ、失敗したっていいじゃない、ともっと緩めてあげることだと思う。幸せの定義は、有名になることや偉くなることでは無く、生まれてきて、大人になって、家庭を持って、子どもを育てて、仕事をして、歳をとって死んでいく、それが一番いいじゃないかと言えることだと考える。(なお、必ずしも結婚や出産をしなければならないということではない。)

 唱歌を除いて、世間で子どもからお年寄りに支持された歌には、人を追い詰めるような歌詞は無いと思います。

 

 

 

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『反教育論』 その1

2013-09-24 20:56:54 | Weblog

 近鉄京都線向島駅(むかいじま)は京都市の端っこにあります。駅を出て少し歩くと宇治市域に入ります。台風18号による大雨の影響で宇治市に避難勧告が出されました。

 

 『反教育論 猿の思考から超猿の思考へ』(泉谷閑示著 講談社現代新書 2013年刊) その1              

 本書は、反教育論として成立しているだろうか。精神科医の著者による現在の教育批判はなかなか刺激的である。結論は、いわゆる「良い子」ほどダメになる。自分で考えられる人間を生み出すことができない今の教育を批判する。

 私は、このブログ2013.7.5『吉本隆明「心的現象論」の読み方』その3 で以下のように述べた。

 吉本が影響を受けた生物学者の(以下引用)「三木成夫は植物、動物の構造を基盤とした“心の世界”を論じた。“ヒトの心”には、体壁幻想(動物の心)と内臓幻想(植物の心)があるという。体壁幻想は、外界を感覚器官(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚)でとらえ了解する構造を持っている。内臓幻想は、概念的、心意的な内面世界や感情である。ただ、この三木の心臓を中心とした心の世界が存在する、臓器は思考するという考え方は、〈異端〉である。しかし、吉本も三木のいう内臓幻想の考え方までは承諾していない。しかし、体壁幻想だけでは心の世界全体をとらえきれないということはわかっていた。」

 本書の中で吉本の名は一度も出てこないが、著者が人間を、コンピュータ的に情報処理を行う「頭」(理性、猿)と、大自然由来の野生原理で動いている「心=身体」と二つの部分に分けて捉えている。

 近代以降の人間は理性を万能なものと過信し、教育は「理性による自己コントロール」を奨励するが、野生原理(心=身体)との間で軋みが生じている。著者は、野性に裏打ちされた理性(超猿)とは何かと問う。

 

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鴨川増水

2013-09-22 17:46:05 | Weblog

 暦の上では3連休ですが、3日間とも営業。先週たっぷり休んだのでしっかり働かなければ。

 朝まで大雨が降った後の9月16日午前、四条大橋から鴨川の様子。普段は歩くことのできる河岸の遊歩道も水に呑み込まれていた。

 京都や奈良など本州を訪れるとあちこちの寺院にある国宝の多さに驚く。北海道では中々お目にかかれない。では、北海道に国宝はあるのだろうか。調べると、南茅部町(現函館市)で出土した中空土偶が唯一北海道内で国宝に指定されていた。

 これはどういうことなのだろうか。国宝に値するようなもの(人)が少ない、歴史の長さ、厚みが違うからなのか。先住民族(アイヌなど)の残したものは、和人国家の国宝にはなりえないということなのか。大和中心史観が貫かれているということか。

 京都の歴史的建造物などを散策して感じるのは、この国の日本的なるものを侮ることなかれ、ということである。北海道で生まれ育った私は、本州の人の生活や思想に深く深く根付いているこの日本的なるものをいとも簡単に変えれば事足るように考えてきたが、中々容易なことではないと今にして改めて感じている。

 天皇制、日の丸、君が代などに異議を唱えるのは実に表層的なことに過ぎず、もっともっと人びとの意識の根底にあるものに対して響くような言説を編み出さない限り「変える」ということは難しいと考える。

 

 

 

 

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宇治川増水

2013-09-19 09:30:48 | Weblog

 2013年第2回京都旅行                

 所用があり、15日から18日の3泊4日で京都へ。台風18号とぶつかり交通機関のダイヤが乱れる中、幸運にも行くことができた。8時15分新千歳空港発だったため、7時過ぎのJRを利用、雨は降っていなかったが遠くから雷の音がゴロゴロと鳴っていた。後で知ったのだが、7時半頃、北広島・島松間のJR変電所に落雷があり、JRが不通になったとのこと。

 飛行機は雨雲の中を飛んだのでかなり揺れたが、神戸空港は雨が降っていなかった。京都に付く頃にはどしゃ降り状態。いつ頃からかわからないが、私は飛行機がいくら揺れても全く平気。飛行機が落ちて死ぬのが残された者にとって一番と思っている。

 宇治市で所用を足し夜に京都駅近くの新・都ホテルに投宿。台風が接近し、尋常ではない雨と風。夜中もホテルの窓を叩く雨の音。宇治市に避難勧告。嵐山の様子は報道のとおり。当然、翌16日の航空機は欠航。一日違っていたら大混乱に巻き込まれただろう。

 写真は、昨日、18日の宇治川の様子。上流のダムが放流をしているため、すごい流量。平等院から対岸に行く橋も通行止め。まだまだ台風被害の後遺症は続いていて、地下鉄も一部区間で運休。嵐山の再開は11月の紅葉シーズンになるという。

 

 

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『自衛隊員が泣いている』

2013-09-07 21:51:03 | Weblog

 2020年オリンピック開催地が東京に決まるかどうかで、マスコミは朝まで特番だそうだ。人相の良くない猪瀬東京都知事が「東京は福島から250kmも離れているので安全だ!」と弁明している。逆に考えると福島は危険ということを言っているのだ。原発の名前は東京電力福島第1原子力発電所、東京に住んでいる人たちのために電気を作ってきた施設に対して、「アッシたちにはもう関わりの無いことだ」ということなのか。東京五輪招致成功の熱狂で福島を忘れたいのだろうが、熱狂は心の問題で時が経つと消えてしまうだろうが、放射性物質は物質なのでいつまでもいつまでも残るのだ。

 

 『自衛隊員が泣いている』(三宅勝久著 花伝社 2013年刊)

 自衛隊員に自殺が頻発している。著者は、本書でいくつかの自衛隊員による自衛隊を相手とした訴訟の内容を報告している。訴因は、体内での上官によるいじめ、あらぬ疑いに対する警務隊による不当な取調べ、それに起因する心の病、暴行、リンチ、パワハラ・・自衛隊員の命と心が壊れていくと警告する。

 筆者の立ち位置が反自衛隊にあるため、はたして本書の表現内容に客観性があるかどうかは少し疑問があるが、火の無いところに煙は立たないという諺もあるように、事実はその通りなのであろう。

 ただ、本書に欠落しているのは、現象を描くことに精力が注がれているが、組織の病理の原因がどこにあるのかという、本質的な分析がないという点である。組織の閉鎖性の具体的にどこに問題があるのか。果たして自衛隊員は隊内で人権が保障されているのか。否、物言う自由があるのか。旧国軍と組織体質は変わらないのか。そういう分析が全く無い分、消化不良に終わっている。

 自衛隊の組織目標である「祖国を守る」ということの内実は何か。領土、領空、領海、国民、財産、国家体制・・を守る。いずれも抽象的な共同幻想(観念)のため自衛隊員は存在を意義付けられている。

 しかし、個々の隊員の意識は、恋人、家族、友人・・を守りたい。それぞれ対幻想の世界で自分を納得させているのではないか。共同幻想と対幻想の間にある心の空隙が様々な病理の原因なのではないか。

 自衛隊員の隊内での暮らし、家庭内での様子、地域社会でのふるまい振りなど知ることのできないことはまだまだ多い。

 

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『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』

2013-09-04 20:26:36 | Weblog

 『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたいー正義という共同幻想がもたらす本当の危機―』(森達也著 ダイヤモンド社 2013年刊)

 とても長い題名の本である。当ブログとリンクしている愛犬日記で、現行の憲法の解釈で集団的自衛権が認められるという見解を示している小松一郎法制局長の「隣家に強盗が入って殺されそうだが、パトカーがすぐに来ないかもしれないので隣人を守る。」という言葉を批判的に引用している。

 本書で著者は、最近の一見批判をしにくいが、冷静に考えると絶対におかしいという言説をいくつか例示している。代表的なのは、「殺された被害者の人権はどうなんだ!」であろう。表題の「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」も全く同じ構造を持っている。

 領土問題で冷静な対応を主張した著者がネット上で浴びせられたのは、「ならばお前の家に押しかければ庭や財産をくれるんだな」「尖閣やったら次は沖縄が狙われるに決まっている」という言葉だ。

 この国の首相(私は以前、大きい声の出ないアベちゃんと言っていた。)も同様の言葉を吐く時がある。「国民は憲法について意思表示をする機会を奪われていた」だから、96条を改正したいのだと。

 警察官の職務質問を任意ですねと拒否した時の決まり文句は、「何かやましいことがあるんですか」でる。

 本書は、ダイヤモンド社のPR誌『経』に2007年10月から連載された『リアル共同幻想論』を編纂している。共同幻想は、もちろん吉本隆明の影響である。国家という共同幻想に危機を見る筆者である。

 

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