晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

ジョルジュ・ルオー展

2009-10-31 19:18:36 | Weblog
 出光美術館所蔵「ジョルジュ・ルオー展」(北海道立近代美術館)を観てきました。

 ルオー(1871~1958)は、パリ・コミューンの年に生まれ、キリストの受難と虐げられた人々をモチーフに描いたフランスの画家です。

 20世紀前半を描くとこんなに暗い時代になるのかと思うほど、苦しみを背負った絵ばかりでした。

 中でも、多くの作品に描かれているキリストの顔は、面長で、両頬に髭を蓄えた、まるで現在のイラク人のようでした。知識が無いのでよくわからないのですが、キリストは何人(人種)なのだろうか。ヨーロッパでキリスト教が拡大したのであろうが、少なくてもヨーロッパ人ではないだろう。

 一本の線を引いてもその人の個性が出ると言われるが、ルオーは黒い太い線で輪郭を取る特徴を持っており、明るい原色を避けた色使いとともに、それが絵の暗さをさらに暗いものとしている。

 急に気温が下がって、芸術の秋も本日でオシマイ!


 

 

 
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『朝日平吾の鬱屈』

2009-10-29 20:39:06 | Weblog
 『朝日平吾の鬱屈』(中島岳志著 筑摩書房双書Zero 2009年刊)

 著者中島氏は、34歳の新進気鋭の研究者である。本書で氏は、1922年9月28日に安田財閥の創始者安田善次郎を刺殺したテロリスト朝日平吾の心の軌跡を残された論考から追う。

 氏は、約90年前の朝日の心情がこの国の現在に通底するという。2007年1月号「論座」に掲載され話題を呼んだ赤木智弘の論文『「丸山真男」をひっぱたきたいー31歳、フリーター。希望は、戦争。』、2008年6月8日秋葉原連続殺傷事件の加藤智弘に繋がると。

 まず、坦々とした文章で読みやすい。氏は、朝日の人生を辿る。それは、失敗と挫折、周囲への不和と孤立、絶望・・そして、自ら招いた全てに閉塞的な情況。しかし、その死は、昭和の初めテロの時代に繋がる。

 朝日と加藤、朝日の行動は、私憤から来るものなのか、義憤から来るものなのか、中島氏の論考からは、はっきりと判断できない。ただし、朝日は大義を残している。一方、加藤には、全く語るべきものがない。

 また、氏は、テロリストの心情にどこまで迫ることができているのであろうか。例えば、「自らの死を覚悟した人間は、他人の命を軽んじる」といわれる。朝日は自死しているが、加藤には死の覚悟すらも無い。

 しかるに朝日と現在が通底しているという仮説は成立していないのではないか。

 中島氏は、テロに与する気持ちも無いのに、朝日の行動を紹介することで、現代社会に警鐘を鳴らしているつもりなのであろう。

 氏は、もっと自分のテロリズムに対するスタンスをはっきりさせるべきであり、氏自身の思想を表明しない限り、単なる知識のひけらかしに終ってしまっている。

 私なら、最終手段としての暴力を肯定することを宣言し、竹中平蔵などをターゲットにアジってしまうのだが。
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『財源をどこに求めるか』

2009-10-25 14:34:19 | Weblog


 「こんなことは無かった、少し前までは♪」とは、他人同士だったふたりが少し前からは親しげに会話する様を唄った拓郎の歌詞であるが、私の場合には、これまで経験したことの無いことがまだまだ新たに起こるということ。

 昨日は、朝から勇んでランニングに、しかし、身体が温まらない走り始めの苦しい時間に、何と「転倒!」、アスファルトの平坦な路面で、何かに突っかかったように感じた瞬間、身体が宙に舞いバッタリと地面に。

 とっさに両手で身体を支え、顔面がぶつかることは無かったが、手と膝の擦過傷&打撲。ジャージに穴を開けてしまった。身体が痛いのもダメージだったが、こんなことは無かった、少し前までは、と精神的なショック。



 情況論ノート第21回

 『財源をどこに求めるか 日本は世界一の資金余剰国、さてどうする』(山家(やんべ)悠紀夫 「現代の理論」’09秋号 明石書店)

 雑誌「現代の理論」09秋号は、特集で、「民主党“革命”日本は変わる」と題し、2009.8.30を一票による革命として評価している。さて、「現代の理論」というオールドな誌名は、安東仁兵衛という希代の構造改革派編集者による社会民主主義を掲げる雑誌であった。その流れからいうと、今般の民主党政権を支持ないし期待しているスタンスをとっていると推測できる。

 本論文は、所収されている中の一本であるが、私は、2009.10.17「官僚たちの秋」で、「小泉改革では、国債残高に注目して、絞りに絞りましたが、一転して民主党政権は、国債発行のタガがはずれています。国民にばら撒くだけばら撒いて見るのも一つの実験として面白いでしょう。」と書いた。

 国家財政の悪化状況に変化が無いのに、大きく政策転換ができる。しからばあの小泉=竹中改革とは一体何だったのだろうか。私は、ここに大きな疑問を持つ。本論文はそれに対する一つの回答になっている。

 以下、山家氏の論旨を辿ってみる。

 氏は、「財政とは人々の生活に奉仕することを究極の目的とするものであり、財政赤字を縮小ないしは解消することや財政の健全化を図ることが第一の目的ではない。」とする。「財政の目的は、人々の生活に必要不可欠な、しかし市場によっては必ずしも十分には提供されないサービスを提供することや、施設を作り、運営することにある。つまりは支出することにある。加えて収入は所与ではなく、自ら増やすことができる。」

 財務省は、財政を家計にたとえて危機キャンペーンを行なっているが、そこには金融資産や不動産が触れられていない。

 政府(国と自治体 2007年末)のバランスシートは、資産(金融資産554兆円、固定資産343兆円、土地135兆円など)1,032兆円に対して、負債(国債、地方債など)968兆円で、差し引き正味資産64兆円である。

 金融資産554兆円は、GDP比1.1倍で「先進国一の水準」、金融資産のうち中央政府の持ち分が俗に言う「埋蔵金」である。)日本政府は、結構健全な政府であり、負債をあわてて返済する必要はない。


 もう一つの見方、日本経済全体(政府、企業、家計部門別)の資金の流れを見ると、政府部門の資金不足(負債968兆円―金融資産554兆円=414兆円)は、家計部門の余剰資金(金融資産1,504兆円―負債376兆円=1,126兆円)によって供給されている。

 加えて、家計部門の余剰資金は、企業部門の不足資金(負債1,434兆円―金融資産919兆円=515兆円)を供給してもなお余剰であり、財団等非営利団体の余剰資金51兆円とともに、海外に流出(250兆円)している。

 このように、日本は、政府部門は先進国一の資金不足であっても、世界一の資金余剰国である。日本の政府部門はまだまだ資金調達が可能な状況にある。政府の負債残高は高水準であるが、財政赤字をさらに膨らませ、負債残高を増加させるゆとりがある。

 巨額の余剰資金が存在する下では、国債残高が増えても長期金利が上昇することはない。

 取るべき方策として
 その1 日本経済の持っている豊富な余剰資金を活用する。具体的には、①政府の保有している金融資産(埋蔵金)を、政府資金として活用する。②国債等を増発して民間から資金を調達し、政府資金として活用する。

 その2 景気を良くする。増税や歳出削減よりも景気を良くする方が財政再建には役立つ。政府のバランスシートを悪化させても、雇用や最低賃金の引き上げ、社会保障制度の充実(これらに対して、バラマキとの批判がある。)を実施した方が、将来の財源の確保という観点からも有効である。

 その3 政府の歳出の無駄をなくして財源を捻出する。

 

 以上が、山家氏の主張である。これは、論争を呼ぶ論文と言える。国民一人当たりの借金額がいくらになったなど負債のみに焦点を合わせた議論が一面的であることは是認できる。フローとストックの議論が混在していることも事実である。

 私には、時代に取り残されそうになっている農家経済のイメージが湧く。作っても作っても赤字なので、将来展望が持てないがとりあえず節約生活を続けるしかないのか、いざとなれば屋敷と田んぼを売ればいいからと借金をして新しい投資を行なうかである。

 新たな投資を成果に結び付けるには、栽培技術や農産物市場の読みなどが需要である。また、屋敷と田んぼのストック資産が、容易にフロー(現金化)に転化するかどうかも不確実な要素を持っている。

 経世済民=経済ということが思い浮かぶ。

 最後に、「国民にばら撒くだけばら撒いて見るのも一つの実験として面白いでしょう。」と結ぶことにする。
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『明日は昨日の風が吹く』

2009-10-19 19:32:55 | Weblog
 『明日は昨日の風が吹く』(橋本治著 集英社 2009年刊)

 書店の平積み台の上で、装丁の美しさに引かれ購入した。カバー&表紙デザインは、SAMURAI 佐藤可士和 奥瀬義樹となっている。全ての書物には、装丁や本文デザインをしているが、誰の仕事なのかと気をとめた事は少ない。

 作者に比べ地味な仕事だと思うが、読者を引き付けるためには重要な仕事だ。音楽などは、歌い手のみならず、作詞家、作曲家、編曲者、演奏者・・ジャケットのデザイナー、写真家・・集団による制作であることが見える。

 本書は、雑誌「広告批評」に連載された橋本氏の時評をまとめたものである。作者が言う様にひとつの話題について、ああでもないこうでもないと取り留めのない文章が続く。グサッとえぐるような気の利いたフレーズも無い。

 これは何なのかと考えた。これは、橋本氏の理解の過程なのではないだろうか。人は、何かを理解する時、自分なりの論理立て、理解の筋道を付ける。それを、言葉に置き換えたものではないか。彼の思考過程を文字化したものである。

 従って、そこに橋本氏の考えや主張は無い。読みながら一緒に考えたり理解をするには有用であるが、そこに思想や哲学を求めても得るものは特に無いのである。



 『第30回北海道ロードレース』(10月18日、真駒内屋外競技場発着ー東橋折り返し、ハーフマラソン)

 1ヶ月近く練習もせず出場、いきなり左足首痛と復路は強風。山田風太郎の語るべきこと無しではないが、ここに書くべきこと無し。

 気持ちの問題とか、反省とか、身体の作り直しとか・・という次元では無く、今の自分がやるべきことなのだろうか?と考えてしまう。 

 


 
 
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官僚たちの秋

2009-10-17 17:17:02 | Weblog
 マトンマサラカレーです。、インドカレー専門店「チャンダマ」(北3条西7丁目緑苑ビル地下1階、道庁別館近く)でいただきました。

 桑園の近くから中央区に移ってきたとのこと。道庁に近いこのビルの平日の昼は、道庁職員が利用する定食屋さんが並んでいますが、そこに本格的インド料理の店が入りました。

 ナンは巨大で美味しく、カレーも種類が豊富で辛さを選べます。お薦めの店です。



 政権交代があり、当たり前の事ですが、政策の洗い直しが進んでいます。前原国土交通大臣、長妻厚生労働大臣の発言がちょっと目立ちます。

 民主党は、脱官僚政治を掲げていますが、今までのところ官僚を上手くコントロールできているのでしょうか。官僚たちの方がお手並み拝見といったところでしょう。官僚もしたたかです。

 官僚が言うことを聞くようにするためには、短命政権、短命内閣に見られないようにすることです。50年も自民党政権が続いてきたのですから、官僚たちのほとんどが腹の中で保守政党を支持していると考えていいでしょう。従って、今は、面従腹背状態です。

 提言①大臣を今後4年間変えないこと。内閣改造などせずにじっくり各省庁を一人の大臣に担当させるべきです。官僚にとって長くは無い官僚生活の中で4年間逆らい続けるということは容易なことではありません。

 提言②キャリア官僚の採用をこれまでの省庁別採用を止めるべきです。今の官僚は、国益よりも省益を優先していると言われています。ノンキャリアは省庁別採用で専門性を持たせるべきですが、キャリアは総合職として省庁を越えて異動し、国家を総合的に考えさせるべきです。



 民主党には、もっともっとラディカルな変革を望みます。小泉改革では、国債残高に注目して、絞りに絞りましたが、一転して民主党政権は、国債発行のタガがはずれています。国民にばら撒くだけばら撒いて見るのも一つの実験として面白いでしょう。 

 


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中川昭一の死

2009-10-05 19:45:18 | Weblog
 中川昭一氏死亡の報を聞いて、最初に思ったのは「自殺?」。おそらく多くの人が氏の置かれている現在の情況から想像したに違いない。次に、キーパーソンは、「ムネオ?」と考えた人も多かったのではないかと思う。

 この2人の政治家のスタートは、父昭一の中川一郎の死を起点としている。当時から、死因については憶測を含めてあれこれ言われ、他殺説が何回も浮上しているが真実は未だ闇の中である。

 政界に大きな衝撃をもたらした事件であり、様々な政治家がコメントしているが、その中でひとりだけ異様で白々しく聞かれてもいない事まで自己弁護に終始していたのが鈴木宗男であった。

 ムネオ日記から拾っても、「二人当選することが天国の中川一郎先生に報いる事だ」「お仕えした人の息子さんという思いで接してきた」「国替えをし、中川さんに譲ったものだった」「こんなにも早くお別れするのなら一度ゆっくりいろんな話をしたかった」・・これらは、今の時点で全く語る必要のないコメントであり、相手の思いを全く省みないただの自己正当化である。

 私は、今回の中川の死が鈴木宗男の抱えているやましさ、最大の弱点に響いたからこそ、時と場を計算できない精神状態に陥り、鈴木氏の地金の部分が出てしまったと思った。氏の狼狽振りから、今後昭一関係者の間から中川一郎の死について新たな事実が判明する可能性もあると感じた。

 私は、塀の中から復活したニュームネオを「変わった」と評価してきたが、遂に鈴木宗男の馬脚を露わしてしまった。氏は、再び転落のターニングポイントを超えたと見る。

 なお、私は、中川昭一氏の死に対しては何の悲しみも感慨も持たない。中川氏も安倍晋三を代表とする2世3世政治家にありがちなひ弱な内面とアンバランスな強がりの言動を繰り返していたからだ。

 
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巡礼

2009-10-04 17:00:58 | Weblog
 『巡礼』(橋本治著 新潮社 2009年刊)

 近くの図書館で見つけた新刊です。著者の橋本治氏は、その昔東大全共闘のポスター「止めてくれるなおっかさん」を描いた人で、その後エッセイのようなものを書いているのだな位しか知りませんでした。氏は小説も書いているのですね。

 平凡な物語です。近所迷惑なゴミ屋敷があって、町内会から避けられ、マスコミで告発されます。そこに老人が住んでいるらしいことがわかります。次の章では、その老人の戦後史が語られます。

 普通の家に生まれ、皆が貧しいながらも普通に働き、結婚し子どもが生まれ・・
そして、家族が死んだり、離婚したりで一人になってしまうという良くある人生が描かれます。

 事件もトリックもない日常的なストーリーですが、誰しもゴミ屋敷の主のようにいつしか孤独になり、社会から孤立してしまう可能性を持っていることが示唆されて終ります。



 人は、自分の身体について自己診断をすることがあると思います。今日のランニングの後、左足のくるぶしの内側に今まで体験したことの無い強い痛みを感じました。それは、直後に一旦は直ったのですが、その後長く座った後に歩こうとしても、足が床に着けないほどの痛みに襲われました。階段はもちろん降りられません。

 しかし、患部に腫れはありません。我慢して少しづつ歩いている内に何とか歩けるようになり、痛みは徐々に無くなります。

 そこで、自己診断が始まります。腫れていないので、骨とか、靭帯ではなさそうだ。患部を押すと痛い。しかし、しばらく歩くなど我慢して動かすと痛みが薄らぐ。だから大したことは無い。関節系なのか、筋肉系なのかわからない。原因は、今日のランニングだが、挫いたり捻ったりはしていないので、加齢によるものだろう。でも、明朝、歩くことができるか心配。

 人は、常に己の肉体との自己対話を続けているのだ。自分を慈しむのも、厳しく鍛えるのも、意識でコントロールできるところが面白いところだ。動物は、自己にあえて負荷をかけるようなことはしないと思う。



 中川昭一氏の死については、ちょっと考えてからにしたい。中川一郎が自殺したとされたショックを受けた日を昨日のことのように思い出します。
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資本論ノオト第8回

2009-10-03 09:48:38 | Weblog
「資本論ノオト第8回」

第3節 商品の物神的性格とその秘密

 *(*印は、私のコメント部分です。以下同じ)物神性こそマルクス哲学のワクワクする真髄部分である。ここには、若きマルクスの疎外論が進化した形で見える。そして、この章の歴史的な記述には未来社会を構想する手がかりがある。

 労働生産物が商品形態を帯びるやいなや、人間と人間との関係が、物と物との関係という不思議な、幻影的な形態をとり、逆の関係になって見えてくることから、商品の不思議さ、神秘性が生まれてくる。(商品の物神的性格)

*「人と人との関係が物と物との関係になって見えてくる」とはどういうことなのか。現実における例を想像してみたい。(曲解、短絡、矮小化を許せ!)
私たちは、友人の関係、恋愛関係、親子など家族関係・・など人と人との関係の中で生きている。純粋な心と心の関係と言ってもいいだろう。
しかし、私たちが生活している社会は、これが当たり前と思ってはいるが、一歩外側から見れば不思議な資本主義社会でもある。この社会は、様々な物やサービスが商品化され、金銭が共通価値となっている社会である。   
金銭が絡むと、たとえ親子であっても骨肉の争いに発展する場合もあるように、人と人との関係が壊れてしまうような社会なのである。
やくざ社会は、親分子分の杯、義理と人情の世界であり、その関係を絶つときに「誠意を見せる」とは、小指を差し出すことである。しかし、資本主義社会に生きる近代やくざになるとその誠意は、「金」に変わる。
 私たちが生まれてからずっと生きているこの物神性に覆われた資本主義社会を常識や前提として考える限り物事の捉えや構想は限定的になってしまう。私たちが、オルタナティブな社会を構想する場合、脱資本主義社会をイメージする必要がある。

 物と物との交換を通じて、初めて生産者たちは、社会に飛び出して他の生産者たちと社会的関係を持つようになる。

 マルクスは、「価値なるものの額には、それが何であるかということは書かれていない」(長谷部訳)と表現している。価値とは、抽象的に人間的な労働力の支出である。

 コレクションでは、「だから価値とは何であるのかは、価値の額には書かれてはいない。」となっている。
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2016年 幻の東京オリンピック

2009-10-02 21:39:26 | Weblog
 昔から私は、石原慎太郎が嫌いだ。なぜなら、彼からはファシストの臭いが漂うからである。今夜、2016年オリンピック開催地が決まる。競合する4市の中で、東京が最初に落選が決まれば面白いと思う。

 その時の石原の顔を見たい。プチ整形かヒアルロン酸注射かわからないが、あの無理に皺を伸ばした顔ではあるが、どのようになるのだろうか。

 鳩山の応援演説も打算に満ちたものであった。下馬評で不利と伝えられていることから、「政府が全力で支援する。」と言ったまでなのだろう。

 スポーツ選手の翼賛ぶりにもあきれる。昔から、絵描や音楽家は支援者に寄生する傾向がある。逆から言えば、生産的な仕事に携わっているのでないからパトロンを見つけざるを得ないのであろう。



 「資本論ノオト第7回」

*マルクスは、ここから左辺と右辺をエイッとひっくり返すのである。そうするとそこに「共通」の何かが浮かぶのである。貨幣としての金の出現である。

C 一般的な価値形態
 消しゴム4個  =
 画用紙8枚   =   ボールペン1本
 ガスライター3個=
・・・
1 価値形態の性格上の変化
 諸商品の価値形態(ボールペン)は、共同的であり一般的である。この場合のボールペンを一般的価値形態と呼ぶ。

2 一般的価値形態から貨幣形態への移行
 商品生産の一般的な相対的価値形態から排除された商品(ボールペン)が、貨幣商品になる。

 そして、人類の長い歴史を通して、実際に貨幣商品の地位についたものは、「金」だった。

D 貨幣形態

 なぜ、「金」が貨幣になったのかは、社会的習慣からである。金が貨幣商品になった瞬間から、一般的価値形態は、貨幣形態に変容した。

 次回は、いよいよ「商品の物神性」に入る。













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