「こんなことは無かった、少し前までは♪」とは、他人同士だったふたりが少し前からは親しげに会話する様を唄った拓郎の歌詞であるが、私の場合には、これまで経験したことの無いことがまだまだ新たに起こるということ。
昨日は、朝から勇んでランニングに、しかし、身体が温まらない走り始めの苦しい時間に、何と「転倒!」、アスファルトの平坦な路面で、何かに突っかかったように感じた瞬間、身体が宙に舞いバッタリと地面に。
とっさに両手で身体を支え、顔面がぶつかることは無かったが、手と膝の擦過傷&打撲。ジャージに穴を開けてしまった。身体が痛いのもダメージだったが、こんなことは無かった、少し前までは、と精神的なショック。
情況論ノート第21回
『財源をどこに求めるか 日本は世界一の資金余剰国、さてどうする』(山家(やんべ)悠紀夫 「現代の理論」’09秋号 明石書店)
雑誌「現代の理論」09秋号は、特集で、「民主党“革命”日本は変わる」と題し、2009.8.30を一票による革命として評価している。さて、「現代の理論」というオールドな誌名は、安東仁兵衛という希代の構造改革派編集者による社会民主主義を掲げる雑誌であった。その流れからいうと、今般の民主党政権を支持ないし期待しているスタンスをとっていると推測できる。
本論文は、所収されている中の一本であるが、私は、2009.10.17「官僚たちの秋」で、「小泉改革では、国債残高に注目して、絞りに絞りましたが、一転して民主党政権は、国債発行のタガがはずれています。国民にばら撒くだけばら撒いて見るのも一つの実験として面白いでしょう。」と書いた。
国家財政の悪化状況に変化が無いのに、大きく政策転換ができる。しからばあの小泉=竹中改革とは一体何だったのだろうか。私は、ここに大きな疑問を持つ。本論文はそれに対する一つの回答になっている。
以下、山家氏の論旨を辿ってみる。
氏は、「財政とは人々の生活に奉仕することを究極の目的とするものであり、財政赤字を縮小ないしは解消することや財政の健全化を図ることが第一の目的ではない。」とする。「財政の目的は、人々の生活に必要不可欠な、しかし市場によっては必ずしも十分には提供されないサービスを提供することや、施設を作り、運営することにある。つまりは支出することにある。加えて収入は所与ではなく、自ら増やすことができる。」
財務省は、財政を家計にたとえて危機キャンペーンを行なっているが、そこには金融資産や不動産が触れられていない。
政府(国と自治体 2007年末)のバランスシートは、資産(金融資産554兆円、固定資産343兆円、土地135兆円など)1,032兆円に対して、負債(国債、地方債など)968兆円で、差し引き正味資産64兆円である。
金融資産554兆円は、GDP比1.1倍で「先進国一の水準」、金融資産のうち中央政府の持ち分が俗に言う「埋蔵金」である。)日本政府は、結構健全な政府であり、負債をあわてて返済する必要はない。
もう一つの見方、日本経済全体(政府、企業、家計部門別)の資金の流れを見ると、政府部門の資金不足(負債968兆円―金融資産554兆円=414兆円)は、家計部門の余剰資金(金融資産1,504兆円―負債376兆円=1,126兆円)によって供給されている。
加えて、家計部門の余剰資金は、企業部門の不足資金(負債1,434兆円―金融資産919兆円=515兆円)を供給してもなお余剰であり、財団等非営利団体の余剰資金51兆円とともに、海外に流出(250兆円)している。
このように、日本は、政府部門は先進国一の資金不足であっても、世界一の資金余剰国である。日本の政府部門はまだまだ資金調達が可能な状況にある。政府の負債残高は高水準であるが、財政赤字をさらに膨らませ、負債残高を増加させるゆとりがある。
巨額の余剰資金が存在する下では、国債残高が増えても長期金利が上昇することはない。
取るべき方策として
その1 日本経済の持っている豊富な余剰資金を活用する。具体的には、①政府の保有している金融資産(埋蔵金)を、政府資金として活用する。②国債等を増発して民間から資金を調達し、政府資金として活用する。
その2 景気を良くする。増税や歳出削減よりも景気を良くする方が財政再建には役立つ。政府のバランスシートを悪化させても、雇用や最低賃金の引き上げ、社会保障制度の充実(これらに対して、バラマキとの批判がある。)を実施した方が、将来の財源の確保という観点からも有効である。
その3 政府の歳出の無駄をなくして財源を捻出する。
以上が、山家氏の主張である。これは、論争を呼ぶ論文と言える。国民一人当たりの借金額がいくらになったなど負債のみに焦点を合わせた議論が一面的であることは是認できる。フローとストックの議論が混在していることも事実である。
私には、時代に取り残されそうになっている農家経済のイメージが湧く。作っても作っても赤字なので、将来展望が持てないがとりあえず節約生活を続けるしかないのか、いざとなれば屋敷と田んぼを売ればいいからと借金をして新しい投資を行なうかである。
新たな投資を成果に結び付けるには、栽培技術や農産物市場の読みなどが需要である。また、屋敷と田んぼのストック資産が、容易にフロー(現金化)に転化するかどうかも不確実な要素を持っている。
経世済民=経済ということが思い浮かぶ。
最後に、「国民にばら撒くだけばら撒いて見るのも一つの実験として面白いでしょう。」と結ぶことにする。