真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 偶には戯れに漫然と、三行感想じみた一般映画に関する雑感など。時には疲躯に鞭打ち一般映画も観ておかないと、時々不安にもなる。

 UMLSのラストに関して、典型的なロング・スリーパーであることにもつき、寸暇を惜しんで眠りたい日々の間隙を突き例によつて小屋で映画を観たのみで、横浜聡子自身の手によるノベライズは勿論、パンフレットの類にも手すら触れてはゐない。その上での、あくまで本篇を相手にした限りでの、個人的な感触である。ラスト・シーン、町子(麻生久美子)は<二度死してなほ、声を聞かせて来る、やうな気もする陽人(松山ケンイチ)の脳を、熊に喰はせて厄介払ひした>、ものと私の歪んだ眼差しには看て取れた。恐らくは初めからその目的を持つてゐもしたのであらう町子の見せる微笑は、これで清々した、といふ表情である。皆が皆さうであるとは必ずしもいはないが、百人の女が居れば、五十一人以上はさういふ生き物であると、私は理解してゐる。即ち、その解釈から当然の如く導き出される帰結として、陽人視点のラブ・ストーリーとしては、今作の結論はバッド・エンドである。
 それはそれとして。今作固有に見られる現象といふ訳ではないが、どうもテーマ曲の使用に際して、それが節度なのかもしくは均衡でも図つてゐるつもりなのか、不必要に、変に控へめに思へてしまふことがままある。もつと思ひきり、ドーンと銀幕をも震はせる爆音で流せばいいのに。寝てゐた観客が驚いて目を覚ますくらゐの、あるいは隣のスクリーンに音がダダ漏れるのもまるで憚らぬほどの。大胆に強引に音楽の富を奪取する、よしんばそれが錯覚に過ぎなくともその瞬間に酔ひ痴れることが出来るのも、小屋ならではでないのか、とも思ふところではある。尤も、今回足を運んだのは世辞にも設備のいい方とはいへないミニ・シアターにつき、私の感じた不満は、映画なり100sの所為といふよりは、単に音響のパワーの問題に過ぎぬやも知れないが。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 Yahoo!がユーザーから募集したとかいふ、「新世紀ヱヴァンゲリヲン」を実写化した場合の、主要キャストの投票結果が発表された。それがこんな感じ。

 碇シンジ:神木隆之介
 綾波レイ:堀北真希
 式波・アスカ・ラングレー:戸田恵梨香
 碇ゲンドウ:阿部寛
 赤木リツコ:松雪泰子
 葛城ミサト:松嶋菜々子

 碇シンジが神木隆之介だなんて、一体あんたの時間は何時で止まつてゐるんだよとでもいふ話なのだが。ここは当方では気紛れに、それぞれの監督に場合分けしての、ヱヴァンゲリヲンピンク版のキャストを夢想してみたい。既にある杉浦昭嘉のアレは、ここでは無視する。

 まづはオーピーから山﨑邦紀版

 碇シンジ:平川直大
 綾波レイ:北川明花
 式波・アスカ・ラングレー:北川絵美
 碇ゲンドウ:浜野佐知
 赤木リツコ:佐々木基子
 葛城ミサト:風間今日子   正直、レイとアスカは全く適当に選んだ。残りは狙つたつもりなのかよ。

 続いて渡邊元嗣版

 碇シンジ:真田幹也
 綾波レイ:早川瀬里奈
 式波・アスカ・ラングレー:華沢レモン
 碇ゲンドウ:なかみつせいじ
 赤木リツコ:真田ゆかり
 葛城ミサト:風間今日子
 加持リョウジ:西岡秀記   リツコと加持のところを決めてから残りを埋めて行つたのだが、これで結構しつくり来るのでは。

 エクセスに飛び、大胆不敵な翻案映画の雄“エクセスの黒い彗星”松岡邦彦版

 碇シンジ:柳東史
 綾波レイ:青山えりな
 式波・アスカ・ラングレー:平沢里菜子
 碇ゲンドウ:吉田祐健
 冬月コウゾウ:小林節彦
 赤木リツコ:小川はるみ
 葛城ミサト:酒井あずさ   アスカ役に平沢里菜子といふのは、答へが出たのでもなからうか。

 新田栄版

 碇シンジ:丘尚輝
 綾波レイ:何処かから連れて来た誰か
 式波・アスカ・ラングレー:華沢レモン
 碇ゲンドウ:なかみつせいじ
 冬月コウゾウ:久須美欽一
 赤木リツコ:風間今日子
 葛城ミサト:鏡麗子   ここは正直、コウゾウ一点突破で。

 新東宝から、池島ゆたか版

 碇シンジ:千葉尚之
 綾波レイ:結城リナ
 式波・アスカ・ラングレー:華沢レモン
 碇ゲンドウ:牧村耕次
 赤木リツコ:山の手ぐり子
 葛城ミサト:日高ゆりあ
 加持リョウジ:神戸顕一   何気に、トータルとしては一番形になつてゐるやうな気もする、神戸顕一を何処に捻じ込むかには矢張り迷つたが。

 最後に、誰かが撮つて呉れ全員監督版

 碇シンジ:荒木太郎
 綾波レイ:佐倉萌
 式波・アスカ・ラングレー:長崎みなみ
 碇ゲンドウ:池島ゆたか
 冬月コウゾウ:野上正義
 赤木リツコ:吉行由実
 葛城ミサト:浜野佐知   アスカのところの無理は認める、ミサトはそれで問題ないのかよ。

 ヱヴァンゲリヲン役は、全作共通で全身タイツを着用しての伊藤猛と国沢実。さういへばヱヴァも兎も角、関根和美がターミネーチャンの新作を撮つて呉れんかいな?時にはかうして全力で漫然と戯れてみせるのも、実に楽しい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 このエントリーの、後日譚である。

 結局観に行つた、といふか後述するが結果論としては辛うじて観に行けた「その男ヴァン・ダム」。

 キネコかよ!

 といふ点に関しては一旦さて措くと、確かにグッと来る場面もなくはないものの、期待あるいは覚悟してゐたほど、泣けて泣けて仕方がないと撃沈させられることはなかつた。例によつてさて措かないと、映画の出来云々以前に、しかも明確に低いキネコ品質の壮絶さは決して小さくはない。不意にタクシーから降りて来た JCVD―といふのが、向かうでのヴァン・ダムの愛称らしい―に、ビデオ屋のボンクラ二人組が驚喜し、又そいつらにヴァン・ダムが応へてあげる件とかは大好きなんだけれどね。だから映画スターへの敬愛は確かに、そしてビリビリと強く感じられるとはいへ、キネコといふ時点で、映画そのものへの仁義を欠いてもゐる一作、と総評出来ようか。
 映画本体からは外れて興味深かつたのは、私はてつきり、今作は私―三度目の年男―と同世代か、若干上方修正したオッサン連中が仕事終りに観に来る映画だと思つてゐた。ところがレディース・デーである水曜日に観に行つたといふのもあるのかも知れないが、実際の客席には、オッサンよりは、寧ろヨン様ならぬヴァン様目当ての、私よりも更に幾分高目のお年頃のマダム勢が多く見られた。個人的にはそこまでノック・アウトされはしなかつたが、映画のクライマックスを飾るヴァン・ダムの長い独白シーンでは、終に陥落したオバハンもといマダムの啜り泣きが場内に漏れた。そのシーンでひとつ気になつたのが、ヴァン・ダムが喋りながら左下の方をずうつと見てゐるのは、その辺にカンペでも置いてあるのか?

 ところで問題は、(公開)二週目の「その男ヴァン・ダム」と、セガの「雷神 RAIJIN」の上映状況、より直截にいふと扱ひである。まづはマシな方の、「JCVD」(原題)から。09:45からの回と、16:10からの回の一日二回のみ。断つておくが、これでもまだマシな方である。要は、個人的要因として週唯一の休日である日曜には遠征に出てゐるため、もしも日程に屈して二週目を狙つてゐたならば、三週目(一応以降)如何によつてはシャレではなく、私が購入した前売りは紙切れになつてしまつてゐたのだ、くはばらくはばら。何で映画の中身にではなく、映画を観ること自体がこんなにスリリングであらなければならないのか。
 更に酷いのはセガ。11:50からの回の一日一回のみ。挙句に、番組表には“続映の場合有り”と留保をつけながらも、二週で公開が終る公算が極めて高い。R-15の映画を昼間一回きり上映して誰が観に来るんだよ!あるいは来れるんだよ!等々。何処から突つ込めばいいのやら最早判らなくなつても来るが、そもそも突つ込まれるべきはあの映画の正体不明なラスト・シーンだと思ふと、飯でも食つて寝てしまはうかとでもいふ気分にしかならない。


コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )




 例によつて本国アメリカではDVDストレート(日本でいふところのVシネ、それでもフィルムで撮つてゐるだけマシだが)の地平、といふか荒野を銀河烈風する中、これが東洋の神秘か相変らず我が国に於いては劇場公開される禍福、もとい慶福に性懲りもなく付き合ふべく、スティーブン・セガール(以下セガ)の珍作、もとい新作を観にシネコンへと、スリリングなタイム・テーブルを掻い潜つて足を運んだ。シネマ・コンプレックスに関して、設備面の充実以外に殆ど唯一積極的に評価出来るポイントは、スクリーンの数が多い分、しばしばかういふ正味な話ニッチな映画もどさくさ紛れに潜り込んで来てしまふ、こともあるところである。同じ映画ならば、しかもこの手のアクションあるいはドンパチものであるなら尚更、出来ればミニシアターより少しでもスクリーンの大きな小屋で観たくなるのも人情であらう。シネコンといふ場所が、小屋の名に値するとは思つてゐないが。ただ一点、この度私が観に行つたシネコンに苦言を呈しておくと、(東京での公開よりは大分遅れた)「その男ヴァン・ダム」と、セガ映画とを同日に封切るのは大いに頂けない。これら二作が心の琴線に触れる客層は恐らく被り、なほかつ今やそのメインは仕事帰りに観に行かうとする、いふまでもなく私も含めてのオッサン連中であらう。同じタイミングで上映したところで元々小さなパイに相乗効果など見込めず、良くて分散、悪くすれば共倒れるのが関の山ではなからうか。少しは空気を読んで呉れ。個人的には今回、実は泣ける映画との評判に胸をときめかせ、別にファンでないにも関らず前売りを買つてゐた「その男ヴァン・ダム」は一旦さて措き、冷酷なシネコンからは先に切られてしまふリスクが高いであらうセガを、ひとまづ押さへておいたところである。最悪の場合、スケジュールが成立せねば前売券が紙切れになつて行くのを眺めてゐなければなるまい。それはそれで、泣ける話ではある。

 「雷神 RAIJIN」(2008/米/製作総指揮・脚本・主演:セガ/監督:ジェフ・F・キング/原題:『Kill Switch』/出演:アイザック・ヘイズ、ホリー・エリッサ・ディグナード、マイケル・フィリポウィック、クリス・トーマス・キング、マーク・コリー、カリン・ミシェール・バルツァー、フィリップ・グレンジャー、フィン・マイケル、他)。セガ演ずる主人公に、“ライトニング”(雷神)なんて異名がつけられる描写なんてあつたかな?
 メンフィス市警の鬼刑事・ジェイコブ(セガ)には十歳の時、双子の弟を椎名桔平に感じの似た異常者に目前で殺害された過去があり、今でもその時の記憶を引き摺り苦しんでゐた。ある夜ジェイコブは相棒のストーム(クリス・トーマス・キング)と共に、胸に起爆寸前の時限爆弾を埋め込まれた(未だ生きてゐる)被害者が、手足は杭で地面に固定された現場に急行する。イカれた犯人はこの模様を間近から眺め愉しんでゐる筈だと踏んだセガ(もうジェイコブといふのが面倒臭くなつた)は、道を一本挟んだアパートの一室に連続殺人犯ビリー・ジョー(マーク・コリー)を見付け出す。ひと立ち回りの末、といふか何時もの如くセガが一方的にビリーを半殺しにすると、起爆装置の解除法を吐かせる。要は拷問だ。加へて、なほも抵抗を見せる健気なビリーを、セガは無体といふか無法にも窓から外に放り捨てる。無論、部屋は一階ではない。
 ブルース発祥の地は今や余程物騒な街なのか、ビリーの他に、もう一人別のシリアル・キラーが暗躍を続けてゐた。といふか要は“歩くハルマゲドン”セガが居る時点で、何処でも物騒になつてしまふのか。遺体発見現場に、占星術から想を得たと思しき謎のメッセージを残す通称“グリフター”(漂流者)を、柄にもなく暗号解読に取り組むセガとストームは追ひ続けてゐた。ところで、漂流者だとグリフター“grifter”ではなく、ドリフター“drifter”ではないかしらんとフと思ひ、耳を欹てて観てゐたものだが、音的には、矢張り“grifter”といつてゐるやうだ。だとすると、訳としてはペテン師辺りにでもなるのではとも思ひつつ。ともあれ、グリフターを逮捕するべく、FBIから終始無駄にセガに反目するミラー捜査官(ホリー・エリッサ・ディグナード)が市警に乗り込んで来る一方、セガの箍の外れた捜査手法を理由に、ビリーは釈放される。
 などと粗筋を掻い摘んでみせる作業すらに、やりきれない虚しさがとめどなく込み上げて来る別の意味で壮絶な一作。加齢といふよりは抑への利かぬ体重増加により、近年アクション・スターの看板を揚げながら殆ど動かなくなつてしまつたセガではあるが、今作に至ると、最早まるで動いちや呉れない。ボディ・ダブルに頼りきりのアクション場面はそのことを誤魔化さうといふつもりか―誤魔化しきれないショットも散見されるが―、カットの間飛ばし、何のつもりだか繰り返しを徒を通り越して闇雲に濫用し、何が何だか画期的に判らない。挙句に、その合間合間に挿み込まれるセガの悠然とした表情のカットが、壊滅的な不協和音を轟音で奏で立てる。正方向のセガの見せ場は皆無なことに加へ更に恐ろしいのは、その手法をセガとは無関係な、ノされた無法者がブッ飛ばされるカットや、セガが絡むとはいへ、別にプロップを持つて人差し指を動かしてゐるだけの、ガン・アクション場面にまで用ゐてしまつてゐる点。最初のアクション・シークエンス、ビリーの窓から路上への落下カットから、御丁寧を病的に通り越して四度か五度繰り返される。完全に狂つてゐる。最も出来の悪さが顕著なのは、地下道を舞台としたグリフター追跡シーン。繋ぎがへべれけで、セガとグリフターとの位置関係すら滅茶苦茶な始末。どちらが前に居るのかよく判らない。基本逃げてゐるグリフターの筈なのだが。
 幾度と蒸し返されるセガ十歳時の記憶とやらも、結局物語には呆れる程に組み込まれない。椎名桔平似の犯人も、そもそもこいつは誰なのか、そしてその去就は、等々といつた部分も近付かうとする気配も一切見られず仕舞ひの内に、観客を猛然と襲ふ逆方向に全速転進した“衝撃的なラスト”は、あまりにも酷い。空前絶後に酷い。腹を立てるとか腹も立たないだとかいふ以前に、圧倒されグウの音も出ないくらゐに酷い。この際封切られたばかりの映画の結末だといふことも弁へず、字を伏せることもなく詳細に御紹介する。率直なところとしては、告発とでもいつた方がより適切ですらあるやうな気分だ。
 セガは(素手ではなくトンカチで)体中の骨を砕き、グリフターを検挙する。といふか、駆けつけた応援の警官に、殺してしまひかねないところを制止されただけでもあるのだが。続けて同棲する女性巡査・セリーヌ(カリン・ミシェール・バルツァー)は殺害されつつ、ビリーは逮捕、せずにブチ殺す。グリフター被害者の爪の間から検出されるセガDNAの扱ひも感動的にぞんざいな―ミス・リードさせようとする意図すら感じられない―ままに、セガはメンフィスから姿を消す。ストームには破天荒なこれまでの自身を顧みるやうな書置きを遺し、他方では「俺は自分の道を歩んで来た」、そんな感じの歌詞の曲に乗りながら。カット変ると後日、セガ帰宅。

 何処に?セリーヌと、ビリーの遺体が転がる部屋がセガの住居ではなかつたのか。

 そこそこの邸宅のドアを開けると、若く美しい妻、二人の子供、それにお手伝ひまでがセガを出迎へる。満面の笑みを浮かべたセガが、出張帰りの親父のお土産、とでもいつた風情で家族にそれぞれのプレゼントを手渡すと、妻は二階の寝室へとセガ、即ち夫を誘(いざな)ふ。やをら服を脱ぎ始めた妻は(ちやんとオッパイも見せる、この時点で、アメリカではレイティングがひとつ厳しくなる)、「私がプレゼントへのお返しよ《ハアト》」などといはんばかりに、自らの首にリボンを巻く。鼻の下を伸ばしたセガが、「ここから先は見せないよ」なんて雰囲気で扉を閉めると、画面は暗転。そのままエンド・ロール・・・・・

 何だこれは。

 こんな出鱈目なラスト・シーン見たことねえよ。何処だといふことに加へ、誰だその女。何だその生活。セガは安月給のやさぐれ刑事ではなかつたのか。強ひてこのシークエンスが成立し得る可能性を摸索するならば、瀕死のセガが、既に死んだ家族と再会したりもするお花畑の代りの、幻想オチ以外には考へられないであらう。従来の、あるいは十全な映画文法からは。筆舌に尽くし難い、といふのはかういふ時にこそ用ゐる表現なのであらうか。老いたか肥えたスティーブン・セガールの、今は劇中で実際に悪党を吹き飛ばすことも無くなつた豪腕が、映画そのものを木端微塵に粉砕した。さういふことにでもしておく他に、今作を読み解く途は存在し難いのではないか。
 何処まで余計に徹して呉れやがるのか、邦版かも知れないがポスター・ワークまでいい加減。詫び寂びでも感じればよいのか今作が遺作となるアイザック・ヘイズに、劇中銃を構へるシーンなんぞ欠片も無く、その隣の青い服を着たデブも、吃驚する程の端役だ。チラシ裏には、劇中では見辛いだけの手の込んだフラッシュ・バックでぼやかされたセガ弟殺しの椎名桔平(超絶仮名)が、綺麗に抜かれてゐたりなんかもする。
 唯一の拾ひ処を辛うじて挙げるならば、残念ながら濡れ場は無いがカリン・ミシェール・バルツァーの、出鱈目な筆の滑らせ方をするならば「私はセックスをする為に生まれて来ました」とでもいはんばかりの、濃厚で即物的ないやらしさ程度。今作を観ようとしたこと自体への後悔は兎も角、途中で寝落ちもせずに全篇通して観てしまつた、自らを叱責さへするべきなのか。ああもう、何だか全力でどうでもいいや。
 捨て身なのかヤケクソなのか、日本配給のムービーアイが打つた惹句が「“落雷!”ロードショー」。ふざけ過ぎだ。

 一応最後に。シネコンに対する繰言の続きであるが、初日こそ二十三時過ぎからの土曜レイトもあるものの、「雷神」のその他の日の最終回は、恐ろしいことに何と夕方六時からの回である。子供の観る映画ぢやないんだよ、そもそもR-15だし。一日の上映回数も二回。これは最早、空気を読む読まないの以前に、初めから観せようとする気も殆ど無いな。それも已む無し、といつた気持ちですら、この期にはファンながらあるのだが。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 平成21年映画鑑賞実績:228本 一般映画:23 ピンク:180 再見作:25 杉本ナンバー:50 ミサトナンバー:7 花宴ナンバー:5

 平成20年映画鑑賞実績(確定):218本 一般映画:34 ピンク:160 再見作:24 杉本ナンバー:46 ミサトナンバー:4 >然し一般映画が少ないな、手が回らん

 再見作に関しては一年毎にリセットしてゐる。その為、たとへば三年前に観たピンクを旧作改題で新たに観た場合、再見作にはカウントしない。あくまでその一年間の中で、二度以上観た映画の本数、あるいは回数である。二度観た映画が八本で三度観た映画が一本ある場合、その年の再見作は10本となる。

 因みに“杉本ナンバー”とは。ピンクの内、杉本まこと(現:なかみつせいじ)出演作の本数である。改めてなかみつせいじの芸名の変遷に関しては。1987年に中満誠治名義でデビュー。1990年に杉本まことに改名。2000年に更に、現在のなかみつせいじに改名してゐる。改名後も、旧芸名をランダムに使用することもある。ピンクの畑にはかういふことを好む(?)人がままあるので、なかなか一筋縄には行かぬところでもある。
 加へて戯れにカウントする“ミサトナンバー”とは。いふまでもなく、ピンク映画で御馴染みプールのある白亜の洋館、撮影をミサトスタジオで行つてゐる新旧問はずピンクの本数である。もしもミサトで撮影してゐる一般映画にお目にかかれば、当然に加算する。
 同様に“花宴ナンバー”は、主に小川(欽也)組や深町(章)組の映画に頻出する、伊豆のペンション「花宴」が劇中に登場する映画の本数である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨年九月末に消滅した旧本館より戯れのサルベージ企画、今回は二年前の正月、郷里に帰省した際に観に行つた、隣り町の尾道に当時一般公開されてゐた戦艦大和の実物大セットについての思ひ出である。いふに事欠いて“思ひ出”とは何事か。改めて振り返るが戦艦大和の実物大セットとは、「男たちの大和」(2003/製作・音楽総合プロデューサー:角川春樹/配給:東映/監督・脚本:佐藤純彌/特撮監督:佛田洋)の撮影で実際に使用されたロケセットのことである。

 焼夷弾に関して、「大きな打ち上げ花火だと思つてください」(仮名遣ひを改めるのみで原文ママ)、だなどと呑気が唸りを上げ炸裂する珍解説が付けられてゐたり、土産物のコーナーでは、何の変哲も無い従来からある旧態依然とした尾道土産に、無理から大和のシールが貼られて売られてゐたりと、大和の実物大セットは普通に一地方都市の観光スポットとして機能してゐた。大東亜戦争を忌避する者からも美化する側からも、さういふ光景に対しては何かと難癖つけたくもなりかねない雰囲気ならば酌めぬではないが、ひとまづかうして、尾道に人が集まり、そして金を落として行くといふことは、綺麗事だけでは片付かぬ日々の生活の中では、それはそれとして、その限りに於いてのみであつたとしても、矢張り結構なことに違ひない。事の是非は一旦さて措くと、今生きてゐる人間は、けふの飯を喰はなくてはならないのだ。
 艦首から艦尾までの全てが再現されてゐる訳でないことは兎も角、第一主砲と艦橋上部はCG合成であるといふことで、想像、あるいは希望してゐたものと若干趣は異なつてゐた。鉄で出来てゐるかと思へばベニヤであつたりと、間近で見てみれば案外安普請であつたりもしつつ、それにしても矢張りデカい。少し引いて眺めてみれば、予想以上に壮観である。これならば、エンジンを積み替へれば大宇宙の彼方にまで航行出来るであらうことも、十分容易に肯ける(出来ねえよ)。あんなにコスモタイガーをわらわらと胴体に艦載することは、流石に無理だとしても(だからさういふ問題ではない)。
 元々その場にあつたオンボロの建物に(普段使つてあつたのか否かも最早判らないレベル)急拵へた資料スペースも、容れ物の割に中身の方はそこそこに充実してあつた。買つてはゐないので恐らくはといふ推測であるが、パンフレットから転載した白石加代子の、かういふちやんとした映画を多くの若い人達に観て貰ひたい、といふコメントは胸を打つた。阿川弘之氏の、『大和を思ふ』と題された小文には更に胸を撃ち抜かれた。当時既にとつくに時代遅れであつたことが明らかであつた筈の、超巨大戦艦大和。それはたとへ無用の長物であつたとしても、それでも尚のこと矢張り、当時の日本のひとつの結実、ひとつの到達点であつたのだ。確かに無用ではあつたとしても、大和は決して無駄ではなかつたのだ。決して大和を無駄にしてはならないのだ。といふ内容で、結果論の泣き言といつてしまへばそれまででもあるが、衷心から時代を超え世代を超えて心に響く名文であつた。ただ、一箇所(×二回)仮名遣ひの誤りが見られたのが気になつた。あれは阿川氏御本人の筆の誤りなのか、それともアホタレの担当者が仕出かしたのか。
 大和は、正月早々大勢の人出で賑はつてゐた。普通に一地方都市の観光スポットとして機能、と先に述べたが、映画は素通りして純然に物見有山で訪れた方も多いのであらう。さうした向きの中から一人でも、もしも劇場にフィードバックされたならば、それでれつきとした正解ともいへるのではないか。土産物コーナーの一角には、封切り三週目にして未だ全国共通の劇場前売り券が売られてあつた。それはとりあへずいいとして、謎なのは。確か千三百円である筈の前売りが、千二百円で売られてゐたことである。値が崩れたのか?

 映画本体に関しては。ドラマ・パートは求心力を欠いたグランド・ホテル、航空機その他のCG合成は毎度の東映特撮ではあつたが、実物大セットの上で、若年兵中心の(最早若年兵しか残つてはゐなかつたのだ)日本軍が虫ケラのやうに無残に命を散らして行く、壮絶な悲壮は確かに見応へがあつた。三十点以下の映画を期待して観に行つたところ(どういふ屈折した期待だ)、六、七十点の映画であつた、といふのが概評である。長淵師範が、主題歌に留まらず本篇の中にまで出張つて呉れてゐたならば、もつと期待通り映画の底も抜けたのに。だから何だ、その明後日を向いた期待は。後、仲代達也の役は生きてゐれば室田日出男の役であつたらう、とは思ふ。仲代達也では幾分男前過ぎる。

 資料スペースに於いて佐藤純彌のフィルモグラフィーの中から、「北京原人」がシレッと無視されてゐたことには笑つた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 そこかしこに未見作も残しつつ、とか何とか拱いてゐる内に年も明けてしまひかねない頃合につき、今年もヤッツケ気味に見切り発車気味に07年ピンク映画ベスト・テンを掻い摘んでみるものである。全般的には、正方向にも逆の意味でも若干決定力不足に、と見るところなので簡略に済ませる。

 07年(昭和換算:79-3年)ピンク映画ベスト・テン

 第一位「未亡人アパート 巨乳のうづく夜」(オーピー/監督・共同脚本:吉行由実)
 小粒ながら、誠実な娯楽映画としての、総合的な完成度に於いては随一。
 第二位「ノーパンパンスト痴女 群がる痴漢電車」(Xces/監督:松岡邦彦)
 クライマックスのグルーヴ感は圧巻。唯一のウイーク・ポイントは主演女優。
 第三位「桃肌女将のねばり味」(オーピー/監督:竹洞哲也)
 縦横無尽な本格を披露する、松浦祐也が力強く牽引する鉄板青春映画。
 第四位「裸の女王 天使のハメ心地」(新東宝/監督:田中康文)
 必ずしも成功を果たしてゐるとはいへないが、正調娯楽映画への志向は買へる。
 第五位「痴女・高校教師 ‐童貞責め‐」(Xces/監督・共同脚本:神野太)
 実用部門最高傑作。濡れ場に突入してもヒロインにメガネを外させない姿勢は、宇宙が生まれ変つても正しい。
 第六位「密通恋女房 夫の眼の前で…義父に」(Xces/監督:大門通)
 “久須美欽一・ストライクス・バック”を高らかに告げる痛快作。
 第七位「新妻の寝床 毎晩感じちやふ」(オーピー/監督:関根和美)
 特にどうといふこともないが、主演の小峰由衣と、大胆にも親子役に扮する城春樹と牧村耕次の軽妙かつ芳醇な絡みは見させる。
 第八位「厚顔無恥な恥母 紫の下着で…」(Xces/監督・脚本:山内大輔)
 ソリッドさも兼ね備へつつ、こちらも実用部門から。主演の花野真衣の体はヤバい。
 第九位「社長秘書 巨乳セクハラ狩り」(オーピー/脚本・監督:山邦紀)
 男優部門の久須美欽一と並び、久方振りに脱いで呉れた吉行由実がカンバック賞受賞。
 第十位「潮吹きヘルパー 抜きまくる若妻」(Xces/監督:新田栄)
 馬鹿馬鹿しいながらに、実は手堅く、そして綺麗に纏め上げられた一作。

 未見作の主だつたところとしては、公開順に
 「ロリ作家 おねだり萌え妄想」(オーピー/監督:渡邊元嗣)
 「女引越し屋 汗ばむ谷間」(オーピー/監督:竹洞哲也)
 「特命シスター ねつとりエロ仕置き」(オーピー/監督:渡邊元嗣)
 「痴女教師 またがり飲む」(オーピー/監督:池島ゆたか)
 「変態穴覗き 草むらを嗅げ」(オーピー/脚本・監督:山邦紀)、等々。

 個別部門としては抜粋気味に、主演男優賞は「ワイセツ和尚 女体筆いぢり」の佐野和宏。自ら手掛けた脚本の、後半の変節は重ね重ね惜しい。カンバック賞の久須美欽一と吉行由実に加へ、新人賞は結城リナ。

 因みにこちらも粒が小さいワーストは

 第一位「をんなたち 淫画」(国映・新東宝/監督:大西裕)
 ゴダールの言つてゐたことは嘘であることだけは判つた。
 第二位「いたづら家政婦 いぢめて縛つて」、「銀行レディ エッチに癒して」(共にオーピー)の二作を通して小川欽也が採用した反スターシステム。
 第三位「魔乳三姉妹 入れ喰ひ乱交」(オーピー/監督:浜野佐知)
 話がまるで成立してゐない。
 第四位「淫情 ~義母と三兄妹~」(国映・新東宝/監督:坂本礼)
 酷く虚しい一作。
 第五位「老人と美人ヘルパー 助平な介護」(Xces/監督・脚本:山内大輔)
 大根にも程がある棒立ち主演女優に、映画全体が負けてしまつた。
 それと、国沢実も二本とも酷かつた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨年九月末に消滅した旧本館より戯れのサルベージ企画、今回は「俺たちの勲章」第十五話、「孤独な殺し屋」等に関する雑感である。パンドラの箱を、開けてしまつたやうな気がする。

 小生ドロップアウトは高校生の頃に、非常に判り易くもあるが「探偵物語」の再放送に呆気なくノック・アウトされて以来、松田優作の大ファンである。同様の者は周囲にも大変多く、さういふ文脈で私は最も多感な時期に「探偵物語」再放送の直撃を受けた自分達の世代を、“優作セカンド・ジェネレーション”と総称してゐる。松田優作の映画やテレビ・ドラマの中で(未見のものもあちこちあるが)、どれが一番好きかと問はれたならば、それが作品として最も完成度が高い、ともそこに出て来る優作が最高にカッコいい松田優作である、とも決して思はないが、それでもなほ一番好きなのは、心から好きなのは「俺たちの勲章」である。
 「俺たちの勲章」(日本テレビ/昭和50年 4/2~9/24、全十九話/製作:東宝株式会社)。事件解決の為には手段を選ばず、何時も始末書を書かされてゐるクールでワイルドな中野(松田優作)と、優し過ぎるが故にしばしば感傷的で、生真面目過ぎるが故に融通が利かない新人刑事の五十嵐、ことアラシ(中村雅俊)。かういつた二人の対照的なはぐれ刑事が織りなす、青春の輝きと挫折とを描いた作品である。と、バップ公式サイトの解説を殆ど丸パクりして適当に掻い摘んでみたが、個人的には「俺たちの勲章」とは、ダメ人間の、ダメ人間による、ダメ人間のための刑事ドラマである。
 行きつぱぐれたダメ人間が、同じやうに世界の片隅の更に最周縁で生きてゐるやうなダメ人間相手にやり切れない犯罪を犯し、それを矢張り警察組織の中でストレートに行きつぱぐれてゐるダメ刑事が捜査する。加害者も被害者もダメ人間のダメ犯罪をダメ刑事が捜査する。ダメ人間の犯罪者をダメ人間の刑事が逮捕しはするものの、それで何かが解決したのかといふと、実は何もかもが全く解決されてゐない。世界からはみ出してしまつた者ははみ出してしまつたままで、世界から零れ落ちてしまつた者は零れ落ちてしまつたままで、矢張り何もかもは全然解決されてはゐない。何一つ、誰一人救はれないままである。ダメ人間相手に罪を犯したダメ人間の犯罪者をダメ人間の刑事が逮捕したところで、駄目なものは依然として駄目なままなのである。事件としては一応ひとまづ表面的には解決を見たものの、実のところは何一つ、誰一人救はれぬままに、「切ない野郎だぜ」、とか何とか優作がミスタースリムをキメてその回は終る。
 要はさういつたビートで全篇貫かれた全十九話は、お利口に群れの中に留まる九十九人にとつては辛気臭く、時代遅れとしか映らない代物に過ぎないのかも知れないが、私にとつてはエモーショナルなことこの上ないドラマである。全てはダメなものがダメなままで、一切救はれず、まるで報はれず仕舞ひのドラマであるにも関はらず、それでもダメなもの達が精一杯美しく、精一杯カッコ良く描かれた「俺たちの勲章」が、愛ほしくて愛ほしくて仕方がない。文字通り、70年代から時代を越えて俺達に届けられた勲章なのでは、とすら思へて来てしまふ程である。たとへそれが、ブリキであつたとしても。

 全十九話の中でも、私がとりわけ一番大好きなのは、第十五話「孤独な殺し屋」(監督:山本迪夫/脚本:鎌田敏夫/ゲスト主演:水谷豊)である。
 水谷豊、若い頃は本当にカッコ良かつた。大好きである。私は優作も大好きではあるが、優作のセンを狙ふにしては、首から上の造作をひとまづ等閑視するものとしても、タッパは足りず、足も短い。その点水谷豊ならば、まあ全身全霊を込めて勘違ひでもすれば、それもそれとしてどうにか何とかなるかも知れない。恥も外聞もかなぐり捨てて吐露してしまへば、私は水谷豊になりたい。私は水谷豊が大好きである。が、大好きだつた、といつてしまつてもよい。
 滅茶苦茶なことをいふが水谷豊には、三十年前に死んで貰つてゐても構はなかつた。といへば筆を滑らせるにも程があるならば、引退して貰つてゐても構はなかつた。役者はテレビに出ては駄目である。といふのは些かならずいひ過ぎであるやも知れぬが、役者はテレビに染まつてしまつては駄目ではなからうか。現象論レベルで安直に金を儲けてしまふ、現し世の中で安穏と位置と名声とを得てしまふといふこともさて措き、それは矢張り、より本質的には今既にあるこの世界と、容易く相容れてしまふことを意味するのではないか。三十年前といふのは「熱中時代」の始まつた、昭和五十三年を指す。
 私が心から大好きな水谷豊は、心から大好きだつた水谷豊は、刑事ドラマでダメ人間の犯罪者を繰り返し繰り返し演じてゐた、それこそ同一シリーズに、ヘビーローテーションで何度も何度も犯人役で出て来てゐた頃の水谷豊である。因みに、を通り越して殆ど当然とでもいはんばかりの勢ひで、水谷豊はたつた全十九話の「俺たちの勲章」の中で、十五話の他に第八話の「愛を撃つ!」にも勿論犯人役として登場してゐる。
 「孤独な殺し屋」。役名等は失念してしまつたが、水谷豊は母親を殺し行き倒れかけたところを、殺し屋集団の元締めに拾はれる。以後元締めこと「おやじさん」の下で、アイス・ピックを得物に標的を仕留める殺し屋になる。
 そんな水谷豊が行きつけの定食屋の娘の気を惹かうと、冗談めいて「俺は殺し屋だよ」、と口を滑らせたところから、組織の保全を危ぶむ「おやじさん」から、別の殺し屋を差し向けられる羽目になつてしまふ。クライマックスは、放たれた刺客を全て返り討ちにした水谷豊が、海に浮かぶボートの上に「おやじさん」と二人。

 「俺、おやじさんに死ねといはれれば死んだよ。それなのに俺を殺さうとすることなんてなかつたぢやないか」。微妙にビブラートする、水谷豊のエロキューションが狂ほしく泣かせる。

 親を殺し、もうこの世界の何処にも身の置き処の無くなつてしまつた孤独な殺人者。「俺、おやじさんに死ねといはれれば死んだよ」。そこまで信頼してゐた最後のただ一人にすら、終には冷たく背を向けられる。最終的に、水谷豊は「おやじさん」をも殺し、追つ手にパクられる前に、常備してゐた毒薬で自ら命を絶つ。この時、この頃の水谷豊といふ役者は、誰からも愛されぬ者の哀しみを全速力で体現してゐた。そこが私は大好きだつた。誰からも愛され得ぬ者である、所詮この世界の中で上手く生きて行けやうもあらうか。ポケットの中には何も無く、隣りにも誰も居ない。この先も行く当てもあるものか。ただ、それでもさうした者のみが、この世界の何処にも寄る辺を持たない以上、たとへ非力で無様であつたとしても、独りで屹立し得た、独り屹立を試みた者のみが到達し得る真実といふものがあるとすれば。さうした者どもでなければ体現し得ないエモーションといふものもあつたとしたら。役者はテレビに染まつてしまつては駄目ではなからうか。今既にあるこの世界と、相容れてしまつては詰まらない、といふのはさういふ意味である。

 まるで話は飛んでしまふが、水谷豊絡みの大好きなエピソード。長谷川和彦が「青春の殺人者」を撮るに際して、水谷豊に声を掛けた時の遣り取りである。
 「お前、ジェームス・ディーンやらないか?」、
 「やります」。
 こんなカッコいい会話、映画の中でも聞いたことがない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨年の九月末に消滅した、旧本館より戯れにサルベージしてみた「バタフライ・エフェクト」(2003/米/監督・脚本:エリック・プレス&J・マッキー・グラバー/主演:アシュトン・カッチャー、エイミー・スマート)の概評である。こんなこと始めるといよいよキリ無いぞ。

 バタフライ・エフェクト、とはフライヤーによるとカオス理論に於ける用語で、「ある場所で蝶が羽ばたくと、地球の反対側で竜巻が起こる」、といふものである。初期条件の僅かな違ひが、将来の結果に大きな差を及ぼす、といふのが正確な含意らしいが、要は、日本語でいふならば「風が吹けば桶屋が儲かる」、とでもいふ塩梅である。細かい疑問については無視して通り過ぎる。与太ついでに、ここで風が吹くところから桶屋が儲かるところまでのプロセスを、参考までに記しておく。何の参考なのだか。

①風が吹くと砂埃が舞ふ
②砂埃が目に入つた為に目を患ひ、失明する人が現れる
③失明した人は三味線弾きになる
④三味線需要の増大により三味線屋が猫を捕らへる(過去に於いては三味線の皮に猫皮を用ゐてゐた)
⑤猫の数、即ち捕食者数の減少に伴ひ、相対的に鼠が蔓延る
⑥鼠が桶を齧る
⑦晴れて桶屋が儲かる、といふ次第である。
 もうひとつ付け加へると、被食者数の増大により、先々には再び猫の数も増えるやうな気がする。話を元に戻す。

 主人公エヴァンは幼馴染のケイリーと、様々な不幸の重なりの末に切ない別離を迎へる。エヴァンを乗せて母親の運転する、街を出て行かうとする車に駆け寄るケイリー。母親に気付かれないやうに、無言のままエヴァンはいつも手元に置いてゐた日記帳に走り書き、ケイリーに向ける。“I'll come back for you.”、君の為に戻つて来る。
 七年後、エヴァン(アシュトン・カッチャー)は将来を嘱望されるエリート大学生になつてゐた。ふと手にした幼少期の日記から、置き忘れて来た過去を取り戻したエヴァンは、“I'll come back for you.”とはいひながらそれつきりになつてしまつてゐたケイリー(エイミー・スマート)に会ひに行く。果たして、七年ぶりに再会したケイリーは、かつての愛くるしい少女が、今ではすつかり一欠片の希望すら失つた、やさぐれたカフェーの安女給に身をやつしてゐた。「どうしてもつと早く迎へに来て呉れなかつたの!」、さうエヴァンを詰つて別れたケイリーは、その夜自殺する。
 エヴァンには過去に戻る能力があつた。バタフライ・エフェクトを起こす為に、過去のある一部分を操作することによつて、現在の悲劇を回避する為に、エヴァンは過去へと戻る。
 通俗的によくいはれてゐるやうに、この世界の中での幸と不幸との総量は予め一定とでもいふことなのであらうか。過去をどう操作したとて、誰かの不幸は回避出来ても、又別の誰かしらが不幸になる。互ひに誰かと誰かとで殺し合つてしまつたりだとか、誰かしらかが一層不幸になつてしまふ。ケイリーも、やさぐれたカフェーの安女給などといふのはまだマシな方で、顔に大きな傷跡のあるヤク中のパン女にすらなつてしまつてゐたりする。「こんな筈ではなかつた」、とエヴァンは更に何度も何度も過去に戻る。何度も何度もやり直さうとする。ある時などは、エヴァンは事故により戦場に行つたジョニーよろしくの片端になつてしまふ。傍らでは幸せさうにしてゐるケイリーが、別の幼馴染のデブと恋人同士になつてゐる。自分はどうならうともある意味構はない。ケイリーが、皆が幸せであるならば。さう思はないでもないエヴァンであつた。然しその場合もエヴァンの母親が、健やかで美しかつた母が、息子の事故以来ヘビー・スモーカーとなつてしまひ、肺ガンで余命幾許も無い状態にあつた。「こんな筈ではなかつた」。更にエヴァンは過去に戻り直す。
 ここから先は手放しなネタバレ・パートである。
 <エヴァンは終に答へを見出す。それは、幼少期の思ひ出の最初にまで立ち返り、そもそもが初めから、ケイリーと出会はなかつたことにしてしまへばいいといふものである。最初の別離の時にケイリーに約束した“I'll come back for you.”、エヴァンは過去に戻る。ケイリーと出会はなかつたことにしてしまふ為に。ここで聞こえよがしに大音量で流れ出す、オアシスの「ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト」に、まんまと滂沱の涙を絞り取られてしまふ。果たして現在、(多分)ニューヨークの街頭で、美しく、そして全うに成長し成人女性となつたケイリーと、エヴァンとがすれ違ふ、といふのがラスト・シーンである。エヴァンにはケイリーが判つてゐる。ケイリーとすれ違ふ刹那、「これで良かつたのだ」、「これでいいのだ」、と自らが下した最終的な、恐らくは他は無かつたであらう選択を噛み締める。ケイリーにはエヴァンが判らない、筈である。初めから出会つてゐないのだ。ただだけれども、何かしら心惹かれたケイリーはふと、すれ違つたエヴァンを振り返る。
 エヴァンが何度も何度も過去に戻つては試行錯誤するパートの、それぞれに訪れる不幸は本当に仮借ない。情け容赦ない不幸をあれだけ積み重ねて見せられては、不快に思つてしまふ向きもあらうし、その意味では、娯楽映画としての趣味を問はれる部分は若干残る。そもそもが、何度も何度もやり直しが効いてしまふパラドックスを免責された御都合主義に、拒否反応を示すといふのもあるやも知れぬ。ただ然し、それでもなほ、美しい映画である。最初の別離、エヴァンが後ろに遠ざかつて行くケイリーに、必死で“I'll come back for you.”、「君の為に戻つて来る」と大書した日記帳を車の窓ガラス越しに見せようとするシーン。最初に訪れた悲劇、七年ぶりに再開した夜に自殺したケイリーの墓に、エヴァンが“I'll come back for you.”と書かれたページを捧げるシーン。大音量でオアシスが流れる中、エヴァンのラスト・トライ。“I'll come back for you.”君の為に戻つて来る。エヴァンはケイリーの為に過去に戻る。<ケイリーとは出会はなかつたことにしてしまふ為に。>悲しい映画である。だが然し、それでもなほ、美しい映画である。悲しいからこそ、なほのこと美しい映画である。破天荒な牽強付会をかますが私の大嫌ひな映画「アメリ」(2001/仏/監督・共同脚本:ジャン=ピエール・ジュネ/主演:オドレイ・トトゥ)とは、主人公が正しい選択を下すといふ物語である。かつて江戸川乱歩はかういつた、「現し世は夢であり、夜の夢こそ誠」。「アメリ」とは、夢見がちな主人公のアメリが、夜の夢といふ真実を捨て、現し世といふ単なる現実を選び取るに至る物語である。その選択は正しい。一人の人間の社会的な成長過程としては、全く以て正しい。もう正し過ぎるくらゐに正しい。だがその正しさに、何程の美しさがあるといふのか。「バタフライ・エフェクト」が娯楽映画の趣味として、万能に都合の良過ぎるプロットの採用に際して間違つてゐたとしても、時に物語には、間違つてゐるから美しいこともある。悲しいからこそ美しい時もある。間違つてゐれば間違つてゐる程、悲しければ悲しい程、美しいといふ思想もあるのである。

 「バタフライ・エフェクト」。日本語吹替版(無えよ)の主題歌には、筋肉少女帯の「これでいいのだ」を希望。♪これで、いいのだあ!《シャウト:伊集院光》ダダダーン♪そぐはんかいな。



 「バタフライ・エフェクト」の、箆棒なディレクターズ・カット版のラストに関する付記、< 「バタフライ・エフェクト」には、何とラストの異なるディレクターズ・カット版が存在するとのこと。下手に感動した映画にさういふ話が出て来ると、些かならず複雑な心境にもなつてしまふものではある。ところで今作は元々二年前に公開された映画だといふことで、本国ではとうにDC版もDVDとして発売されてゐる。そこでその驚くべき結末の内容であるが、軽く検索を掛けてみたところ、秒殺で出て来た。な何と、そもそもが<母親が出産しようとしてゐるところにまで遡つて、自ら臍の緒で窒息死することにより初めからエヴァンが生まれて来なかつたことにしてしまふ!>といふものであるとのこと。何だそりや。ゼロ・サム思考のやうで、考への足らぬ着地点であるやうに思はれる。どう転んだとて、公開版の方が絶対にストレートでエモーショナルであらう。大体が、さうなると主題歌は何処で流れるのか、え、<分娩室>?(笑)

 話が転がるのに任せて、「アメリ」に戻らなくとも別に構はないが最後に触れておくと、一節だけ、心に震へた台詞がある。文脈を最早記憶してはゐないのは面目ないが、アメリの隣人で贋作家の老人が語る、「人間には、人生を失敗する権利がある」といふ台詞である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨年十月の旧本館よりの移行後、現行極めて稀でもある、時には純然たる繰言である。

 改めて自己紹介がてらにいふが、当方ドロップアウトカウボーイズは、九州は福岡市在住のピンクスである、出身は別だ。ピンクスとは、“ピンク映画愛好の士”を意味する造語である。福岡市にはオーピー映画直営の福岡オークラ劇場(オークラ1で薔薇族、2でピンク)がかつては存したが、残念無念、2006年の五月末で既に閉館してゐる。尤も福岡市からピンクの小屋が完全に消滅してしまつたのかといふと、さうではなく、駅前ロマン―とパレス―といふ小屋が未だ残つてゐる。尤も、正確なタイミングは忘れた―上に今は調べ直す気力に欠く―が、福岡オークラが健在であつたかなり早い時点から、駅前ロマンはフィルム映写をやめプロジェク太上映に移行してをり、それに伴ひ三本立てのうち通常二本、時に一本、酷い時は三本ともがピンクでなくVシネといふ、当地に残存する最後の牙城とはいへ中々に切ない小屋ではある。ところで、この小屋かつてはエクセス系列館の筈で、新日本映像(エクセス母体)公式サイト内の劇場案内にも記載があつたのだが、今回再確認してみたところ、何時の間にやら消えてゐる。大人の事情、とやらと思しきところにつきおとなしくさて措くが、といふ訳で以前はエクセス新作がプロジェク太上映ながら結構早いタイミングで、それよりは若干遅れるものの福岡オークラよりは早く、新東宝の新作もかゝつてゐた。現在は大体同じやうな時間差で新東宝の新作と、平素はオーピーの2003年作を順次上映してゐる。色々な考へ方もあらうが、個人的にはプロジェク太上映であつたとて、三打数一安打であつたとて、それでもピンクはピンク、あくまでピンクはピンクである。といふ次第で、プロジェク太に移行後福岡オークラ健在時には正直足も遠のいてゐた駅前ロマンに、現在は再び頑強に通ひ続けてゐるものである。
 さてそこで、先週手放しで観たかつた関根和美の旧作を楽しんだ、ところまでは良かつた。二週前からロビーに貼り出されてあつた、今週の番組予定は「義理の妹 いけない発情」(2005/ 脚本・監督:関根和美/主演:出雲千尋)、直截にいつて嫌な予感はした。何故藪から棒に2005年次に飛ぶのか、小川欽也の「妻の妹 いけない欲情」(2003)と間違へてね?といふ気がしたのだ。けふ、金曜から番組の変る駅前に仕事終りで一応足を運んでみたところ、表に貼り出されてあるポスターは依然「義理の妹 いけない発情」。「妻の妹 いけない欲情」ならば改めて観るつもりはなく、「義理の妹 いけない発情」ならば進んで観たいものであつたので、途中からではあるものの残り二本のVシネも丸々一周するつもりで券を買つた。さて劇場内に入ると、なかみつせいじとの情事の夢を見ながら、三上翔子が自慰に耽つてゐる。カット明けると、竹本泰志と佐々木基子も登場・・・・案の定「妻の妹 いけない欲情」でやがる、本当に有難く御座いませんでした
 一度財布から抜いた金を、返せといふつもりはひとまづない。さうはいつても流石に一言筋を通してはおかうと小屋の人間を捕まへてみると、こゝから先は、よくどころか殆ど全く理解出来てゐないため、文言としてそれほど正確ではない。大意である旨を、予めお断りする。小屋の人間が寄こした返答は、「いけない欲情」は「いけない欲情」で、それが「義理の妹」であるか「の妹」であるのかは、サブタイトルゆゑ取るに足らない瑣末であるとのこと。今気づいたが、片方は「いけない発情」でもう他方は「いけない欲情」である以上、その副題論すら実は成立してゐないのだが。何れにせよ、結果的な要点としては表に貼り出したポスターと、実際に上映してゐる映画が食ひ違つてゐても構はないといふのである。元々デフォルトで疲れ果ててゐるのに加へ、あんまりの斜め上を行く返答に最早腹を立てる気力も失ひ、その場はおめおめと引き下がりつつも、当然といふか何といふか、かうして決して断じて1mmも釈然とはしてゐないところである。これで釈然とさせられることが出来れば、任天堂法務部を相手に戦つても勝てるね。

 そんな駅前ではあれ、来週の番組は傑作との誉れ高い池島ゆたかの「不倫妻の淫らな午後」。再来週は、確かリアルタイムで観落としてゐる筈の、国沢実の「悩殺天使 吸ひ尽くして」(何れも矢張り2003年作)。然様に無体な小屋でも足を運ばずにをれない己の業の深さといふか一種の弱さが、今は呪はしいばかりである。さうはいへ腹立たしさに任せて、こんな小屋何時潰れて呉れても構はんよ、とまでいふのは、全体の状況を鑑みれば、筆を滑らせるにも度が過ぎる放言であらうことは、頭では判つてゐるつもりである。元より、そもそもこの世界全部俺の敵、そこから始めたのではなかつたか。小屋にすら冷たくされたとて、この期に一々一人ぼつちで夜泣きするまでもなからう。

 付記< 結局、現時点で最後に駅前ロマンで上映されたエクセス新作が何なのかといふと、昨年十月に観た、(2007年)七月の山内大輔更にもう一つ気がついたのは、実は今でも新日本映像公式サイト劇場案内中の、地図と住所とが記載された駅前ロマンのページ自体は生きてゐる。リストからは漏れてゐる以上、どうやつて辿り着くのだ、といふ話でもあるのだけれど。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 主演デビュー作「刑事ニコ/法の死角」(1988/米/製作・監督・脚本:アンドリュー・デイビス/脚本:ロナルド・シャセット、他一名/製作・主演:スティーブン・セガール/出演:パム・グリア、シャロン・ストーン、他)から二十年、目出度くも“芸能生活20周年記念作”などと銘打たれたスティーブン・セガール(以下セガ)の新作を、正直同じ街ながら私の住む場所からは結構アクセスに難いシネコンまで、性懲りもなくわざわざ足を伸ばして観に行つた。例によつて本国ではDVDストレートのこんな代物今作、銀幕で拝める至福あるいは単なる酔狂もしくは何かの間違ひを、それでもセガファンとしては矢張り謹んで享受させて頂かずにはをれまい。別にそんなこともねえやうな気も強くしないではないが、そのやうな全うな常識的判断はこの際何処かに忘れて行け。
 「沈黙シリーズ」完結といふことに関して個人的には別に真に受けてゐる訳ではないものの、今回は「DENGEKI 電撃」(2001/米/監督:アンジェイ・バートコウィアク/製作:ジョエル・シルバー、他)以降のセガ第二シリーズ(の前後を逆にした)、適当な威勢のいい漢字二文字の単語+それのローマ字、といふ放題もとい邦題が設けられてゐる。あるいは“ポン酒”の要領で、“ポン題”とでもいふべきか。

 「弾突 DANTOTSU」(2007/米/製作:セガ、他/監督:ロエル・レイネ/脚本:ジェイ・ディー・ザイク/原題:『Pistol Whipped』/撮影監督:リチャード・クルード/主演:セガ/出演:ランス・ヘンリクセン、他)。
 酒とギャンブルに溺れた、元刑事のマット(セガ)。数年前に証拠品の横領疑惑に巻き込まれ、職も失ふ。別れた妻子は当時庇つて呉れた同僚刑事と暮らし、マットは相変らず酒に浸りながら、賭場に通ふどん底の日々を送つてゐる。ある日大負けして更に大きな借金を背負つてしまつたマットは、強面に廃劇場へと誘(いざな)はれ、両頬に筋のある謎の老人(ランス・ヘンリクセン)に引き合はされる。老人(“Old Man”としかクレジットされない)は肩代りした借用証書と引き換へに、マットに法で裁けぬ悪党を始末する仕事を請け負はせる。
 判り易いといふか陳腐過ぎていつそ清々しい仕事人稼業や、今は絶賛無職のマットが、刑事になる前の更に前職は特殊部隊隊員であつたりなんかする、お約束ながらそれ程を通り越して特に意味は全く無い定番設定に関しては、この際さて措く。今作兎にも角にも特筆すべきは、

 セガ太り過ぎ。

 近年すつかり肥えてしまつたセガの姿には、それでも仕方なく慣れてもゐたつもりではあつたものの、それにしてもあんまりな御姿である。一体90年代中盤までのベスト・ウェイトからは、何十キロ太つたのだ?掠れ気味の声もあり、高見山大五郎かと思つたぜ。幾ら今はアルコールと博打とに溺れたダメ人間といふ人物造形とはいへ、何といふこともない所作で一々「フゥフゥ」と息を乱すセガには、最早役作りなのか素なのだか判らない。といふかその造形自体に、寧ろ微妙なリアルさを感じ取ればよいのか。お話の方も、「何の為に?」と一旦は首を捻らせておいて、シーンの変り際には見事に納得させるマットが廃工場で並べて立てるマッチ棒や、マットが最終的に真相に辿り着く段では、キチンとそこに至る上での伏線を配しておく辺りには、“『RONIN』の”、といふ脚本のジェイ・ディー・ザイクの枕詞は伊達ではないことが窺へる。とはいへ全般的には、光学迷彩を搭載したトンデモ・ステルス機が出て来たりしない分、如何にもB級映画然とした漫然とした粒の小ささだけが残り、却つてツッコミ処に欠けるとすらいへる。開巻で触りも見せて呉れる、クライマックスの墓地を舞台にした壮絶な銃撃戦は、様式美と悲壮感とに溢れた大変見応へあるものではあるのだが、それまでの物語の積み上げがいまひとつ不十分な分、ドンパチとしての出来は申し分ないながら決定的なエモーションをモノにするところまでには到達してゐない。今や何時、どれだけ本人によるアクションが見られるのかと、明後日の方向にスリリングなセガクション(セガール+アクションの意)に関しても、鮮やかに光速の輝きを魅せるセガール拳の見せ場も僅かながら無くはないものの、そのあるか無きかの数カットの為に、疲躯に鞭打ち小一時間チャリンコを飛ばしてしまふ己の業が恨めしくも思へて来る。そもそも、セガが近年は開き直つたかの如くボディ・ダブルを多用を通り越して濫用してゐることに関しては、今更論を俟つまい。ただ今回個人的には初めて気が付いたのは、ボディ・ダブルに関して、フォト・ダブルとは更に別個に、ボイス・ダブルといふのもクレジットされてゐる。確かに近作、カットによつては丸つきりセガの声が別人であつたりすることも覚えがあるが、フォト・ダブルがカメラの前で背中を向けて動き、そこにボイス・ダブルが後から声をアテてゐるとするならば、それはもうセガ本人は何もしてゐないことになる。加へてもうひとつ惜しいのは、マットと同じく特殊部隊出身といふ設定が別に有効に機能してゐる訳ではまるでないランス・ヘンリクセンが、どうせならばこの際現場復帰するところは見たかつた。

 タイトルの中に、“TOT”といふ泣き顔の顔文字が隠されてゐるやうな気がするのは気の所為かとも思つたが、どうやら適当につけ流してゐるやうに見せかけて、相当秀逸なポン題であつたやうだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 「20世紀少年」(2008/ 主題歌:『20th Century Boy』T.REX)。時にはメインストリームの映画も観るよ。
 因みに、初めにお断りしておくと、浦沢直樹の原作は一コマも未読。監督の堤幸彦に関しては、「溺れる魚」(2000)を観た際に「二度とこいつの撮つた映画は観ん!」と激昂したものであつたが、ひとまづ当代きつてのポン画界(“日本映画界”の意)ビッグ・プロジェクトといふことで、いそいそとシネコンに足を運んでみた。
 とりあへず、今作は二つの大きな過ちを犯してゐる。何はともあれ第一には、毎度毎度一般映画の概評を書く度に同じことばかりいつてゐるやうな気もするが、といふか事実さうでもあるのだが、

 フィルムで撮れよ、タコ。

 クライマックス、東京を襲ふ“ともだち”の巨大ロボットに主人公らが敢然と立ち向かふ“血のおほみそか”。肝心の巨大ロボットの全景すら判然としない有様なのは、半分はキネコ品質の所為。小屋で観るよりDVDで見た方がよく見えるやうな代物を、当サイトも映画として評価しない。
 羽田空港や国会議事堂のロング・ショットCG爆破シーンは、それまでのドラマ部分が総じて病的にカメラが寄り過ぎてばかりなだけに、偶さか映画を観てゐる気分を錯覚出来もするが、ここは矢張りジョー・ダンテのいふ通りに、ミニチュアで出来ることは、ミニチュアで撮影するべきではなかつたか。そもそもがフィルムで映画を撮らない人間に、いふたとて詮ない方便でもあらうが。全体的には、あくまで全三部作中の一作目とはいへ、何処に製作費六十億も使ふたのか?といふ感が非常に強い。映像的スペクタクルとしてはほぼ皆無。六十億といふ数字は本当に正味の映画「20世紀少年」に費やした総額で、その半分は広告宣伝費、といふオチであるならばそれはそれとして肯けぬでもない。
 第二には、ラストで流れる「20th Century Boy」のボリュームが小さい!個人的に勝手に期待してゐたところでは、映像は完全に終り、エンド・クレジットが流れ始めたところで、劇場を吹き飛ばす勢ひの大音量でドカーンとあの馬鹿でも知つてゐる名リフが轟くといふものである。対して実際は、第二章への繋ぎのエピローグのBGMとして「20th Century Boy」を浪費しておいて、オーラスに流れるのは唐沢寿明歌ふ、かつてはロックを志してゐたといふ設定の主人公:ケンヂの劇中オリジナル曲といふ有様。一体どういふブラック・ジョークか。今作の一切合財を掻き集めたとて、「20th Century Boy」の一小節にも敵ひはしないのだ。音楽の富を奪取せよ。映画はぼちぼちだつたのに、主題歌の威力で何故か大感動に震へながら劇場を後にする、最早さういふ形の突破口しか残されてゐなかつたのではないか。

 だとか何とかはいひつつも、あれやこれやは兎も角最終的には強大な敵に主人公らがレジストする、といふシンプルでエモーショナルな物語なだけに、何だかんだで散発的、あるいは局部的には心を揺さぶられたのが正直なところでもある。第2章にも、矢張り多くは望まないままに、一応足を運んでみようかとは思ふ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007/監督:長谷川和彦では又してもない/出演:坂口拓・松浦佑也、他)。かういふ地点から見事実際に映画の完成・公開にまで漕ぎ着けたことに関しては、素直に評価出来さうな気もするが。
 ざつと見渡したところ、映画ファンの多くは今作を概ね高く評価してゐるやうである。“概ね高く”どころではない絶賛の嵐すら、労することなく散見される。にも関らず蛮勇を振り絞る、こともなく。当サイトに於いては決然と一言で片付ける。

 フィルムで撮れ、タコ。

 全篇を通して情けないキネコ画質にやきもきさせられつつ、最終的に追ひ詰められた連合赤軍と完全に包囲した機動隊との、苛烈な筈のあさま山荘攻防シーンに於いて、映画としては完全に詰まれてしまふ。徒に臨場感だけならば溢れてもゐるが、外光はトビまくり、画面の中で何が起きてゐるのだかまるで判然としない。かういふ点にこの期に拘泥してみせるのも、多分に時代からは後れた物言ひに過ぎないことも承知の上でなほのこといふが、小屋に木戸銭を落とした観客に、三時間強も見せる品質の代物では毛頭ない。シネアストとしての若松孝二の良識を疑ふ、とまでいふのは大人気なく、潤沢な製作資金が集まらなかつたならば、90分に収めた上でフィルムで撮ればいいのだ、といふのは流石に暴論に過ぎるか。ともあれ、あくまで映画としては一見の価値無し。ひとつの大事件に対しての、同時代人としてのオトシマエ、としてならば議論はまた全く別である。いはゆる山岳ベース事件。総括、といふ名の仲間内での大量リンチ死。若松孝二は、徹底して一連の地獄を容赦なくトレースした後に、最終的にはその衝撃的な悲劇に対して、一体如何様にしてあの時彼等はさうした事態に至つてしまつたのか、に関して今回ひとつの答へを出す。吐いたばかりの唾を飲み込むやうなことを申すが、その叫びからは、映画監督若松孝二としての、撃ち抜かれた決定力が確かに伝はつて来る。

 ブント関西派の塩見孝也役が我らが拓ちゃんこと坂口拓と知り、拓ちゃんがマジ当てのジェット・パンチで内ゲバを闘ひ抜くシークエンスを期待したが、勿論あらう筈もなく。そもそもが、「お前の観る映画ぢやねえよ」といふ反駁に対しては、おとなしく頭を垂れる。とはいへ無謀といふか勇猛果敢といふか、あの拓ちゃんが展開する、あるいはさせられた観念的な長台詞は、それはそれとして出色。不器用で逆説的なリアリティを狙つた上での配役であつたならば、正しく大ベテランとしての卓見であらう。
 ピンク勢からは、松浦祐也が、何故か“松浦佑也”名義で登場。ほんの少しだけ。一応ピンでは抜かれるものの、台詞も無い。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 出し抜けであるが。メタル(・ロック)の人に於ける“メロイック・サイン”に相当する、“ピンクス・サイン”を思ひついた考案した。改めて二点補足しておくと、“ピンクス”とは「ピンク映画愛好の士」を意味する造語であり、メロイック・サインとは、別の名称で判り易くいふと、“不沈艦”スタン・ハンセンでいふところのテキサス・ロング・ホーンと同じ形の、指によるジェスチャーである。
 さてピンクス・サインの作り方とは。
①右手の中指を立てる。語弊を感じた場合は、人差し指でも可。
②左手の親指と人差し指とで輪を作る。要はOKサイン。
③立てた右手の中指(あるいは人差し指)に左手の輪を隣接させ、ピンクの頭文字の“P”の字を作る。ピンクス・サインを行ふ本人からは、いふまでもなく小文字の“q”に見える。
 後は腕を伸ばし高く掲げるもよし。印でも結ぶ要領で、力を込めて臍の辺りに構へるもよし。個人的には、グッと腹の前に据ゑたいところか。

 「成程それは面白い」と気に入つて頂けた諸兄に当たられましては、どうぞ御随意に使つて頂きたい。そのピンクス・サインとやらを、何時、何処でどのやうに使ふのだ、といふ至極冷静なツッコミに関しては、この際御容赦願ふ方向にて。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 一般映画の短評である。
 我等が世界に誇る“SPEED MASTER”坂口拓こと拓ちやんの監督デビュー作、「魁 !! 男塾」(2007/原作:宮下あきら/監督・脚本・アクション監督・主演:坂口拓)を観に行つた。短評といふところに胡坐をかき、ストーリーその他は一切端折る。
 一言でいふと、よく出来た映画だとは口が裂けてもいへぬが、拓ちやんの男気はしかと受け取つたであります、押忍!
 もう少し言葉を重ねると、第一義的には、娯楽映画とはロジカルに、テクニカルにあるべきといふのが当サイトの基本姿勢である。よしんばさういふ堅苦しいことをいはずとも、今作に際してここがおかしい、あそこがチャチい、何処が足りない至らない、などといつたやうな難癖をつけることは容易い。それこそ、バカにでも出来る。だとしてもなほのこと、第ゼロ義の地平に於いては。今回拓ちやんは、偶さか技術や知識や経験や、おまけに製作環境にも恵まれなくて、成功はしなかつた。完成は果たせなかつた。ただ、拓ちやんの志が辿り着けはしなくとも向かはうとした先は、決して間違つてはゐなかつた筈だ。オーラスで語られる、男は、誰しも心に一本の刀を持つてゐる。後はその刀を磨くか、磨かないかだといふテーマは、一本の映画を通して、拓ちやんからの「俺もかうして磨いてゐるから、お前等も磨かうぜ!」といふメッセージとして確かに伝はつて来る。それは劇中に描かれた登場人物の描写のみを介してのものではなく、磨き抜かれた肉体と技と、そして女子供にすつかり市場が支配されてしまつて久しいこの時代に、敢て負け戦覚悟で男の、男による、男の為の映画を撮らうとした拓ちやん自身の姿とを通してのものでもある。

 とはいへ矢張り負け戦であつたのか、今作がヒットしてゐる気配は今のところ窺へない。だがどうにかして拓ちやんには、次の、その又次の機会にも恵まれて欲しい。さうしてゐれば何時の日か、きつと時代を撃ち抜き国境をも越える、真の傑作をモノにするに違ひない。坂口拓といふ男には、さう信じ込ませて呉れるサムシングがある。
 ただ拓ちやん、お願ひだから次回作はフィルムで撮らうね。そこは最も基本的な、志の問題であります、押忍!


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »