酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「響かせあおう 死刑廃止の声2011」に参加して

2011-10-10 03:08:23 | 社会、政治
 一昨日(8日)、世界死刑廃止デー企画「響かせあおう 死刑廃止の声2011」(牛込箪笥区民ホール)に、大学時代の先輩Kさん(出版社勤務)とともに足を運んだ。

 二つの問いを抱えて集会に臨んだ。第一は、<日本人はなぜ死刑に固執するのか>である。欧州ではベラルーシ以外が死刑を廃止し、米国でも16州が執行停止状態にある。憲法9条を守る〝優しい日本人〟だが、80%以上が死刑制度存置を支持し、裁判員制度導入後、死刑求刑は8例に及んだ。辺見庸氏の講演に触れ、答えを導く微かな光が彼方に射すのを覚えた。

 第二は、<3・11と死刑の関連>だ。ヤツコ米原子力規制委委員長の言葉を借りるまでもなく、福島原発事故は明らかな人災だ。ならば、原発を推進した政官財の複合体、事故後に「放射能は大丈夫」を繰り返した枝野前官房長官は、何らかの罪に問われるべきだろう。

 ところが枝野氏は経産相に横滑りし、野田首相は外遊中に原発再稼働を示唆した。九電社長は辞意を撤回し、青森では民主党が原発推進の先頭に立っている。<罪を悔いて反省し、償い購うという人間的な道筋を失くした国に死刑を宣告する資格はない>というのが、集会に参加した上での結論である。

 5時間に及ぶ長丁場は、「死刑はそれでも必要なのか――3・11の奈落からかんがえる」と題された辺見庸氏の講演、死刑囚(86人)の声を伝える報告会、大道寺幸子基金に寄せられた死刑囚の作品(文芸、絵画など)の合評会の3部構成だったが、悪い予感は的中する。辺見氏の講演が終わるや、会の趣旨を理解していない多くの人が席を立つ。辺見氏がそのことを知れば憤りを覚えるはずだ。

 進行とは異なるが、2部⇒3部⇒1部の順で記していく。まずは死刑囚の肉声から。直筆がスクリーンに写し出され、要諦が朗読される。執行への怯え、死刑制度への疑義、諦念、慟哭、環境改善の要求など様々な声が伝えられたが、冤罪を主張する者の多さに驚かされた。俺の胸に染みたのは井上嘉浩死刑囚の一文で、少年時代と現在をカエルの鳴き声で繋ぎ、オウム入信の経緯や悔悛の情が淡々と綴られていた。

 第3部では基金選考委員を務める太田昌国、加賀乙彦、北川フラム、池田浩士、川村湊、坂上香の各氏に香山リカ氏がゲストとして加わり、死刑囚の作品を合評した。制限された条件で創作されたことを考慮しつつも、<表現者>として高いレベルを求める厳しい言葉が相次いだ。評価が高かったのは北村孝紘死刑囚のテルテル坊主に絞首刑を重ねた絵画で、グサリと心に刺さってくる。

 話は逸れるが、選考委員のひとりである池田氏の著書「闇の文化史」(80年)は、俺にとって物事を測る基準となった。この集会をきっかけに、西洋近現代史、哲学、天皇制、死刑と多岐にわたる〝反骨の知識人〟の著書を読みたくなった。

 辺見氏の90分の講演については、自分なりに消化したものを簡潔に記したい。3・11は辺見氏にとって<神話的破壊>であり、表現する術を失くした<内面の初期化>だった。恩師の記憶を辿り、あたかも旧に復することが可能であるかのような<ナショナルヒストリー>を排し、「個として思い、葛藤せよ」と訴える。

 日本人は3・11以前に既にリアリティーを失い、複製と幻影を追っていたのではないかと辺見氏は語る。時間的連続性は失われ、倫理観と産業的構造が壊れた現在の日本は、〝板戸一枚下は地獄〟状態だ。内部被曝は福島のみならず全国の若い世代を苦しめ、貧困と格差はより激しい形で表れるだろう。

 <夥しい死と喪失が進行し、明日にでも崩壊する社会で死刑判決を下すことは、英明だろうか、それとも愚劣だろうか>と辺見氏は問う。愚劣な行為(死刑)を支えているのは、<死を生に織り込む>日本人のセンチメント(情緒)と指摘する。

 俺も齢を重ねるにつれこのセンチメントが濃くなっているが、辺見氏が問題にするのは政治利用だ。民衆の命など一顧だにせぬ棄民国家は、<戦争や災害による死=神聖>と位置付け、<汚らわしいと存在=死刑囚>を対置する。第3部で香山氏は、<善と悪>、<白と黒>に物事を峻別する<社会病理=スピリッティング>がメディアに蔓延していると語っていた。俺は両氏の言葉に通底するものを感じた。

 辺見氏は堀田善衛の「方丈記私記」を引用し、<流れに身を任せてきた日本人は、意識的に歴史をつくってこなかった>とペシミスティックに論じていた。だからこそ、死は生の中枢に据えられ、諦念と恬淡が美徳とされる。3・11以降、俺はカズオ・イシグロの小説に違和感を覚えたが、辺見氏の言葉で腑に落ちた。

 辺見氏は講演の最後に、交流のある大道寺将司死刑囚が震災後に詠んだ句<くらやみの いんえいきざむ はつぼたる>を紹介する。同死刑囚の句集「鴉の目」については別稿(07年3月17日の稿)に記した。辺見氏は同死刑囚を<日本語の最高の表現者>と絶賛している。

 同死刑囚は40年近く蛍を見ていない。幻の蛍は放射能に汚された福島を舞っていたのだろうか。それは、絶望の、いや、希望の徴だったのか。想像力を掻き立てる句である。「思うこととは即ち生きていること。こんな人を殺していいのだろうか」と辺見氏は言葉を結んだ。

 俺が辺見氏から得た最大の教訓は<アイ・スタンド・アローン>だ。孤立しようが、底が浅いと嗤われようが、俺は思い、感じたことをこのブログに記している。それが俺にとって、生きている証明なのだから……。


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2 コメント

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Unknown (あきこ)
2011-10-12 18:55:32
では、辺見氏は人間の命を顧みていたのか。
と思うと今の自分には疑問なのです。

オカアサンの命には寄り添いつつも、娘さんの命については、やはり疑問だったのです。

彼の個人的な面において、どうしても腑に落ちなくなり、それ以来、声が届きません。
表現者の闇 (酔生夢死浪人)
2011-10-14 05:47:12
 集会で紹介された死刑囚の作品は当然ですが、表現者は闇を抱えている。

 桎梏、慟哭、罪の意識、恥……。自らを穿つ言葉を底から吐く辺見庸も同様です。斎藤茂吉や鶴田浩二など、家族にとっての性格破綻者が世間を唸らせた例も多い。表現者は表現によってのみ評価すべきだと思います。

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