弁理士の日々

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釜石・津波からの生還

2011-08-06 09:07:44 | 歴史・社会

前々回ご紹介したように、釜石駅前広場の西側(地図の⑨部分)にある「駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石」(左下写真)に立ち寄り、(有)菊鶴商店のお店を切り盛りしていた女将さん(下中写真、右下写真)から地震・津波時のお話をうかがいました。
   
  駅前橋上市場               菊鶴商店                 菊鶴商店
女将さんのお話では、地震発生時にご本人はこのお店におり、避難して津波の難を免れましたが、お嫁さんは浜町1丁目のご自宅にいた息子さん(女将のお孫さん)を心配して車で自宅にとって返し、あやうく命を失うところだった、とうかがいました。そのお孫さんも、3階建ての自宅屋上に避難したところを家が倒壊したものの、無事に生還したとのお話でした。

東京に帰ってから、インターネットで釜石の津波状況の映像を検索しているとき、偶然こちらのニュース映像に遭遇しました。
見てみると、まさに菊鶴商店のお嫁さんとお孫さんが津波に遭難し、そして奇跡的に生還する様子が映像に残され、ニュース番組で紹介されていたのです。

この映像もいずれ削除されて閲覧不可能になるかもしれません。惜しいので、ここにその話を再現して残しておこうと思います。

ご自宅は、上の地図で「浜町1」と書かれたあたりに位置しており、海と山に挟まれた場所です。今回の映像は、背後の山に設けられ「避難道路」と呼ばれている位置から撮影されたものです。
この避難道路、今回の釜石訪問で私も歩いた道路です。
地図の⑬の位置にある登り口から、避難道路に上がりました。
  
 避難道路から              避難道路沿いの狐崎城址碑
左上写真は、避難道路に上がったところから下を見た写真です。1軒だけ斜めになってしまった家が見えます。上がったところの谷筋には、右上写真のように「史跡 狐崎城址」と書かれた石柱が立っています。
石碑には以下の内容が書かれています。室町時代の中頃、遠野の阿曽沼氏の家士である狐崎玄蕃が狐崎城に居り、その後、附馬牛村に移ると記録にあります。慶長6年(1601)に狐崎城主の荒谷肥後が葛西の浪士鹿折信濃や金堀らと狐崎城に立て籠もりました。この時代、城の南は、真下まで波が打ち寄せていました。ここを攻めた伊達の軍勢は海陸二手に分かれ、籠城した161人を残らず虐殺しました。この戦いを釜石一揆ともいい、狐崎城の西側は荒屋敷、東側には首切沢という地名が今も残っているといいます。
この避難道路を西にたどります。左下写真のような被災地が広がります。⑨の位置が下中写真、真新しい「津波避難場所」の標識が建ち、下から登る階段が右下写真です。
   
  避難道路から              避難道路                避難道路への登り口
私は右上写真の階段を降りました。ここよりさらに西側、避難道路がバイパスと突き当たる位置を下から見たのが下の写真です。
 
  避難道路を望む
さて、地震発生直後、お嫁さん(菊池真智子さん)は、浜町1丁目の自宅にいる18歳の息子さんを心配し、仕事場(駅前のお店)から車で戻ったのです。車を自宅の北側道路脇につけ、車を降りました。私が通った避難道路から見える位置です。そのとき、近所の人が自転車で走りながら「津波が来るから逃げろ」と叫んでいるのが聞こえました。そこであわてて再度車に乗って逃げようとしました。テレビ番組では、避難道路に避難した人たちが「逃げて!逃げて!危ない!」と口々に叫んだのが聞こえたことになっていますが、ご本人から8月8日に電話で教えていただきまして、避難道路からの叫び声は聞こえなかったということです。距離から考えてそのとおりと思います。避難道路からは「車じゃなくて!」との叫び声が上がりましたが、当然、菊池さんにはわかりません。

高台の避難道路から見ると、津波の白波はもう菊池さんの自宅南側のすぐそばまで迫っています。しかし、自宅北側の菊池さんからはそれが見えないのですね。菊池さんが車に乗り込むのと、自宅の東側と西側の両方から波が押し寄せてくるのがほど同時でした。あっという間に車は波で押し流され、その数秒後には水かさが1階の天井付近まで到達し、菊池さんの車はどこにも見あたりません。
「津波が来ると騒いでいたときにびっくりして車に乗ったんですよ。そこから水がばーっと来て、車ごとそのままどーっとあっちに持っていかれて。」

菊池さんの車は北側の袋小路に流されました。流された方向は幸いした可能性があります。水かさはどんどん増えていきます。車は濁流に沈み、前が下になった状態です。そのときリアのガラスが割れ、菊池さんはそこから外に飛び出しました。

「プールの下にいるような感じで、空が青くて瓦礫がこう見えてて、とにかく上に上がらなきゃって。気持ちがすーっ萎えるというか、そういうときがあって、そういうときは身体が沈んでいくんです。でも、あ、だめここで死んでられない、と思って必死になって上に立ち泳ぎみたいに上に上がって。つかまったら丈夫な瓦礫につかまれたので上半身こうやって少し休んで。」

近くの丈夫な建物の2階の窓まで水が来ていたので、瓦礫に伝わりながらその窓からビルに入り、屋上に上がりました。避難道路からの映像は、ビルの屋上で手すりにつかまり、茫然とする菊池さんの姿をとらえています。

「上がったときにこの辺全部海で、もう見たときに・・・あんときはもうね、息子はもう死んだと思ったんですよ。それで一生懸命この屋上から息子の名前を叫んだんですよ。」

このとき、息子さんがいた自宅は完全に倒壊し水の中に沈んでいました。

実は菊池さんが車で流された直後、息子さん(18歳)は自宅の屋上に上がっていました。避難道路のカメラが、そのときの映像を捕らえていました。このサイトの上側の動画です。
その後、家は津波に流されましたが、息子さんは他の家の屋根に上がり無事高台に逃げていたのです。

翌朝、役所の職員たちが現場確認のため高台の避難道路に向かいました。菊池さんはびしょ濡れの身体を毛布でくるみ、屋上で救助を待っていました。
職員は避難道路から拡声器で菊池さんに、波は引いているので高台に避難するように呼びかけました。津波がないことを確認した菊池さんは、瓦礫の上を伝ってビルを脱出しました。屋上から降りたのは地震から16時間後のことでした。

「ただただ運が良かっただけです。車に乗んなくても、あの水の勢いじゃ私の足では逃げられなかったかもしれないです。」

映像は、菊池さんの工場に移ります。鉄骨とコンクリート製の外壁は残っていますが、中は津波によって完全に破壊されている状況です。

「あとできっと何年か後に、あんときああだったねえといえるように・・・・・。ここでがんばるしかないですね。」

このニュースが流れたのは3月末のようです。ナレーションは「菊池さんは避難生活を送りながらも、来月から仲間たちと営業することを決めています。」と伝えていました。その営業を再開した駅前橋上市場のお店を、私が今回訪問したのでした。

先日、駅前橋上市場で女将さんからうかがった話をブログ記事にした際、このブログ記事を公表して問題がないかどうか、菊鶴商店にFAXをお送りしました。すぐその午後に電話をいただきました。その電話の主が、菊池真智子さんだったのです。
お話では、息子さんも元気で、仕事に就いて励んでおられるということでした。

菊池さんご一家のこのお話に、私は勇気づけられました今回の大地震と大津波に際しては、無数のご家族のこのような物語が埋もれているのでしょう。

ps 2013.11.1. この記事をアップした当時に閲覧可能だった動画は、いずれも現在では閲覧不可です。
本日、偶然に新しい動画を見つけました。こちらです。
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