弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ミサイルギャップとキューバ危機

2010-12-14 21:35:29 | 歴史・社会
日経新聞の私の履歴書、現在はウィリアム・J・ペリー氏(元米国防長官)が連載しています。
Wikipediaで確認したら、まさに「私の履歴書」の記事をフォローする内容が書かれていました。

さて、ペリー氏の来歴ですが、1947年に二十歳前後で軍隊に入隊して東京と沖縄で進駐軍兵士として働いた後、スタンフォード大で博士(数学)を取得、その後は防衛産業に身を投じます。まずは防衛産業のシルベニア社系列のエレクトロニック・ディフェンス・ラホラトリーズ社(EDL、現在のGTE)に入社してトップまで上り詰め、その後スピンアウトしてエレクトロマグネティック・システムズ・ラボラトリーズ社(ESL)を創設しました。

《ミサイル・ギャップ》
「ミサイル・ギャップ」という言葉は聞いたことがあります。今回の記事によると、これは1960年の大統領選挙で、共和党のニクソン候補と戦うにあたって民主党のケネディ候補が主張した内容だったのですね。つまり、共和党のアイゼンハワー政権時代に米国が核弾道ミサイルの質量においてソ連に後れを取ったという主張で、これがミサイル・ギャップ論争だというわけです。
史上まれに見る僅差でニクソンを退けたケネディの勝利には少なからず、このミサイル・ギャップ論争が追い風になっていました。そして恐怖心にかられた米国では一気に「ミサイル・ギャップ」論が世論を席巻し、1959年末にモスクワを射程に収める中距離弾道ミサイル「ジュピター」をNATOに加盟するイタリアとトルコに配備したのです。
この頃、ペリー氏はEDL、そしてESLの会社での仕事を通じ、米政府中枢の人間とも近くなっていました。そして、CIAなどが先導した政府の特別委員会に加わってミサイル・ギャップの実態を調査するよう要請を受けたのです。
このころ利用が始まった衛星写真などを調査したところ、それまでソ連のミサイル基地だと考えられていた場所はいずれもそうではなく、実際には米国の方が質量両面でソ連を2、3倍の規模で圧倒していたことが判明しました。
しかし、「(委員会の)結論もすでに広がりつつあったケネディ主導によるミサイル・ギャップ論の流れを逆行させることはできず、それが最後には全世界を、あの終末的危機へと導いていくことになる。」(12月7日記事から)

《キューバ危機》
1962年10月14日、ペリー氏は突然CIAから呼び出しを受けます。
米空軍のU2偵察機がキューバ国内で撮影した航空写真の解析を依頼されたのです。その写真には、弾道ミサイルの姿がはっきり写し出されていました。その後この危機が解決するまで、ペリー氏は最新のインテリジェンスを分析する仕事に没頭しました。
『毎日、目がさめるたびに「ああ、今日で自分の一生は終わるのだ」という思いで胸がいっぱいになった。実際、統合参謀本部の一部には米軍によるキューバ侵攻を進言する声もあった。もし、ケネディ大統領がそれに従っていたなら、我々は間違いなくソ連との核戦争に突入していたことだろう。』(12月8日記事から)

《緊迫の13日間》
1962年10月18日、ケネディ大統領はソ連のグロムイコ外相をホワイトハウスに呼び、ソ連にキューバ国内での核弾道ミサイル撤去を迫りました。その4日後の22日には全米に向けてテレビ演説し、米国民に危機の全容を公表しました。ソ連のフルシチョフ首相は当初、全面対決の姿勢を崩しませんでした。米国はミサイル搬入を阻止するための海上封鎖に踏み切ります。「この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。」
U2が撮影した航空写真を解析するために、ペリー氏のような民間のエキスパートの智恵を結集して、写真が持つ意味合いを翻訳する必要があったのです。

『米東部時間、10月28日午前9時、フルシチョフ首相はモスクワ放送を通じて、キューバからミサイルを撤去すると発表した。ソ連は米国の要求を全面的に受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体。ケネディ政権もキューバへの武力侵攻を否定し、翌63年4月にはトルコに設置していたジュピター・ミサイルも撤去した。
世界が固唾をのんだ緊迫の「13日間」はこうして幕を閉じた。この時の経験はもちろん、私の人生観に決定的な影響を与えた。そして、それが後に私を「核なき世界」の実現という壮大な目標へと導いていくのである。』(12月9日記事から)

1962年というと、私は中学2年でした。しかし私の記憶には、「この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。」などという印象は全くありません。おそらく当時の日本は、そんな事態に立ち至っていたなどとは夢にも思わず、平和を享受していたのでしょう。

前回もご紹介したとおり、永井陽之助著「平和の代償 (中公叢書)(1967年発行)」を読んでいるところです。
永井陽之助先生は、政治意識や政治行動の研究に従事する研究者でしたが、たまたまアメリカ在留時にキューバ危機に直面しました。1962年10月22日のあのケネディ大統領のテレビ演説を見たことからです。そこから駆り立てられ、永井先生は国際政治の評論へと自らの針路を変針し、「平和の代償」執筆に至りました(あとがきから)。この件についてはまた別の機会に。

なお、ベリー氏「私の履歴書」の続編がまたおもしろいです。
1977年にカーター政権で請われて国防次官に就任します。研究・工学担当次官というポストでした。ここでベリー氏がまず手がけたプロジェクトから、GPSとインターネットが誕生したというのです(12月10日記事)。また、F117ステルス戦闘機が登場したのも、ベリー国防次官のリーダーシップによるものでした(12月11日記事)。F117が湾岸戦争に間に合って大活躍したのは、ベリー次官が開発を急がせたお陰だ、と記載されています。
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