外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)石射 猪太郎中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
戦前から終戦にかけての外交官として、石射猪太郎という人がいたということを、私は今まで全く知りませんでした。
先日紹介した服部龍二著広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)の中に、参考文献として上記石射猪太郎著「外交官の一生」がさかんに登場します。また、支那事変勃発時の外務省(広田弘毅外務大臣)において、石射猪太郎が重要な地位を占めていたことも書かれていました。
そこで、「外交官の一生」を購入して読んでみたというわけです。
この本のカバーに書かれた石射猪太郎の来歴は・・・
1897年生まれ、1954年死去
上海の東亜同文書院卒業。外交官試験に合格し、広東総領事館を振り出しに、ワシントン、メキシコ、ロンドン等の大使館に勤務。続いて吉林、上海各総領事、東亜局長となり、日中戦争中の困難な局面に立たされる。その後、オランダ公使に、続いてブラジル大使に就任。最後はビルマ大使として終戦を迎えた。
一言でいうと痛快な本です。
石射氏という人は終始一貫、外交で相手国との協調を旨としています。米国とは仲良く、中国(当時の支那)とも親善に心がけます。日本の国状はそれを許さない状況に立ち至っていたのですが、石射氏は節を曲げません。この本がはじめて出版された1950年、石射氏が保ち続けた姿勢が本当は正しかったことが白日の下になっているわけで、そのような全体がこの本を痛快にしている理由でしょう。
しかしこの本、1950年に出版されて以来、絶版と他出版社からの出版を繰り返し、今出版されている中公文庫は実に4回目の出版です。このようなおもしろい本が、時期によっては入手困難になっているわけで、もったいないことです。
外交官になったいきさつが特異です。
東亜同文書院という旧制高校を卒業後、満鉄に勤務します。父親が事業をやっており、「それを手伝え」ということで満鉄を辞めますが、その父親の事業が失敗してしまうのです。
失業した石射氏は、岳父の援助を受けながら高文(高等文官試験、今の国家公務員Ⅰ種試験)を目指し、合格します。しかし官庁就職のために頭を下げて廻ることがいやで、次に外交官試験を目指します。高文の合格で大卒資格が得られたようです。2度目のトライで合格し、外交官になったというわけです。まわりの同僚外交官とはずいぶん毛色が変わっていたようです。
1918年、サンフランシスコに赴任し、奥さんと生活します。すでにカリフォルニア州では排日土地法で日本人移民が差別されていましたが、このとき下宿先主人のウィリス夫婦と「暖かい親友愛をもって結ばれるに至った。ウィリス夫妻とその友人たちを通して、アメリカ人の持つ明朗性と親切さを、我々二人はしみじみと味わったのであった。」
1920年から2年半、ワシントンで三等書記官を勤めます。ここでは、大使が幣原喜重郎氏、一等書記官が広田弘毅氏と佐分利佐分利貞男氏で、その人たちの様子が活写されます。
幣原大使は「対米折衝もあくまで良心的であり、合理的であったので、早くもアメリカ側の敬重するところとなっていた。外交上最も必要なのは信実(グッドフェース)、それが幣原さんの信条であった。」
「広田書記官は館務に対して不即不離、佐分利書記官が大使から全幅の信頼をかけられていた。しかし我々若い館員の間の人望は断然広田さんに帰し、佐分利さんは人気がなかった。」
しかしその後、佐分利氏に対する認識は変わります。「親しむにつれ、およそこの人ほど、良心的に仕事をする人が他にあろうかと思った。かみしめて見て、初めて判る佐分利さんの偉さであった。」
幣原外交
1924年から1927年までの期間が、第1期幣原外務大臣時代(第一次幣原外交時代)です。田中義一内閣時代は首相が外相を兼務します。その後、1929-1931年の浜口-若槻内閣で2度目の外務大臣を務めます。
この頃の中国は乱脈で、軍閥が入り乱れ、国民党政府が蒋介石将軍を総司令として北伐軍を起こし、その過程で南京領事館に避難中の日本居留官民が北伐軍に大略奪を受けるという事件も起きます。
「こうした中国の乱脈に対してわが国論が湧き、対華干渉、武力発動が唱えられ、その急先鋒が政友会と右翼であった。これに対して幣原外相の固くとった政策が、絶対不干渉政策であった。」とし、幣原外交の特徴について述べます。
吉林総領事
1929年、石射氏は吉林に総領事として赴任します。
奉天総領事は林久治郎氏で、石射氏は林氏から張作霖爆死事件の真相を知ります。「満州は大きな伏魔殿、この次に何が起こるかとの不気味さを深くした。」林久治郎氏の発言はこちらに書きました。
そして1931年9月19日、満州事変の勃発です。
21日、関東軍の第二師団主力が鉄道で吉林に進出します。石射総領事は、吉林での中国側と第二師団との武力衝突を避けるよう努力し、平和進駐を実現します。
これ以来、吉林での石射氏の勤務は不愉快極まりないものになります。居留民はみな日本軍になびきますが、石射氏はあくまで政府の指示する不拡大方針に立て籠もり、軍の反感を買うことになります。
こうして石射氏は満州事変の渦中にいたため、事変の実相をよく見聞きすることとなります。石射氏は、日本の進むべき道は国際協調にありと信じ、ことに隣邦中国とは怨恨を去って固く結ぶべきとの信条を有しており、満州事変は石射氏の信条に真っ向から加えられた打撃でした。
上海総領事
1932年、石射氏は上海総領事となり、着いて間もなく、上海だけはいかなる場合にも無風状態に置くのが私の抱負だ、と語ります。「そしてその抱負に忠実ならんことにこれ努めたのが、私の上海在勤の全意義であった。」
上海には日本陸軍は進駐しておらず、海軍がいました。陸軍は兵力は置いていませんが、公使館付き武官や補佐官たちが不吉感を持った存在をなしています。その中に影佐中佐もいました。「私が上海で見た海軍は、犯罪性を持たない正直者、陸軍はここでも智能犯性を持った悪漢であった。」
長くなってきたので、以下は次回に回します。