弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

石射猪太郎「外交官の一生」

2008-10-08 22:26:23 | 歴史・社会
外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)
石射 猪太郎
中央公論新社

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戦前から終戦にかけての外交官として、石射猪太郎という人がいたということを、私は今まで全く知りませんでした。
先日紹介した服部龍二著広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)の中に、参考文献として上記石射猪太郎著「外交官の一生」がさかんに登場します。また、支那事変勃発時の外務省(広田弘毅外務大臣)において、石射猪太郎が重要な地位を占めていたことも書かれていました。

そこで、「外交官の一生」を購入して読んでみたというわけです。
この本のカバーに書かれた石射猪太郎の来歴は・・・
1897年生まれ、1954年死去
上海の東亜同文書院卒業。外交官試験に合格し、広東総領事館を振り出しに、ワシントン、メキシコ、ロンドン等の大使館に勤務。続いて吉林、上海各総領事、東亜局長となり、日中戦争中の困難な局面に立たされる。その後、オランダ公使に、続いてブラジル大使に就任。最後はビルマ大使として終戦を迎えた。

一言でいうと痛快な本です。
石射氏という人は終始一貫、外交で相手国との協調を旨としています。米国とは仲良く、中国(当時の支那)とも親善に心がけます。日本の国状はそれを許さない状況に立ち至っていたのですが、石射氏は節を曲げません。この本がはじめて出版された1950年、石射氏が保ち続けた姿勢が本当は正しかったことが白日の下になっているわけで、そのような全体がこの本を痛快にしている理由でしょう。

しかしこの本、1950年に出版されて以来、絶版と他出版社からの出版を繰り返し、今出版されている中公文庫は実に4回目の出版です。このようなおもしろい本が、時期によっては入手困難になっているわけで、もったいないことです。

外交官になったいきさつが特異です。
東亜同文書院という旧制高校を卒業後、満鉄に勤務します。父親が事業をやっており、「それを手伝え」ということで満鉄を辞めますが、その父親の事業が失敗してしまうのです。
失業した石射氏は、岳父の援助を受けながら高文(高等文官試験、今の国家公務員Ⅰ種試験)を目指し、合格します。しかし官庁就職のために頭を下げて廻ることがいやで、次に外交官試験を目指します。高文の合格で大卒資格が得られたようです。2度目のトライで合格し、外交官になったというわけです。まわりの同僚外交官とはずいぶん毛色が変わっていたようです。

1918年、サンフランシスコに赴任し、奥さんと生活します。すでにカリフォルニア州では排日土地法で日本人移民が差別されていましたが、このとき下宿先主人のウィリス夫婦と「暖かい親友愛をもって結ばれるに至った。ウィリス夫妻とその友人たちを通して、アメリカ人の持つ明朗性と親切さを、我々二人はしみじみと味わったのであった。」

1920年から2年半、ワシントンで三等書記官を勤めます。ここでは、大使が幣原喜重郎氏、一等書記官が広田弘毅氏と佐分利佐分利貞男氏で、その人たちの様子が活写されます。
幣原大使は「対米折衝もあくまで良心的であり、合理的であったので、早くもアメリカ側の敬重するところとなっていた。外交上最も必要なのは信実(グッドフェース)、それが幣原さんの信条であった。」
「広田書記官は館務に対して不即不離、佐分利書記官が大使から全幅の信頼をかけられていた。しかし我々若い館員の間の人望は断然広田さんに帰し、佐分利さんは人気がなかった。」
しかしその後、佐分利氏に対する認識は変わります。「親しむにつれ、およそこの人ほど、良心的に仕事をする人が他にあろうかと思った。かみしめて見て、初めて判る佐分利さんの偉さであった。」

幣原外交
1924年から1927年までの期間が、第1期幣原外務大臣時代(第一次幣原外交時代)です。田中義一内閣時代は首相が外相を兼務します。その後、1929-1931年の浜口-若槻内閣で2度目の外務大臣を務めます。
この頃の中国は乱脈で、軍閥が入り乱れ、国民党政府が蒋介石将軍を総司令として北伐軍を起こし、その過程で南京領事館に避難中の日本居留官民が北伐軍に大略奪を受けるという事件も起きます。
「こうした中国の乱脈に対してわが国論が湧き、対華干渉、武力発動が唱えられ、その急先鋒が政友会と右翼であった。これに対して幣原外相の固くとった政策が、絶対不干渉政策であった。」とし、幣原外交の特徴について述べます。

吉林総領事
1929年、石射氏は吉林に総領事として赴任します。
奉天総領事は林久治郎氏で、石射氏は林氏から張作霖爆死事件の真相を知ります。「満州は大きな伏魔殿、この次に何が起こるかとの不気味さを深くした。」林久治郎氏の発言はこちらに書きました。
そして1931年9月19日、満州事変の勃発です。
21日、関東軍の第二師団主力が鉄道で吉林に進出します。石射総領事は、吉林での中国側と第二師団との武力衝突を避けるよう努力し、平和進駐を実現します。
これ以来、吉林での石射氏の勤務は不愉快極まりないものになります。居留民はみな日本軍になびきますが、石射氏はあくまで政府の指示する不拡大方針に立て籠もり、軍の反感を買うことになります。
こうして石射氏は満州事変の渦中にいたため、事変の実相をよく見聞きすることとなります。石射氏は、日本の進むべき道は国際協調にありと信じ、ことに隣邦中国とは怨恨を去って固く結ぶべきとの信条を有しており、満州事変は石射氏の信条に真っ向から加えられた打撃でした。

上海総領事
1932年、石射氏は上海総領事となり、着いて間もなく、上海だけはいかなる場合にも無風状態に置くのが私の抱負だ、と語ります。「そしてその抱負に忠実ならんことにこれ努めたのが、私の上海在勤の全意義であった。」
上海には日本陸軍は進駐しておらず、海軍がいました。陸軍は兵力は置いていませんが、公使館付き武官や補佐官たちが不吉感を持った存在をなしています。その中に影佐中佐もいました。「私が上海で見た海軍は、犯罪性を持たない正直者、陸軍はここでも智能犯性を持った悪漢であった。」

長くなってきたので、以下は次回に回します。
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ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか(2)

2008-10-06 21:07:06 | 歴史・社会
前回、トーランドの著書から、アメリカのホワイトハウスでは、日本機動部隊がハワイに向けて進撃中であることを知っていたらしいことを示しました。

以下の本は、その内容について賛否両論が渦巻きました。
真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
ロバート・B・スティネット
文藝春秋

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この本については、まだ通読していません。内容としては以下の3点が中心のようです。
(1) 1940年10月、米海軍情報部極東課長のマッカラム海軍少佐が作成した覚え書きがあり、それによると、アメリカは日本軍による対米開戦までをすべて計画しており、真珠湾攻撃はそのシナリオ通りに行われたに過ぎない。
(2) 当時の通信記録などを徹底的に調査し、トーランドが述べた内容についてさらに証拠を追加した。
(3) ハワイ海軍のキンメル司令官の部下であるレイトン情報参謀、ロシュフォート暗号解読班長は、ともに日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていたにもかかわらず、この事実を上官であるキンメルに報告していなかった。

上記(1) については、まあ偶然の一致、あるいは「マッカラム少佐の読みが深かった」という程度のものであり、「ルーズベルト大統領の陰謀」というほどのものでもないと思います。
(3) については、俄には信じられません。レイトンの著書を私は読んでいますし、ロシュフォートは日本海軍暗号を解読して米国を勝利に導いた有能な人として記憶しています。

前報に対する(  )さん(以下「ブランク」さんと呼ばせていただきます)のコメントで、スティネットの著書に「艦隊は129回、無線封止を破った」との記載があるとおっしゃっている部分は、例えばスティネット著の363ページに記されています。この部分は私の分類で上記(3) に属するので、まだ私はきちんと読んでいません。というか、スティネットの著書は記述がとても判りづらく、この部分はほとんど解読不可能に近いです。

ここでは、上記(2) についてのみ検討します。

トーランドの著書では、サンフランシスコ第12海軍区情報部Z一等水兵が登場します。スティネットによるとこの人物は、海軍区情報部で特別捜査官を務めていたロバート・オグです。オグによると、民間の無線通信会社から入手した無線方位測定結果は、4MHz帯の低周波帯域でした。日本海軍独特の仮名暗号を使用していたので、日本海軍の電報であると判断しました。
無線方位測定はサンフランシスコの南北2つの地点で実施されました。2本の位置の線をオグが海図に記入すると、2本の線はハワイ北方の北太平洋上で交叉しました。そしてその交叉点は、日を追うごとにハワイに近づいていったというのです。

ブランクさんのコメントではこの通信は日本の船橋から発信された電波であるとのことですが、それならばなぜ方位測定の交叉点が日ごとにハワイに近づいていったのか、その点の解釈が知りたいと思います。

上記の無線傍受の証拠について、スティネットが初めて発見しました。ダッチハーバーの4MHz記録の閲覧は却下されましたが、じつはダッチハーバーにKINGと呼ばれる海軍無線方位測定局があり、ここはシアトルの管轄なので、スティネットが国立公文書館で探したところ、1985年に記録を発見したのです。「これらの記録は、傍受に関するオグの詳細な証言を、反論の余地なく確認させるものであった。」

このダッチハーバーの記録は、スティネットの誤認だったのでしょうか。もしダッチハーバーの電波方位測定記録が実在するのであれば、ハワイ北西方と船橋とを混同することはあり得ないでしょう。

そもそも、たとえ結果として船橋の電波を見誤ったとしても、「ハワイに近づく日本の軍艦がいる」という報告がされたら、それに応じた警戒はなされるだろうと思います。


客船ルアライン号(トーランド著ではラーライン号)について
ルアライン号が12月3日にホノルルに到着した際、海軍情報部のジョージ・ビーズ中佐に報告書を見せました。ただしこの報告は現在発見されていません。ビーズは1945年に死亡しました。
12月10日、ルアライン号がサンフランシスコに戻ったとき、第12海軍区情報部のアレン少佐がやってきて無線日誌を押収します。それ以降、無線日誌の行方が判りません。
スティネットは無線日誌の紛失にまつわる詳細も探り出しました。押収された無線日誌は、第212海軍区港務長の記録に綴じ込まれ、1958年にサンブルノ連邦政府記録センターに移管されていました。ところがだれかが1970年代に、ルアライン号の無線日誌を国立公文書館から持ち出し、そのあとには持ち出し伝票が残されていたのです。持ち出し伝票にはルアライン号無線記録と記入されているものの、その持ち出し日時も持ち出し人の氏名も書かれていません。公文書館の係員は、「アクセスできるのは海軍当局者だけです」と説明しました。

スティネットのこの調査結果が誤報でないとしたら、海軍がルアライン号の無線日誌を押収したことは事実であるということになります。なぜ押収したのか。そこが引っかかります。

ブランクさんがおっしゃる「ラーライン号が拾い上げたものはいずれも商船用の無線です。今野勉氏によれば、アメリカから日本へ帰航中だった竜田丸ではないかとのこと。」については、秦郁彦「検証・真珠湾の謎と真実―ルーズベルトは知っていたか」を入手してからの検証に待ちましょう。竜田丸というのは龍田丸と同じ船のことでしょうか。そうとすると、当時龍田丸が航行していた位置とはだいぶ離れるような気はします。


通説では、ハワイへ向かう日本の機動部隊は厳重な無線封止を行っており、上記のような無線傍受がされるはずがない、ということになっています。
実際はどうだったのでしょうか。
「無線封止はしていた。ただし、4MHz帯は遠距離まで届かないと考え、その帯域のみは用いていた。」ということかもしれません。
4MHz帯の電波伝搬の特徴については、いずれ調べてみたいと思います。


これらの電波傍受情報が日本機動部隊からのものかあるいは誤認であるかは議論がありますが、いずれにしろ、「ハワイに近づく船舶からの謎の電波を受信した」という報告が海軍当局になされたわけで、これがワシントンまで伝わっていたのであれば、もはや「ルーズベルトは事前に真珠湾攻撃を予測していなかった」とはとても考えられません。
少なくとも、サンフランシスコ第12海軍区とラーライン号がそれぞれ独立に謎の無線をキャッチし、それをもよりの海軍当局者に報告したことは間違いないでしょう。ただし、報告を受けた海軍当局者がワシントンに報告したかどうか、その報告がルーズベルトまで上がったかどうかは疑問が残りますが。

それと、パープル解読結果により、ハワイ時間の早朝に日本がいずれかの地でアメリカに対して開戦するだろうことをルーズベルト大統領は知っていたわけで、このことも忘れてはいけません。

間違いなく言えることは、「ルーズベルトはじめ米国高官は、『日本海軍は弱い』と思い込んでいた」ということです。たとえ日本機動部隊がハワイを空襲したとしても、魚雷攻撃は不可能であり、水平爆撃は精度が悪く、日本戦闘機は米戦闘機の敵ではなく、米海軍がほとんど損害を受けないうちに日本軍航空機は殲滅されるだろう、と考えていたと思われます。
しかし案に相違して、日本海軍は強力でした。真珠湾での魚雷攻撃を可能にし、精度の高い水平爆撃で戦艦を破壊することができ、戦闘機はゼロ戦であって極めて強力であり真珠湾での制空権を自分のものにしました。

真珠湾の米国海軍が無様な敗北を被ったため、ルーズベルトは「日本の卑劣な騙し討ち」と言い張らざるを得なかったのでしょう。

「リメンバー・パールハーバー」の本当の意味ですが、私は「油断大敵」であろうと思っています。

ps 秦郁彦編著「検証・真珠湾の謎と真実」を入手したので、関連記事をこちらにアップします。また、こちらにリンクします。
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ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか

2008-10-04 09:53:27 | 歴史・社会
前回まで、私の真珠湾訪問記を中心に綴ってきました。

真珠湾攻撃について、アメリカでは「宣戦布告のない騙し討ち」ということになっており、「リメンバー・パールハーバー」とは「卑怯な日本を徹底的に叩きのめせ」の意味で使われていると思います。一方で、「ルーズベルト大統領は日本のハワイ攻撃を事前に知っていた」という説も常にささやかれています。

ときのルーズベルト大統領は、そしてハワイの米国海軍は、果たしてどこまでを知っており、どの点については知らなかったのでしょうか。

この点に関し、私が繰り返し読んでいる本はトーランド著の以下の本です。
真珠湾攻撃 (1982年)
ジョン・トーランド
文芸春秋

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すでに古本でしか手に入らないのですね。

真珠湾攻撃当時、米国は日本の外交暗号解読に成功していました。作成した暗号解読器はパープルと呼ばれ、解読した暗号文はマジックと呼ばれていました。

日本政府は、アメリカに対する最後通牒を真珠湾攻撃開始の30分前に米国政府に手交する段取りとしていました。そしてその通告文(第1部から第14部まで)が、外交暗号に組まれて在米日本大使館に送信されます。
まず第13部までが送信されます。米国は直ちにこれを解読し、アメリカ東部時間で12月6日の夜遅くにはルーズベルト大統領に届けます。これを読んだ大統領は「これは戦争だ」とつぶやいたことが知られています。
アメリカ東部時間で7日の午前9時には、最後の第14部も到着し米国に解読されます。「これ以上、外交交渉により合意に到達することは不可能と認む」「全14部の通告を貴地時間7日午後1時にハルに手交せよ」とあります。東部時間午後1時は、ハワイ時間午前7時半です。

もちろん、米海軍作戦部長のスタークもこの情報を知らされます。部下から「いますぐキンメル大将(ハワイ太平洋艦隊司令長官)に警告されてはいかがでしょうか」と進言され、スタークは受話器を取り上げます。午前10時45分です。スタークはキンメルに電話をせず、代わりにホワイトハウスを呼び出しましたが、大統領は話し中でした。スタークはそのまま受話器を置き、あとは何もしませんでした。
米陸軍については、マーシャル参謀総長がつかまりません。自宅から乗馬に出かけたことになっています。やっと家に戻ったのは11時25分でした。マーシャルはスタークと電話連絡し、スタークはハワイへの連絡に海軍の電信網を使ってはどうかと提案しますが、マーシャルはそれを利用しません。そしてその緊急命令は、なぜか商業通信RCAによって打電され、実際にハワイのショート陸軍司令官に届いたのは真珠湾攻撃が終わった後でした。

結局、米国政府首脳は、「日本が東部時間午後1時の直後に、どこかの地点で米国に攻撃を仕掛けてくる」ということを知っていながら、ハワイにはその情報を伝えていなかったのです。

そのとき米国海軍は、日本の空母部隊の所在を見失っていました。南雲機動部隊は、無線封止をして北太平洋を航海していたのです。
12月2日、ハワイ海軍のキンメル長官は、部下の情報参謀レイトンと対話します。
「ではきみは本当に第一航空戦隊と第二航空戦隊がどこにいるのか知らんのか」
「やつらがダイヤモンドヘッドを回ってやってくるかもしれんというのに、わからんというのだな」

今まで私は、トーランドの著書において、「アメリカ大統領は、東部時間12月7日午後1時過ぎに日本が米国を攻撃するだろうことは知っていたが、攻撃目標がハワイであることは知らなかった」というスタンスだと思い込んでいました。
ところが今回、再読してみると、実はそうではないのですね。

12月1日、アメリカの客船ラーライン号がハワイに近づきつつあります。この船の通信士グローガンは、無線機に低周波帯の不思議な電波を捉えます。日本の暗号文であり、方向は西北西であることが明らかです。日本からの通信を復唱している電波のようです。12月2日、電波の方向は北西となります。ラーライン号がハワイに到着し、グローガンはこの情報を海軍に通報しました。

同じ頃、サンフランシスコにある第12海軍区情報部も、電波を捉えます。ホスナー中尉の補佐役であるZ一等水兵は、通信会社からの情報を総合して日本機動部隊を発見しようとしています。12月2日、通信会社から「予想もしない周波数に妙なシグナルが入ってくる」と報告が入ります。Zが海図の上に怪シグナルの方向を書き入れ、ホスナーに行方不明の日本の機動部隊のものかもしれないと報告します。ホスナーは海軍区ジョウホウブチョウノマッカラウ大佐に伝達し、ホワイトハウスに情報が届いたと思いました。

ジャワ島のバンドンでは、オランダ陸軍が、東京からバンコクの日本大使に宛てたメッセージを傍受します。領事館暗号に組んでありましたが、これはオランダ軍が解読に成功していました。そのメッセージは「ハワイ、フィリピン、マレー、タイに対して同時作戦をとり、その開始は東京からのラジオで天気予報に艤装して発信する」というものでした。オランダ軍司令官はこの情報を米陸軍のソープ准将に知らせます。ソープは海軍暗号に組み、海軍通信局経由陸軍省行きの有線でアメリカに送信しました。

12月2日、在ワシントンのオランダ大使館武官のラネフト大佐は米海軍情報部を訪れます。「海軍情報部を訪れたラネフト大佐は、米海軍士官の一人が壁の地図を指し、『日本の機動部隊は、ここを東進中です』と言うのを聞いて、仰天した。その場所は、日本とハワイの中間だったからである。」

以上4つの情報から、12月2日には、米海軍(ワシントン)は、日本の海軍艦艇がハワイに向けて進んでいることを知っていたということになります。トーランドは、これらの情報を信憑性があると認めていました。

12月6日、サンフランシスコの第12海軍区では、ホスナー中尉とZ一等水兵が、日本機動部隊の位置を、オアフ島北北西400カイリと判定します。「もはや疑問の余地はない。あす朝には、真珠湾に攻撃をかけてくるだろう。この判定結果をマッカラウ大佐に報告した後、二人はひそかに祝杯をあげた。あすこそ、日本軍はびっくり仰天するに違いない。」

トーランドは、著書の巻末でこのように述べました。

その後、この情報をさらに追いかけた男がいました。ロバート・スティネットです。この件についてはまた次回に。
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真珠湾攻撃(2)

2008-10-02 20:51:34 | 歴史・社会
前回、日本海軍が真珠湾攻撃に先駆けてどのような準備を行ったのかを見てきました。

米国海軍は、以上のような日本海軍の能力向上を知りません。「真珠湾では魚雷攻撃は不可能、数十機規模の水平爆撃で戦艦に致命傷を与えることはできない」との固定観念を持っていました。このため、停泊する戦艦の周囲に魚雷防御網を張ることもせず、戦艦を湾外に待避することもせず、12月7日の朝(日本時間12月8日)を迎えたのでした。

真珠湾第一次攻撃隊、第二次攻撃隊の、オアフ島への進入経路はたとえばこちらの地図に明らかです。第一次攻撃隊の水平爆撃隊(艦攻50機)を淵田中佐が率い、雷撃隊(艦攻40機)を村田少佐が率いました。第二次攻撃隊の急降下爆撃隊を江草繁少佐が率いました。
  
                     Arizona Memorial Museum
左上の真珠湾図面は、淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)を元にしました。第一次攻撃隊の雷撃コースが矢印で入っています。右上の絵は、攻撃直前のフォード島を北方から見た絵です。
雷撃隊は、戦艦ネバダ、ウエストバージニア、オクラホマ、カリフォルニアに魚雷攻撃を行います。水平爆撃隊は南西から北東方向に進入し、戦艦アリゾナ、テネシー、メリーランドに爆撃を加えました。
淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)には、「命中魚雷はネバダに1本、ウエストバージニアに9本、オクラホマに12本、カリフォルニアに3本命中したことになっている」とあります。標的艦ユタ(元戦艦)を戦艦と思って6本命中せしめます。

淵田中佐が指揮する水平爆撃機の編隊は、爆撃に入る前までは淵田機が一番機でしたが、爆撃準備に入ると順番を入れ替え、きょう導機(蕎導機に似た字)が先頭に出ます。淵田編隊のきょう導機は、操縦者が一等航空兵曹渡辺晃、照準手は一等航空兵曹阿曾弥之助で、当時日本海軍随一の名人です。「いずれも人の好いほがらかな連中であった(淵田著)。」前回登場した名コンビですね。最初の爆弾投下時期にちょうど断雲の上に入ってしまい投下ができません。やりなおしのため、右旋回してホノルルの上空をひとまわりします。
ひとまわりする途中、戦艦アリゾナの位置で大爆発がおきます(写真)。水平爆撃機から投じた800キロ爆弾が、アリゾナの火薬庫を直撃したのです。「火柱は1000メートル以上にも達するかと思われた。どす黒いそしてまっかな火薬特有の火焔の火柱である(淵田著)。」
水平爆撃が担当する戦艦列のうち、北から2番目のアリゾナは大爆発を起こしています。北の端のネバダはその煙に覆われています。3番目のテネシーも大火災を起こしています。4番目のメリーランドはまだ損害がなさそうなので、淵田編隊はこの艦を狙うことにします。
爆撃コースに入り、きょう導機の爆弾が機体を離れるとともに、他の編隊機も爆弾を投下します。4つの爆弾のうち、2発が命中しました。命中した方は、甲板上にパッパッと白煙がたたみのほこりをたたくようにたち昇るだけですが、装甲を貫徹し内部で大きな被害を与えているはずです。一方命中しなかった方の2発は、海中で爆発して大きな波紋を描きます。

アリゾナ記念館のミュージアムに、下の図面が掲示されていました。

  Arizona Memorial Museum
この絵によると、雷撃隊の進路は、淵田著に書かれている南東方向からというよりも、南南東方向から戦艦列に向かっていったようです。どちらが正しいのかはわかりません。
上の絵の説明によると、絵に描かれた赤い6機の飛行機は戦艦列を雷撃しようとするもので、右の3機がムラタに導かれ、左の3機がゴトウに導かれており、ゴトウ編隊の3番機がヤスエです。戦艦オクラホマの下(南方)に"TORPEDO FOUND"と書かれた△印があります。
これは何を示すのでしょうか。
ネットで調べた結果、東白川村・平和祈念館 岐阜/東白川村にいきさつが書かれていました。ヤスエとは、岐阜県東白川村出身の安江巴海軍一等飛行兵で、後藤中尉の率いる編隊の3番機でした。「ところが安江機は対空砲火のため被弾、やむなく魚雷を投棄した。態勢を崩した機から放たれた魚雷は湾の海底に突き刺さった。安江機は21発もの銃弾を受けながらも赤城に無事帰還した。」
「平成3年に真珠湾で魚雷が海底から引き揚げられ、それを落とした雷撃機が(安江機と)特定された。」
その魚雷が、アリゾナ記念館のミュージアムに展示してあった下の魚雷なのでしょう。
  
  Arizona Memorial Museum

ところで、東白川村・平和祈念館 岐阜/東白川村に掲示されているこの写真、見覚えがあります。たしか、アメリカ映画「ファイナルカウントダウン」に出てきた写真ではないでしょうか。日本の記念切手にもなっていたのですね。
「真珠湾攻撃、しょっぱなの写真。村田機が撮影といわれる。だいたい8時ごろ。米艦船から流れ出る重油、水雷が命中したウェストバージニアから出た衝撃波、転覆寸前のオクラホマ、他の魚雷の航跡、炎上するヒッカム飛行場などがこの写真に写っている。オクラホマの左側に写っているのが安江機の水雷の水泡なのだそうだ。」


今回、私が真珠湾を訪れるに際しては、淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)と源田實著真珠湾作戦回顧録 (文春文庫)を読み直しました。その上で現地を体験し、現実の距離感で真珠湾を脳裏に刻み込むことができたように思います。

ところで、ときのルーズベルト大統領は、真珠湾が攻撃されることを事前に知っていたのでしょうか。それが次のテーマです。
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