弁理士の日々

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幣原喜重郎「外交五十年」(2)

2008-10-23 20:38:30 | 歴史・社会
前回に続き、幣原喜重郎著外交五十年 改版 (中公文庫 B 1-48 BIBLIO20世紀)」を紹介します。

長いこと外務大臣を務めた幣原氏は、満州事変の責任を取る形で第二次若槻内閣が総辞職したとき、外務大臣を辞職します。それ以降、鎌倉に引っ込んでしまい、東京の六義園に住んだりしますが、終戦まで表舞台には出てきませんでした。

日本は1941年に南部仏印に進駐し、太平洋戦争勃発の大きな契機となりました。このとき近衛首相は、船が出帆した翌々日、幣原氏に面会を求めます。南部仏印に向けてすでに船が出たと近衛首相から聞かされた幣原氏は、「この際船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させるということはできませんか」「(それができなければ)私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と告げました。近衛首相にそれだけの実行力は当然になく、とうとう大戦に突入してしまいました。
終戦間近、近衛氏がソ連と交渉しようとしていたとき、やはり幣原氏に相談を持ちかけます。幣原氏はその行動に絶対反対を唱えました。結局近衛公のソ連行きは実現しませんでしたが。

終戦となり、1945年10月、突然陛下からのお召しがあり、幣原氏に組閣の大命が下されます。大命を受けた幣原氏は、全く予想だにしない組閣であり、準備も何もありません。そんな中で幣原氏は「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうではない、決して誰からも強いられたのではないのである。」との方針を貫きました。

この本の第二部は、「回想の人物・時代」です。
外務省入省当時のロンドンでの生活、ロンドンでの英語の勉強、イギリス人の厳しい子どものしつけなどの話が出てきます。
日本の外務省顧問として、明治13年から三十数年間も勤続した米人デニソン氏の思い出が語られます。
幣原氏は電信課長の職が長く、その官舎がデニソン氏の官舎に近かったので、毎朝二人で30分以上も散歩で話をしました。日露戦争の前、デニソン氏がときの小村寿太郎外務大臣からの依頼で、ロシアに対する交渉訓電案起草を依頼されたときの話はおもしろいです。

幣原外交について
「幣原外交の実体は何かと、しばしば世間から聞き質されたが、それは1+1=2あるいは二二が四というだけである。それに対して二一天作の六、もしくは二二が八というような、道理が合わないやり方、相手を誤魔化したり、だましたり、無理押しをしたりすることを外交と思ったら、それは大間違いであって、外交の目標は国際間の共存共栄、即ち英語でいわゆるリヴ・エンド・レット・リヴということにあるのだ。」

関東大震災のとき、多くの朝鮮人が日本人に殺害されました。このときの日本人自警団の狂気については想像を絶するものがあったようです。
震災が起きたとき、幣原氏は大阪方面に出張していて、信越線回りで東京まで帰ろうと試みています。それがある駅で、一人の朝鮮人が数名の若衆から喧嘩を売られています。そこに大勢が集まって口々に罵り騒いでいます。幣原氏は汽車から降りてそこへ行き、騒ぐ大勢をたしなめてしまうのです。とにかくそれでだいたい納まって、みな散り散りに立ち去ります。その朝鮮人は「おかげで生命が助かりました。」とわあわあ泣き出したのでした。
このようなことは、普通の男性だったら怖くて絶対にできることではありません。幣原氏が持っている天然の「腹」というものをここでも感じさせられました。
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