文藝春秋9月号で、次原悦子氏が中田英寿について語っています(私だけが知る中田英寿の孤独)。
中田英寿が所属するサニーサイドアップの次原悦子社長が、中田から引退の決意を伝えられたのは昨年の末でした。
引退の決意を固めた理由は正確には推測できないものの、
「もしかすると、私たちがその時、交わした言葉が一番大きな引退の理由かもしれません。
「二十年やってきて、ようやく分かったんだけどさぁ、オレは団体スポーツに向かないんだよ」
「そんなこと、今頃気付いたの!」」
といっています。
中田が19歳の時、次原悦子とサニーサイドアップが中田のマネジメントを引き受けます。次原は「私もまだ二十歳代で、会社の規模も現在の十分の一程度のものでした」と書いています。次原とサニーサイドアップの発展の歴史は、中田のマネジメントと軌を一にして進んでいたのですね。
「振り返れば、彼のビジネスセンスは、ウチの会社に多くの財産を生み出しました。彼からでるアイデアもありますが、一番多いのは、彼の疑問や不満を何とかして解決しようとした努力が、いつの間にかビジネスにつながっているというパターン。」
として、いくつもの事例を挙げています。
中田のマスコミ嫌いについては、「あの事件」という表現で、フランスワールドカップ本戦前、朝日新聞がオフレコの彼の発言を「現代奇人伝」として記事にしてしまい、中田が右翼の攻撃にさらされた事件を上げています。
中田の高校時代の映像を見ると、マスコミに対して機嫌良くしゃべっています。中田をマスコミから遠ざけた朝日の態度は残念でした。
中田のサッカーセンスの進歩について
「昔、彼に「あなたのライバルは誰?」と聞いた時、「小学校の時の自分」と答えたことがあるんです。「あの頃は、プレーしていても、スタンドの上から見ているようにピッチ全体を見ることができた。」と。
それが年をとるごとにピッチでのプレーは上達するけれど、スタンドからの目線が“下がって”きて、ついにはピッチにいる自分だけになってしまっている。一時期、それが彼の悩みだったんです。ところがここ二、三年、最近またその感覚が戻ってきたというんです。
「スタンドから見るようにピッチを俯瞰することができるようになって、完璧なサッカーを頭で描けるようになった。」
でも、ついに彼の理想のサッカーは出来なかった。それは、彼自身の体力や技術が原因なのではなく、サッカーが団体スポーツだから。そのギャップが彼を苦しめたんだと思います。
理想のサッカーが見えているから、自分を追い詰めなければならないし、周りを責めたくもなる。そして先ほども書いた彼の言葉が出てくるわけです。
「オレは団体スポーツに向いてないんだよ」
そうやって導き出された答えが、現役引退だったのではないでしょうか。」
中田が人とのコミュニケーション能力をも身につけていれば、すばらしいキャプテン、すばらしい指導者になっていたのでしょうに、本当に残念なことです。
中田英寿が所属するサニーサイドアップの次原悦子社長が、中田から引退の決意を伝えられたのは昨年の末でした。
引退の決意を固めた理由は正確には推測できないものの、
「もしかすると、私たちがその時、交わした言葉が一番大きな引退の理由かもしれません。
「二十年やってきて、ようやく分かったんだけどさぁ、オレは団体スポーツに向かないんだよ」
「そんなこと、今頃気付いたの!」」
といっています。
中田が19歳の時、次原悦子とサニーサイドアップが中田のマネジメントを引き受けます。次原は「私もまだ二十歳代で、会社の規模も現在の十分の一程度のものでした」と書いています。次原とサニーサイドアップの発展の歴史は、中田のマネジメントと軌を一にして進んでいたのですね。
「振り返れば、彼のビジネスセンスは、ウチの会社に多くの財産を生み出しました。彼からでるアイデアもありますが、一番多いのは、彼の疑問や不満を何とかして解決しようとした努力が、いつの間にかビジネスにつながっているというパターン。」
として、いくつもの事例を挙げています。
中田のマスコミ嫌いについては、「あの事件」という表現で、フランスワールドカップ本戦前、朝日新聞がオフレコの彼の発言を「現代奇人伝」として記事にしてしまい、中田が右翼の攻撃にさらされた事件を上げています。
中田の高校時代の映像を見ると、マスコミに対して機嫌良くしゃべっています。中田をマスコミから遠ざけた朝日の態度は残念でした。
中田のサッカーセンスの進歩について
「昔、彼に「あなたのライバルは誰?」と聞いた時、「小学校の時の自分」と答えたことがあるんです。「あの頃は、プレーしていても、スタンドの上から見ているようにピッチ全体を見ることができた。」と。
それが年をとるごとにピッチでのプレーは上達するけれど、スタンドからの目線が“下がって”きて、ついにはピッチにいる自分だけになってしまっている。一時期、それが彼の悩みだったんです。ところがここ二、三年、最近またその感覚が戻ってきたというんです。
「スタンドから見るようにピッチを俯瞰することができるようになって、完璧なサッカーを頭で描けるようになった。」
でも、ついに彼の理想のサッカーは出来なかった。それは、彼自身の体力や技術が原因なのではなく、サッカーが団体スポーツだから。そのギャップが彼を苦しめたんだと思います。
理想のサッカーが見えているから、自分を追い詰めなければならないし、周りを責めたくもなる。そして先ほども書いた彼の言葉が出てくるわけです。
「オレは団体スポーツに向いてないんだよ」
そうやって導き出された答えが、現役引退だったのではないでしょうか。」
中田が人とのコミュニケーション能力をも身につけていれば、すばらしいキャプテン、すばらしい指導者になっていたのでしょうに、本当に残念なことです。
コミュニケーション能力だけでは有りません。
それよりも、これからの動向に興味があります。
ドイツワールドカップ日本代表での様子について、雑誌ゲーテ
http://blog.goo.ne.jp/bongore789/d/20060802
で中田は以下のように述べています。
“ドイツでの合宿で
「ワールドカップ直前になれば変わるかもしれないと期待していたが、ダメだった。チームとしての中身がない。確固たる芯がないんだ」
「こちらの考えを何とか伝えようとしたけれど、おれもうまく伝えることができなかった。・・ただ同じミスを繰り返すし、それを自分たちだけでは解決できない」
(練習中にヒデが躍起になってコーチ役を演じた点について他の選手はどう受け止めたか。)
「多分『うるさい』とだけ。面倒なやつだと思っているんじゃないかな。もう、おれが何を言っても響かない。伝える手段はなくなったよ」
中田と代表メンバーとの亀裂は徐々に広がり断層にまでなっていた。
この代表において中田は周囲から浮いた存在だった。
激しく叫び、選手に呼応することを求める中田の激しさを見て「痛い人」と呼んだ者もいる。”
これから彼自身がどのように変わっていくのか、という点に期待するしかありません。
2006年ドイツ大会はたくさんの要因があって一概にいえないことがあります。
ジーコ監督が完全な放任主義で、選手に対してしかることも指示することもなかったこと。
そして主力とサブの扱いに温度差があったために、内部で不満が蓄積されていたことなど、監督としてまず
選手をたばねることができていなかった。
そこに中田選手1人に○投げするような形で、マスコミも煽ったために、また亀裂が。
主将は宮本であり、中田選手より年齢の上の選手もいて、1つしたには10番をつけた中村、その下には高原小野の世代と、これまでにも常連の代表選手たちが年齢差がほとんどなく続いていたのも難しかったことのひとつです。
結果が悪ければそれまでなので何もいうことはできません。
しかし、中田選手が日本代表として、中心選手として20歳からずっと見せてくれた姿勢、闘う姿勢は本物でした。あきらめず、体を張って、戦ってた。
それは最後までかわりませんでした。
私もろっしさんのおっしゃるとおりと思います。
一方、ジーコにしろ中田英にしろ、その他ドイツW杯メンバーの誰についても、皆尊敬できるし実力も備えた人たちでした。そのチームが、何で伝え聞くような状況になってしまったのか、私は今でも総括できずにいます。
ジーコ監督は、監督としての優れた実力までは有していなくても、アントラーズ時代のように選手たちを叱咤激励することはできただろうに・・・。
せめて中田英を中心とする結束が生まれてくれたら良かったのですが、それも叶いませんでした。
どう生きるべきなのか?