弁理士の日々

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国木田独歩「武蔵野」(2)

2009-03-29 21:19:27 | 杉並世田谷散歩
前回は、明治29年に国木田独歩が渋谷に住んでいた頃の、渋谷界隈の状況を調べてみました。ここでは引き続いて、独歩自身が「武蔵野 (岩波文庫)」の中で描いている武蔵野の様子についてたどってみます。

こんな時代の武蔵野ですから、現在われわれが杉並・世田谷を散策して見ることのできる景色とは全く別物であることはわかります。
国木田独歩がいう武蔵野の範囲は広いです。東は亀戸のあたりまで、西は立川から多摩川のあたりまでを含めています。この中にある東京の街中は除外します。しかし町外れは決して抹殺してはならないとします。ただし、彼が言う町外れは渋谷の道玄坂、早稲田の鬼子母神、新宿、白金、とありますから、現代の東京における町外れとは全く別の場所です。


東京周辺の土地を2種類に分けるとしたら、私は台地部と平野部に分けます。
平野部とは、川の水面レベルとほぼ等しい高さの平地が広がる地域で、東京近郊であれば隅田川、荒川によって形成された地域です。神田川の下流に広がる神田の界隈もこの範疇に入ります。川による浸食と、洪水が運んできた堆積物で形成された平野です。
台地部は、平坦なのですがその標高は平野部よりも高く、そこを川が流れると川によって土地が侵食され、川が流れる流域の標高は平坦な台地の標高よりも低くなります。その結果、平坦な台地部と、川が流れる谷部とが形成され、台地部と谷部の境が坂になり、坂が多い地形となります。
東京でいうと、京浜東北線(上野から北)の線路が、ちょうど台地部と平野部との境界になります。京浜東北線の東側が平野部、西側が台地部です。従って、京浜東北線の西側は谷部が多く、坂が多い地形となっています。
杉並区でいえば、神田川と善福寺川の流域が谷を形成し、それ以外の部分が平坦な台地部です。台地部は水が豊富ではないので、昔だったら畑でしょう。水田は谷部の川岸に形成されたはずです。

そのような見方で独歩の「武蔵野」を読みます。
「武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在して更にこれを分割している。即ち野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るというような風である。それがまた実に武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。」

まさに、平坦な台地部と、窪んだ谷部とで形成される武蔵野の様子が示されています。
そして、武蔵野のもうひとつの特徴が、林と畑です。

下の地図は、古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」から、杉並区の神田川と善福寺川が合流する手前あたりを抜き出したものです。

古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作」から

土地利用の地図記号については、以下のように解釈しました。地図の「空白」部分は畑です。

この地図からも、水田は神田川や善福寺川の流域(窪地・谷部)に限られることがわかります。そして谷部以外の平坦な台地部については、畑(地図記号なし)と雑木林が乱雑に入り組んでいる状況です。
まさに、独歩が描いた武蔵野の状況と等しい姿が現れています。

独歩の上記の文章を頭に置きながら杉並・世田谷のうねうねした路を歩くと、明治時代にはこの界隈が林と畑とが入り交じった土地であっただろうということを頭の中に思い描くことができます。現実には道の両側に果てしなく家が建ちならんでいるのですが。
しかしときどき、独歩の頃から繁っていたであろうと思われる巨大な古木に遭遇することがあります。

なお、古地図史料出版株式会社発行の地図の一部を掲載する件については、古地図史料出版株式会社殿に許可を得るための問い合わせをしているところです。
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