私は東京杉並に住み、その周辺の散策を一つの趣味としているのですが、この界隈は“武蔵野”と呼べるはずで、そうとすれば国木田独歩の「武蔵野」と何らかの関係があるかもしれません。
その「武蔵野」、大昔に読んだような気もするのですが全く忘却しています。そこで再度読んでみました。
読んで分かったのですが、書籍「武蔵野」というのは、初期の作品18編を収めた国木田独歩自選の短編集を指すのだそうです。18編のうちの第1編が短編「武蔵野」でもあります。独歩26歳から5年間の作品が収録されています。
独歩は1896(明治29年)に半年ほど、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地(東京都渋谷区宇田川町(goo地図)。NHK放送センターの近く)に住んでいました。25歳の頃です。
私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図で独歩の住まいを探してみましょう。図面中の青い線は、川の部分を私がなぞったものです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog2/sanpo/meiji-shibuya1-s.jpg)
古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組」から
当時、独歩宅を初めて訪れた田山花袋が書いたものが、その頃の渋谷周辺の面影をよく表しています。下の文章中に私が記した①~⑤を、上記地図(拡大図の方)の中から探しだしてみました。当たっているかどうかわかりませんが。
「渋谷の通①を野に出ると、駒場に通ずる大きな路②が楢林について曲がっていて、向こうに野川のうねねうと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車③がかかっていて頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車③の傍らの土橋④を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた。(中略)
少し行くと、はたして牛の5、6頭がごろごろしている牛乳屋があった。(中略)
路⑤はだらだらと細くその丘の上へと登っていった。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々とした菜畠-ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩せぎすな青年がじっと此方を見て立っているのを私たちは認めた。
「国木田君は此方ですか。」
「僕が国木田。」」
今だったら、渋谷の道玄坂下から東急ハンズの前を通ってNHK放送センターに至る繁華街です。ここが明治30年頃には、田圃と畠と水車小屋が点在する田園地帯だったと言うことになります。
まずは、独歩が住んでいた頃の渋谷の景色について、田山花袋の筆を借りて確認しました。
次回は、独歩が見た武蔵野の風景について書いてみます。
なお、昔の地図記号についてこちらで調べたところ、上記地図の③の記号は「工場」なのです。水車は微妙に異なる別の記号です。しかし、明治20年地図の全体を見ても、工場があるべきところに「工場」記号は記されておらず、③の記号は必ず川沿いにあります。ということで、この地図では③の地図記号が「水車」を表しているのではないかと推測できます。
その「武蔵野」、大昔に読んだような気もするのですが全く忘却しています。そこで再度読んでみました。
![]() | 武蔵野 (岩波文庫)国木田 独歩岩波書店このアイテムの詳細を見る |
読んで分かったのですが、書籍「武蔵野」というのは、初期の作品18編を収めた国木田独歩自選の短編集を指すのだそうです。18編のうちの第1編が短編「武蔵野」でもあります。独歩26歳から5年間の作品が収録されています。
独歩は1896(明治29年)に半年ほど、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地(東京都渋谷区宇田川町(goo地図)。NHK放送センターの近く)に住んでいました。25歳の頃です。
私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図で独歩の住まいを探してみましょう。図面中の青い線は、川の部分を私がなぞったものです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog2/sanpo/meiji-shibuya1-s.jpg)
古地図史料出版株式会社「東京近傍図(1/2万)七面組」から
当時、独歩宅を初めて訪れた田山花袋が書いたものが、その頃の渋谷周辺の面影をよく表しています。下の文章中に私が記した①~⑤を、上記地図(拡大図の方)の中から探しだしてみました。当たっているかどうかわかりませんが。
「渋谷の通①を野に出ると、駒場に通ずる大きな路②が楢林について曲がっていて、向こうに野川のうねねうと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車③がかかっていて頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車③の傍らの土橋④を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた。(中略)
少し行くと、はたして牛の5、6頭がごろごろしている牛乳屋があった。(中略)
路⑤はだらだらと細くその丘の上へと登っていった。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々とした菜畠-ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩せぎすな青年がじっと此方を見て立っているのを私たちは認めた。
「国木田君は此方ですか。」
「僕が国木田。」」
今だったら、渋谷の道玄坂下から東急ハンズの前を通ってNHK放送センターに至る繁華街です。ここが明治30年頃には、田圃と畠と水車小屋が点在する田園地帯だったと言うことになります。
まずは、独歩が住んでいた頃の渋谷の景色について、田山花袋の筆を借りて確認しました。
次回は、独歩が見た武蔵野の風景について書いてみます。
なお、昔の地図記号についてこちらで調べたところ、上記地図の③の記号は「工場」なのです。水車は微妙に異なる別の記号です。しかし、明治20年地図の全体を見ても、工場があるべきところに「工場」記号は記されておらず、③の記号は必ず川沿いにあります。ということで、この地図では③の地図記号が「水車」を表しているのではないかと推測できます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます