<1400> 我が老年期の記
不束に来し身なりしがいま少し歩みを欲す老年期なり
自分というのは自分の身体からは出られないようになっているので、よほどの工夫をしない限り、自分を外から見ることは出来ない。という具合で、自分というものを客観的に見ることは難しいと言える。ということで、このことに私たちはときに気づかされることがある。
私は古稀を越えた言わば老齢の域に人生の歩みを進めている存在であるが、まだ、自分に対し、年寄りだという気分はない。ところが、このブログでも触れたように、次のような話がある。久しぶりに電車に乗ったら小学生が「どうぞ」と言って席を譲ってくれた。こういう経験は初めてのことだったが、このとき自分は年寄りなんだとはたと気づかされたのであった。未だ年寄りだと思ったことのない身が、その実体を外からの目に指摘されたのである。言わば、これは外から見ることの出来ない自分という存在を教えられた例と言える。
ということで、老年期というのは、人生のいつの時期をいうものかと考えてみるに、これは晩年をいうにほかならず、その間は、初老より始まり、最晩年の終末期、つまり、死ぬまでということになる。この年齢域の最も特徴的なものは、体力の衰えが現れ、自覚に及ぶということであろう。「年には勝てぬ」とはよく言われることである。
こういう人生最後の年齢期においては、体力の衰えと同時に自分の限界を思い知らされるところとなり、遂には死というものを考えのうちに入れ、遅まきながらも、如何に生き、そして、如何に死するかというようなことが真剣に考えられるようになる。で、そこには宗教とか哲学とかが自分という存在に影響を及ぼすことになったりする。
ここでよく使われるのが、諦観とか達観という言葉である。諦観はことの本質を見て、及ばざると知り、あきらめること。達観は全体の情勢をよく見通し、惑わず、道理や真理を見極めることである。これは人の境地を言うに当てて用いられる言葉で、諦観にしても達観にしても、老年期にこのような境地を得ることが出来れば幸いであり、人生における理想形と言えるように思える。
現在の平均寿命からして言えば、この老年期は古稀、つまり、七十歳より死を迎えるまでをいうものとして考えられる。我が国の制度では、今のところ六十五歳以上に年金支給がなされるということで、六十五歳から老年期と考えるべきかも知れない。年金の支給年齢を七十歳に引き上げるというような制度改正の声も聞かれるが、この五年の期間は雇用などの実体を考えるとなかなか悩ましく難しい問題だと言える。
という次第で、わたしは老年期のただ中を歩いていることになるが、諦観には及べず、ましてや達観などはなおさらのことで、今までの人生を引きずりながら悩ましくも惑い、日一日を過しているというところである。では、そういうことで、私の進行形にある老年期の歌を以下に十首ほどあげてみたいと思う。 写真はイメージで、冬雲と満月。
来し道は節々あれど一筋にありてこの身の今を歩める
人生の確かさそれはこの先も未完にありて歩む身の上
瞑目の集成にして自らの歌の数々懐かしくある
越えて来しものらが見ゆるこの先もまだ幾ばくか思ひの徒輩
キリストと釈迦の例へば磔刑と涅槃この身は夢に果つるを
阿吽なる人の一生 阿より吽 吽に終はるをほつほつ思ふ
冬雲が流れて行くよ 人の世の生の姿を思はしめつつ
人生は感傷ときに惜別の歌など聞かるさざ波の岸
人生は彼方(あなた)に此方(こなた) 身の思ひ 神の間に間の玉水を受く
月は満ちそして欠けゆく 人生の慰撫にしてありやさしかりけり