<662> 有生君の詩に寄せて
みんな時を共有して 同じお日さまの下で 生の営みをしている わたしも あなたも
ネコがわらっている それは いいことだ イヌもわらっている それも いいことだ
わたしも あなたも みんな やさしい心で いられるというのは まさしくいいことだ
これまで、「私たちはみな時と所の産物である」ということを、ときに触れて言って来たが、これは私の思想のような、考えの根本にある言葉と言ってよい。そして、今一つの考えは、太陽の存在によって私たち生きとし生けるものすべては成り立っているということである。 写真は山の稜線より現れた旭日(イメージ)。
一昨日(六月二十三日)の沖縄慰霊の日に営まれた「沖縄全戦没者追悼式」で、与那国島の小学一年、安里有生(あさとゆうき)君(六歳)が平和の願いを込めて読み上げた自作の詩は感動を呼んだが、その詩の朗読を聞いたとき、上記の私の考えが思われたのであった。詩の中では、「おともだちとなかよし。かぞくが げんき。えがおであそぶ。ねこがわらう。おなかがいっぱい。やぎがのんびりあるいている。けんかしてもすぐなかなおり」というところが、特によかったと感じられたが、それと同時に、この朗読では、「ああ、ぼくは」の続きのところで考えさせられた。
「へいわなときにうまれてよかったよ」と有生君は言った。考えさせられたのはここのところである。時と所を得て、有生君は六歳の今、沖縄の与那国島にその生を営んでいる。「へいわなときにうまれてよかったよ」というのは、沖縄戦の悲惨な状況を幼いながら学んで、そのときと今とを比べているわけである。当然のこと、悲惨であった当時よりも平和な今がよいということである。
有生君は続けて「このへいわが、ずっとつづいてほしい。みんなのえがおがずっと、つづいてほしい。へいわってすてきだね」と読み上げた。先生の筆が添えられたようなところも感じられなくはなかったが、素晴らしい詩の朗読だった。
言わば、「へいわなときにうまれてよかったよ」という言葉は、国家運営の面で言えば、「現憲法のもとに生れて来てよかったよ」というに等しいことが言えるわけで、「このへいわが、ずっとつづいてほしい」というのは、「現憲法のもとでこれからもずっと暮らして行きたい」ということに通じる。この言葉は現憲法の実績を言うものにほかならず、小さな子供の詩に現われた言葉ゆえに、かえって考えさせられるのである。
安倍政権になって、改憲への動向が顕著になって来ているように思われるが、戦争に加担することが出来るようにする改憲だけは避けるべきであることを、この有生君の詩によって改めて思った次第である。現憲法と前憲法を比べてみれば、この詩の訴える意味がわかる。前憲法の実績が如何に惨憺たるものであったか。ここのところを有生君の詩は訴えかけているとみるべきである。子供の詩でも、当を得たものであるならば、大人であっても真をもって耳を傾けるべきである。
この日、営まれた「沖縄全戦没者追悼式」の戦没者も、戦火に苦しんだ人たちも、言ってみれば、前憲法の実績に含まれる。戦前と戦後のどちらの憲法の実績が汲まれて然るべきか。「へいわなときにうまれてよかったよ」という有生君の言葉はやさしくも、強く大人の思惑の事情を打つ。「負うた子に教えられ」とはこのことであろう。改憲して、前憲法に近づけ、戦争をやりやすくするなどは決して国民が望む国家運営の在り方ではない。平和に勝る国家運営はない。
如何なる正義に立った戦争も戦争には多大な戦禍が生じ、悲惨な状況は免れ得ず、それが自分でなくても、同じお日さまの下に生を得ている生きとし生ける人間の上に生じることであることを思えば、やってよいわけがないということになる。ましてや、正義などというのは自分本意に主張せられることを思えばなおさらのことと言ってよい。
有生君が言う「おともだちとなかよし。かぞくが げんき。えがおであそぶ。ねこがわらう。おなかがいっぱい。やぎがのんびりあるいている。けんかしてもすぐなかなおり」という、まだまだあろう。このかけがえのない平和な光景を壊しにかかるような戦争が安易に出来るような憲法にする改憲だけは決してさせてはならないと言ってよい。