<653> ツバメに思うこと
田の面を つばめ飛びゐる 一心に
二刀流の宮本武蔵に対して、佐々木小次郎のつばめ返しは知られるところ。打ち込んだ刀を瞬時に返して相手を倒す。その鋒の早技。剣を自在に操るその技量。それは鷲でもなければ、鷹でもない。自在なツバメの飛翔の姿にある。
今はまさに万緑の季節。植物も、植物に寄って営みをしている虫たちもみんな旺盛に活動している。ツバメもこの時節に加わって、時を得ているのがわかる。ここにおいて、ツバメの自在は大いに発揮され、自然の恩恵を受け、働いていることがわかる。
この自在なツバメの一心な姿を見ていてふと思い出されることがあった。それはどこの水族館であったか、マグロなどの大型魚が入れられてある水槽に生きた大量のイワシを入れて、そのイワシがその大型魚に食べられてしまう様子を観察し、海の中の様相を見るという実験が行なわれたことである。
実験の結果は、二日間であったと記憶するが、イワシは食い尽され、ニュースになった。確かにこの実験は海の中に展開されている様相を言うものであるが、この実験では、その様相の概観を捉えたに過ぎず、自然からすると、誠に不十分な実験であると言わざるを得ないことが飛び交うつばめに重ねて思われたのであった。
大きな水槽とは言え、実験に用いられた水槽は、自然の海からすれば、狹い限られた空間に過ぎない。その限られた空間に人間の手によってマグロとマグロの好物であるイワシを入れたわけで、当然、これは自然な状況ではなく、食われる方のイワシは食い尽されたのであった。ここのところがこの実験の問われるところで、自然の海とは異なる環境条件において実験が行なわれたということである。イワシが大群で泳ぐというのは、大群によって種を守るイワシの知恵であって、大群の一部が犠牲になる間に、他のイワシは逃げ果せるのである。
その逃れ得たイワシがまたいつか大群を成すほどに子孫を増やす。これが弱いイワシの長らって種を繋いでいる事情というものである。ところが、実験に用いられた狭い水槽では、自然の下で種を守っている弱い立場にあるイワシの頼みとしている肝心な逃げ場というものを封じ、何日間で全部のイワシが食われたかということのみを実験の目的にしているのである。
これは、イワシの逃げ場を封じて行なわれたマグロとイワシの惨劇ショ―で、自然を考慮に入れない実験であって、イワシには納得出来ない惨いことであったと言わざるを得ない。言わば、このショ―は強者の側に立つやり方で、弱者の側、つまり、イワシの知恵などは切り捨てているのがうかがえる。私などは、大群で種を守るイワシの弱いがゆえにそういう知恵を出して生き延びて行く弱いは弱いながらも逞しく生きて行く姿こそ見たいと思うのであるが、どうであろうか。
ツバメが自在に飛び交う姿に、小さな虫たちを捕える懸命さが見えるのに対し、水槽のマグロは食卓に設えられた好物を貪るような姿に思えた。つまり、生きたイワシをマグロの水槽に投入してイワシが食い尽くされる様子を見せるというショーの話は自然の営みから逸脱していることが思われたのである。
で、飛び交うツバメもツバメに狙われる虫たちも自然の掟の中で懸命に生き、そこには食う側も、食われる側もこの厳然としてある自然の掟において一つの納得というものがあるはずであるが、この納得の部分が投入されたイワシには見出せないということが思われるのである。納得が得られなければその生は悲惨であるが、ここのところがこのイワシには思えて来るわけである。共生する生の連鎖においては、厳しくもこの納得こそが大切であると言えるが、水槽のイワシにはその納得が見出せないということで、一心に飛び交うツバメとツバメに狙われる虫たちの営みを思いながら、マグロに食い尽くされたイワシのことが思い出されたのであった。