大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年06月19日 | 写詩・写歌・写俳

<656> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (26)

        [碑文]      打久津 三宅乃原從 當土 足迹貫 夏草乎 腰尒魚積 如何有哉 人之子故曽 通簀文吾子  諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 眞木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊乃小櫛乎 抑刺 々細子 彼曾吾孋

        反歌        父母尒 不令知子故 三宅道乃 夏野草乎 菜積来鴨                    詠人未詳

  この長歌と反歌の万葉歌碑は大和平野のほぼ中央に当たる磯城郡三宅町の古道太子道の脇に建てられている。万葉学者犬養孝の揮毫による碑で、例によって、この碑も原文によって刻まれている。『万葉集』巻十三の3295番と3296番の相聞の項に見える歌で、語訳は次のようである。

                                                           

 うち日さつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑそ 通はすも吾子  諾(うべ)な諾な 母は知らじ 諾な諾な 父は知らじ 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 眞木綿(まゆふ)持ち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊(つげ)の小櫛を 抑へ挿す 刺細(さすたへ)の子 それそ吾が妻

     反歌    父母に知らせぬ子ゆゑ 三宅道(みやけぢ)の夏野の草をなづみけるかも            詠人未詳  

 長歌の方は問答形式で詠まれ、「通はすも吾子」までが父母の問いかけで、その後、「諾な諾な」からが愛しい妻の許へ通う息子の答えになっている仕組みの歌である。この長歌に反歌がともなうもので、「草深い三宅の原の道を踏みしめ、夏草に腰を取られるのも構わず、いったいどのような娘のためにそんなところにまでしばしば出かけてゆくのかね。我が息子よ」と父母が問うわけである。

  これに対し、「お尋ねはごもっともです。お母さんもお父さんもご存じないでしょう。黒い髪に木綿(ゆう)であざさの花を結び垂らし、大和の黄楊(つげ)で作った小櫛を髪の抑えに挿す子、その子が私の妻です」と息子が答え返すというもの。この長歌を受けた反歌は、「父母に知らせていない可愛い子のために、私は三宅への夏野の草の道を難渋しながら通ったものです」と詠んでいる。

                                             

  『倭名類聚鈔』(平安時代)によると、三宅という地名は十九にも及ぶようであるが、ここに登場を見る三宅は奈良県磯城郡三宅町であると言われ、これが定説になっている。この磯城郡の三宅は、聖徳太子が従者の調子麻呂を従え、愛馬の黒駒に乗って斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)に通った太子道(筋違道)が通るところで、ちょうどその中間地点に当たり、太子が休んだとされる腰掛石や太子を接待した絵馬などが残る神社がある旧跡地で、飛鳥時代から知られているところである。

  で、三宅もあざさもこの長歌と反歌によって『万葉集』に見えるわけで、三宅町には、太子道の史跡とともにその歴史を示す貴重な存在として、歌碑も建てられているという次第である。果たして、息子はどこから夏草に難渋しながらこの三宅に通ったのだろうか。

 なお、阿邪左(あざさ)は現在でいうところのアサザ(荇)で、浅い池や沼に生えるリンドウ科の水生多年草として知られる。葉はほぼ円形で、長い葉柄によって水面に浮かび、夏になると、その葉腋から花柄を出して水面に黄色い花を咲かせる。長歌によれば、妻はこの黄色い花を木綿で結び垂らして髪飾りにしていた。妻はこのアサザの花がよく似合っていたのだろう。

 三宅町では、万葉の故地としての誇りをこの万葉歌碑やアサザに込め、平成十三年ごろからアサザを町中に増やし、平成二十年にはアサザを町の花に指定して、求めに応じて個人の家にも配布するなど、町をあげて万葉植物であるアサザによる町内の美化を推進している。なお、大和におけるアサザの自生する水辺はほとんど見られなくなり、絶滅寸前にあると言われ、アサザを増やしている三宅町の取り組みはこの点においても注目される。 写真は万葉歌碑(上段)と黄色い花を咲かせるアサザ(下段)。いずれも三宅町で。

  尋ねゆく 道の傍ら あさざ咲く