大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月01日 | 写詩・写歌・写俳

<1494> 立 春 は そこ

        過ぎ去りしものよ 留まりたるものよ そして兆せる万朶の春よ

 一月いぬるで、今日より二月。いつものことながら「光陰矢の如し」である。このブログはほぼ毎日更新しているが、更新して回を重ねるに従って、新しい文面や写真がどんどんと積まれ実績となる反面、その度に文面も写真も過去へと誘われ、忘却の彼方へと遠ざかるある種の虚しさをともなうといった具合で、心が安定しないというか、そういう状況に陥ることなきにしもあらずといったところである。

  その経緯を言えば、確実に年を取ることをいうものであるが、一年ごとの巡りには、ブログ上の更新とは別の更新がつきもので、この更新に支えられて私たちの生はあると思える。更新には次への夢が添うもので、これには成長が言われ、そこには期待と不安が纏うものであるが、少なからず、明るいものが感じられる。これが生というものだろうと思う。

                               

  だが、高齢に向かい、時が差し迫って来ると、未来が思うに任せず、閉ざされる傾向に陥り、成長が望めなくなる。これが年齢を重ねてゆくものにおける常の現われであり、成り行きだろう。更新に成長が望めないというのは虚しく寂しいもので、考えさせられるが、私たちはここで踏んばる。

  そして、ものの考え方を変えて更新に臨む。成長は諦め、成熟を目指す。そういうことに向かって晩年に臨んでいる御仁は案外に見受けられる。読書に勤しみ、知識を積み、思考を深め、自らの人生を構築して最終章を飾る。これはそう悪いことではなく、むしろ素晴らしいことではないかと思えたりする。如何に生きても終わりを迎える人生は諦観あって成るとは言える。くよくよしても始まらない。このブログなどもネタの尽きるまでやるしかない。思考を重ねながら。こんな風にも思える昨今ではある。

 冒頭の短歌の「過ぎ去りしもの」とは、今、現在より以前に起きた私が認識するすべての事象をいうものであり、「留まりたるもの」とは、今の私と私を取り巻く現在の事象を言うものである。「春」とは、望ましい末来を示すものであり、人生の一連の流れの中で、如何なるにせよ、誰の上にも巡り来るもののことである。その春が春と思えないのは、思えない個々の心事情がそうさせるにほかならない。さあ、更新して行くべく行こう。寒中ながら立春はそこである。  写真は時を刻む時計台の時計と春を誘うコブシの花芽。 立春といふ言葉感 立つといふ意味 晴々とあるを諾ふ

 

 


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