<1145> 疑 義、疑 問
疑念 疑心 疑惑
疑念を持つという
疑心を抱くという
疑惑を有すという
疑はうたがうこと
心に発するところ
信ならざるゆえに
生じ来るものなり
政治から目を離してはならない。選挙には行くべし。――― 最近、疑問に思うことがある。株式の株価が日々上下することに関して。株価が上下するのは買い手と売り手があって売買の成立が日々異なるからで、その理屈はわかる。だが、昨日上がったものが、今日下がるということがよくわからない。もちろん、昨日は投資家に買い手が多く、今日は売り手が多いからであるが、日々の変動が経済の実体に即するのではなく、株式を運用する金融の仕掛け人の操作によることが大きいのではないかということ。
例えば、株価が昨日仮に300円上がり、今日200円下がったとする。仕掛け人は300円上げるのに幾らかの株を買う。上がったところで、今度は買ったとき以上の金額で株を売る。そこで、今日は株価が200円の下げを見るということになる。そして、200円に下がったのを見て、また、大量の株を買う。すると、また、株価は上がり、また、売るということをする。この株価操作を繰り返す。そして、その上下する株価の差額を仕掛け人は手に入れる。こういう仕組みで運用される株式による資金の流れは、知らない間にどんどんと仕組んだ側の思惑によって流れて行く。お金は低いところから高いところに流れて行くという次第で、ここに疑問が生じてくるわけである。
その差額の儲けがどこに流れて行っているか。それは実体経済に関わりなく流れとして金融を支配する側、所謂、高い方へと流れて行く。そこで思われるのが、日本の金融政策である。日銀が大量にお札を発行して株価を上げようとしているが、一向にその効果が出ず、株価は乱高下している。その乱高下の幅が大きいほど世界の株式を運用支配している者がその差額を儲けている仕組みになっている。そこで疑惑が浮上して来ることになる。
つまり、私たちが株価の上下に一喜一憂している間に、儲ける者はどんどん儲け、一般投資家などは鼻糞みたいなもので、その金融の流れは一方へ向い、投資資金は吸い取られて行く。日本がどんどん放出しているお金は、どんどん海外に流れ出していることが想定出来る。それは米国辺りの世界を睨んだ金融戦略と見るのが正しかろう。日本では国が大借金をし、どうにも始末のつけようがなくなっている上に、国の思惑による日銀のお札のばら撒きや個人資産の運用を株に振り向ける政策だけでは足りず、年金の積立金にまで手をつけ、株につぎ込もうとしている。
思うに、このリスクを負ったグローバルな株式の全体像を概観すればわかる。金融ゲーム化した株などというものは、もはや実体経済だけでは語ることが出来ない一種の賭けごとのようなものになっている。資金に余裕があって十分に運用可能な状況に日本の現況はない。国は1000兆円の借金を抱え、年金資金にしても制度の維持に四苦八苦している状態である。株式にリスクがあることは賭けごとに同じで、年金からの運用は資金が足りないので、友だちにその資金を融通してもらうのに似ている。この年金資金は国のお金ではない。もしものときはどのような措置を取るのか。そこまで考えが及んでいるのだろうか。こういうところにも疑問が生じる。とにかく、これは国の政治である。国民をドツボに落とし込むような綱渡りの政治はして欲しくない。堅実な政治を願わずにはいられない。 写真はイメージ。町並みと今日二十三日の株価等。
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