大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年02月23日 | 創作

<3689> 作歌ノート  瞑目の軌跡(十二)

             歌をせむ言葉の矢数月を射よ雁を射よ我が魂を射よ

 ここでいう「歌」とは短歌。つまり、五七五七七。三十一文字。その初めは『古事記』の神話に見える須佐之男命の歌。命は狼藉の振る舞いによって天界を追われ出雲国に下った。そこで人々を苦しめていた八俣の大蛇を退治し、櫛名田比売を娶って須賀の宮を造った。そのとき、雲が湧きあがり、この雲を瑞雲と見て歌に詠んだ。

  八雲立つ出雲八重垣。妻籠みに八重垣つくる。その八重垣を。

 これが、そのときの歌で、歌は新築を祝う新室寿、または新婚を寿ぐ歌であるが、五七五七七(三十一文字)の短歌形式になっていた。で、この歌が短歌の初めと言われることになった。この詩形は現在に至る日本の伝統的短詩形で、言の葉、和歌とも呼ばれる。

 祇園祭りで知られる京都の八坂神社は須佐之男命を祀っている由緒の神社であるが、祭りは、荒ぶる神である命の霊を鎮め、命の祟りとされる疫病や自然災害が起きないように願って、酷暑の盛夏に町衆主催で行われる。こうした資質の八坂神社で、正月三日に「かるた始め」の行事がある。

 この行事は『小倉百人一首』を読み上げて札を取り合うもので、恒例になっているが、八重垣の祝歌を詠んだ須佐之男命が和歌の初めと見なされていることに由来するもので、『小倉百人一首』の冒頭の歌「秋の田の刈庵の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」の詠者天智天皇を祀る近江神宮のそれとともによく知られる行事である。

                                   

 それはさておき、私は、命の歌を濫觴として脈々と連なっている歴代の数ある歌に習い、自分の感じるところ、思うところ、即ち感知の力量において五七五七七の言葉に託し、これまでいくらかの短歌を作って来た。

   冒頭に掲げた短歌の「言葉の矢数」については、漢字、平仮名、片仮名、外来語、熟語、成句、季語、枕詞、歌枕、縁語、人名、地名、物名、諺、箴言、古語、方言、述語、名詞、動詞、助動詞、形容詞、形容動詞、副詞、助詞、感動詞、接続詞、敬語、擬声語、奇語、隠語等々をあげることが出来る。

   この用語の知識は豊富なほどよく、とにかくひたすらに学ぶこと。加えて、比喩とか象徴とか、過去の例に習って勉学するほかないものである。例えば、本歌取り。そして、温故知新。古きに学んで新しきを知ること。このようにあれば鬼に金棒。また、造語もあって然るべきと思う。これに加えて大切なことは、藤原定家が『毎月抄』に言っている。「歌の大事は、詞の用捨にて侍るべし」と。つまり、心に従う言葉の吟味が大切である。歌を作るに、これが第一と言えようか。

 「月を射よ」とは、月を花や雪に置き換えても差し支えなかろう。「雪月花」、所謂、自然ということであり、自然にともなうところの真理の言いにほかならない。表現の上で自然を曲げてはいけない。松尾芭蕉は『笈の小文』で言っている。「見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」(中村俊定校注)と。そこに至らんとするには、「楽ハ虚ニ出ヅ」で、虚心でなくてはならない。心を乱し、心を曲げては自然、真理を十分に汲み入れることは出来ない。

 「雁を射よ」とは、四季に連なるもののことである。つまり、四季の国に住まいするものとしては欠くことの出来ないところ。その妙味を捉えよということ。例えば、藤原良経家集『秋篠月清集』の中の一首、「帰る雁今はの心ありあけに月と花との名こそ惜しけれ」の「帰る雁」が思い浮かぶ。「今はの心」に顕れるところの妙味。その心のうち。言わば、気息。良経が夭折の人生をして詠んだ一首であることを思えば、一層切なく「今はの心」は伝わって来る。こういう妙味を胸奥に置いて歌も作るべきと教えられる。

 そして、なお、その上に「魂を射よ」ということがある。この大事を『毎月抄』は次のように言っている。「心と詞と兼ねたらむを、よき歌と申すべし。心詞の二は、鳥の左右の翅のごとくなるべきにこそとぞ思ひ給へ侍りける。但し、心詞の二をともに兼ねたらむは、言ふに及ばず、心のかけたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ」と。一球入魂のごとく、心を込めて歌は作るべきであると強調している。まこと、その通りであると思える。

 総じて言えば、それは『古今和歌集』の紀貫之の仮名序に見える。「ひとつ心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけていひ出せるなり。花に啼く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」(佐伯梅友校注)というほどの心。蛙はいかに鳴くか、感じて捉えるのはそれぞれの心である。いかに詠めども、私の歌は私の歌であるが、歌をなさんとするものに、先人は以上のごとく教えている。

 写真は雪月花。雪月花は自然を基とする諸事の言いにほかならず、これを感と智、即ち、思いによって捉え、五七五七七の言葉の器によって表すのが短歌である。では、短歌についての歌、多少。

   短歌とは五七五に七七の韻律による定形短詩

       短歌とは伝統詩形我が国の歴史の歩みとともにあるなり

       短歌とは言葉を込める器なり言葉は思ひのほかにはあらず

       己てふ思ひの船に言葉とふ帆を張らしむる短歌を言へば

       思ひみよ良し悪し評価のあるとして人ある限り短歌の希望

       短歌とは私のもの公の政治と対極して立つ詩形                    私(わたくし)

       短歌とは個々己がじしなる抒情主体における定形短詩

       政治史と短歌史それは公と私の関係性において見らるる

   短歌とは渚に寄する波のごとあり且つ似て非なりける詩形

       問はるべし和歌がイコール短歌なら短歌はイコール和歌と言へるか


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