大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年08月25日 | 写詩・写歌・写俳

<2429> 余聞、余話「 功 罪 」

           功罪は何処にも生(あ)るこの身にも葉裏を返し渡り行く風

  双方向性の情報システムによって確立されて来た感のあるネット社会は人類の限りない進展を夢見させてくれるようなところがある。これは科学全般にも通じて言えるが、よいことばかりではなく、それには私たちにとって思わしくない影響も生じて来る。こうした仕儀をもって功罪などと世にいうが、生における功罪は、言わば、常のこと。これについては、この間、少し触れたが、私たちの精神性に負うところが大きく、悩みの種としても取り上げられる。という次第で、私たちにとって半ば必然的に生じて来るこの功罪について、今少し考えてみたいと思う。

 インターネットの功罪も、科学の功罪も、それを利用し、そして、それに影響される私たち人間の力量、即ち、精神力にかかっているということが言える。事例をあげれば切りがないが、原子力一つをあげてみても明らかで、平和利用という言葉がそれをよく示している。一発の核爆弾は瞬時にして何十万人もの命を奪う兵器である。この恐ろしいまでのエネルギーを有する原子力はその功罪がはっきりしている。

 核爆弾は実際に用いられ、私たちの大半は好ましくないと認識している。しかし、中には、これを評価する向きもあり、功罪の例としてあげることが出来る。世界の状況を見ると、核爆弾を保有する国は結構多く、また、持ちたがっている国もあるといった具合で、核軍縮は一向に進まず、人類の大きな悩みになっているのが実際である。

 例えば、インターネットイコール科学、原子力イコール科学といった図式で言えば、科学イコール功罪ということが言える。しかし、その功罪が生れるのは、そこに人間が大なり小なり関わっていることを知らねばならない。介在者である人間の在り方がそこでは問われることになり、議論もされ、そして、悩みを深めることにもなる。

               

 言わば、その功罪はそれに関わる人間にあるわけで、人間自身の問題を解決しなくては収まりを得ないという性質を持っている。百人百様の立場や思いがある様相の中にあっては、主張するところもそれぞれで、正邪、功罪は人それぞれによるということになるが、功は功、罪は罪であって、悩ましさが生じることになる。

 つまり、功罪の意識は私たち人間の精神が問われるに等しいところにあり、功の面を押し進め、罪の面を減らすことが社会の健全な発展には欠かせないわけであるが、功罪は人間自身の精神、即ち、人間性を向上させて行くほかにないということで言えば、個々人の精神を鍛え、整えて行くことが肝心であると思える。

 だが、人間自身がしたたかであるからはなかなか思うようには行かない。これがこの世の様相となって現れるわけで、これはいつの時代にも見られ、常に悩みとなり、常に課題として捉えられ、今日に至っている。言わば、この功罪の受け止め方は、生における難題中の難題として見ることが出来ると言ってよい。

 そして、この功罪の相まっているこの世の中を仕切って行くのが政治の力であるが、その功罪の見方が一辺倒になって基準が偏って来たりすると世の中のバランスは崩れ、罪が功になったり、功が罪に貶められたりするというようなことも起き、世の中に偏りを生じ、世の中の姿を歪めることに働くことにもなる。

 結論的に言えば、生において功罪は常のもので、私たちはそれを避け得ずあり、悩ましいところのものであるが、これは人間性によって生じるところのものでもあるからは、私たちが人間性を高め、生きて行く力に加えることが求められると言ってよい。つまり、精神力を互いに鍛えて行くことが功罪の悩みに対する方策の一端ではないかということが思われて来る次第である。 写真はイメージで、葉裏を返して渡り行く風。 

 


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