大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月16日 | 写詩・写歌・写俳

<925> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (65)

      [碑文]      籠もよ 美籠もち ふ串もち 美ふ串もち この岳に 菜摘ます子 家告らせ 名のらさね そらみつ 倭の國は おしなべて                         吾こそをれ 敷きなべて 吾こそませ 我をこそ背とは 告らめ 家をも名をも                           雄略天皇

 この歌は、『万葉集』の巻頭を飾る「泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし天皇の代 大泊瀬稚武天皇」という題詞をともなって見える大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、即ち、第二十一代雄略天皇の御製歌である。原文には「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尒 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母」とあり、万葉初期の歌謡の形がうかがえる求婚を思わせる歌であるのがわかる。

 歌は「籠もよいかごを持ち、串もよいくしを持ち、この岳(岡)で若菜を摘んでいる娘さんよ、あなたの家を聞きたい。聞かせなさい。この大和の国は私こそがすべてを従え治めている。この私には聞かせてくれるだろうね。あなたの家をも、名をも」という意で、この歌からは大らかな求愛の光景が思い浮かんで来る。

 雄略天皇は第十九代允恭天皇の第五皇子で、同母兄の先代安康天皇が暗殺された後、皇位継承のライバルたちを次々に殺害して退け、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に即位した。即位後も粛清を続け、大和王権をまとめ上げた。このため大悪天皇とも呼ばれ、『日本書紀』には「はなはだ悪しくまします天皇なり」というような記述も見えるほどで、専制君主のごとくその権勢を揮ったようである。五世紀後半ころのことで、「倭の五王」の「武」と称せられていたのは、この雄略天皇であるという。

 つまり、雄略天皇は大和王権の勢力を発展させ、大和朝廷の道筋を確固たるものにした天皇と見られていたことが言える。また、武勇に長けた天皇だったようであるが、若さの至りというか、狩で射たイノシシの逆襲を受け、木の上に逃げてその難を逃れたというような逸話も残っている。こういう憎めないような一面も持ち合わせているところから、人気があったようで、『万葉集』のみならず、『日本霊異記』も雄略天皇で巻頭を飾っている。

                                                          

 この求婚の歌の姿は、短歌の初源とされる須佐之男命の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」で知られる命と櫛名田比賣(くしなだひめ)の出会いや初代の神武天皇と妃の伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)が笹百合の沢山咲いていた三輪山近くの佐韋河(狭井川)の畔で出会った場面を彷彿させるところがある。

  この二つの逸話は、ともに『古事記』の中の話であり、大らかな気風の見られる共通点があるが、この雄略天皇の巻頭歌は天皇の歌ながら、庶民的な歌謡仕立ての表現に親しみが持たれるところとなっている。で、政争には厳しかったが、やさしい一面も持ち合わせていたことがこの歌からは想像される。編纂者大伴家持が巻頭にこの歌を据えたのもうなずける気がする。何と言っても、この歌は春を告げる明るい歌であるから、巻頭にはぴったりであると言ってよかろう。

 因みに、家持は『万葉集』の掉尾に自作の立春の歌を据えている。巻末には一見相応しくないような歌であるが、家持の意図はこの歌を巻頭の雄略天皇の歌へ回帰したいというところがあったのではないかと思わせる。それは一年の廻りのように、また、はじめに還るということが思われるからである。『万葉』が「万の世」、つまり、いつの世もという意も含む言葉であるからは、それが言えるように思える。

  ところが、『万葉集』に倣って作られたと言われる勅撰集の初源を飾る『古近和歌集』に家持の掉尾の歌は汲まれ、この『万葉集』を引き継ぐように『古今和歌集』は立春の歌を巻頭に置いている。これは偶然でなく、意識が働いて選歌されたような気がする。因みに、『古今和歌集』に『万葉集』の歌は一首もなく、それ以外の歌で集はまとめられている。

 話が少し逸れたが、冒頭にあげた雄略天皇御製歌の歌碑は、天皇が即位した泊瀬朝倉宮の伝承地とされる辺りに位置する桜井市黒崎の白山神社境内に「萬葉集發耀讚仰碑」の石柱とともに建てられている。白山神社は国道一六五号に面した旧伊勢街道沿いの三輪と初瀬の中間地点、朝倉小学校の東に位置する。菅原道真等を祀っている小さな神社であるが、この辺りには五、六世紀の建物跡が多く出土するなど、古い歴史を有している土地柄である。

 「萬葉集發耀」とは、もちろん、この雄略天皇の御製歌が『万葉集』の巻頭を飾っているからで、これを『万葉集』の発祥と見たものである。 写真は左が「萬葉集發耀讚仰碑」の石柱(後方は白山神社)。中は雄略天皇御製歌の歌碑。碑文はともに桜井市出身の文芸評論家保田與重郎の揮毫による。右は若芽を出したよもぎ。   すれ違ふ 人に纏はる 春の色


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