<2909> 余聞、余話 「 我がこの一年 ~近作俳句50句~ (一)」
今年は天皇の譲位があり、時代が平成から令和に変わったことがまずあげられる。今年の元旦の句は、「去年今年平成最後の去年今年」であった。その今年もいろいろあったが、一つに政治の緩み、横暴、劣化が目についた年であったことが言える。これは一強多弱の政治状況の長期化による弊害と見てよいように思われる。究極は首相主催の「桜を見る会」の問題で、私物化の様相が見え隠れし、批判されていることがあげられる。
という次第で、こうした印象の一年を思い巡らせていたら、年も押し迫ったここに来て衆議院議員の逮捕というニュースがあった。これは最悪の事態で、逮捕は言語道断と言ってよく、どうしようもないが、「桜を見る会」を思うに、このような会は天皇の領域のもので、既に園遊会なる天皇主催の催しがある。こうした会を政権の担い手がやると出席者に偏りが生じ、政治の公平性が保てなくなる。
予算五千万円とは、大借金をし、年々激しさを増す自然災害などの事情を考えれば、止めるべき会だと言える。こうした国の諸事情を思うに、お金の使い道は山とある。そういう事情からして、この「桜を見る会」の五千万は無駄遣いの何ものでもないと言える。こういう会は国家の状況に余裕が出来てやるべき質のもので、借金で予算を組まなければならない状況下で行うのは政治家の思い上がりの何ものでもなく、政治家にはで恥であるくらいに思う必要がある。
もちろん、予算だけのことではない。こういう会は天皇一系にし、廃止するのが妥当である。令和の新時代になったことでもあり、政治利用される不公平なこういう会は止めにした方がよい。憲法改正を言うのであれば、まずこうした不公平なところから改めなくてはならない。このような政治家(政権)のエゴがまかり通るような状況下を放置して憲法を改正することなど許されるものではない。言わば、この歪められた首相主催の「桜を見る会」の問題は憲法改正にも通じる話なのである。
余談が過ぎたが、令和元年の今年は世代交代の意識下、「生き継ぐ」ということを思い巡らせるということが多く、そういう意識下において作歌にも作句にも当たって来た気がする。では、以下、今年の五十句の前半二十五句をまずはあげてみたいと思う。 写真はカット。囀るホオジロ。
そこここに木通の花の奥明日香
雪柳縁取る道に誘はる
香の主は椿の奥の沈丁花
にぎはひし公園通り葉桜に
金鳳花いつも見てゐるのみの花
晩春や花に身一つ追ひつかず
山の辺も明日香も遅日斑鳩も
晩春や花暦の花の薄紫
春愁や昭和は更に遠くなる
鯉幟大和国中晴れ渡る 国中(くんなか)
幼子に白詰草の軟らかさ
そこかしこ田植えはじめの宇陀阿騎野
ダンディスム水玉模様の夏パジャマ
晴れし日の蓮華畑の幸せ感
ほととぎす今年は五月十九日
黒揚羽柚子の若葉に触れて去る
朴の花ほぐれるやうに開きけり
囀るは恋するもののため五月
新緑をいただき歩く齢かな
一途なる一途をもって揚げ雲雀
三山は三山の位置夏来たる
鳴き響む生きゐる証ほととぎす
ほととぎすこの世は夢の在処なり 在処(ありか)
命なり遠近鳴ける蝉の声 遠近(をちこち)
命とは生とは何か西瓜食ふ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます