<2909> 余聞、余話 「 我がこの一年 ~ 近作俳句50句 ~ (二)」
このほど、厚生労働省による今年(2019年)の出生者数が発表され、90万人を割り込み、86万4千人ほどになるという報告がなされた。この割込みは明治32年(1899年)の統計開始以来初のことで、最低であるという。死亡者数との差し引きによると、51万2千人の人口減となり、十三年連続の減少で、少子高齢化にいよいよ拍車がかかっている状況を示しているという。
減少にはいろんな要因が絡み、この要因に向き合い対処しなければならず、為政者には取り組んでいるのであろうが、この数字を見ると、効果が出ていないことが言える。減少を食い止め、この問題を解決する難しさは、戦後以来、日本が押し進めて来た成長戦略の反面に出現して来た核家族の延長線上に見える現象であるから、個別的対処のみでは止められないところがある。これは過疎化現象と軌を一にしていることを考えるとよくわかる。
つまり、戦後以来、採って来た成長戦略に見直しをしなければ、この少子化の問題は過疎化の問題と同じく、解決し難い。こういう意味で言えば、成長戦略オンリーのアベノミクスは過疎化と同様少子化に拍車をかけていると言わざるを得ない。それは国民個々の暮らし向きに関わることで、言ってみれば、日本並びに日本人の暮らしに余裕がなくなっていることに通じる。これを政治に重ねて言えば、アベノミクスは何年になるか、未だに借金をしなければ国の予算が組めないことがこの状況をよく示している。
これに加え、現代人の価値観が少子高齢化を導く環境を築き上げるように影響していることが思われる。例えば、子育てを何に頼るかであるが、現代人の子育ての傾向では、親でなく、第三者に委ねる方向にある。これは、所謂、子への愛情をお金で買うようなやり方で、親は子育ての放棄とまではいかないまでも、子供の立場で考えるに、これは手抜きのやり方であって、この状況は、どう見ても歪な子育てのやり方であると言わざるを得ない。
もちろん、これは女性における問題だけではなく、性別、年齢を問わず、全世代においてその暮らしに現在は余裕が持てないでいることを明らかにしているということに繋がる。このような国家並びに社会の環境事情を生き抜いて行かなければならない現代日本人の状況は厳しいところに直面していると言わざるを得ない。こうした昨今に向き合って歩み行かなくてはならない身としての日本。令和の新時代も厳しい状況下にあることを認識しつつ思いを巡らせる2019年の歳末とは言える。
個人ではどうしようもない潮流のボリュウムと速さに思いは翻弄され、身は巻き込まれ流されて行く。せめて、自らの生は自らの意思において細々ながらも全うしようというほどの齢にあることを私などは思い巡らせる昨今であり、我が短歌も俳句もその悩ましさの実情を反映しているもののような気もする。では、以下に近作俳句50句の後半25句をあげてみたいと思う。 写真はカット。整理する撮り貯めた花のポジフィルム。
営める蜘蛛の巣新たなる盛夏
朝曇り今日の一日を思ふなり
向日葵の立ち枯れ花の夢の跡
旺盛も辟易も見え炎天下
雨が欲し炎暑の底の奈良盆地
盆過ぎぬ過ぎて生きとし生けるもの
夕暮を残暑まとひて歩む猫
草木に処暑一服の雨は慈雨
朝影に少し涼しさ法隆寺
秋天の西里抜けて法隆寺
虫すだく生きゐる証なりにけり
秋日和鐘おだやかな法隆寺
虫もまた地球生命鳴いてゐる
虫の声はたして命燃やしゐる
虫の音や窓の下なるserenad
虫の声ちんちろりんと継ぐ命
虫の声壁より聞こえ来る不思議
時の鐘秋日にやさし法隆寺 秋日(あきび)
秋祭り町家の道に太鼓台
遠花火過去は記憶にほかならぬ
柿の里右も左も柿畑
実葛見つけぬ散策コース変へ 実葛(さねかずら)
撮り貯めし花の写真と冬の室
柚子の実の黄に照らされ我が齢 齢(よはひ)
大銀杏天下の黄葉下の眼 眼(まなこ)
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