<1475> 大和における鬼打ちの行事
鬼打ちの 鬼うてば年 あらたなり
十三日の今日、天理市藤井町の三十八神社(さんじゅうはちじんじゃ)で「鬼打ち」と呼ばれる正月の行事が行なわれた。もとは大寺の修正会に基づき、神宮寺などで年末年始に行なわれていた年の更新における先がけの行事である。言わば、来る年に際して、悪霊の鬼を追い払い、無病息災、五穀豊穣を願って行なわれるもので、平安時代初期の天長四年(八二七年)に京都の東寺と西寺で行なわれたのが初めだとさている。
これが広まるにつれ、大和高原でも行なわれるに至ったようで、年代は定かでないが、昔は鉦を打ち鳴らし、漆の木で物を叩いて大きな音を出し、弓矢で鬼の的を射る的射ちが行なわれたという。現在はこの中の鬼の的射ちが継承されているわけである。
藤井町は天理市最東部、天理ダムの奥に位置する標高約四五〇メートルの山間の山里で、東は笠山荒神社の蕎麦で知られる桜井市笠である。現在二十一戸の集落で、この鬼打ち行事には長男しか参加が許されない制限により、三十人ほどが名を連ねているが、ウイークデーの関係で全員の参加は望めないという。
午後一時から、神社の広場で準備が始まり、鳥居、弓矢、的などが手際よく作られた。鳥居は竹と縄で、弓は山桜の枝に麻の紐を弦に用い、矢はすす竹を一メートルほどに切り揃え、紙の矢羽をつけて作り、的は割竹を籠編みにし、直径二メートルほどの円形の骨組みを作り、これに半紙を糊づけし、今年は閏年なので、周囲に十三本の御幣を取り付け、中央に「鬼」の字を書いた半紙を貼って完成させた。
準備の後、午後三時から神事、続いて鬼の的射ちである鬼打ちの行事が行なわれた。石上神宮の神官によって天地に弓が引かれ、次に裃姿の氏子総代が登場し、東西南北、鬼の的に向かって矢が放たれ、的への距離を約二十メートルと長くして白装束の当屋二人が続き、順次氏子たち、それに、見物の人たちも鬼の的に向かって弓を引いた。
鬼打ちに用いられた弓は松葉と清められた米を付けて、参加者それぞれが持ち帰った。弓は苗代の水口に差して置くと豊作が約束されるという。言わば、この鬼打ちの行事は、農耕民族の民俗的な祭りの一典型と言える。今日はときどき雪が降る空模様で、冬のただ中に行なわれる鬼打ちの雰囲気が見られた。今日の教訓:持続は無事の証である。 写真上段は左から弓や矢の準備をする人たち、鬼の的を貼る人たち、準備が出来た鬼打ちの行事。 写真下段は左から総代の鬼打ち、神官の鬼打ち、氏子たちの鬼打ち、射られてぼろぼろになった鬼の的。