大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年12月16日 | 写詩・写歌・写俳

<105> シ ク ラ メ ン
        欠けずして 今年も シクラメンの花
 十二月になってクリスマスが近くなると、我が家にはシクラメンの鉢がお目見えする。随分以前からのことであるが、この時期、我が家にシクラメンの花が欠けたことはない。これは妻がシクラメン好きなことにもよるが、どこからかいつも舞い込み、舞い込まないときは買い求めるといった具合で、この時期になると、我が家にシクラメンの花が飾られる。
 シクラメンは地中海東部の沿岸地方が原産地と言われるサクラソウ科の多年草で、 寒い時期に咲くが、 我が家に毎年花を見せる園芸品は一回限りで、次の年にまた同じ株から花を咲かせてもよさそうであるが、 同じ株から次の年にも花を咲かせた記憶はない。園芸に熱心な妻がシクラメンの手入れにだけずぼらをしているわけではなく、 咲かせる技術がわからないだけだと思う。 で、毎年、花の鉢はいつの間にか消え失せてしまう。言わば、我が家のシクラメンは十二月から正月あたりまでで、役目を終えることになる。

                    
 シクラメンは、咲き終わると、見向きもされなくなり、次の花に向かうという具合で、 何か現代的あるいは都会的な幸せというもに通じるのが見て取れる。これは消費と娯楽に幸せを求める欧米的物質文明の一端であろうと思われる。この点、和風の盆栽などと観賞における本質的な違いがあるような気がする。            
        
 どちらを好むかは人それぞれであろうが、生活の中にもシクラメンの鉢花が普通に見られる昨今は、文明が欧米化の洗礼を受け、その方へシフトして来たことを示すものだろう。そして、このシクラメン的一面はほかにも見られる文明の現れと言ってよく、その例は、世相を映す短歌にも見えるところで、ここにその例歌をあげると、次のようである。
   はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る      石川啄木
   大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋                 俵 万智 
 啄木の歌は、 歌集『一握の砂』に出て来る三行短歌で名高い「はたらけど/はたらけど」の生産と労働が美徳の明治時代を象徴する歌であるのに対し、 万智の口語短歌は歌集『サラダ記念日』に登場する買物袋が大きければ大きいほど豊かな気分になれるという消費と娯楽に価値を置く 昭和から平成にかけて見られた日本経済が右肩上がりの 絶頂期にあったバブル期の産物で、欧米的物質文明歓迎の時代を示す歌である。「はたらけど/はたらけど」は辛さの歌であるが、これは逆説的な歌で、働くことに価値を見出している歌であることを理解する必要がある。働きたくても働けない事情と同じ現象を意味する。
 万智の時代は各地にテーマパークなどの娯楽施設が出来、 みんな浮かれていたが、私には、生産労働の時代が消費、娯楽の時代を開いたのに対し、 消費、娯楽の時代が果たしてどのような時代を開き得るのかということが思われたのであった。結果、バブルがはじけ、経済的成長は翳りを見せ、日本は長い低迷期に入り、今に至っているのである。
 低迷期を脱せずにいた日本は今年、3・11の東日本大震災が起こり、加えるところ、科学に裏打ちされた欧米的物質文明の申し子とも言える原発で事故が発生し、放射能汚染という脅威に曝されたのであった。で、私たちにはこの欧米的物質文明に対し、考えさせられることになったのである。
 シクラメンはともかく、物質の豊かさのみでは測れない幸せ感というものが、大震災以後、私たち日本人の中に兆して来たような気がする。この幸せ感については少し長くなるのでまたの機会に触れたいと思うが、ここで花をテーマに万智の時代を背景にして詠んだシクラメンの歌を披露してこの項を終わりたいと思う。都会的風景の歌であるが、当時は私も若かった。
   シクラメン 時雨の街へ 買はれゆく 茶店の中に 幸せ溢れ
 私たちは年齢を重ね、生産と労働から消費と娯楽の時代を経て低迷する現在に至る。日本はこれからどのように開かれて行くのだろうか。 経済的側面に重きを置いて突き進む時代はもう終わったような気がするが、どうであろうか。 これからの時代、喜びであれ悲しみであれ玲瓏たる気持ちで歌を詠むことが出来ればよいのであるが。