山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第57回>

2018-07-21 06:00:55 | くるま旅くらしの話

【今日(7/21)の予定】 

道の駅:スペースアップルよいち →(R229)→ 積丹町美国海水浴場(北海道HMCCの皆さんとキャンプ)(泊)

 

【昨日(7/20)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

マオイの丘公園 →(R274・R12他)→ 北海道博物館 →(R12他)→ 札幌北IC →(札樽自動車道)→ 小樽IC →(R5)→ ニッカウイスキー売店 →(D)→ 余市町水産博物館 →(D)→ 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

<レポート>

 涼しい朝を迎えた。少し寒さを覚えるほどである。今日は北海道博物館を訪問するだけの予定で、それが終わったら余市の道の駅に行って泊るだけである。明日は北海道在住の仲間たちと積丹町の海水浴場でのキャンプに参加する予定であり、それを楽しみにしている。ま、その前に博物館で特別企画展として開催されている北海道生誕150年の命名者として知られている松浦武四郎についての事跡を知ろうという考えなのである。

 そのような予定から、明日のキャンプの参加料(?)として何か野菜類の獲物はないかと考え、この道の駅でそれを求めることにして、9時の開店を待つことにする。この道の駅には地元で生産される野菜が豊富に販売されており、中には見たことも無いものが並んでいて、農家の皆さんの新しい取り組みを知ったりして、好感を抱いているのである。時間が来て結局選んだのは、いつもと同じスイカとトマトだった。これを皆さんと一緒に食べるのを楽しみにしながら、北海道博物館に向かって出発する。

 10時頃に博物館に到着する。この頃から晴れの天気に転換し、蒸し暑い夏の空気となった。日差しもきつくて、これは先が思いやられるなと思いながらの入館だった。この道立の建物は、何やらいきさつがあって新しく博物館として出発したらしい。このようなことは邦子どのの方が遙かに詳しくて、自分はさっぱりわからない。初めての来訪だった。ここはありがたいことに65歳以上は無料で入館することができる。有資格者としては、それに報いるためにもしっかり見学しなければならないと思っている。今日の来訪の第一の目的は松浦武四郎の特別展であり、大いに期待している。この人物については、予め何冊かの紹介本や著作の幾つかを読んでいるので、多少は理解しているつもりなのだが、そのような上っ面の知識ではなく、本物の何かをつかみたいという思い出の来訪だった。

 中に入ると、特別展は二つに分かれていて、一つは子ども用に紹介したコーナーともう一つは本格的な展示コーナーだった。先ず子ども用のコーナーに入って見たが、ここは北海道各地を理解するための地図やすごろく等がゲーム形式で理解できるような工夫がなされていた。さすがに真老の身では真剣に見る気にはなれず、直ぐに本格的なコーナーの方へ。こちらの方は、たくさんの著作の元となっている様々な文書などが展示されていた。ところが照明が暗くて解説の字が読みにくいのである。メガネを取り出して見てみても印刷の文字が小さいので判読し難いものが多くて、その内に読むのは止めにして、ただの全体見物に切り替えることにした。たくさんの文書が並んでいたが、例えば手紙の原文を判読する力などないので、ざっと眺めるだけである。それでも細かく克明に書かれている物を数多く見ていると、この人物の旅に対するエネルギーのとてつもない大きさを感じないわけにはゆかなかった。展示されているのは、ほんの一部だけなのであろうから、生涯のものを並べたら、それはもうそのパワーに卒倒するくらいの大きさだったのに違いない。未開の原野や山林の中をアイヌの人たちの力を借りながらの探索は、想像を絶するものがあったに違いない。何よりも心を打たれたのは、どのような些細なことでも記録をし、出来事を残しているということである。恐らくこの人物以外にも往時の山野を歩き分け行った人はいるに違いないと思うのだが、何の記録も残さなければその存在は永遠に不明なのだ。改めて記録を残すことの大切さを教えられた感じがした。その他感ずるものは多かったが、ここには記しきれない。

 常設の会場も見学したが、こちらの方は、既に各地の郷土館などを巡っているので、特に新しいものはなく、今までのおさらいをしている感じがした。もう70カ所以上を訪ねているので、見聞するものは大方知らなければおかしいということなのであろう。十二分に北海道を感じながら博物館を後にする。

 既に12時半近くになっており、昼食は直ぐ近くにある先日訪問済みの開拓の村の食堂で摂ることにして、移動する。ここでなるべく往時のメニューに近いものを食べることにして、いももちと豚汁をオーダーする。いももちはジャガイモに澱粉を加えて練り込んで餅状にしたものを焼いたものである。往時の人たちもこれを食べていたに違いないと思いつつ、それでもこんなに上品には作らなかったのではないかと思いながら豚汁を飲んだりした。食べ物に関しては、音威子府の黒蕎麦の方が迫力があるなと思った。

 その後は、札樽自動車道を通って余市に向かう。久しぶりの高速道なので、慎重に走って間もなく小樽に入り、観光客の溢れる運河の通りを過ぎ、市街地を抜けて余市へ。暑い。邦子どのの要望で、先ずはニッカウイスキー工場内にある売店に行き休憩と買いものをする。ギンギラの暑さである。この暑さでは道の駅に行ってもどうにもならないなと思っていたら、邦子どのが店の人から得た余市の歴史を知るための情報として、水産博物館というのがあるのを聞いてきた。実はこれは訪問予定の一つだったのだが、先日余市町の役場を訪ねた時に、町の歴史を記した簡単な年表等がないかと尋ねたら、担当の人がめんどくさそうに対応してくれたので、行くのを止めにしていた場所なのである。邦子どのにはそのことを話していなかったので、ま、時間もあることだからと行って見ることにした。

 この水産博物館は、どういうわけなのか、ナビが案内できない様なとんでもない坂道を上った場所に建てられており、少し迷いながらの訪問だった。やや古びた年季の入った建物の中に入ると、ニシン漁などに使われていた船などの他漁具などがたくさん展示されていて、何をどう見ていいのか迷うほどだった。最初は戸惑ったのだが、馴れて来るとようやく展示の意図が判るようになってきた。町の歴史としては、ここは会津の人たちが深く係わっている場所だということが判った。幕末の戊辰戦争に敗れた会津藩の人たちはその後辛酸の暮らしを余儀なくされたのだが、その一部の人たちがこの地に往時の政府から600名もの人が強制的に移住させられたのが開拓の始まりだった。彼らはリンゴづくりに道を見出して励んだということだった。往時の労苦の厳しさを思った。

 展示品などの数々を見ている内に、余市の往時のニシン産業を紹介する大きなパノラマ模型のあるコーナーに来た時、よく判らないままにそれを見ていたら、もう一人別の見学者の方が居られて、邦子どのが何やら話しかけたのか,かけられたのかその方と長話を始めたようだった。その方は往時のニシン漁のことについても詳しいようだった。その後自分も話に加わることとなったのだが、その方は何とソーラン節に関心を持っておられて、館内に絶えず流れているその音楽に合わせて身体を動かしながら、それを体得しようとされていたのだった。お話では、ソーラン節はこの地の発祥で、これは元々は唄ではなく漁の仕事の合図なのだという。船頭が発する声に漁師の人たちが応えて網を引き寄せるその音頭だったとのこと。それには何種類かあって、それがこの会館内に流れている唄なのだと言いうことだった。その労働のしぐさと唄とを一致させて体得することが目的でここを訪ねて来ておられるようだった。面白い方だなと思った。後で紹介しあって、立花さんという方で、倶知安からお出でということだった。ヒラフのスキー場で仕事をされているとお聞きした。これから倶知安の風土館に寄る予定をしているので、その時再会が叶えばいいなと思った。珍しい出会いだった。

 その後ようやく涼しくなりかけた道の駅に車を留め、近くの温泉に入りに行き、落ち着く。日が沈んでようやく北海道らしい涼しさが戻ってきた。明日は仲間の方たちとの再会が待っている。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第56回>

2018-07-20 05:24:03 | くるま旅くらしの話

【今日(7/20:金)の予定】 

マオイの丘公園 →(R274・R12他)→ 北海道博物館 →(R12他)→ 札幌北IC →(札樽自動車道)→ 小樽IC →(R5)→ 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

 

【昨日(7/19:木)のレポート】 天気:曇りのち晴れ

<行程>

道の駅:三笠 →(R12他)→ 美唄市郷土資料館 →(R12・D)→ 三笠市博物館 →(D)→ 道の駅:三笠 →(R12・R234・D)→ 岩見沢市郷土科学館 →(D・R234・R12他)→ 江別市郷土資料館 →(R12・R274)→ 道の駅:マオイの丘公園(泊)

<レポート>

 三笠の道の駅の朝は曇りだった。今日は終日の曇りかと思っていたら、9時頃には青空が戻って、いい天気となった。風があり少し涼しいくらいの感じなので、暑さが気にならないのがありがたい。この分で夕方まで行って欲しいと思った。朝、付近を散策したのだが、道の駅の脇をやたらに大型のトラックやトレーラーが通るので、どういうわけかとその方向に歩いて行ったら、かなり大規模の工業団地があるようなので、なるほどと首肯した。三笠市というのは一体どこが中心部なのか良く判らない。道の駅のある辺りは、R12が走りイオンなどの大型のショッピングモールがあるので中心に近いのかと思っていたのだが、どうやら違うようだ。少し山手の方へ行くと開拓に関わる碑が建っていて、それによるとこの辺りは農業地帯で、湿地で土質が悪く、相当に苦労して地元の組合が総力をあげて改良に取り組んだようだった。開拓精神の逞しさを表象するような碑だった。

 さて、今日は4カ所の郷土館や博物館を訪ねる予定にしている。先ずは昨日パスしている美唄市の郷土資料館を訪ねることにして、昨日来た道を戻って町の方へ向かう。15分ほどで着いて、早速中へ入る。美唄は石炭依存の町かと思っていたのだが、決してそうではなく屯田兵の入植を初め、農業その他の産業も町を支えていることを知った。しかし一時は石炭が中心だったことに変わりはなく、その証としてなのか、巨大な石炭柱が据えられているのを見て圧倒された。よく整理された資料があって、追ってじっくり読むのに助かるなと思った。

美唄市郷土館に展示されてる巨大な石炭柱。昭和25年に採炭されたもので、重さが3.5トンもあるという。このような黒いダイヤが、この地には多く存在していたのだ。この資源が一時この国のエネルギーを賄ったことを思った。

 次は三笠市の博物館に向かう。この博物館はどこにあるのか、町の中心部にあるのかと考えながらナビに従って向かったのだが、車は中心部らしい市街地を走り過ぎて郊外に出て山の中に入り、幾春別という地区の少し先の方にあった。三笠市というのはかなり広いのだと思った。ここは少し料金が高いので、何か特別のものがあろうと期待しながらの入館だった。入って見て度肝を抜かれるほど驚いたのは、巨大なアンモナイトを初め様々な大きさの化石がずらりと並べて陳列されていた。この地は化石ではかなり有名な所らしく、それについての解説や展示が細かく丁寧になされていた。その他にも様々な種類の生物の化石が数多く展示されており、何だか数億年前の世界が固まって目前に現れた感じがした。奥の部屋に特別企画なのか、生命の歴史について誕生から様々な進化のプロセスを経て人に至るまでを解りやすく解説した展示があった。その後の展示室には、三笠市の開拓の歴史についても解りやすい展示があり、大いに参考になった。それらの中でこの地には空知集治監があった場所であり、これが町の始まりとなっているようで、かなり丁寧に集治監の解説がなされていた。又この地には幌内炭鉱があり、平成の初めまで採鉱が行われていたということも知った。大いに満足して次に向かう。

北海道各地の博物館や郷土資料館を訪れると、どこにでもアンモナイト化石の2~3個は展示されているけど、この三笠博物館は別格である。大小様々なアンモナイトの化石がずらりと並んでいた。解説も詳細である。

 次は岩見沢市の郷土科学館である。ここは邦子どのは入らず自分一人が見学する。この展示には手づくりの資料が各所に置かれており、それを頂けるので、大いに助かった。詳しいことはここには書かないけど、岩見沢は道路と鉄道が早期に整備されたことにより大きく発展した町である。炭鉱もあり、町の産業は大いに賑わったのだと思う。邦子どのはこの町出身の作家辻村もとこさんに関心を持ったらしく、中には入らずにロビーに提示されていた紹介内容を見て心を動かされたようだった。

 その後は今日の最後の訪問先江別市の郷土資料館に向かう。間もなく到着して早速中に入る。この町は石狩川の氾濫で過去相当に苦労したようだった。開拓の当初は屯田兵の力によるものが大きかったようで、何点かの資料等が展示されていた。その他特徴的だったのは、この地では縄文等の遺跡が多いということで、数多くの土器などが発掘されており、それらを復元したものが年代順に大小さまざま400個も展示されており、これには圧倒された。江別という場所は、縄文の時代から多くの人々が暮らしていた場所なのだということを知った次第。町の歴史年表等は有料で頒布して頂いた。追ってじっくり読むことにしたい。これで今日の訪問は終了する。

展示室のコーナー三方に時代順に並んだ縄文土器の数々。今まで見てきた縄文土器の展示の中では、これほど多くの復元土器を見ることはできなかった。

 今日の宿は当初恵庭の道の駅を考えていたのだが、恵庭はかなり混雑するので、ゆとりのある長沼町の道の駅:マオイの丘公園に行くことにした。途中で買い物などをして17時過ぎ到着。くるま旅らしき車は少なくて、今夜は静かな夜を送れそうである。気温もかなり下がって来ており、少し涼し過ぎるような感じもする。この贅沢をしっかり味わわなければならないと思いつつ夜を迎える。

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18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第55回>

2018-07-19 05:54:46 | くるま旅くらしの話

【今日(7/19)の予定】 

道の駅:三笠 →(R12他)→ 美唄市郷土資料館 →(R12)→ 岩見沢市郷土科学館 →(R12)→ 江別市郷土資料館 →(R12)→ 北海道博物館 →(R12・R274・D)→ 道の駅:えにわ(泊)

 

【昨日(7/18)のレポート】 天気:晴れて暑い

<行程>

千望峠駐車場 →(R237他)→ 旭川トヨペット富良野店(オイル交換) →(R38)→ 道の駅:芦別 →(R38他)→ 芦別市星の降る里百年記念館 →(R38・D)→ 歌志内市郷土館夢つむぎ →(D・R38・R12)→ 砂川市郷土資料室 →(R12)→ 道の駅:三笠(泊)

<レポート>

 今朝の千望峠は雲海も無く十勝連峰は雲に覆われて何も見えずさっぱりだった。少し付近を散策したのだが、先日咲きかけていたウバユリは花の全盛期を迎えていたし、咲き始めたばかりだったヤナギランたちは花の色を濃くして迎えてくれていた。広大な麦畑もかなり色が濃くなって間もなく麦秋を迎えるのだなと思った。食事の後今北さんご夫妻と話をしている間に、いつの間にか雲がすっかり消え去って青空が広がり出し、強い日差しが射し始めた。今日はかなり暑くなりそうな予感がした。雨や曇天を呪う気持ちが強かったのに、今度は暑さを恨まなければならない。こうなると曇天や雨の寒い朝が来ればいいと願うのは、身勝手というのか、正直というべきか。生きものにとって天候というのは絶大な影響を及ぼす存在なのだなと改めて思った。

 一先ず今北さんご夫妻とお別れして、9時になったので、富良野のトヨペットを目指して出発する。9時半の営業開始というので、電話をするよりも直接出向いてオイル交換をお願いした方が良いという判断だった。30分ほどで着いて早速フロントに出向きお願いすると、直ぐに取り掛かって貰えるというので安堵した。その後50分ほどで作業が完了する。料金も思ったよりも安くて、やはりこの車はトヨタでないとダメなのだなと思った。

 その後は、今日は空知エリアの幾つかの自治体の資料館などを訪ねる予定にしており、先ずは芦別市の星の降る里百年記念館というのを目指すことにする。今日は完全に夏がやってきたようである。日差しがきつい。久しぶりにR38の山の中の道を走って、11時過ぎ芦別の道の駅に着く。この道の駅に隣接して星の降る里百年記念館があった。昭和43年9月にこの地の開拓100年を期して建てられたものとの碑が傍に建てられていた。この地にも何度も来ているのにこの建物の中に入ったことが無く、したがってこの町がどんな歴史を辿ってきたかも何も知らなかったのである。

 中に入るといきなりプラネタリウムのようなものがあり、ボタンを押すと四季の星座が見られるような装置が設けられていた。この地の空気が済んでいて、そのような星空が見える場所ということで、星の降る里と名づけたのであろうか。本物の夜空を見たいなと思った。それから町の歴史などの展示・解説を順次見て回った。この町が歌志内村から分村して独立発展したのは、偏に石炭産業によるところが大きいというのを知った。最盛時は人口が七万人を超えるほどだったが、石炭産業が終わりを迎えて、その後人口は半分以下にもなってしまっているのを知った。それでもこの地には牧畜等の農業を営む場所があるので、歌志内のようにはなってはいないようである。町の歴史年表がないか事務の方に訪ねたら、資料をコピーして頂き恐縮した。これで写真を判読しなくても済むので助かるのである。今は炭鉱の町の風情は何も残っていない芦別市を後にして次に歌志内市の方へ向かう。

 歌志内はかつてこの辺りの中心地の一つだったようだ。先ほどの芦別も隣接する赤平市もかつて歌志内からの分村だったのである。いわば本家ということなのだが、その大元はやはり石炭産業ということになる。この市はまさに石炭の町、炭鉱の町として大いに栄えたのだった。その歴史の概要を郷土館夢つむぎという名の資料館に入り見学したのだが、往時の炭鉱に働く人々の一日の暮らしや採掘の現場を示す様子などが人力から機械へと移るその坑道の模型などがつくられていて、往時の様子が判るようになっていた。この空知地区にはたくさんの石炭の鉱脈が走っており、炭鉱が幾つも造られてそれによって繁栄した町や村が多い。ということは、戦後石炭がその使命を終わって炭鉱が閉山となって以降は、新たな経済・産業の道を見出すために悪戦苦闘して来ているという自治体が多いということになる。その中でも特に歌志内市はその落差が最も大きいのではないか。夕張市にはまだ行っていないのでよく解らないのだが、歌志内市は今の人口が3千人ほどであり、到底市とは言えない現況にある。今はその生き残りを賭けて様々な施策にチャレンジされているようである。国道も無く山に囲まれた平地の少ないこの場所では、その有効な施策を見出すのは大変だろうなと思った。

 その後、隣の赤平市に新しく炭鉱の歴史をガイダンスする施設がこの7月14日にオープンしたというので行って見たのだが、残念ながら今日は閉館日となっていた。仕方がないのでパスして砂川市の郷土資料室に向かう。ここも何度も素通りして過ごして来た場所であり、その歴史についてはさっぱり解らない。行って見ると、資料室は何やら教育関係の施設の中にあって、建物の3階に小じんまりとつくられていた。あまり来訪者も無いらしく、担当の事務の方が鍵を開けて下さった。その方の説明などを聴きながらこの町がどのような発展をして来たのかが少しずつ理解できるようになった。それによると、明治19年頃になって初めて開拓の鍬が下されたとのこと。この辺りは空知川の流域での一大湿地帯で原野が広がって、調査に来た伊達の殿様はここを諦めて当別町の方への開拓を決めたという。そのような話を伺いながら、その後のこの町の発展が、炭鉱ではなく林業その他の工業を含めた産業によるところが大きいというのを知った。それは現在のこの町の産業として町を支えているようだった。もう少しきちんと整理をしないければならないのだが、かつて奈江と呼ばれたこの地区の中心部がこの砂川市であり、歌志内も上砂川もこの地からの分村だったということである。これらの町の形成の歴史は、面白いなと思いながらの見学だった。

 15時になり、邦子どのもかなり疲れが蓄積しているようで、もう今日は資料館巡りはこれで止めにして、温泉に入ってゆっくりすることにして、道の駅;三笠に向かう。ここには隣接して太古の湯という温泉浴場があり、又近くにイオンもあって、泊るのには好都合の場所である。到着したのだが、邦子どのはどうやら疲れが溜まって、グロッキー状態になっているので、しばらく休んでいる間に自分一人が風呂に入りに行く。少し料金がたかったが、いろいろな施設が揃っていて、満足できる入浴だった。車に戻っても邦子どのはベッドの中だった。昨日のファーム富田での張り切りと、夜の今北さんご夫妻との歓談でのはしゃぎ過ぎが、今頃疲れのピークを迎えたのであろう。日が傾き替えた頃ようやく涼しくなって、それから入浴に出掛けて行った。戻ってからは少し元気を回復したようで、ま、大事には至るまいと思う。

 明日はこの辺りの町の郷土館などを巡りながら札幌に近づき、明後日は北海道博物館と開拓記念館を訪ねることにしている。とにかく疲れた時には寝ること、眠ることが大切だ。お休みなさい。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第54回>

2018-07-18 05:50:54 | くるま旅くらしの話

【今日(7/18)の予定】 

千望峠駐車場 →(R237他)→ 旭川トヨペット富良野店(オイル交換) →(R38)→ 道の駅:芦別 →(R38他)→ 芦別市星の降る里百年記念館 →(R38・D)→ 歌志内市郷土館夢つむぎ → 道の駅:うたしないチロルの湯(泊)

 

【昨日(7/17)のレポート】 天気:晴れ夕刻から曇り

<行程>

千望峠駐車場 →(R237)→ ファーム富田 →(R237)→ 中富良野町郷土資料館 →(R237)→ 富良野市博物館 →(R237)→ 千望峠(泊)

<レポート>

 昨夜は1時頃には目覚めて、もうその後は眠れないので起き出し、ブログを書いて投稿した後、もう一度眠ることにして寝床に入る。4時半頃カラスが天井を歩く音で目覚める。直ぐに外を見てみたら、上富良野の市街はすっかり雲海に包まれて、その向こうに十勝連峰が黒く連なっていた。1時頃に外を見た時はこの地も霧に覆われていたので、もしかしたら夜明け頃には山が見えるのではないかと期待して寝床に入ったのだが、それが的中して少し興奮した。早速気がえてカメラを抱えて外に飛び出す。邦子どのも起き出したようだが、外に出る気はないらしい。

 この千望峠の駐車公園は、上富良野八景の一つに入っており、景観美の素晴らしい所である。公園の下方の庭を下って、電線が邪魔をしない場所まで歩いて行き,何枚か写真を撮る。山の写真は難しい。なかなかその大きな景観を表現できるものではない。十勝岳が煙をたなびかせているのが見えた。雲海が少し崩れて山の裾野を帯となって漂っていた。山の景観はアッと言う間に変化するので、油断ならない。どうにか撮り終えて車に戻る。

今朝の千望峠から見た十勝連峰の景観。この少し前までは、下方の上富良野の街は全くの雲海の中だった。

 さて、今日は中富良野のファーム冨田の花を見るのが第一。そしてその後は中富良野町の郷土資料館を訪ね、そのあと富良野市の博物館を見る予定である。そして朝一番で邦子どのが調整して、横須賀在住の親しき知人今北さんご夫妻とこの千望峠で落ち合うことになっている。今北さんと会うのは4年ぶりどころではなく、もっと時間が過ぎてしまっている感じがする。お互い会わなかった否会えなかった年の数だけ歳をとったことになる。お元気そうな声を聞いて安堵している。今夜が楽しみだ。

 朝食はファーム富田の駐車場で摂ることにして、5時過ぎに出発する。いつもの砂利敷きの駐車場に着いたのは15分後くらいだったか。まだ朝食には早すぎる時間なので、少し町の散策に出かける。朝霧の中だった町はすっかり姿を現して、今度は十勝の山々が見えなくなっていた。中富良野の町を歩くのは初めてである。町の裏通りとなるのか、そこにスキー場があって、今頃の季節となるとラベンダーなど何種類かの花が植えられて、とても目立つ存在になる。初めて富良野を訪れた時は、そのラベンダー畑を見て、あれが有名なファーム富田なのかと勘違いしたのを思い出す。今朝のフラワー公園は未だれベンダーなどの花が咲き揃っていなくて、やや中途半端な表情をしていた。公園を過ぎてその後役場の方へ行って見た。この辺りに郷土館があるのではないかと探したのだが、見つけることは出来なかった。後で調べることにして、その後JR中富良野駅を覗いて見た。無人駅で誰もいない。列車の本数を見たら、1時間に1本に満たないようだった。もはや鉄道の時代は遠くへ行ってしまっているというのをここでも実感した。線路を跨ぐドームになっている通路を通って、上の方の道に出て車に戻る。丁度1時間ほどの散策だった。青空が見え始めて今日は上天気となりそうだ。邦子どのは早速カメラを抱えて出かけて行ったようなので、一人パンをかじってスープを飲んで朝食を済ます。

 一休みの後花見の本番へ。戻ってきた邦子どのの話では1週間前とは大分違っていてラベンダーも見ごろに近づいているということだった。期待が膨らむ。今日は花の写真を撮ることにして、いつもの小型カメラではなく、望遠レンズのついた方を持参する。カメラは自分のよりも邦子どの方がレベルが上である。腕ではなく機材の方である。腕の方も上なのかもしれない。先ずは彩の畑と呼ばれているらしい左手の丘の方へ。ここはラベンダーを中心に数種類の花が150mほどあると思われる長い畝に幾筋も植えられていて、その見事なコントラストは見る人の心を奪いときめかせるようである。大勢の人たちが写真を撮るなどして、感嘆の声をあげていた。何度も来て見ている風景なのだが、いつ来て見てもいい。4年ぶりのその景観は、以前と少し変わってはいたが、やはりここは彩の畑なのだと思った。

ファーム富田の彩の畑の景観。いつ見てもその感動は変わらない。

 その後はもう一つの花人の畑という、こちらは丘ではなくまさに大型の花畑そのものである。ここには凡そ1本が100mほどの畝にマリーゴールド、サルビア、金魚草など色とりどりの花が数10本も行儀よく並んで植えられていた。勿論その他にもラベンダー畑もあって、紫の花と香りをたっぷりと味わわせてくれていた。何しろ人が多いので、それを避けて写真を撮るのは神経を使うこととなる。半分くらいは外国からの観光客のような感じがした。その他別のラベンダー畑も回って、一通り撮影を終えて車に戻る。10時半近くになっていた。自分としてはもう充分なので、写真を撮るのは止め、園内に湧水があったので、それを汲みにポリ短とペットボトルを持って往復する。僅かな水量なので、計6Lを満たすのに15分ほどかかった。冷たい水は美味そうだった。

ファーム富田の花人の畑の景観。人工的なのだが、そこに植えられた花たちの気持ちをいかに表現するかの花人たちの工夫が伝わって来て、やはり感動せずにはいられない。

 そのようなことをしている内に邦子どのが戻ってきた。相当に歩きまわってきたようで、汗びっしょりになってのご帰還だった。この人は夢中になると疲れを忘れ、正気になるといっぺんにそれを背負い込むという困ったタイプの人なのである。明日辺り何やら問題が起きなければいいがと思ったりした。時刻は11時を少し過ぎていた。

 これでファーム冨田を切上げることにして、過ぎ近くにある中富良野町の郷土館を訪ねることにする。郷土館は役場のすぐ近くにあり、児童館と一緒だった。早速中に入り受付を済ませて見学を開始する。町の歴史に関心があって、どのような経過を辿って今日の町が出来たのか、特に富良野と名のつく自治体は1市3町(富良野市、上富良野町、中富良野町、南富良野町)もあり、それらがどのような関わり合いを持って今日に至っているのか知りたかった。ここで判ったことは、中富良野町は上富良野町から別れて誕生しているということだった。詳し経緯などはここには書かないけど、これで一つ謎が解けた感じがした。

 その後は富良野市にある博物館を訪ねて向かうことにしたが、昼時でもあるので、富良野市内のレストランで食事を済ます。明日SUN号のオイル交換を依頼しようと考えているトヨタの場所を確認したりして、間違いや迷いがないよう万全を期すことにした。そのあと、博物館に行く前に邦子どのがメロンをいつも購入している郊外にある嶋田農園という所に、そろそろそれを欲しがっているのではないかと思い、出向くことにした。ファーム冨田ではメロン売り場に人が乱れていたから、恐らくそれを思ったに違いない。メロンが好きな人なのである。因みに自分の方は全く関心なし。果糖は糖尿の天敵だと思っているし、元々甘いものは好きではない。だから邦子どのはライバルがいないので安心してメロンを食べることができるのである。嶋田農園へ行ったら、この4年の間に売り場がすっかり変わっていて、とても買いやすくなっていたのでびっくりして。2個ほど買ったようだが、過ぎに食べられるものはなかったようで、しばらく待たなければならないようである。

 その後は、富良野市博物館へ。博物館はてっきり富良野市街地に近い方にあるのだと思って、その方へ向かったら、ナビが突然最初の距離の倍近く時間がかかる表示をしたので驚いた。どうやら反対方向へ向かってしまったようだった。ナビに従って行くと、やはり勘違いしていて、博物館があるのは山部地区という所だった。元学校の校舎を使っているらしく、かなり広いスペースを使ってたくさんの展示がなされていた。ここで富良野歴史の概要を知ることができた。富良野地区というのは十勝の山並みと夕張山系の山並みに挟まれた盆地に位置して、開拓の当初は一括しての治世の対象となっていたのが、開拓が始まると上富良野と下富良野の二つの村が生まれ、やがて上富良野から中富良野が分村して誕生し、一方の下富良野からは、南富良野と山部村が分村して生まれ、やがて下富良野が富良野と改称してしばらく経って、その富良野と山部村が再び合併して富良野市が誕生したということなのだった。現在4つある富良野と名のつく自治体は、そのような経過を辿っているのだと理解した。これらの現在の姿は、何年か後には再び大合併して一本化への道を辿るのかなと思ったりした。詳細は資料を見てから確認することにして、何だか一つの謎が解けた感じがして嬉しかった。

 この博物館の見学では、もう一つ嬉しい出会いがあった。2階で資料室を見た後廊下に出ると、どこか見知らぬ方から声をかけられた。ご夫妻でお出でになったらしいのだが、そのご主人の方から自分の名を呼ばれて、そうですと返事すると、その方は実に嬉しげにようやく会えたというお顔で、自分がここに車を止めてあるのを見かけて急ぎ入って来られたのだという。お話では6年ほど前に別海町のキャンプ場でお目にかかった時に、初めての旅だったその方に旅の記録のようなものをお渡ししたようで、それ以来自分のブログを見ておられて、どこかでの再会を期されていたというお話だった。ところが自分の方は一向に記憶が思い出せず大変失礼してしまった。でもこのような出会いは何よりも嬉しいことである。横浜在住の渡辺さんご夫妻は、ご主人はまだ現役の方で、間もなく船に乗って帰途に就くというお話だった。そのあと邦子どのも加わってしばらく話が弾んだ。もう少し時間があればたくさんの話ができるのに、ほんのわずかな出会いの時間が心残りだった。渡辺さんご夫妻、もう一度お会いしましょう、そして今度はゆっくり歓談しましょう。ありがとうございました。

 その後は今日の宿の千望峠に向かう。今夜は大切な旅の知人の今北さんご夫妻との再会が待っているのだ。16時少し前に峠の駐車場に着いて、今日は先着の方が居られたので、昨日とは違う場所にSUN号を停める。待ち焦がれていた今北さんご夫妻の車は18時過ぎに到着された。5年ぶりとなるのか。お互い元気で無事での再会を心から嬉しく思った。昔(?)の旅の仲間も何時かしら少なくなって、この4年ほどのブランクの間にくるま旅の世界も大きく変化してきているのを実感しているのだが、こうして再会が叶うのはとても貴重でありがたいことなのだと思わずにはいられないのである。

 その後は俄かに4人でのポトラックパーティとなり、深更まで話が弾んだ。それをここに書くのは無理というものだ。いや~、実に楽しかった。少し飲み過ぎたのか、それとも話に酔ったのか。嬉しく楽しい時間だった。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第53回>

2018-07-17 02:36:56 | くるま旅くらしの話

【今日(7/17:火)の予定】 

千望峠駐車場 →(R237)→ ファーム富田 →(R237)→ その先未定

 

【昨日(7/16:月)のレポート】 天気:晴れ時々曇り

<行程>

道の駅:あさひかわ →(R237)→ 美瑛町:四季彩の丘 →(D・R237)→ 上富良野町菅野ファーム →(R237他)→ 上富良野町郷土資料館 →(R237・D)→ 上富良野町日の出公園 →(D)→ 千望峠駐車場(泊)

<レポート>

 昨夜は夜中に何と、雨漏れが発生してしまい、大いに驚き困惑した。我がSUN号ももう18年も乗り続けて、相当に老化が進んでいるようである。雨漏りがやたらに発生するようでは、この先の寿命も終りに近づいているということであろう。とにかく応急処置をして朝を迎えたのだが、雨がやんでくれたので助かったが、もしこれが土砂降り状態だったらどうなるか分からないことだった。多分ボディの継ぎ目のところがおかしくなっていると思うから、今日中にその箇所をシリコンなどでカバーすることにしようと考えた次第。

 今朝も曇天で涼しいのは相変らずなのだが、歩きから戻って朝食の頃は少し青空が覗いて来て、どうやら今日は天気が回復しそうである。家を出てから既に5千キロを走破しているので、そろそろオイル交換をしなければならないと考え、近くにあるイエローハットでやって貰おうと考え、10時開店というのでそれまで待つことにして、その前に雨漏り防止のためのコーティング材料等を買う。9時半過ぎに出発してイエローハットへ行ったのだが、訊いて見るとキャンピングカーは重量があるので、リフトのパワーでは載せられないので出来ないという話だった。やっぱりどこかのトヨタに頼むしかないかと諦めることにした。もうしばらくは大丈夫だろうと思っている。

 ということで、先ずは先日の花の様子からみて、もうそろそろ見ごろが近づいているのではないかと考え、今日と明日は富良野地区の花畑などを見て回ることにして、美瑛方面へ向かう。最初は四季彩の丘へ。行って見ると先日よりは少し花の色が濃くなったようだが、ここのラベンダーは遅咲きのようでまだまだ色づいていなかった。しかし、金魚草やサルビア、マリーゴールドなど他の花を上手に植え付けており、花畑の景観はそれなりに楽しめるものだった。花の写真を少し撮る。

美瑛町四季彩の丘の花の景観。手前の花は金魚草。奥の花畑はマリーゴールドなどが植えられているようだ。

 その後は菅野ファームへ。ここも花畑として有名な場所の一つである。ラベンダーは一部濃い色のものもあったが、大半は今一という感じだった。このところの長雨など天気不順が影響しているのではないかと思った。

菅野ファームの花畑の景観。ここも四季彩の丘とほぼ同じような花が植えられていた。

 次は今日のメイン予定の上富良野町郷土資料館へ。今日は月曜日なので、本来ならば休館となるのだが、休日等の関係があってなのか、この町の場合は開館しているということなので助かった。先日開拓記念館の方は見ているので、凡そのことは理解押しているのだが、町全体の歴史等についてもう少し詳しく知りたいと思っての訪問だった。中に入ると松浦武四郎の歩んだ道を十勝日誌の沿って歩くという催しの関係資料等が展示されていた。その他にも町の歴史について説明と関係資料等が整理されて展示されていたのだが、残念なことに肝心の町の歴史を記述した表示板が照明の関係で見難くて又写真にも撮れない状態だったので、何だか中途半端な見学となってしまった。開拓記念館の資料があるからまあいいやと思って諦めることにした。

 見学を終えて、まだ少し時間があるので、折角だから日の出公園へ行って見ることにして向かう。直ぐに到着する。この頃は日射しがかなりきつくなって、サングラスをしないと目を傷めるほどの夏日となった。暑さも30℃近くになっているのではないか。こうなると今度は暑さとの戦いとなり、人間というのは真に身勝手な生きものだなと思ったりした。日の出公園はラベンダーの早咲きのものが多く植えられており、濃い紫の花とそれ以上にあの高貴な香りが一面に立ちこめていて素晴らしかった。今まで見て来たラベンダーの花畑では一番見事だなと思った。公園のてっぺんまで車で上がって、富良野盆地の壮大な景観を俯瞰して楽しんだ。

上富良野町日の出公園のラベンダー畑の景観。写真からは香りを届けることはできないけど、ここには高貴な香りが風に乗って漂っていた。

 そのあとは、今日の宿を予定している千望峠に向かう。富良野に来た時は、泊りは千望峠の公園駐車場にすることにしている。ここから見る十勝連峰の景観は雄大である。今日は未だ雲が多くて山の連なりは見えないけど、明日晴れてくれたら、もうそこにいるだけで一大パノラマを目前にできるのである。日の出公園からは10分ほどで到着。先着の車が数台停まっていた。先回と同じ場所にSUN号を留める。雨漏りの補修は四季彩の丘の駐車場で済んでいるので、あとはしっかり乾くのを待つだけである。今日の記録の整理や知人への電話などをしながら夜を迎える。明日は中富良野町のファーム富田へ行って、花を楽しむことにしている。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第52回>

2018-07-16 05:00:35 | くるま旅くらしの話

【今日(7/16:月)の予定】 

道の駅:あさひかわ →(R237)→ 美瑛町:菅野ファーム →(R237他)→ 上富良野町郷土資料館 →(R237)→ その先未定

 

【昨日(7/15:日)のレポート】 天気:曇り一時晴れ

<行程>

当麻町スポーツランド駐車場 →(D)→ 当麻町郷土資料館 →(D)→ 道の駅:とうま →(R39・D)→ 道の駅:あさひかわ(泊)

<レポート>

 予報通りの雨となった。夜半から降り出した雨は次第に勢いを増し、今朝の歩きは断念し、その分二度寝をしてグータラな朝を迎える。今日はどうやら雨も曇りもあまり期待できないらしい。予定としては、日曜でも開館しているという当麻町の郷土博物館を訪ねることにしており、その後はもしひどい雨ならば道の駅:あさひかわに行って過ごすことにしている。

 当麻町のスポーツランドは様々なスポーツ施設やフィールド暮らしの体験ができるようなキャンプ場、それに入浴施設までも備えた総合施設であり、自分の住む守谷市などでは到底考えられない恵まれた環境にある。同じ日本国に住んでいるのに、どうしてこのような大きな差が生まれているのか、北海道に来る度に疑問を抱かざるを得ない。ま、深くは追求しないことにしょう。現に自分たちもこうしてこの駐車場にお世話になっているのだから。

 郷土資料館は9時開館となっているので、9時半頃に出発する。直ぐに着いたのだが、なんと閉館中という札が下がっていた。立派な施設なのにどういうことなのだろう思った。この地も屯田兵の入植から始まっているのは知っているのだが、その歴史の実際を知りたかったのに残念なことである。雨はますます勢いを増して降り続いている。仕方がないので、取り敢えず道の駅:とうまへ行きゴミ処理をしてその後はもうジタバタするのは止めて旭川の道の駅に行き、今日はもうそこで過ごすことに決めた。旭川の道の駅泊りは、これで6泊となることになる。

 11時少し前に到着して、いつもの場所が空いていたので、そこにSUN号を入れる。何やらイベントが開かれているようで、道の駅の駐車場はほぼ満杯となっていた。雨はますます強くなって来ており、しばらくTVの設定もできないほどの状況だった。様子を見ている内にお昼の時刻となり、もはやこのような時は一杯やって寝るだけと決めて直ちに実行する。邦子どのにはその神経・考えが理解できないと言われたが、川が氾濫してここまで濁流が押し寄せて来た時は、旭川が全滅近くなるときであり、そのようなバカなことは起こらないし、起こった時は我が人生の終わる時である。大して悔やむことも無く、その時はその時で諦めるだけである。邦子どのの様に雨が降る度に要らぬ心配を巡らしてみても何の足しにもならない。ということで、一杯やった後は寝床にもぐりこんで熟睡する。

 14時半頃に目覚めて外を見ると雨は止んでいた。どうやら降り飽きたらしい。邦子どのはどこかへ出かけていたようで、直ぐに戻ってきた。洪水にはなっていなかった。当たり前のことだ。しかし全国的には大雨でとんでもない被害が出ているのだから、軽々にバカにはできないとは思っている。要は今いる場所を冷静に大局的な視点で捉えて状況を判断することが大事なのだ。邦子どのの様に過剰な心配は、暮らしを不安定にするだけである。酒飲みの判断にはどうしても偉そうな言い分が入ってしまっているようだ。

 その後は歩いて中心街まで買い物に行ったりして、雨の降らない時間を楽しんだ。夜になってしばらく雨は止んだままだったが、遅くなって再び断続的に降り出したようである。明日はせめて曇りであって欲しいと願うばかりである。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第51回>

2018-07-15 04:55:19 | くるま旅くらしの話

【今日(7/15:日)の予定】 

 当麻町スポーツランド駐車場 →(D・R40)→ 道の駅:とうま →(R40・D)→ 当麻町郷土資料館 → その先未定

 

【昨日(7/14:土)のレポート】 天気:晴れ時々曇り

<行程>

美深アイランドキャンプ場 →(R40他)→ 美深町文化会館COM100郷土資料室 →(R40他)→ 名寄市北国博物館 →(R40他)→ 剣淵町郷土資料館 →(R40)→ 当麻町スポーツランド駐車場(泊)

<レポート>

 一夜明けて美深の朝は曇りだったが、晴れの予感がする空だった。今朝の散歩は天塩川の左岸堤防を音威子府の方向に向けて3kmほど行き、引き返すというコースとした。その後ダウンザテッシーカヌーツーリング大会の初日のゴールである美深アイランド脇のカヌーの停泊場所まで行って、その様子を見ることにした。天塩川の堤防は、前回道の駅に泊った時も逆方向に3kmほど往復している。堤防の歩きは単調なのだが、道端の野草たちが花を咲かせていて退屈することはない。最後に天塩川の岸辺に立って川の様子を伺いカヌー大会の様子を想像してみたが、さぞかし賑やかで楽しいイベントになるであろうと思った。何しろ何年か前に見たその大会の様子の中では、カヌーに同乗するワンちゃんまでがゼッケンをつけていて、何とも愛嬌のある大会なのだった。今回は何匹のワンちゃんが参加するのか知らないけど、一人前ならぬ一犬前の出で立ちなので、参加するワンちゃんたちも緊張・興奮するのではないか。ゆっくりと流れる水量の大きな天塩川は、今日の大会を楽しみに待っているようだった。

美深アイランド近くにあるカヌーの基地のある付近を流れる天塩川。実に水量豊かな大河である。

 さて、今日から資料館巡りを再開する予定である。先ずは地元の美深の資料館を訪ね、その後は道の流れに沿って、名寄市北国博物館、剣淵町郷土資料館、和寒町郷土資料館などを訪ねて、その後は当麻町の道の駅かスポーツランドの駐車場かに泊ろうと考えている。

 その前にすぐ傍にある美深温泉に入るつもりでいたのだが、営業時刻が10時身体と思って行ってみたら、何と11時だった。入るのは諦めることにして、出発することにする。美深町には道の駅やアイランドに何回も来ているのに、町の資料館などへは一度も行くことはなかったし、そのようなことを考えたことも無かったのである。資料館は町の文化施設の文化会館COM100という妙な名の施設の中にあり、受付でお願いすると、快くご案内頂いた。町の歴史のことがコンパクトに整理されて資料と合わせて展示されていた。明治30年代の初め頃から入植が始まり、その後道北自治体の何度かの変更などを体験しながら、美深村が誕生したのは大正時代に入ってからということを知った。それ以前は様々な呼び名があって、現在のような動きの少ない行政区分とは大分違っていたのだなと思った。歴史年表の書かれた資料も頂いたので、追ってじっくり確認することにしている。

 その後は隣の名寄市にある北国博物館を訪ねる。建物の下の方にSLらしき機関車が何輌か並んで展示されていた。どうやら本物の様である。後で知ったのだが、これらの車両は、全国で名寄市のここにしかないSL排雪列車「キマロキ編成」というものなのだそうな。自分にはよく解らないけど、鉄道ファンにはおなじみのものなのかもしれない。5輌連結で除雪、排雪を行いながら冬のこの地を走っていたのであろう。なかなか見ごたえのある景観だった。そのあと、博物館の中に入ってじっくりと見学をする。博物館なので、自然環境や野生動・植物等に関わる展示が多いのかと思ったが、必ずしもそうではなく、歴史的なことも含めて展示されていたので、大いに参考になった。中でも松浦武四郎の手塩日記の現代語訳と武四郎の足跡を記したマップを頂戴出来て嬉しかった。これらの資料は在庫がないのを無理やり頂戴してしまったようで、担当の方には申しわけない気持で一杯になった。これは今後大いに活用しなければならないと思った。

名寄市北国博物館の構内に展示されているキマロキ編成の排雪車。5両編成の堂々たる雄姿である。

 名寄の後は、市内のスーパーに行ってお弁当を買って昼食とする。このような時はこのような昼食となることが多い。いた仕方なし。

 昼食の後は剣淵町の郷土資料館へ。ここは剣淵町の絵本の館という建物の隣にあって、少し古い建物だった。隣に屯田兵の官舎が建てられていた。担当の方のお話では、何年か前まで何棟か残っていて、現役の納屋として使っていたものを移築したものだとか。屋根に煙出しも付いていて、今まで見て来た建屋よりはかなり上等の感じがした。剣淵町は、最後の屯田兵が入植した土地で、337戸あったという。資料館の中にはそれらの屯田兵の資料も展示されていて、改めて屯田兵が果たした役割を思った。館内を一通りご案内頂き、大いに参考になった。

 その後は、和寒町の郷土資料館も訪ねる予定だったが、和寒町は剣淵町から分村したと知ったので、ほぼ同じような経過を辿ったのではないかと考え、行くのを止めにした。その代わりに温泉に入り損ねていたので、当麻町のスポーツランドへ行きそこの入浴施設に入ることにした。泊りは同じ施設内にある駐車場にすることにした。24時間の利用が出来トイレも水も補給できるので安心して泊ることができる。

 ということで、その後は当麻町を目指して走り、16時過ぎに入浴施設に入って髭を剃るなどしてさっぱりした気分になって、近くの駐車場へ。先着の旅車が何台かあって、トラックも泊っていたが、夜間の騒音はあるまいと思うことにした。明日は雨の一日となる予報が出ている。ようやく夏がやってきたなと思っていたのだが、再び暗い寒い夏がやって来るらしい。とにかく我慢して安全を確保するしかない。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第50回>

2018-07-14 04:53:05 | くるま旅くらしの話

【今日(7/14)の予定】 

美深アイランドキャンプ場 →(R40他)→ 美深町資料館 →(R40他)→ 名寄市北国博物館 →(R40他)→ 剣淵町郷土資料館 →(R40)→ 和寒町郷土資料館 →(R40)→ 道の駅:とうま(泊)

 

【昨日(7/13)のレポート】 天気:曇り一時晴れ

<行程>

クッチャロ湖キャンプ場 →(R275・R40)→ 道の駅:ピンネシリ →(R275)→ JR音威子府駅 →(R40)→ 名寄市ショッピングモール →(R40)→ 美深アイランドキャンプ場(泊)

<レポート>

 クッチャロ湖の朝は、昨日とは違って霧雨だった。その中を1時間半ほど歩いて車に戻る。昨日現在道の駅をつくっており、来年にはオープンしていると聞いたので、その場所がどこなのかを確認しようと思ったのだが、それは先日来駐車場の工事が行われている場所だった。看板には駐車場をつくっていますとあったので、そこは違うのだろうと思っていたのだが、近くに行って工事の内容を書いた標板を見たら、そこに交流館施設とあったので、これが道の駅なのだと思った次第。近くにスーパーなどもあって至便の場所だなと思ったが、自分たちは道の駅に泊ることはないだろうと思った。この地では、クッチャロ湖畔のキャンプ場に勝る場所はないと思っている。

 一回りして戻る頃には霧雨も止んで、傘は不要となった。昨日は天気が良くなかったこともあり、バイクや普通車で来られてテントを設営する人は少なかったようである。雨の日はその取り回しが大へんだろうなと思った。中には年配の方でもバイクに乗ってテント持参で旅をされている方もおられるようで、元気がいいというのか、よほど好きなのだろうなと思った。もはや自分の年齢では到底そのような気持にはなれない。くるま旅の終わりのことを少し思ったりした。

 さて、今日は美深まで行って、アイランドキャンプ場に泊る予定である。というのも、札幌在住の知人お二人が、明日から開催される「ダウンザテッシーカヌーツーリング大会(ダウン・ザ・テッシー・オ・ペッ・スペシャル2018)」というカヌーの川下りの一大イベントに参加されるので、自分たちもそれに合わせて再会を期すことにしたのである。前夜は美深アイランドでキャンプされることになっており、自分たちも同じキャンプ場に泊ることにしたのである。お二人の内、垂水さんには先日大へんお世話になっており、もう一人の藤原さんには4年ぶりにお会いすることになる。とても楽しみにしている。

 9時少し前にクッチャロ湖のキャンプ場を出発した後は、一路美深方面に向かって走り続ける。途中ウソタンナイの砂金採取場の案内板などがあり、ここを行けばいいのかなどと思いながらの通行だったが、自分的には砂金には引かれるものはない。今から120数年前、最初に砂金の密採したのは20人ほどだったが、何とその1カ月後には2000人もの密採者が入り込んで、一大砂金ブームがこの原野に巻き起こったという。こうなるともはや密採などではないだろうと思った。まさに一攫千金を狙った人間の欲というものの凄まじさを思わせる現象だったのだと思う。今でも川筋のどこかで砂金が出るそうだけど、観光用の場所は砂金を撒いているとは、昨日訊いた話だった。

 しばらくそのまま走って、音威子府村に入り、JR音威子府駅に寄る。ここで名物の黒ソバを食べるためだ。特に今回の旅では、必ずこの黒蕎麦を食べなければならないと思っていた。どうしてかといえば、この黒ソバは開拓の味そのものだからなのだ。真黒なその蕎麦は、往時の開拓に携わった人々の貴重な食料としての汗と血と涙が練り込まれたそばの味なのだと思っている。この蕎麦が黒いのは、普通の蕎麦粉は実の表面の殻を剥いて粉をひくのだが、この蕎麦はその殻を剥かずにそのまま粉にし、それを練り込んでつくっているからなのである。ようやく採取された食料としての蕎麦の全てを無駄なく食べるという先人の思いが伝わって来る気がするのである。蕎麦をつくって食べさせてくれる売店の老夫婦お二人の姿を見ていると、遠い開拓の時代につながるこの蕎麦の思いが益々強く波打って伝わって来るのを感じるのである。だから、ここへ来ると自分が食べるのは一番純朴なかけ蕎麦だけである。今日は改めてその素朴な味をかみしめながら遠い時代を思った。

音威子府の黒蕎麦。真黒い蕎麦には開拓の先駆者たちの思いが存分に籠められた味が詰まっている。

 音威子府の駅を出た後は、一先ず美深アイランドの入口を通過して、名寄市のショッピングモールまで直行する。キャンプ場の受付が13時からなので、その前に買いものと給油を済ませる。このところ寒さの勝る夜が続いているので、今夜はおでんにしようと決めている。買いもの等が終わって、13時少し前にキャンプ場に着いて、手続きを済ます。

 明日から3連休となるためなのか、いつもは数台しかいないオートキャンプサイトは、今日はかなりの数の車が留っていた。明日辺りは満車近くになるのかもしれない。自分たちは今夜一晩だけの予定である。電源などを切り替えた後は、おでん作りに取り組む。これは邦子どの主導の仕事であり、自分は火の番が主な役割となる。2時間ほどで概ね完成する。後はお二人の到着を待つばかりである。16時頃の到着と聞いていたのだが、その後何度かフリーサイトの方を見に行っても着いた様子がない。この間天気はピカピカの夏空となって、反おでん向きの暑さが膨らんできた。木陰の風は冷たくて、まだ本物の夏とはなっていないのが判る。17時を過ぎるころ、もう一度見に行くと、向こうからお二人の乗った車がやってきた。話を聞くとカヌー大会に出場する人のキャンプ場所は別に作られていて、そちらの方で過ごされていたとのこと。それを知らなかったのは迂闊だった。

 さて、それからは楽しい歓談の時間となった。藤原さんとは4年ぶりの再会であり、特に邦子どのは藤原さんには好きな音楽のたっぷり入ったCD等をつくって頂いており、今回の旅でも時々それを聴いたりして大事にしている。お二人とも北海道HMCC(Hand Made Campingcar Club)の幹部で、もう10年来の知り合いとなって、自分たちの北海道での旅を豊かにして頂いている大切な知人なのだ。HMCCの皆さんは、人生を楽しむその楽しみ方を知っている人たちが多い。キャンプだけではなく、カヌーなども含めて大自然との様々なふれあいの仕方を熟知しておられるのである。北海道には関東の特に都心部に近いエリアに住む人たちには決して発想できない遊びが当たり前になっているのだ。北海道には遊ぶことができる海や川や山や湖が至る所にあるのである。何ともうらやましい話である。それらを知るにつれ、もっともっと早く、そのことに気づけばよかったと何度思ったことか。それでもお陰さまで関東に住む普通の人よりは何倍も多くの楽しみを教えて頂き味わったと思っている。そのお二人との話は、邦子どののトーンの高い話しぶりと混ざり合って、真に嬉しくも楽しい時間だった。

 お二人はカヌーの仲間の人たちともこれから前夜の懇談の時間があるとのことで、少したってから引き上げられていった。天塩川は北海道の北部を流れる大きな川で、100マイル(約160km)もの長距離の間堰等のない野性的な川である。だから100マイルの川下りが可能なのだ。明日から3日かけて団体でのカヌーの川下りは壮大なイベントだなと思う。是非安全無事に全員がゴールに着いて欲しいと願う。お二人とも十分に気をつけて楽しんで下さい。

 お二人がいなくなって、急にさびしくなった後は、もう一度一杯やって、そのまま寝床にもぐりこむ。明日からはしばらく資料館巡りが続くことになる。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第49回>

2018-07-13 05:18:04 | くるま旅くらしの話

【今日(7/13)の予定】 

クッチャロ湖キャンプ場 →(R275・R40)→ 美深アイランドキャンプ場(泊)

 

【昨日(7/12)のレポート】 天気:朝の内一時晴れのち曇り

<行程>

終日クッチャロ湖キャンプ場に滞在(泊)

<レポート>

 朝5時頃外を見た時は雲の間に青空が見えていた。何となく晴れる予感がした。しかし天気予報を見てみるとずっと曇りのマークが続いていた。どうしても天気のことが気になる毎日なのである。その後一時は青空が広がり、ソーラーも活動し始めたのだが、1時間もしない内に雲がたちまち全空を覆ってしまった。どうしても今年の北海道は青空とは縁のない関係が続いているようである。長袖のシャツを着ているのだが、その上にTシャツを重ね着ても寒いくらいの毎日なのである。関西以西の水害による被災地の方々のことを思えば、愚痴など言っている場合ではないのだが、それでもつい何度も繰り返している毎日だ。

クッチャロ湖畔の景観。1時間ほど青空が覗いた景色が広がっていた。推進が1mほどしかないこの湖は静かで穏やかで、いかにも北海道らしい癒しの雰囲気をたっぷり含んだ場所である。

 今日はどこへも行かないで、ここで一日ゆっくり過ごすことにしている。従って特に書くこともない。ゆっくりと言っても何もしないわけではなく、朝の散歩は熊が出たという道などを通って1時間半ほど景色を楽しんだし、朝食の後は家を出て以降一度もしなかった車の汚れを落とすべく汗をかいたりしてほどほどに疲れるくらいの動きはしているのである。本来ならば、今までの資料館等を巡って得た資料等の整理をしなければならないのだが、それをやり出すと余計に疲れてしまうので、旅の目的のことは忘れることにしている。となると、早速一杯やりたいところなのだが、これは邦子どのの厳しい目があるので、夜近くならないとダメなのである。何か事が起きた時、酔っていたのでは車は動かせない。ご尤もである。かくして最高のゆっくりは寝床に潜るということになる。

 というわけで、昼には待望のそうめんを茹でて食べた後は、久しぶりの午睡となる。14時頃目覚めて気分快調。そこで思い出した。そうだ、この町にも郷土資料館があったっけ。今日は休館ではないので、一寸覗いて見ようと思い立つ。邦子どのは休んでいるので、自分一人で歩いてゆくことにした。15分ほど歩いて赤レンガの倉庫風の建物に到着する。予てから知っていた場所なのだが、中に入る気になったのは今日が初めて。ドアが閉まっているので、所定の連絡先に電話すると直ぐに担当の方がこられて開けて下さった。

 それからしばらく館内を見て回る。町の歴史を見ると、明治の17年頃にこの地に和人が一人住んで漁をしていたとの記録があるとか。明治24年に枝幸村他3村(頓別・歌登・礼分)併せての戸長役場が置かれたという。明治33年には板垣退助他1名が、頓別の国有林435万坪を払い下げたとあったが、その後のこの町との関係は何も記されていなかった。頓別村が開村したのは大正5年とのことである。その他この町のウソタンナイ地区では有望な砂金が採れることで有名である。一時はゴールドラッシュのようなことが起きたとのこと。現在でも砂金は少しながら採取出来るというのは、担当の方の話だった。それから8千年前の頃の縄文遺跡があり、何点かの出土品が展示されていた。担当の若者の話では、現在の浜頓別は漁業と農業が経済の中心となっているとのこと。昔は林業も盛んだったのが、今は衰えて製材所等はなくなっているとのこと。今泊っているキャンプ場のあるクッチャロ湖は、白鳥等の渡り鳥の休息中継地としてラムサール条約に登録されて観光資源の一つとして活用しているというような話だった。北海道一の憩いの場として大いにPRして欲しいものだと思った。現在町内に道の駅を建設中という話も伺った。来年が楽しみである。又町では、隣村の猿払村と一緒に北オホーツク100kmマラソンというイベントを控えて、駐車場などを造る工事が進められているようだった。いずれの市町村でも如何にして人を呼ぶか、集めるかに苦労されているようである。大いなる成功を願いつつ車に戻る。

 時々雨が降りだしたり、止んだりする天気が続いていたが、今日もこのような空のままで終わることになりそうである。夕焼けは今回はどうしても無理なようだ。多分もう一度くらいは来訪するであろうから、その時はあの空全体が真っ赤に染め上がる雄大な夕焼けを見てみたい。そのようなことを思いながら今日の1日が終わった。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第48回>

2018-07-12 04:53:31 | くるま旅くらしの話

【今日(7/12)の予定】 

終日クッチャロ湖キャンプ場に滞在予定

 

【昨日(7/11)のレポート】 天気:曇り一時晴れのち曇り

<行程>

道の駅:もち米の里☆なよろ → 風連歴史民俗資料館 →(R40・R239)→ 下川町(資料館?)→(R239)→ 道の駅:にしおこっぺ花夢 →(R239・R238)→ 紋別市郊外コインランドリー → 雄武町LPガススタンド →(R238)→ 道の駅:おうむ →(R238他)→ クッチャロ湖キャンプ場(泊) 

<レポート>

 昨夕18時頃から降り出した雨は一向に止んだ気配が無く、夜中に目覚めた時はいつも雨音を立てていた。大雨というほどの降り方ではなかったので、避難騒動となるようなことはあるまいと思った。朝になってしばらく過ぎると雨は止んで、8時半頃から空の半分は青空となり、やがて一気に晴れの天気となって太陽がまぶしかった。この晴れの天気はいつまで持つのか、予報では午後からは曇りとなるようである。いつになったら本当に安定した夏の日が来るのか、ただただ願うだけである。

 今日の予定は特にないのだが、LPガスがそろそろ無くなるので、雄武の町のガス屋へ行って充填しようかと考えている。その後どうするかは行って見て決めることにして、先ずは先日ここに泊った時に見つけている風連歴史民俗資料館を訪ね、その後は雄武に向かう途中にある下川町の資料館があるらしい下川町ふるさと交流館というのに寄って見ることにする。

 風連歴史民俗資料館は、直ぐ近くにあって、先日は連絡先の名寄の北国博物館が休館のため連絡が取れず見るのを諦めたのだが、今日は電話がつながって、近くにある児童館で受付をすれば開けてくれるということだった。先日もそれを知っていれば空振りにならなかったのだ。そのようなことを玄関先にでも張り紙をして教えてくれるべきではないかと思った。この資料館は名寄市と合併前の風連町がつくったようで、風連町の歴史を中心にこの地の自然環境や遺跡などについて紹介がされていた。コンパクトだが時間軸に合わせて分かりやすく資料等が展示されており、大いに役立った。この地は元々屯田兵が入植する候補地だったようで、それが消えた後から順次開拓が進められてきたようである。この地も水田耕作にかなり力を入れているようで、道の駅の名も「もち米の里」と謳われている。その昔は名寄ならぬ多寄という名の村だったのを風連と改めたとのこと。今は町の名も無くなり、地区名として残っているわけである。久しく訪問者がなかったようで、館内には今年の冬がまだ留まっているかのごとく冷え冷えとしていた。

 風連の資料館を出た後は名寄市に向かって走って、郊外からR239に入って下川町へ。20分ほどで到着し、ふるさと交流館というのを訪ねたのだったが、ここは何やらスポーツ施設となっているようで、どこを探しても資料館らしきものは見当たらなかった。調べ方がまずかったのかもしれない。諦めて興部方面へ向かう。途中西興部の道の駅で休憩。丁度12時となり館内にある人形たちが音楽の演奏に合わせて動くというのでそれをカメラに収めることにした。動画を撮ったのだが、たくさん並んでいる音楽隊の人形の中で動いているものは少なく、演奏時間も1分ほどだったので、何だかがっかりした。

 西興部を出る時に考えが変わって、雄武のLPガスに行く前に溜まって来ている洗濯物に対処すべく紋別のコインランドリーヘ行くことにした。ここのコインランドリーは邦子どのが信頼しているので、怪しげな所を探すよりも安全・安心なのである。洗濯のことは自分にはさっぱり解らない。40分ほど走って到着。早速洗濯に取り掛かっている間、自分は近くのスーパーで弁当を買って来て昼食。邦子どのとは別々である。後でハンバーガーを食べていた。14時半頃までに洗濯は終了する。

 終了の後は直ぐに出発して、雄武町のLPガス充てん所に向かう。わざわざここまで来るのは、この辺りではここの充てん所が一番良心的だからである。充てんを終えたあとは近くにある道の駅へ。ここに泊るのが今日の予定だったのだが、まだ少し時間があるし、邦子どのは海の傍の場所に泊るのは津波のこともあり、どうも尻込みがちなので、少し遠いけど思い切ってクッチャロ湖のキャンプ場迄行くことにした。クッチャロ湖のキャンプ場も湖畔にあって、雨には弱い筈の場所なのだが、洪水になるような場所ではなく、邦子どのも気に入っていて、北海道らしさを味わえる場所だと、先日も喜んでいた。

 ということで、その後80kmほどを走って、18時頃の到着となった。途中海霧に襲われたりして視界が悪くなり、気温も低くなって厳しい状態だったが、ここに着く頃は青空も見え出し、もしかしたら名物の夕焼けが見えるのかもと期待したのだが、それは叶えられなかった。明日もここに1日滞在して、明後日は知人のカヌー大会の応援に美深に向かうことにする。キャンプ場にはかなりの数のテントが張られていたが、皆さんマナーを守って、静かな夜を迎えることが出来た。

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