山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第43回>

2018-07-07 05:44:16 | くるま旅くらしの話

【今日(7/7)の予定】 

道の駅:旭川 → 全道フォークダンス大会見物(邦子どののみ)→ 未定。

 

【昨日(7/6)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:あさひかわ →(D・R40)→ 北鎮記念館 →(R40・D・R39)→ 大雪の湯 →(R39・D)→ 道の駅:あさひかわ(泊)

<レポート>

 朝、雲は多かったが、遠くに青空が広がっていて、今日は予報通り少し晴れ間が見られることになりそうだ。久しく見なかった青空を見て、気分が少し好転するのを感じた。久しぶりに朝の歩きに出かける。ここ3日ほどは殆ど歩いていないので、少し挽回できるように旭川の市内を歩くことにした。先ずは近くのJR駅まで行って見ることにした。旭川のJR駅は現役時代に何度か来ているのだけど、現在の駅はすっかり新しくなっていて、往時の面影は全くない。随分と時間が過ぎたのを思い知らされる気分となった。旭川の街がどのようになっているのか、今は見当もつかない。全く未知の世界を歩くのと同じ自分がいるように思った。

 駅前の通りをまっすぐ歩いてゆくと、間もなく市役所があった。そこから左に折れてしばらく歩くと樹木のある通りがあったので、その道を気ままに往復する。樹木があるのには救われる気分がする。緑の通りと呼ばれているようだった。それから買いもの通りというのがあったので、それをぶらぶら歩いてのだが、なにしろまだ6時前の時間なので、空いている店などあるわけも無く、買いもの通りも眠りこけている感じだった。今日の街中の歩きはそれくらいにして、その後は来た道を戻って忠別川の堤防の道をしばらく歩くことにした。川にはまだ濁流が奔っていて、恐ろしい形相をしている感じだった。激流に流された樹の株などがむき出しになって、川の瀬に引っ掛かっているのが何本も見られて、先日の雨の凄まじさを物語っているようだった。20分ほど行ってから引き返し、今度は美瑛川の様子を見てみることにして向かう。こちらの方も忠別川に負けないほどの濁流が奔っていた。一つ下流の橋まで歩くことにして、それから30分ほどかかって旭川大橋というのを渡る。この橋はどうやら美瑛川と忠別川の二つの川を跨いで造られているようで、自分は美瑛川の右岸だと思って歩いていたのだが、元に戻ったらそれは忠別川の右岸だった。2時間と少し歩いて車に戻る。いい歩きの時間だった。毎日このような時間が取れればいいのだが、さて明日以降はどうなるのだろう。

 今日は天気もよさそうなので、旭川にもう一つある屯田兵と第7師団のメモリーの残る北鎮記念館に行くことにしている。その後は風呂に入って、取り敢えず道の駅:あさひかわに戻ることにしている。そのようなことを考えていたら、邦子どのに電話が入り、四国徳島在住の方が午後訪ねて来て下さるという話だった。現在北海道にお出でになっているのは承知していたのだが、どうやら都合と場所が一致出来たとのこと。これで午後の日程も決まり、泊りももう一泊追加することとなった。

 先ずは北鎮記念館へ。記念館は自衛隊の旭川駐屯地の傍にあって、どうやら自衛他との関わり合いもある感じだった。2階がメインの資料等の展示場となっていた。

 先ずは屯田兵の入植や開拓や暮らしの状況などが詳しく説明されていた。旭川地区には3地区計1200人とその家族たちの入植があったということだが、これは先日兵村記念館の方でも示されていた情報なので、屯田兵に関しては、重なるところが多かった。これはまあ当然のことではある。次に旭川には第7師団が設けられ、これは屯田兵をベースに構成された軍隊だが、この歴史のようなものが詳しく説明されていた。戦後に育った者にはなかなか知る機会のない情報だったので、それなりに勉強になったが、この中で一番心が痛んだのは、やはり日露戦争の勝利とその裏にあるものについての感慨である。

 自分は日露戦争に関しては、「一将功成って万骨枯る」という思いを拭い去ることができない。死傷者が5万人近くも出て、その後全国各地にその慰霊碑が設けられ、それは今でも残り続けているのである。戦争は戦わずして勝ち、戦わずして負けるべきである。それが政治家の役割であり、国際間のルールとなるべきものではないか。複雑な気持ちになりながら記念館を後にする。邦子どのは、途中で気分が悪くなったと先に出て車の中で青い顔をしていた。

 その後、風呂に入ろうと大雪の湯という所へ行ったのだが、入ったのは自分一人で邦子どのはしばらくベッドに横たわって頭痛の回復を待つとのことだった。何か知らぬが、ショックいが大きかったのかもしれない。入浴の後は早々に道の駅:あさひかわに戻る。駐車場の半分以上がくるま旅の滞在者で埋まっていた。その後は客人を迎える準備などをして過ごす。邦子どのの気分も回復したようで、やれやれである。

 15時半過ぎ山田さんご夫妻がお見えになる。山田さんご夫妻とは初めて知り合ったのが2002年というから、もう16年も前からの出会いの友なのだ。旅で知り合った人というのは、仕事関係等では得られない格別の思いというのか嬉しく大切なものがあるのである。徳島在住の山田さん宅にお邪魔したこともあり、特に邦子どのは奥さんが千葉県出身でもあり、格別の親近感を抱いているようである。北海道の旅で毎年会っていたつもりが、すれ違いが多かったりして、気がつけばもう10年近くお会いしていなかったのである。つまりはお互い全員が10歳も歳をとってしまっていたということである。この間山田さんは大病に襲われて、相当に厳しい経験をされたとお聞きした。自分より5歳ほど先輩なので、やがて自分にもそのような時期が来るやもしれず、心してお話を伺った。現在は元気を回復され、このように旅をされているのだが、以前のような旅車によるくるま旅ではなく、宿を利用しての旅とのことだった。奥さんはとても元気なご様子で、邦子どのと大きな声で話をされていた。この元気さにご主人も励まされるところが大きいに違いないと思った。奥さんは七宝焼では日展にその作品が何度も入選を続けておられるアーティストでもあり、今回の旅も何か作品のテーマやヒントを求めてなのかもしれないと思った。とにかく10年のブランクを埋めるべく、歓談は続いたのだが、それはあっという間に過ぎてしまった。今夜の宿に向かうために17時には出発しなければならない山田さんご夫妻とお別れとなる。四国へも久しく行っていないので、来年辺り考えてみたいと思っている。その時には山田さんに是非ともお会いできることを楽しみにしている。

 さて、その後はちょっぴりさびしさを感じながら、しばらく山田さんご夫妻のことなどを振り返って話した。親しき友との再会は嬉しいのだが、別れた後の寂しさのようなものがやって来るのはいかんともし難く、毎度の味わいなのである。

 明日はここを出てさてどこへ行こうかなどと考えながら夜を迎える。再び天気が悪化するらしいので、安全第一に考えなければならない。美瑛や富良野辺りの花はどうなっているのか。この寒さでは花たちも咲くのをためらっているのではないか。行くとすればその方向だななどと思いながら眠りに入る。

 

コメント
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