山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第55回>

2018-07-19 05:54:46 | くるま旅くらしの話

【今日(7/19)の予定】 

道の駅:三笠 →(R12他)→ 美唄市郷土資料館 →(R12)→ 岩見沢市郷土科学館 →(R12)→ 江別市郷土資料館 →(R12)→ 北海道博物館 →(R12・R274・D)→ 道の駅:えにわ(泊)

 

【昨日(7/18)のレポート】 天気:晴れて暑い

<行程>

千望峠駐車場 →(R237他)→ 旭川トヨペット富良野店(オイル交換) →(R38)→ 道の駅:芦別 →(R38他)→ 芦別市星の降る里百年記念館 →(R38・D)→ 歌志内市郷土館夢つむぎ →(D・R38・R12)→ 砂川市郷土資料室 →(R12)→ 道の駅:三笠(泊)

<レポート>

 今朝の千望峠は雲海も無く十勝連峰は雲に覆われて何も見えずさっぱりだった。少し付近を散策したのだが、先日咲きかけていたウバユリは花の全盛期を迎えていたし、咲き始めたばかりだったヤナギランたちは花の色を濃くして迎えてくれていた。広大な麦畑もかなり色が濃くなって間もなく麦秋を迎えるのだなと思った。食事の後今北さんご夫妻と話をしている間に、いつの間にか雲がすっかり消え去って青空が広がり出し、強い日差しが射し始めた。今日はかなり暑くなりそうな予感がした。雨や曇天を呪う気持ちが強かったのに、今度は暑さを恨まなければならない。こうなると曇天や雨の寒い朝が来ればいいと願うのは、身勝手というのか、正直というべきか。生きものにとって天候というのは絶大な影響を及ぼす存在なのだなと改めて思った。

 一先ず今北さんご夫妻とお別れして、9時になったので、富良野のトヨペットを目指して出発する。9時半の営業開始というので、電話をするよりも直接出向いてオイル交換をお願いした方が良いという判断だった。30分ほどで着いて早速フロントに出向きお願いすると、直ぐに取り掛かって貰えるというので安堵した。その後50分ほどで作業が完了する。料金も思ったよりも安くて、やはりこの車はトヨタでないとダメなのだなと思った。

 その後は、今日は空知エリアの幾つかの自治体の資料館などを訪ねる予定にしており、先ずは芦別市の星の降る里百年記念館というのを目指すことにする。今日は完全に夏がやってきたようである。日差しがきつい。久しぶりにR38の山の中の道を走って、11時過ぎ芦別の道の駅に着く。この道の駅に隣接して星の降る里百年記念館があった。昭和43年9月にこの地の開拓100年を期して建てられたものとの碑が傍に建てられていた。この地にも何度も来ているのにこの建物の中に入ったことが無く、したがってこの町がどんな歴史を辿ってきたかも何も知らなかったのである。

 中に入るといきなりプラネタリウムのようなものがあり、ボタンを押すと四季の星座が見られるような装置が設けられていた。この地の空気が済んでいて、そのような星空が見える場所ということで、星の降る里と名づけたのであろうか。本物の夜空を見たいなと思った。それから町の歴史などの展示・解説を順次見て回った。この町が歌志内村から分村して独立発展したのは、偏に石炭産業によるところが大きいというのを知った。最盛時は人口が七万人を超えるほどだったが、石炭産業が終わりを迎えて、その後人口は半分以下にもなってしまっているのを知った。それでもこの地には牧畜等の農業を営む場所があるので、歌志内のようにはなってはいないようである。町の歴史年表がないか事務の方に訪ねたら、資料をコピーして頂き恐縮した。これで写真を判読しなくても済むので助かるのである。今は炭鉱の町の風情は何も残っていない芦別市を後にして次に歌志内市の方へ向かう。

 歌志内はかつてこの辺りの中心地の一つだったようだ。先ほどの芦別も隣接する赤平市もかつて歌志内からの分村だったのである。いわば本家ということなのだが、その大元はやはり石炭産業ということになる。この市はまさに石炭の町、炭鉱の町として大いに栄えたのだった。その歴史の概要を郷土館夢つむぎという名の資料館に入り見学したのだが、往時の炭鉱に働く人々の一日の暮らしや採掘の現場を示す様子などが人力から機械へと移るその坑道の模型などがつくられていて、往時の様子が判るようになっていた。この空知地区にはたくさんの石炭の鉱脈が走っており、炭鉱が幾つも造られてそれによって繁栄した町や村が多い。ということは、戦後石炭がその使命を終わって炭鉱が閉山となって以降は、新たな経済・産業の道を見出すために悪戦苦闘して来ているという自治体が多いということになる。その中でも特に歌志内市はその落差が最も大きいのではないか。夕張市にはまだ行っていないのでよく解らないのだが、歌志内市は今の人口が3千人ほどであり、到底市とは言えない現況にある。今はその生き残りを賭けて様々な施策にチャレンジされているようである。国道も無く山に囲まれた平地の少ないこの場所では、その有効な施策を見出すのは大変だろうなと思った。

 その後、隣の赤平市に新しく炭鉱の歴史をガイダンスする施設がこの7月14日にオープンしたというので行って見たのだが、残念ながら今日は閉館日となっていた。仕方がないのでパスして砂川市の郷土資料室に向かう。ここも何度も素通りして過ごして来た場所であり、その歴史についてはさっぱり解らない。行って見ると、資料室は何やら教育関係の施設の中にあって、建物の3階に小じんまりとつくられていた。あまり来訪者も無いらしく、担当の事務の方が鍵を開けて下さった。その方の説明などを聴きながらこの町がどのような発展をして来たのかが少しずつ理解できるようになった。それによると、明治19年頃になって初めて開拓の鍬が下されたとのこと。この辺りは空知川の流域での一大湿地帯で原野が広がって、調査に来た伊達の殿様はここを諦めて当別町の方への開拓を決めたという。そのような話を伺いながら、その後のこの町の発展が、炭鉱ではなく林業その他の工業を含めた産業によるところが大きいというのを知った。それは現在のこの町の産業として町を支えているようだった。もう少しきちんと整理をしないければならないのだが、かつて奈江と呼ばれたこの地区の中心部がこの砂川市であり、歌志内も上砂川もこの地からの分村だったということである。これらの町の形成の歴史は、面白いなと思いながらの見学だった。

 15時になり、邦子どのもかなり疲れが蓄積しているようで、もう今日は資料館巡りはこれで止めにして、温泉に入ってゆっくりすることにして、道の駅;三笠に向かう。ここには隣接して太古の湯という温泉浴場があり、又近くにイオンもあって、泊るのには好都合の場所である。到着したのだが、邦子どのはどうやら疲れが溜まって、グロッキー状態になっているので、しばらく休んでいる間に自分一人が風呂に入りに行く。少し料金がたかったが、いろいろな施設が揃っていて、満足できる入浴だった。車に戻っても邦子どのはベッドの中だった。昨日のファーム富田での張り切りと、夜の今北さんご夫妻との歓談でのはしゃぎ過ぎが、今頃疲れのピークを迎えたのであろう。日が傾き替えた頃ようやく涼しくなって、それから入浴に出掛けて行った。戻ってからは少し元気を回復したようで、ま、大事には至るまいと思う。

 明日はこの辺りの町の郷土館などを巡りながら札幌に近づき、明後日は北海道博物館と開拓記念館を訪ねることにしている。とにかく疲れた時には寝ること、眠ることが大切だ。お休みなさい。

コメント
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