山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第57回>

2018-07-21 06:00:55 | くるま旅くらしの話

【今日(7/21)の予定】 

道の駅:スペースアップルよいち →(R229)→ 積丹町美国海水浴場(北海道HMCCの皆さんとキャンプ)(泊)

 

【昨日(7/20)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

マオイの丘公園 →(R274・R12他)→ 北海道博物館 →(R12他)→ 札幌北IC →(札樽自動車道)→ 小樽IC →(R5)→ ニッカウイスキー売店 →(D)→ 余市町水産博物館 →(D)→ 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

<レポート>

 涼しい朝を迎えた。少し寒さを覚えるほどである。今日は北海道博物館を訪問するだけの予定で、それが終わったら余市の道の駅に行って泊るだけである。明日は北海道在住の仲間たちと積丹町の海水浴場でのキャンプに参加する予定であり、それを楽しみにしている。ま、その前に博物館で特別企画展として開催されている北海道生誕150年の命名者として知られている松浦武四郎についての事跡を知ろうという考えなのである。

 そのような予定から、明日のキャンプの参加料(?)として何か野菜類の獲物はないかと考え、この道の駅でそれを求めることにして、9時の開店を待つことにする。この道の駅には地元で生産される野菜が豊富に販売されており、中には見たことも無いものが並んでいて、農家の皆さんの新しい取り組みを知ったりして、好感を抱いているのである。時間が来て結局選んだのは、いつもと同じスイカとトマトだった。これを皆さんと一緒に食べるのを楽しみにしながら、北海道博物館に向かって出発する。

 10時頃に博物館に到着する。この頃から晴れの天気に転換し、蒸し暑い夏の空気となった。日差しもきつくて、これは先が思いやられるなと思いながらの入館だった。この道立の建物は、何やらいきさつがあって新しく博物館として出発したらしい。このようなことは邦子どのの方が遙かに詳しくて、自分はさっぱりわからない。初めての来訪だった。ここはありがたいことに65歳以上は無料で入館することができる。有資格者としては、それに報いるためにもしっかり見学しなければならないと思っている。今日の来訪の第一の目的は松浦武四郎の特別展であり、大いに期待している。この人物については、予め何冊かの紹介本や著作の幾つかを読んでいるので、多少は理解しているつもりなのだが、そのような上っ面の知識ではなく、本物の何かをつかみたいという思い出の来訪だった。

 中に入ると、特別展は二つに分かれていて、一つは子ども用に紹介したコーナーともう一つは本格的な展示コーナーだった。先ず子ども用のコーナーに入って見たが、ここは北海道各地を理解するための地図やすごろく等がゲーム形式で理解できるような工夫がなされていた。さすがに真老の身では真剣に見る気にはなれず、直ぐに本格的なコーナーの方へ。こちらの方は、たくさんの著作の元となっている様々な文書などが展示されていた。ところが照明が暗くて解説の字が読みにくいのである。メガネを取り出して見てみても印刷の文字が小さいので判読し難いものが多くて、その内に読むのは止めにして、ただの全体見物に切り替えることにした。たくさんの文書が並んでいたが、例えば手紙の原文を判読する力などないので、ざっと眺めるだけである。それでも細かく克明に書かれている物を数多く見ていると、この人物の旅に対するエネルギーのとてつもない大きさを感じないわけにはゆかなかった。展示されているのは、ほんの一部だけなのであろうから、生涯のものを並べたら、それはもうそのパワーに卒倒するくらいの大きさだったのに違いない。未開の原野や山林の中をアイヌの人たちの力を借りながらの探索は、想像を絶するものがあったに違いない。何よりも心を打たれたのは、どのような些細なことでも記録をし、出来事を残しているということである。恐らくこの人物以外にも往時の山野を歩き分け行った人はいるに違いないと思うのだが、何の記録も残さなければその存在は永遠に不明なのだ。改めて記録を残すことの大切さを教えられた感じがした。その他感ずるものは多かったが、ここには記しきれない。

 常設の会場も見学したが、こちらの方は、既に各地の郷土館などを巡っているので、特に新しいものはなく、今までのおさらいをしている感じがした。もう70カ所以上を訪ねているので、見聞するものは大方知らなければおかしいということなのであろう。十二分に北海道を感じながら博物館を後にする。

 既に12時半近くになっており、昼食は直ぐ近くにある先日訪問済みの開拓の村の食堂で摂ることにして、移動する。ここでなるべく往時のメニューに近いものを食べることにして、いももちと豚汁をオーダーする。いももちはジャガイモに澱粉を加えて練り込んで餅状にしたものを焼いたものである。往時の人たちもこれを食べていたに違いないと思いつつ、それでもこんなに上品には作らなかったのではないかと思いながら豚汁を飲んだりした。食べ物に関しては、音威子府の黒蕎麦の方が迫力があるなと思った。

 その後は、札樽自動車道を通って余市に向かう。久しぶりの高速道なので、慎重に走って間もなく小樽に入り、観光客の溢れる運河の通りを過ぎ、市街地を抜けて余市へ。暑い。邦子どのの要望で、先ずはニッカウイスキー工場内にある売店に行き休憩と買いものをする。ギンギラの暑さである。この暑さでは道の駅に行ってもどうにもならないなと思っていたら、邦子どのが店の人から得た余市の歴史を知るための情報として、水産博物館というのがあるのを聞いてきた。実はこれは訪問予定の一つだったのだが、先日余市町の役場を訪ねた時に、町の歴史を記した簡単な年表等がないかと尋ねたら、担当の人がめんどくさそうに対応してくれたので、行くのを止めにしていた場所なのである。邦子どのにはそのことを話していなかったので、ま、時間もあることだからと行って見ることにした。

 この水産博物館は、どういうわけなのか、ナビが案内できない様なとんでもない坂道を上った場所に建てられており、少し迷いながらの訪問だった。やや古びた年季の入った建物の中に入ると、ニシン漁などに使われていた船などの他漁具などがたくさん展示されていて、何をどう見ていいのか迷うほどだった。最初は戸惑ったのだが、馴れて来るとようやく展示の意図が判るようになってきた。町の歴史としては、ここは会津の人たちが深く係わっている場所だということが判った。幕末の戊辰戦争に敗れた会津藩の人たちはその後辛酸の暮らしを余儀なくされたのだが、その一部の人たちがこの地に往時の政府から600名もの人が強制的に移住させられたのが開拓の始まりだった。彼らはリンゴづくりに道を見出して励んだということだった。往時の労苦の厳しさを思った。

 展示品などの数々を見ている内に、余市の往時のニシン産業を紹介する大きなパノラマ模型のあるコーナーに来た時、よく判らないままにそれを見ていたら、もう一人別の見学者の方が居られて、邦子どのが何やら話しかけたのか,かけられたのかその方と長話を始めたようだった。その方は往時のニシン漁のことについても詳しいようだった。その後自分も話に加わることとなったのだが、その方は何とソーラン節に関心を持っておられて、館内に絶えず流れているその音楽に合わせて身体を動かしながら、それを体得しようとされていたのだった。お話では、ソーラン節はこの地の発祥で、これは元々は唄ではなく漁の仕事の合図なのだという。船頭が発する声に漁師の人たちが応えて網を引き寄せるその音頭だったとのこと。それには何種類かあって、それがこの会館内に流れている唄なのだと言いうことだった。その労働のしぐさと唄とを一致させて体得することが目的でここを訪ねて来ておられるようだった。面白い方だなと思った。後で紹介しあって、立花さんという方で、倶知安からお出でということだった。ヒラフのスキー場で仕事をされているとお聞きした。これから倶知安の風土館に寄る予定をしているので、その時再会が叶えばいいなと思った。珍しい出会いだった。

 その後ようやく涼しくなりかけた道の駅に車を留め、近くの温泉に入りに行き、落ち着く。日が沈んでようやく北海道らしい涼しさが戻ってきた。明日は仲間の方たちとの再会が待っている。

コメント
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