山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第17回>

2014-11-25 01:37:17 | くるま旅くらしの話

【今日(11/25)の予定】 

  道の駅:たけはら →(R185・R2)→ 倉敷市方面(その先未定)

 【昨日(11月24日:月)のレポート】  天気:晴  走行193km

<行程>

道の駅:しまなみの駅御島 → 大三島IC →(しまなみ海道)→ 西瀬戸尾道IC →(R2)→ 道の駅:みはら神明の里 →(R2・県道)→ 道の駅:たけはら <重伝建・竹原市竹原地区探訪> →(R185・安芸灘大橋・とびしま街道)→ <重伝建・呉市豊町御手洗地区探訪> →(とびしま海道・安芸灘大橋・R185)→ 道の駅:たけはら(広島県竹原市)(泊)

<レポート>

 2日間お世話になった道の駅:しまなみの駅御島に別れを告げたのは丁度8時だった。珍しく少し早い出発となった。今日は重伝建指定の2か所を探訪予定なので、時間に余裕を持たせようと考えたからだった。直ぐに高速道に入り、瀬戸田PAでごみ処理を行い、引き続いて高速道を尾道に向かう。尾道からは自動車専用道のR2に入り、しばらく走って三原市の道の駅:みはら神明の里で小休止する。ここから第1目的の竹原まではそれほどの距離はない。ナビに従って県道を行き、9時半ごろには竹原の道の駅:たけはらに到着する。

竹原は、文字通り竹の多い所のようだ。市内に入る前は山道を通って来たのだが、それらの山の半分くらいには竹が密生していた。市内に入っても至る所に竹が生えていて、まさに竹原だなと思った。当初の予定では、先に呉市の重伝建の御手洗の港町に行き、その後で竹原に戻ってじっくりと探訪して道の駅に泊ろうかと考えていたのだが、もしかしたらTVの朝ドラで竹鶴酒造のことを知って観光バスなどが押し掛けて、混雑するのかもしれないと思い先に竹原の重伝建エリアを歩くことにした。

     

竹原には竹山、竹林が多いのが目立つ。自然に増えたのか、それとも何か理由があってこうなっているのかはよく判らない。竹細工の店などもあったから、竹が暮らしに関わって来ているのかもしれないなと思った。

マッサン人気が高まっているとはいえ、駐車場くらいは何とかなるだろうと安易に考えてやって来たのだが、驚いたことに既に満車となっていて、500mほど離れた臨時駐車場らしき場所へ行くように指示された。行って見ると大きな空き地で車は一台も来ていなかった。早速歩く準備に取り掛かり、ふと車の後部を見て見たら、何と、BSのアンテナ用のポ―ルが折れ曲がって、アンテナが垂れ下がっているのに気付き驚いた。今朝出発するとき、うっかり伸ばしていたアンテナをたたむのを失念し、そのまま走ってしまったのだ。生憎昨夜はアンテナのポールを高く伸ばさざるを得なかったので、それもまた災いの要因となっていた。何処でぶつけたのか全く気付かなかったけど、そのまま気付かなかったら、落下したりして誰かに迷惑をかけていたのかも知れず、ぞっとした。大急ぎで応急手当てをして歩きに出発する。

竹原を訪れるのは初めてのことである。広島や宮島は何回も訪ねているのだけど、それ以外の広島県のエリアについては殆ど何も知らないといっていい。竹原の重伝建エリアについては、自分よりも相棒の方の関心事であり、かなり前から訪ねたいと謎を掛けられていた。それがようやく実現することとなった次第である。TVのドラマに影響されて来たのではなく、静かなひなびた佇まいを期待しての来訪だった。しかし、現実はかなり違っていて、まさかこんな時期にぶつかってしまうとは思いもよらぬことだった。

最初少なかった観光客が、10時を過ぎる頃には次第に増え出し、やがては膨れ上がって来たという感じになった。多くの人たちの関心事は、竹鶴政孝氏の生家の小笹屋竹鶴酒造を見て、お土産にお酒を買って帰るというようなことらしく、古い町並みを見てもそれほど感動するといった雰囲気ではないようだった。自分たちは自分たちのペースで、古い町並みの探訪をすることとした。相棒とは勿論別々のペースである。相棒は重伝建の探訪に関しては自分よりも知識も経験も豊富で、とても一緒に写真を撮るなどという気は起こらない。

   

ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝氏の生家、小笹屋。一部資料館となっているようだが、今日は休業の張り紙が出されていた。

先ずは一通り町並みの裏表を歩いた後、西方寺というお寺の境内にある普明閣という展望の効く建物に上って、町並みの全体を俯瞰した。竹原という所は製塩業で栄えた場所で、その昔は56か所もの製塩所があったという。元々は先日訪れた赤穂市の製塩技術の入浜方式を導入して始まったとのこと。今は海が何処にあるのかも判らないほどで、古い町並みは山裾にあるため、どうも海と係り合いのある製塩の町というのがピンとこなかった。この町並みで一番すごいなと思ったのは、空き家らしき古い家があまり見当たらないことである。殆どが現役、今でも人が住み昔からの家をしっかり守っておられるというのは、素晴らしいことだと思う。また、町並み全体のバランスを保って残っているのも素晴らしいなと思った。一番古い家は1600年代に造られたというから驚きである。ここにはマッサンブームが終わってから、もう一度ゆっくりと訪ねて見たいなと思った。帰りに土産に小笹屋竹鶴酒造の竹鶴を何本か求めようとしたのだが、寄った店では全く在庫がないという。小笹屋の方に行っても在庫は無いのではないかとのこと。今頃になって政孝氏が実家に絶大な貢献をしているのを不思議に思いつつ、この気まぐれブームが早々に終わることを切に願った。今度来た時は必ず酒を手に入れるぞと思いつつ一先ずの町並み探訪を終わりにした。

   

1600年の中ごろに造られたという吉井家。もちろん部分的な補修が加えられながら今日まで来ているのだとは思うが、400年近い木造の家が残っているというのはすごいことだなと思った。

   

西方寺は町を見下ろす山の中腹にあり、その境内にある普明閣という展望所らしき場所から見た町並みの屋根の様子。密集する家屋にも歴史の持つ一種の落ち着きを感じる。

その後は60kmほど離れた呉市豊町(大崎下島)の御手洗という重伝建地区に向かう。御手洗(みたらい)はお手洗いではなく、江戸時代の昔から風待ち、潮待ちの港町として栄えた所である。ここも初めての訪問だった。呉の市街地からは7~8km手前に、下蒲刈島に渡る安芸灘大橋という全長1.3kmほどの有料の橋がある。その橋を渡ると、その先上蒲刈島、豊島、大崎下島と橋を渡って島がつながっており、その大崎下島の突端近くにあるのが御手洗という港町なのであった。この島々を結ぶ道をとびしま海道と呼んでいるらしい。今回の旅で初めて知ったことだった。それにしてもこのような形で島々が結ばれているとは、瀬戸内に住む人でなければ、なかなか知り得ない知識のように思った。

駐車場に車を置き、すぐ近くの旅館の食堂で昼食をとる。その後、いつものように相棒とは別行動で、町並みの散策を開始する。なかなかそれらしい建物が見出せなかったが、しばらく歩いている内にその昔を思い起こさせる風格のある建物が見えて来た。毎度のことだけど、港町というのは建物が櫛枇していて、隣りとの空間が1mにも足らない細道なのには息が詰まる気がする。しかし、みんながお互いに助け合って暮らしを守って行くとなると、家の造り方も地区の造りもこのような形に集約されてゆくのかもしれない。1時間ほどで車に戻ったのだが、相棒は何時ものようにその後30分ほどして帰って来た。時刻は既に15時を過ぎていた。

   

豊町御手洗地区の町並みの様子。この辺りが昔の様子を一番残しているように思った。

   

町並みの一角にある七卿が隠れ暮らした家跡。幕末維新前の頃の出来事だったが、何だか歴史の一瞬の出来事が拡大され過ぎて残っている感じがした。

今日の泊りは竹原の道の駅ではなく、もう少し先(岡山寄りに)まで行こうかなと思っていたのだが、この時間では無理をすることになってしまいそうなので、やっぱり予定通り竹原の道の駅に泊ることにして出発する。17時近くに戻ったが、さすがにもうバスの観光客はいなくなり、普通の乗用車ばかりとなっていた。それでもまだかなり駐車場は混みあっていたが、どうやら適当な空きスペースを見つけて車を入れる。今日は風呂は無し。地酒の竹鶴は手に入らなかったので、焼酎で一杯やって夜を迎える。

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