山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第7回>

2014-11-15 08:29:15 | くるま旅くらしの話

【今日(11/15)の予定】 

 道の駅:農匠の郷やくの →(R9・175他)→ 元伊勢三社参拝 → その先未定

 【昨日(11月14日:金)のレポート】  天気:曇時々晴    走行134km

<行程>

道の駅:若狭おばま →(R27他)→ 舞鶴市街・引揚記念館 →(R27他)→ 道の駅:舞鶴とれとれセンター →(R27・R178他)→ 宮津・天橋立 →(R176他)→ 与謝野町・重伝建エリア探訪→(R176他)→ 道の駅:シルクのまちかや →(R176他)→ 道の駅:農匠の郷やくの(京都府福知山市夜久野)(泊

<レポート>

 小浜の朝は青空が主体のまあまあの天気だった。毎夜10時間以上もの睡眠時間があるため、変な時間帯に転寝をしたりして、今朝は起きるのに気づいたのが6時20分だった。どうしても歩こうと思っていたので、直ぐに着替えて外に飛び出す。勿論相棒は天国の眠りの中。1時間ほど歩くつもりで、まだ行ったことのない重文の多田寺というのへ行ってみることにした。凡その行程は知っているつもりで行ったのだが、どういうわけか途中で腹痛を覚え出し、やむなく多田神社まで行ったところで引き返すこととなってしまった。それでも今回の旅では初めての早朝散歩が出来て、まあ、良かったということなのであろう。

 さて、今日の予定は特になく、夕方までに明日の重伝建探訪先の丹後ちりめんの里の加悦の道の駅(与謝野町)まで行って泊るだけなのである。一応途中の舞鶴の街中にある戦後の引揚の港を訪ねることと、もう一つは久しぶりに天橋立の観光をしてみようかなと思ってはいる。今回の旅では、このような効率の悪い行程をわざわざ組み込むようにしている。

 9時少し前に出発して、少し走って新しい道の駅が大飯町に出来たというのでちょっと立ち寄って覗くことにした。行って見ると、うみてらす大飯という道の駅は文字通り海のすぐ傍に造られていた。ごく普通の売店があるだけだった。直ぐに先に行くことにして出発。

次の目的は舞鶴市内にある引揚記念館。過去何度もここを通っており、その都度一度戦後の引揚船の場所を訪ねたいと思っていたのだが、ようやく今日その願いが叶えられることになった。戦後大陸から日本へ苦難の引揚をされた方の話は何度も聞いているし、帰りを待つ母のことを歌った歌曲も耳に深く残っているけど、まだ現地を見ていないというのは、けしからぬことなのかもしれないと思っていたのである。記念館の資料を見ようと窓口に行ったのだが、邪魔をする人がいて、時間がかかりそうなので入ることは止め、裏側の方にある引揚船の桟橋を俯瞰できる展望台へ上ることにした。5分ほど坂道を上ると眼下に引揚船が停泊し、はしけで船客を運んだという湾が俯瞰できた。桟橋は復元したもので、小さな規模だったので、かなり想像を逞しくしないと往時を思い起こすのは難しいのではないか思った。でも、湾を囲む小高い山々の景観は、苦難の船旅を強いられた人々がようやく祖国に戻れたという喜びと安堵を抱かせるに相応しいものだったのではないかと思った。展望台に上る坂の途中には、何本もの桜の記念樹が植えられていたが、その一本一本に建てられた札の名称に引き上げた人々の関係者の思いが込められているのを感ぜずには居られなかった。このような戦争は決してあってはならないと改めて思った。

       

引揚記念館裏の展望所から見下ろした、波止場のあった湾。沖に留った母船からここに造られた桟橋までハシケに乗って上陸したという。一番下右手前にある小さい桟橋が、復元されたもの。

     

展望所に上る坂道の両側には、戦時の思いを込めた何本もの桜の記念樹が植えられていた。慰霊の思いが込められているのを強く感じた。

舞鶴の引揚記念館を出た後は、道の駅:舞鶴とれとれセンターという所に寄り、昼食休憩。新鮮な若狭湾の魚が溢れた施設で、久しぶりに寿司を食べ、今夜の肴に焼きサバを一本買い入れた。その後は天橋立に向かう。由良川を渡り、宮津に向かったのだが、途中から雲行きが怪しくなり、天橋立近くに着いた頃には雨が降り出して来た。それに天橋立の位置を勘違いして道を選び、文殊菩薩のある方へ来てしまっていた。天橋立は砂嘴が作った天然の通路であり、海を挟んで二カ所の基点があるわけだが、その反対側に来てしまったのである。股の下から逆さまの景色を覗いてみようなどと思ったのだが、場所も違うし、雨も降り出して来たやらで、急遽観光は取りやめ、明日予定していた加悦の重伝建エリアのちりめん街道を訪ねることにした。

加悦(かや)というのは関東に住んでいる人にはなじみが薄い呼び名で、最初から正確に地名を読み当てられる人は少ないと思う。また、重伝建に指定されているといっても何なのか判らない人が多いのではないか。しかし、丹後ちりめんといえば、ああ、あれかとその絹織物を思い浮かべる人は多いと思う。加悦は(今は合併して与謝野町となったが)丹後ちりめんの発祥地であり、一大生産地なのである。今でもちりめん街道と称される往時の町並みが残っており、機械織りではあるけど、その生産を継続する機の音が聞こえてくるのである。今日はそこを訪ねることにしたのだった。14時前に旧加悦町役場の敷地内の駐車場に着いて、車を置き探訪に出発する。その状況は以下に写真で紹介することにする。

     

与謝野町加悦のちりめん街道の町並みの景観。5mほどの道が街道で、その両側にその昔ちりめんづくりにかかわった家々がずっと続いている。

     

街道の中ほどに縮緬発祥の地という碑を見つけた。手米屋小右衛門とあった。縮緬は京都の西陣の織物技術をこの地にあった織物に加えた新しい技術で生み出されたものだと、この家の子孫の方から教えていただいた。

                                                                                                         

現役の織物工場の中を見学させていただいた。数台の織機が狭い工場の中に音を立てながら稼働していた。純白の絹織物が少しずつ生み出されているのが判った。現在でも何軒かの工場が稼働しており、街道を歩くと、ところどころから機を織る音が聞こえてくるのが印象的だった。

     

江戸時代からの代表的な民家の一つ、杉本家。何度も改修が加えられてきたのだと思うけど、全体から受ける印象には、やはり江戸時代からの歴史を背負っている重みと風格とが伝わってくる。

 探訪の後は、少し離れた所にある道の駅:シルクの里加悦に行き休憩の後、直ぐ近くにある温泉施設に行ってゆっくりしようと思ったのだが、何といってみるとしばらく温泉は休みとの表示が出ていたのだった。思惑が大きく外れてしまい、どうしようかとしばし迷ったのだが、今日はどうしても温泉に入りたいと思い、少し遠いけど(30kmほど)温泉のある福知山市郊外の夜久野町にある道の駅まで行くことにした。

 ナビに従ったら、そのあと二つも山を越えての厳しい道だったが、16時前には到着して、その後は念願叶っての温泉に入れて満足した。この道の駅は予定では明日泊るつもりだったのだが、一日早い到着となった。ま、こんなこともある。

コメント
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