山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第12回>

2014-11-20 07:28:39 | くるま旅くらしの話

【今日(11/20)の予定】 

道の駅:津島やすらぎの里 →(R56他)→ 宇和島城探訪 →(R56他)→ 西予市宇和町重伝建エリア探訪 → 道の駅:清流の里ひじかわ(愛媛県大洲市)(泊)

【昨日(11月19日:水)のレポート】 天気:晴  走行102km

<行程>

道の駅:内子フレッシュパークからり → 内子町重伝建地区探訪 →(R56他)→ 重文景・遊子水荷浦段畑探訪 →(県道他)→ 道の駅:津島やすらぎの里(愛媛県宇和島市)(泊)

<レポート>

 内子の道の駅:内子フレッシュパークからりの朝は少し寒い霧の中だった。7時頃外に出て見ると、早くも地元の農家の人たちが出荷で大童の最中だった。少し霧が晴れて明るくなり出したので、今日の予定の内子町重伝建エリアの下見に出かけることにした。勿論相棒は眠りの中である。10分ほど歩くと町並み駐車場という所に出た。後でここに車を入れることにしている。その後坂を上って近くのお寺さんの方へ行き、その下の細い道を入ってゆくと何だかわけのわからぬ木造の建物に出た。机などが並べてあるので、何だろうと思いながら少し先に行くと、そこに表示の板があって内子中学校と書かれていたので驚いた。町並みの景観に合わせてなのか、ちょっと変わった校舎なのだった。このような校舎で学ぶ子どもたちは郷土に対する愛情がしっかりと育つに違いないなと思った。その後ほんの少し重伝建の町並みエリアを覗いて車に戻る。欲張って歩き過ぎるとこの後に問題を残すことになる。

    

内子中学校の校舎の様子。和風の木造の建物が中心で、2階建てまでとしているようだった。鉄筋コンクリートの味わいのない校舎と比べて、町の子供たちにかける情熱のようなものを感じた。

 道の駅:内子フレッシュパークからりの地産物販売のことについては、何度か書いているけど、数多くある道の駅の地産物販売の店の中でもトップクラスのレベルにあると思っている。多くのこの種の店では若者が働いているのが少ないのだが、ここではかなりの数の若者が販売や仕入れなどに係っているように見受けられた。それでも世の中の動きはかなりのスピードなので、何年か前よりは少し動きが鈍くなっているのを感じた。なお一層の健闘を祈りたい。

 道の駅を出て町並み駐車場に車を置いて、その後は重伝建エリアをじっくり時間をかけて散策した。10時頃までは霧が深くなって来ていて、寒さを覚えながらの歩きだったが、間もなく霧は消え始めて日の光と共に温かさが戻ってきた。散策は勿論、相棒とは別行動である。内子の重伝建エリアは、護国・八日市と言われる地区で、その昔木蝋の生産と販売に係った家々の町並みが残る場所である。木蝋は単に蝋燭などの照明などの用途だけではなく、化粧品など多くの用途があり、その商いには多くの富が集中したのであろう。町並みを歩くと、往時をしのばせる重厚な建物が並んでいた。

     

     

   町並みの景観。細い道の両側に白壁の重厚な建物などが並んでいる。

     

   内子の木蝋産業の基盤を築いたという芳我本家の偉風堂々たる建物。

 2時間ほど歩いて車に戻ったのだが、相棒はその後かなり遅れて戻ってきた。このような場所に来ると、重いカメラもものともせずに歩き回って疲れない不思議な人なのである。12時近くなっていたので、昼食休憩とする。お昼は、今朝相棒が道の駅で買ってきたおこわなどのご飯類だった。この時間までここで頑張るとは思いもしなかったことだった。

 昼食の後一休みして、その後宇和島方面に向かって出発する。予定としては、宇和島の海側の三浦半島にある遊子水荷浦(ゆすみずがうら)という所にある段畑を見に行き、その後は道の駅:やすらぎの里という所の温泉に入り、今夜はそこに泊ることにしている。内子からは大洲市を通過し、山を一つ二つ越えて西予市を通り、その後無料の高速道を利用して三浦半島方面へ。県道をしばらく走って、曲がりの多い海沿いの道を走って遊子水荷浦の段畑下の駐車場へ。いやあー、驚いた。今まで何度も段々畑や棚田などを見て来ているのだけど、このような石垣で造られた段畑のようなものは見たことがなかった。石垣といえば大小の石を組み合わせて積んで堤を造ってゆくのが普通だと思うが、ここの石垣は小さく砕いたような石をびっしりと積んで造られているのである。畑の幅もわずか1mにも満たないものから最大でも3mほどあるかないかの大きさなのである。それが幾重にも積み上げられて最上部は海面から100m近くもあるのではないか。「耕至天」という言葉が好きだけど、それは農耕民族の精神を具現している言葉でもあると思っている。ここの段畑は、それを表わして尽きないほどに大自然に対する人間の執念のようなものを感じさせる気がした。全てが石で出来ているだけに、迫力というか、壮観というか、見事というか度肝を抜かれる思いがした。先ずは写真をご覧あれ。

     

下から見上げた段畑の景観。最上部までは100m近い高さがあるのではないか。この最上部の横の方には、先祖代々の墓が造られており、ご先祖様たちは海と丘の段畑を安堵して見下ろしているようだった。

     

       横から見た段畑の景観。なんともはや見事というしかない。

     

上から見た段畑の景観。下の方にわずかに海が見える。クルマも小さく写っている。高さが想像できるであろうか。

    

段畑の畝の様子。それぞれの畑には黒いマルチシートが敷かれて、保温や保湿に工夫がされているようである。この畝にはネギが植え付けられていた。幅は1m足らずである。

 段畑に感動した後は、来た道を戻ってR56に戻り、再び無料の高速道を走って終点で下りて、道の駅:やすらぎの里へ。付属している日帰り入浴施設に、今日は温泉博士の恩恵を受けて無料での温泉入浴となる。その後は駅の売店で鯛の刺身などをゲットして、久しぶりにデラックスな晩餐となった。

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14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第11回>

2014-11-19 06:17:23 | くるま旅くらしの話

【今日(11/19)の予定】 

  道の駅:内子フレッシュパークからり → 内子町重伝建地区探訪 →(R56他)→ 宇和島方面へ(詳細未定)

 【昨日(11月18日:火)のレポート】 天気:晴  走行152km

<行程>

道の駅:とよはま →(R11)→ 道の駅:小松オアシス →(R11他)→ 松山城近く・駐車場なしのため探訪中止 →(R56他)→ 内子町庁舎 →(R56他)→ 道の駅:内子フレッシュからり(愛媛県・内子町)(泊)

<レポート>

豊浜の道の駅の一夜は直ぐ近くをひっきりなしに走行するトラックなどの騒音で悩まされ続けた。R11は徳島・高松・松山を結ぶ四国の大動脈であり、夜も眠ることをしない。このことは以前高松に住んだ時によくよく承知していたはずなのだが、40年も前の経験は、もはやすっかり忘却の彼方に消え去っていた。とにかく我慢するしかない。少し多めに眠り酒を注入したのが効果があって、目覚めたのは4時近くだったので、既に睡眠は十分な状態となっていた。すぐ傍が海であり、朝の空気は清々しかった。

今日は特に予定はなく、宇和島方面に向かっての移動日である。途中上手く行けばどこか温泉にでも入るか、或いはまだ一度も上ったことのない松山城を訪ねて見たいなどと思っているだけである。食事の後いつものようにトイレの処理や水の補給などをして出発する。R11をそのまま走り続けて、途中西条市郊外の道の駅:小松オアシスに寄り小休止。ここは高速道の石鎚SAとつながるハイウエイオアシススタイルの道の駅である。温泉もあって、昨日体力があればここまで来て泊ったはずだった。温泉に入るのはまだ早い時刻なので、パスすることにした。

再びR11を走り続けて松山市街に入り、ナビと道案内の標識を見ながら松山城へ向かう。上手く行きそうだなと思っていたら、何と案内されたのはロープウエイの入り口だった。狭い道なのでSUN号が入れるはずもなく、駐車場が何処にあるのかも見当がつかない。ウロウロしていては危険なので、城の探訪は止めることにした。松山城は街中の最も交通量の多い場所にあるので、この後もこの車で来る限りは探訪は難しいなと思った。どうも大都市の中の目的的な探訪は苦手である。諦めて宇和島方面に向かう。

しばらく走って郊外のショッピングモールに寄り、昼食休憩。かなり大型のモールでたくさんの店舗が並んでいた。食事の後、中を覗き少々買い物をする。少なくなってきた焼酎の補給などもした。その後は再びR56を宇和島方面の内子町にある道の駅に向かって走り続ける。1時間ほど走って内子町に入り、道の駅に寄る前に温泉に入ろうと思い、手元資料にあるオーベルジュ内子という所に行ったのだが、入浴料が高過ぎるので入るのは止めにした。その帰り道に内子町の役場の本庁舎に寄り、重伝建エリアに関する資料などを頂戴した。以前と役場の位置が違うなと思っていたら、合併の際にこちらが本庁舎となったとのこと。以前の役場は支庁となっていて、現在大修理中とのことだった。

資料と丁寧な説明を頂戴した後は、今夜の宿に決めている道の駅:内子フレッシュパークからりへ。この道の駅には何度も立ち寄り、また泊らせて頂いている。この道の駅の地産物などの営業販売は、全国の道の駅の中でも有数のハイレベルにあるのではないかと自分は思っている。今日の到着は16時だったので、さすがに獲物は少なかったが、明日の朝は地元の豊富で新鮮な農産物にお目にかかるのが楽しみである。今日は只の移動日となったため、写真などはない。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第10回>

2014-11-18 07:48:26 | くるま旅くらしの話

【今日(11/18)の予定】 

  道の駅:とよはま →(R11)→ 松山市・宇和島市方面(詳細は未定)

【昨日(11月17日:月)のレポート】  天気:晴後時雨

<行程>

道の駅:たからだの里さいた →(R32・R319他)→ 丸亀港(船便往復) ⇔ 塩飽本島(重伝建笠島地区探訪) →(R11他)→ 道の駅:とよはま(香川県観音寺市)(泊)

<レポート>

 財田町は合併して三豊市となっている。この道の駅には何度かお世話になっているけど、近くの温泉に入って泊るだけで、付近の様子などは全く知らないままだった。今日は早朝に少し付近を散策することにした。鮎返しの滝というのがあるというので、それを見に行くこととした。10分ほど歩いて、坂を下り川の砂利道を少し歩くと、その滝があった。高さは15mほどか、きりっとした、なかなか美形の滝だった。今はこの川の直ぐ下がダム湖になっていて、川を上る鮎もいないようだが、その昔はここまで登って来た鮎たちがこの滝にぶつかって遡上を諦めて引き返したという。来て良かったなと思った。

       

三豊市財田町の道の駅近くにある鮎返しの滝。小型の滝だけど、なかなかの風格のある滝だった。

 その後元の道に戻って、急な坂を少しのぼると老人ホームがあり、その庭の隅に立派な石の碑があるので近づいてみたら、そこには儘誠学園発祥の地と刻まれていた。儘誠学園は尽誠学園であり、高校野球の甲子園出場などでも有名である。その創始者は大久保彦三郎という方で、幕末から明治の初期の頃にこの地に陽明学を基盤とする私塾を開いたのが始まりだという。今までまったく知らなかった、新しい発見だった。その他にも幾つか学ぶことがあり、良い散策時間だった。

    

盡誠学園発祥の碑。その昔の往時は鄙びた山地の傍らに過ぎなかったのだと思うけど、教学の精神に燃えた先達のエネルギーはここに学び舎の灯をともしたのだと思った。

 さて、今日のメインは丸亀市本島の重伝建エリアの笠島という所の探訪である。本島は文字通り瀬戸内に浮かぶ島であり、その昔は塩飽水軍の拠点の一つだった所で、江戸時代は幕府が塩飽エリアを管轄する勤番所が設けられていた所でもある。その島の一部に古い町並みが残っており、今日はそこを歩くことにしている。財田の道の駅は山の中だったが、先ずはそこを抜けだし、丸亀港に向かう。9時半ごろには着いたのだが、船に乗るのは人間だけで、車は港近くに置いて行かねばならないのに、駐車場が見当たらなくてしばらく困惑した。少し離れた場所にようやく置き場所を見出して、船乗り場へ。10時40分の乗船時刻で、帰りは本島を12時45発でと思っていたのだが、船乗り場で貰った資料を見ると、本島の港から笠島地区までは2kmもあり、往復すると少し時間が足りなくなることが判った。その後の帰りの便は17時台なのである。まあ、しかたないかなと思って諦めることにしたのだが、船便の時刻表をよく見ると14時台にもう一便があるのに気づいた。フェリーの時刻ばかり見ていたのだが、他にも客船の便があったのである。同一会社の経営なので、料金も同じということだった。これで安心して出航のフェリーに乗ることが出来た。

 本島には11時20分に着いて、そこからはちんたらと付近の景色などを楽しみながら歩いて笠島地区に向かう。30分ほどで到着する。笠島地区の町並みは、港町特有の細い路地に居宅が密集して建てられていた。船を用いての商いをする人たちの暮らしは豪勢で、どの家もしっかりした佇(たたず)まいをしていた。印象に残ったのは、板壁が焦げていたこと。焼いた板を壁に貼って防腐の機能を持たせているのであろう。町並みの保存状態はかなり高いレベルだなと思った。昔が良く残っているのである。しかし、町はひっそりと静まっており、人影は殆ど見られなかった。後で相棒からの、大阪の方からここの自家を見に来られたというご婦人の話では、今は若い人はここでは暮らしてゆけないので、殆どいないということ。そして僅かに住んでいる家には老人ばかりで、それもだんだん男性が亡くなって女性が多いとのこと。重伝建に指定されたとは言うものの、いずれの地区でもそれを維持することがこれからは大変なことなのだなと、改めて思った。   

    

       本島町重伝建笠島地区のマッチョ通りの町並み景観。

   

この町並みの建物は、皆焼いた杉の板らしき板壁で造られているのが印象的だった。

   

小栗家の景観。この家屋は屋根の葺き方がやや丸みを帯びているのが他にない特徴だとか。前のご婦人の左側はこの家の持ち主の方。右はさて?

 じっくりと町並みを散策した後は、来た道を左右ウロウロしながらのんびりと船着き場近くにある観光案内所に戻る。案内所の中にある食堂で昼食休憩。

   

乗船の待合所付近にある小さな広場にあった咸臨丸渡米150周年の顕彰碑。この咸臨丸には、かなりの数の塩飽出身の水夫が乗船して操船に携わっていたという。

 その後40分ほど待って帰りの客船の出発時刻となる。船は小型の高速船で、フェリーとは全く違った乗り心地だった。あっという間に丸亀港に到着する。本島の船に乗る頃から空が俄かに暗くなって、雨が落ちて来ていたのだが、丸亀港に着いた時は雨は止んでいた。しかし、路面は今降り止んだばかりのようにたっぷりと濡れていた。車に戻って、さて今日の宿を何処にするか。しばらく考えた後、温泉のある愛媛県西条市の道の駅:小松オアシスにしようかと思ってナビを入れたら、なんとこれから100km以上もあるという表示なので、これは行くのを取りやめ、より近い観音寺市の道の駅:とよはま(=豊浜)にすることにして出発する。16時少し前に到着。海のすぐ傍で、少し抵抗があったが、この先には他に適当な道の駅がないので、とにかく今日はここに泊ることにした。先着の岡山ナンバーのキャンカーの方に声を掛けられ、少し話をしたのだが、彼らはこれから当初考えていた小松オアシスに向かうとのこと。若い人はパワーがあっていい。自分たちはマイペースで行くことにしている。間もなく静かな夜を迎える。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第9回>

2014-11-17 07:56:37 | くるま旅くらしの話

【今日(11/17)の予定】 

  道の駅:たからだの里さいた →(R32・R319他)→ 丸亀港(船便往復) ⇔ 塩飽本島 →(R11他)→ 松山方面(未定)

 【昨日(11月16日:日)のレポート】  天気:晴  走行111km

<行程>

道の駅:黒井山グリーンパーク →(岡山ブルーライン)→ 早島IC →(瀬戸中央道)→ 鴻の池SA → 与島PA → 坂出北IC →(県道他)→ 丸亀城跡探訪 →(R319・R32・他)→ 道の駅:たからだの里さいた (泊)

<レポート>

 以前に泊った時には夜間のトラック騒音に悩まされたのだが、昨夜は奇跡的といっていいほど静かで、何の心配もなかった。この頃はトラックのマナーもかなり良くなってきているのを実感した一夜だった。昨日までの毎朝は寒さでブルッと来る感じだったのだが、さすがに瀬戸内側に来ると寒さもぐっと和らぎ、室内の気温も10℃を少し上回っていた。外に出て少し上の方に歩くと、小さな広場の脇に何本か植えられている冬桜が満開に近い花を咲かせていた。そろそろ花の少ない季節となっており、この時期に桜が見られるのは嬉しい。

     

道の駅の傍にある小さな公園には何本かの冬桜が満開近くになっていた。冬桜にしては花が大きいのが嬉しかった。

この道の駅は農産物が豊かに並べられており、地元の人たちを初めかなりの人々が野菜などを求めて開店前から集まっていた。自分たちもキャベツやミカンなどを買い入れたが、いずれもいい品質のもので気持が良かった。キャベツはさっそくその半分を漬物にした。ミカンは果糖が多いので、食べ過ぎないようにするためにも少量を買い入れるにとどめた。

 さて、今日は特に目的もない移動日である。瀬戸大橋のある瀬戸中央道を渡り、四国に入ったら、取り敢えず丸亀城跡だけは見ることにしており、その先のことはまだ決めていない。その時の状況でどうするかを決める考えでいる。水を補給したりして、出発は10時過ぎとなった。ブルーラインという県道を走って、少し先にある道の駅:一本松展望公園に寄り、しばし瀬戸内海の島々の景観を楽しむ。この辺りから小豆島や名も知らぬ島々が幾つか展望できた。その後は、再びブルーラインを走り、いつの間にかR2に入って岡山市街を通り抜け、早島ICから瀬戸中央道で。少し走って鴻の池SAにて小休止する。ここからは瀬戸内海は見えず、大橋が見えるのはもう少し先である。瀬戸大橋を車で渡るのは初めてであり、自分はその昔開通間もない頃に電車で渡ったのを覚えているが、その時は夜の時間帯で、遠く坂出の町の灯かりが見えただけだった。相棒は全く初めての瀬戸大橋である。3本の本四架橋が完成して以来、この瀬戸中央道だけは何故か、まだ一度も通ったことがなかったのは、不思議といえば不思議である。

 直ぐに出発して、少し走って与島PAという所で一旦下に降りて、しばらく休憩する。瀬戸大橋の中間くらいの距離なのであろうか。どれが大橋なのか判らないけど、とにかくスケールの大きい橋がつながっているのが見える。橋の下部を走る電車も何回か見ることが出来た。PAの建物の中に讃岐うどんを食べさせてくれる店があったので、昼食にすることにして、おろし生醤油かけうどんというのの大(盛り)をオーダーした。久しぶりの讃岐うどんは美味かったが、あまりにも量が多過ぎたので、全部食べるのに苦労した。四国高松に5年ほど住んでいたことがあり、うどんの美味さは承知しているけど、やはり今までの一番は、宇高連絡船のデッキで食べたかけうどんだなと思った。今はもうその連絡船もなくなって久しい。1時間ほど休憩して坂出の方に向かう。

    

与島PAから坂出方向に向かっての瀬戸大橋の景観。遠く右手にかすんでいるのは讃岐富士。40数年前の四国暮らしを懐かしく思いだした。

 坂出北ICで下りて、丸亀城跡に向かう。丸亀は何度も通っているのに丸亀城を訪ねるのは今日が初めてなのである。何時も国道を走りながら遠くに天主閣らしきものがあるのを望遠しているだけだった。今日は天主閣のある本丸まで上がって、じっくり散策することにしている。駐車場に少し迷ったが、路上パークOKの所を見つけてそこに車を停める。入り口の門からは少し遠かったが、先ずは停めることが出来て安堵した。

 初めて近くで見る丸亀城は、昨日の赤穂城よりも判りやすい城郭をなしていた。天守閣も摸造ではなく本物である。特に石垣は高さがあり、風格があった。近年かなり手を入れて修復を行ったらしい。現在はその修復も終わって、逞しく往時の世界を浮かばせてくれている。三の丸辺りは回廊の散歩道があり、ぐるっと一回り丸亀の町を眺めながらしばし殿様気分になって歩いてみた。その後、二の丸、本丸と登って、写真などを撮ったりした。天守閣は先日の丸岡城と比べて少し小さいような感じがしたが、もしかしたらそれは間違っているのかも。相棒は中に入って行ったけど、自分は止めて城下町の景観を展望することに集中した。以前住んだことのある高松にも高松城があり、その跡が残っているけど、高松城は海辺の水城であり、この丸亀城と比べると、展望には雲泥の差がある。こちらの方がずっと大きな景色を見ることができる。

    

丸亀城天守閣の雄姿。今まで櫓だと思って見ていたのだが、これはとんでもない誤解で、本物の天守閣だった。

    

天守閣を支える石垣の美。どの城跡に行っても石垣の見事さには圧倒されるものがあるが、この丸亀城は特に見事だなと思った。

    

丸亀城の本丸から見た坂出方向の瀬戸大橋の景観。この城からは360度の景観が俯瞰できる。

 1時間ほどで下に降りて、車に戻る。相棒は更に欲張って、城内の案内所で名物の丸亀うちわの実演制作をしているのを見に行ったようである。丸亀は40年ほど前に高松に住んでいた時にはうちわ暮らしか知らなかったのだが、今でも往時のうちわ制作の勢いが残っているのだろうか。ま、そのことは相棒に任せることにした。車に戻り、今日の宿を何処にするか検討した。温泉に入りたい考えが強く、調べた結果、三豊市の財田町にある道の駅:たからだの里さいたには温泉が併設されているので、そこへ行って泊ることにした。明日はもう一度丸亀港に来て、そこから船に乗って本島に渡り、笠島地区の重伝建の町並みを探訪する考えでいる。

 15時半には道の駅に到着。今日は日曜なので、駐車場はかなりの車であふれていた。しかし、夕刻になるといつもの静けさを取り戻したようで、我々の泊りには何の支障もなかった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第8回>

2014-11-16 08:09:07 | くるま旅くらしの話

【今日(11/16)の予定】 

道の駅:黒井山グリーンパーク →(岡山ブルーライン)→ その先未定なるも、瀬戸中央道経由で坂出、丸亀近郊へ渡って、泊るつもり。

【昨日(11月15日:土)のレポート】 天気:曇り後晴れ  走行153km

<行程>

道の駅:農匠の郷やくの →(R9・R312)→ 道の駅:あさご →(R312・R250他)→ 赤穂城跡探訪 →(R250他)→ 日生(ひなせ)五味の市 →(R250他)→ 道の駅:黒井山グリーンパーク(岡山県瀬戸内市)(泊)

<レポート>

 夜久野はかなり標高が高い場所にあり、昨夜入った温泉には高原という名が付いていた。ここは福知山市に属しているけど、少し先は兵庫県の朝来市であり、朝来といえば最近話題の天空の城とかいう竹田城のある旧和田山町のある所であり、気象的には夜久野と同じような立地環境にある。早朝に少し付近を散策したのだが、下方にあるJRの上夜久野駅は朝霧の中だった。この時刻に和田山を訪れれば、今日の竹田城も天空の霧の中にあったのかも知れない。朝方はまあまあの天気だったのに、出発する9時頃には再び時雨出して、気まぐれな雨が路面を濡らしていた。

    

  夜久野高原の朝は霧の中。この霧の中に人々の住まいが点在している。

 今日は予定では大江山山麓にある元伊勢三神社を訪ねて、その後姫路の方へ向かうつもりだったが、この後の帰りの行程で、もう一度この近くを通る予定にしているので、今日は参拝を止め、このまま朝来経由で姫路の方へ向かうことにした。昨日の加悦の温泉の休止というのが大きく影響している。ま、行程上は一日の余裕が出来たということにもなる。

 9時過ぎに夜久野の道の駅を出発して、朝来の道の駅に着いたのは30分後だった。途中天空の城の竹田城が見られないかと気をもんだが、竹田駅近くのR312からほんの少しだったけど、右側の山の上にそれらしきものを望見することが出来た。それは相棒のカメラの中に収まったはずである。一時のようにやたら多くの来訪者は少しは下火となったようである。間もなく道の駅:あさごに着いて、小休止とする。巨大な鬼ゆずが180円という安さで売っていたので思わずゲットしてしまった。この後香りとその奇怪な姿をたっぷり味わうつもりである。そして嬉しいことに、もう諦めていた黒豆の枝豆もゲットすることが出来て、この上なく満足だった。

 その後は、R312をひたすら姫路方面へ走り続ける。途中、生野銀山の探訪を予定していたのだが、何だか面倒くさくなり、取り止めることにして通過する。銀山というのは鉱毒と深くかかわっており、石見銀山でのことを思い出すと、見ることもなかろうと勝手に決めた次第。

しばらく走って姫路市内に入る。大都会である。国際観光都市でもあるからなのか、市内の道路の案内板は皆英語で書かれている。ローマ字や英語が読めない日本人はいないのか、大丈夫なのかなどと時代遅れの思いがふと浮かんだりした。ナビに従って姫路の中心街を通り抜け、海側を目指す。姫路城はまだ完全修復には至っていないと聞いたが、ピカピカの姿を近くで見て、もう工事は終わっているように感じた。あまりにきれいに出来上がっていて、何だか本物ではないような感じがしたのは、先日坂井市の丸岡城の天守閣を触って来たからなのかもしれない。

姫路の港近くからR250に入って、道の駅:御津を目指す。ここで昼食休憩にするつもりだったのだが、行って見ると超満車の状態で、車を停められる場所は皆無で、昼食どころではない状態だった。直ぐに諦めて次の道の駅のある相生を目指す。曲がりくねった海岸の山道をしばらく走って、ようやく相生の道の駅:あいおいペーロン城に着いたのだが、ここも超満員の状態だった。やむなく近くのスーパーの駐車場に入り、ここで昼食休憩となった。相棒はどうしても牡蠣を食べたいと勇んで出掛けて行ったが、手に入らなかったとかで別の食材を買って来ていた。自分の方は自家製のラーメンを食して満足。

その後は、今日のメイン探訪先と考えていた赤穂城跡へ向かって出発する。途中の道路が何故か渋滞していて、城跡の近くの博物館の駐車場に着いた時は15時近くになっていた。その後1時間ほど城内を散策する。思ったよりも観光客が多いのに驚いた。特に大石神社は人気があって、かなりの人が押し寄せていた。討ち入りの四十七士を祀ってあり、忠臣蔵の物語は広く世に知られているので、これにあやかろうという人も多いのであろう。老若男女を問わず、これほどの人が来訪しているとは思わなかった。神社の境内に一文字流しというのがあり、何かと覗いてみたら、自分が困っているものを一字に託して、その文字と氏名を書いて目前の小さな石の池に流すと、その願いが叶うのだという。それではと、今親友が忌むべき病と闘っているのを何とか消して頂こうと、「病」の一字と親友の名前を書いて水に流した。四十七士の強い魂であれば、病など一気に流し去ってくれるに違いない。

    

大石神社。大石内蔵助以下47名の御霊を祀っている。赤穂城跡よりもこの神社への参詣者の方がはるかに多いように感じた。人気があるのであろう。

    

大石神社境内にあった一文字流し。大親友に取り付いている病の退散を祈願した。

赤穂城は思ったよりも規模の大きい城だったようで、残された城郭の石垣がそれを語っていた。しかし石垣の多くは近年になって修復されたものらしく、あまりにピカピカなのでちょっぴり違和感を覚えた。天主閣跡地に足場パイプで造られた天主閣の骨組みがあり、どうやら夜になると灯りがともされて浮かび上がる仕掛けのようだった。何だか安っぽい感じがしたが、予算不足で本物の修復は無理なのかもしれない。文化財にケチをつけるのは恐れ多いことだが、出来ればその昔に近い姿で修復して欲しいなと思った。

    

赤穂城の石垣と堀の景観。この石垣は古来のもののようだが、他の場所の多くは近年に修復されたようで、石も新しかった。

    

本丸跡に造られている足場パイプを使っての天守閣。このような天守閣を見るのは初めてのことだった。

城跡の見学の後は、近くにある博物館に入って赤穂の今昔を学んだ。赤穂といえば塩というのを思い出した。瀬戸内などの入り浜式の製塩業はここが大本なのだというのを知った次第。四十七士のことはあまりにも有名過ぎるのでいささか食傷気味でもある。それに討たれた側の静岡県の治世のことも知っているので、この団体での復讐殺人行為をあまり賞賛する気持にもなれない。時代の残した哀しい出来事なのだと思っている。

赤穂城跡の見学の後は、相棒の強い欲望にこたえるためにも、日生(ひなせ)のカキオコを食べなければならない。少し急いで日生の五味の市という所に向かったのだが、着いてみると店はすでに終わっており、カキオコも終わっていた。やむなく引き返して個別の店を探して、ようやく手に入れることが出来た。カキオコというのは日生の名物で、この辺りでとれる牡蠣を使ったお好み焼きなのである。ようやく手に入れて、これで相棒のブツブツもしばらくは収まるだろう。食べ物についてはあまり文句は言わないことにしている。

その後R250から岡山ブルーラインに入り、道の駅:黒井山グリーンパークに着いて、今夜はここに錨を下ろす。今日はカキオコとカキフライの他に、朝来の道の駅で買った完熟黒豆の枝豆もあり、思う存分にそれらを賞味し、超満腹、超満足の夕餉となった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第7回>

2014-11-15 08:29:15 | くるま旅くらしの話

【今日(11/15)の予定】 

 道の駅:農匠の郷やくの →(R9・175他)→ 元伊勢三社参拝 → その先未定

 【昨日(11月14日:金)のレポート】  天気:曇時々晴    走行134km

<行程>

道の駅:若狭おばま →(R27他)→ 舞鶴市街・引揚記念館 →(R27他)→ 道の駅:舞鶴とれとれセンター →(R27・R178他)→ 宮津・天橋立 →(R176他)→ 与謝野町・重伝建エリア探訪→(R176他)→ 道の駅:シルクのまちかや →(R176他)→ 道の駅:農匠の郷やくの(京都府福知山市夜久野)(泊

<レポート>

 小浜の朝は青空が主体のまあまあの天気だった。毎夜10時間以上もの睡眠時間があるため、変な時間帯に転寝をしたりして、今朝は起きるのに気づいたのが6時20分だった。どうしても歩こうと思っていたので、直ぐに着替えて外に飛び出す。勿論相棒は天国の眠りの中。1時間ほど歩くつもりで、まだ行ったことのない重文の多田寺というのへ行ってみることにした。凡その行程は知っているつもりで行ったのだが、どういうわけか途中で腹痛を覚え出し、やむなく多田神社まで行ったところで引き返すこととなってしまった。それでも今回の旅では初めての早朝散歩が出来て、まあ、良かったということなのであろう。

 さて、今日の予定は特になく、夕方までに明日の重伝建探訪先の丹後ちりめんの里の加悦の道の駅(与謝野町)まで行って泊るだけなのである。一応途中の舞鶴の街中にある戦後の引揚の港を訪ねることと、もう一つは久しぶりに天橋立の観光をしてみようかなと思ってはいる。今回の旅では、このような効率の悪い行程をわざわざ組み込むようにしている。

 9時少し前に出発して、少し走って新しい道の駅が大飯町に出来たというのでちょっと立ち寄って覗くことにした。行って見ると、うみてらす大飯という道の駅は文字通り海のすぐ傍に造られていた。ごく普通の売店があるだけだった。直ぐに先に行くことにして出発。

次の目的は舞鶴市内にある引揚記念館。過去何度もここを通っており、その都度一度戦後の引揚船の場所を訪ねたいと思っていたのだが、ようやく今日その願いが叶えられることになった。戦後大陸から日本へ苦難の引揚をされた方の話は何度も聞いているし、帰りを待つ母のことを歌った歌曲も耳に深く残っているけど、まだ現地を見ていないというのは、けしからぬことなのかもしれないと思っていたのである。記念館の資料を見ようと窓口に行ったのだが、邪魔をする人がいて、時間がかかりそうなので入ることは止め、裏側の方にある引揚船の桟橋を俯瞰できる展望台へ上ることにした。5分ほど坂道を上ると眼下に引揚船が停泊し、はしけで船客を運んだという湾が俯瞰できた。桟橋は復元したもので、小さな規模だったので、かなり想像を逞しくしないと往時を思い起こすのは難しいのではないか思った。でも、湾を囲む小高い山々の景観は、苦難の船旅を強いられた人々がようやく祖国に戻れたという喜びと安堵を抱かせるに相応しいものだったのではないかと思った。展望台に上る坂の途中には、何本もの桜の記念樹が植えられていたが、その一本一本に建てられた札の名称に引き上げた人々の関係者の思いが込められているのを感ぜずには居られなかった。このような戦争は決してあってはならないと改めて思った。

       

引揚記念館裏の展望所から見下ろした、波止場のあった湾。沖に留った母船からここに造られた桟橋までハシケに乗って上陸したという。一番下右手前にある小さい桟橋が、復元されたもの。

     

展望所に上る坂道の両側には、戦時の思いを込めた何本もの桜の記念樹が植えられていた。慰霊の思いが込められているのを強く感じた。

舞鶴の引揚記念館を出た後は、道の駅:舞鶴とれとれセンターという所に寄り、昼食休憩。新鮮な若狭湾の魚が溢れた施設で、久しぶりに寿司を食べ、今夜の肴に焼きサバを一本買い入れた。その後は天橋立に向かう。由良川を渡り、宮津に向かったのだが、途中から雲行きが怪しくなり、天橋立近くに着いた頃には雨が降り出して来た。それに天橋立の位置を勘違いして道を選び、文殊菩薩のある方へ来てしまっていた。天橋立は砂嘴が作った天然の通路であり、海を挟んで二カ所の基点があるわけだが、その反対側に来てしまったのである。股の下から逆さまの景色を覗いてみようなどと思ったのだが、場所も違うし、雨も降り出して来たやらで、急遽観光は取りやめ、明日予定していた加悦の重伝建エリアのちりめん街道を訪ねることにした。

加悦(かや)というのは関東に住んでいる人にはなじみが薄い呼び名で、最初から正確に地名を読み当てられる人は少ないと思う。また、重伝建に指定されているといっても何なのか判らない人が多いのではないか。しかし、丹後ちりめんといえば、ああ、あれかとその絹織物を思い浮かべる人は多いと思う。加悦は(今は合併して与謝野町となったが)丹後ちりめんの発祥地であり、一大生産地なのである。今でもちりめん街道と称される往時の町並みが残っており、機械織りではあるけど、その生産を継続する機の音が聞こえてくるのである。今日はそこを訪ねることにしたのだった。14時前に旧加悦町役場の敷地内の駐車場に着いて、車を置き探訪に出発する。その状況は以下に写真で紹介することにする。

     

与謝野町加悦のちりめん街道の町並みの景観。5mほどの道が街道で、その両側にその昔ちりめんづくりにかかわった家々がずっと続いている。

     

街道の中ほどに縮緬発祥の地という碑を見つけた。手米屋小右衛門とあった。縮緬は京都の西陣の織物技術をこの地にあった織物に加えた新しい技術で生み出されたものだと、この家の子孫の方から教えていただいた。

                                                                                                         

現役の織物工場の中を見学させていただいた。数台の織機が狭い工場の中に音を立てながら稼働していた。純白の絹織物が少しずつ生み出されているのが判った。現在でも何軒かの工場が稼働しており、街道を歩くと、ところどころから機を織る音が聞こえてくるのが印象的だった。

     

江戸時代からの代表的な民家の一つ、杉本家。何度も改修が加えられてきたのだと思うけど、全体から受ける印象には、やはり江戸時代からの歴史を背負っている重みと風格とが伝わってくる。

 探訪の後は、少し離れた所にある道の駅:シルクの里加悦に行き休憩の後、直ぐ近くにある温泉施設に行ってゆっくりしようと思ったのだが、何といってみるとしばらく温泉は休みとの表示が出ていたのだった。思惑が大きく外れてしまい、どうしようかとしばし迷ったのだが、今日はどうしても温泉に入りたいと思い、少し遠いけど(30kmほど)温泉のある福知山市郊外の夜久野町にある道の駅まで行くことにした。

 ナビに従ったら、そのあと二つも山を越えての厳しい道だったが、16時前には到着して、その後は念願叶っての温泉に入れて満足した。この道の駅は予定では明日泊るつもりだったのだが、一日早い到着となった。ま、こんなこともある。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第6回>

2014-11-14 07:54:26 | くるま旅くらしの話

【今日(11/14)の予定】 

  道の駅:若狭おばま →(R27)→ 舞鶴市街 →(R175・R178)→ 宮津 →(R176)→ 道の駅:シルクのまちかや(京都府与謝野町加悦)(泊)

 【昨日(11月13日:木)のレポート】天気:雨風強し。夕刻雨降り止む。  走行164km

<行程>

道の駅:山中温泉ゆけむり健康村 →(R364他)→ 坂井市・丸岡城 →(R8・R158他)→ 福井市郊外・一乗谷遺跡 →(R158・R8)→ 武生IC →(北陸道・若狭道・R27)→ 若狭美浜IC →(R27)→ 若狭町・瓜割名水 →(R27)→ 道の駅:若狭おばま(福井県小浜市)(泊)

<レポート>

 昨日も付記したのだが、昨夜はとんでもない荒天だった。朝方には一時青空も覗いていたので、これで回復に向かうのかと思っていたら、とんでもない甘い考えで、その後も天気は豹変を繰り返して風雨が木々や生き物を痛めつける悪天候が終日続いたのだった。朝の散歩も不意になり、今日は運動不足になりそうである。

 今日の予定はメインが二つあって、一つは坂井市にある丸岡城の天守閣を見ること。もう一つは福井市郊外にある戦国時代の朝倉氏の居城があった一乗谷遺跡の探訪である。このうち一乗谷遺跡については、何年か前に訪ねたことがあり、今回が二度目となる。もし天気が悪ければ取り止めてもいいという考えでの出発となった。

 先ずは山中温泉の道の駅を出発してそのまま山の方へR364を通って、途中から右折して丸岡城の方に向かう。山あいの渓谷沿いに走る道には、何箇所もの洞門があって、がけ崩れなどの危険の多そうな場所だった。5~6kmほどそのような場所を通った後は、平地に出で展望が開け、田畑の向こうに丸岡城が見えてきた。実に判りやすい景観である。心配していた駐車場も難なく車を停めることが出来た。雨の方は依然止む気配はないが、目の前の城に上るにはそれほど苦労することはない。入口で入場券を買った後、近くの小屋で地元の高校生たちが作った丸岡城紹介のビデオを見せて頂いた。郷土を愛する高校生たちの気持ちがよくあらわれているいいガイド資料だった。

  

山城天守閣の雄姿。日本に現存する天守閣の中で、本物として最も古いものだという。

 丸岡城というのは、戦国時代の彼の織田信長の重臣柴田勝家が甥にこの地を治めるように指示して、それが築城の初めだったとか。その後この地を治めるに功績があったのが、徳川家康の元に鬼作左として名を馳せた本田作左衛門重次だという。この人については、その昔先輩からこの世で名最短文の手紙の著作者であると教えられた。その文章とは、「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」である。簡明の最高の境地とも言えようか。駄文で冗長の極みともいえる文しか書けない自分には頭の痛い人物である。

 その後、写真などを撮りながら城に上る。城といってもここにあるのは天主閣だけが残っており、城郭全体は明治の初めに棄却されてしまっている。残存する天主閣は日本では最古の本物であり、それだけ文化財としての価値が高いということになる。この天守閣は野積みという工法で造られた石垣の上に作られており、その屋根の瓦は足羽の山から切り出される笏谷石(しゃくたにいし)を加工して造ったものだという。重量があって、それを支える6本の主柱を含めて天主閣の重さは75トンにも及ぶというから驚きである。福井地震で倒壊したものを丁寧に修復して現在に至っているとのこと。以下、その様子を写真にて紹介したい。

   

   野積みという自然石を積み上げる工法で造られている丸岡城の石垣。

   

天守閣は三層となっているが、これを支えているのは6本の主柱だという。これは2層目の閣内の様子。

   

天守閣の屋根を葺いているのは笏谷石の石瓦で出来ている。通常の瓦は土を焼いて出来ており、石で造られているのは珍しい。

 11時半に見学を終えて次の目的地の一乗谷遺跡に向かって出発する。かなりの雨降りで、風も強いのでどうしようかと迷ったが、とにかく行くだけ行って見ることにした。12時少し過ぎに現地に着いたのだが、とてもゆっくり探訪をする気にはなれない寒い荒れた天気である。復元された屋敷町を見学する人たちも何人かおられたけど、自分たちは一度見ているし、今日は歩くのを主目的に考えてきたので、諦めて来た証の写真を数枚撮って先に行くことにした。こんなに簡単に朝倉一族のこと済ましてしまっていいのかと、少し気にしながら、次回はないか新しい発見を心がけようと思った。

   

一乗谷遺跡の景観の一部。この小さな谷間に居を構えた朝倉氏は戦国時代屈強の実力者であった。しかし、天下統一のレベルに至らなかったのは、なぜなのか。敢え無くこの谷間に滅びたのは、なぜだったのだろうか。歴史の教訓は汲めど尽きなく深い。

 今日はもう特に予定はなく、泊りを予定している小浜市の道の駅に行ってゆっくりするだけである。鯖江市の郊外で給油をした後、食事をするところを探したのだが、適当な場所が見つからないまま武生まで来てしまったので、武生ICから高速に入ることにした。高速道を利用しなくても時間的には小浜まで充分に行けるのだが、今年の7月に開通して北陸道とつながった若狭舞鶴道を一度は走って見たくての高速道なのである。とんでもない大雨の中を走って、間もなく南条SAがあったので、ここで昼食休憩。直ぐに出発して敦賀JCTから若狭舞鶴道に入り、若狭美浜ICで下りてR27へ。ここから先はもう何度も通り慣れている道である。

 少なくなった飲料水を補給するために若狭町の旧上中町にある瓜割り名水を汲みに立ち寄る。ここを通る時はかならず寄って水を頂戴する場所である。水汲みの通行手形もちゃんと用意している。今日もタップリを名水を手に入れて満足だった。その後は、小浜のフィッシャーズマンワーフという所に近い鯖寿司の販売店に行き、夕食分をゲットし、道の駅に向かう。途中少々買い物などをして道の駅到着は15時35分だった。やれやれ。これから再び長い夜を迎えることになる。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第5回>

2014-11-13 07:21:11 | くるま旅くらしの話

【今日(11/13)の予定】 

  道の駅:山中温泉ゆけむり健康村 →(R364・R8)→ 坂井市・丸岡城探訪 →(R8・R158)→ 福井市・朝倉一乗谷遺跡探訪 →(R158・R8)→ 武生IC →(北陸道・若狭道・R27)→ 若狭上中IC →(R27)→ 瓜割名水 →(R27)→ 道の駅:若狭おばま(福井県小浜市)(泊)

 【昨日(11月12日:水)のレポート】天気:

<行程>

道の駅:こまつ木場潟 →(R8他)→ 加賀市重伝地区探訪(橋立町~海側 東谷~山側―今立町・荒谷町・大土町・杉水町等の集落)→(R305・R304他)→ 道の駅:山中温泉ゆけむり健康村(石川県加賀市)(泊)  走行79km

<レポート>

 道の駅:こまつ木場潟の一夜は、トラックが多かった割にはさほど騒音も気にならず、又もや10時間以上もの睡眠をとる結果となった。朝の内は青空が覗いていたのに、8時を過ぎる頃にはどんどん雲が増え出して、どうやら天気は下り坂に向かったようだった。予報では今夜から明日には本降りの雨だとか。あまり嬉しくない話ではある。旅に出るとどうしても運動不足なるので、今朝も少し歩こうと近くにあるという木場潟という湖まで往復することにした。潟というから海に近い場所をいうのかと思ったら、木場潟というのは海からは大分離れていて、少し変わった呼び方だなと思った。道の駅からは1.5kmほどの距離の、周囲が4km以上もあるかと思われる、結構大きな湖だった。今朝はかなり風が強くて、寒さもきつかったので、鴨たちの群れを見た後直ぐに道の駅まで戻ることにした。

       

朝の木場潟。ここにこれほど大きな湖があるとは、知らなかった。早や、かなりの数のカモたちが飛来していた。

 今日のメインの目的は、加賀市にある二つの重伝建地区を訪ねることである。一つは山側にあって、山村集落の跡を残す東谷地区の荒谷、今立、大土、杉水などの集落、もう一つは海側にあって、その昔の北前船の活躍が盛んだった頃に船主たちが拠点としていた橋立という地区である。海と山の対照的なエリアだけど、それぞれの昔をしのぶ町並みや建物が残っているのが見られると期待している。

 先ずは泊った道の駅から比較的近い東谷地区を訪ねることにして9時少し前に出発する。20分ほどで荒谷地区に着いたが、もう少し先まで行って見ることにした。予想していたよりも遥かに道路状況が良くて、何の心配もなかった。一番奥の方に石川県県民の森というのがあるというので、思い切ってそこまで行って見ることにし、重伝建エリアは帰り道にゆっくり探訪することにした。県民の森まではかなりの標高のところまで道が続いていて、間もなく全山紅葉となりかけている山々を眺めながらの思わぬドライブとなった。県民の森には様々な自然を楽しむ施設などが造られていたが、どうやら間もなくオフシーズンとなるようだった。引き返して特に今立地区と荒谷地区に立ち寄って写真などをとりながらの探訪となった。以下にそれらの写真を紹介する。

     

加賀東谷今立地区の民家。このような家が20軒ほど道に沿って立ち並んでいたが、まったく人影はなく、ひっそりと静まり返っていた。

     

荒谷地区の民家。住んでいるのはほとんどがお年寄りのようで、日中はデイサービスなどに出かけているという。この地区には芸術家の人たちが住むのが増えているとも聞いた。

 このエリアは木炭が燃料としての高品位を示していた頃に、それらを生産して栄えた場所で、谷川に沿って幾棟かの茶色の瓦を載せた立派な家屋が建ち並んでいた。どの家屋も建坪が6~70坪近くあろうと思われる立派な2階建ての造りだった。往時の繁栄が如何ばかりだったかが思われるようである。荒谷エリアで初めて人を見かけて、声をかけて少し話をしたのだが、家内の話では昭和3年生まれだというおばあちゃんは、友達は多くがデーケアのサービスを受けに行っているとか。自分はまだ自力で風呂に入れるので、行っていないとも。又、ここは限界集落になっているとも話されていたとか。山村集落の厳しさを思い知らされる感じがした。又、地元の工事関係者の方との話では、荒谷地区では、この頃は陶芸や漆芸などのアーティストたちが住んで作品の制作に係るようになってきており、芸術村のようなスタイルを志向しているのだとも話されていた。四季の内、冬だけが厳しくて問題があるのだとも。重伝建に指定されたというだけでは集落や家屋等を維持できない厳しい現実があるようだった。

 その後は海の方に向かい、12時少し前に橋立の北前船の里資料館駐車場に着く。山から一気に海側に出て、頭の切り替えに苦労する。昼食休憩の後重伝建地区は少し先の方にあるのかと尼御前岬まで行ってみたがそれらしきものは見当たらず、もう一度駐車場に引き返す。先ずはその北前船の里資料館という方へ行って見ることにした。重伝建地区の案内が判りにくくてなかなか理解できなかったが、どうやらこの資料館を含む一帯がその昔の船主たちが居を構えていた場所らしい。しばらく周辺を歩き回って、ようやく少し理解が進んだ。茶色い瓦と大きな板壁の家屋が狭い路地を作って密集して並んでいた。船主たちの子孫の大半はもうここからは遠の昔に離れてしまっているらしく、今住んでいるのは誰なのだろうかと思ったりした。相棒は熱心に見聞していたようだが、自分の方は適当に切り上げて車に戻った。

     

元船主の屋敷の一つである北前船の里資料館の建物。かなりの大きさの建物だが、往時はこのような屋敷が並んでいたのであろう。

     

小高い丘に造られた散策路から見た船主屋敷の家並み。密集して赤茶色の屋根が立ち並んでいる。向こうは海。

 14時過ぎに相棒が戻って来て、その後は今日の宿を予定している山中温泉近くにある道の駅:山中温泉ゆけむり健康村に向かう。15時少し前に着いて、今日は相棒だけが温泉に入って、夜を迎える。山から海へ、そして再び山の中へと忙しかったが、走行距離は79kmで、先ずは余裕の一日だった。

この夜、大変な荒天となった。雷鳴がとどろき、すぐ近くに何発かの落雷があった。大地が揺るぎ、それが鎮まったと思ったら、猛烈な雨が車の天井を叩きだした。そのような地獄とも思われる時間が、断続的に何度も繰り返されて、それが収まったのは、朝方近くになってからだった。いやはや。どうしても付け足さなくてはと、敢えて付記する。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第4回>

2014-11-12 07:59:28 | くるま旅くらしの話

【今日(11/12)の予定】 

  道の駅:こまつ木場潟 →(R8他)→ 加賀市重伝地区探訪(橋立町~海側 東谷~山側―今立町・荒谷町・大土町・杉水町等の集落)→(R305・R304)→ 道の駅:山中温泉ゆけむり健康村(石川県加賀市)(泊) 

 【昨日(11月11日:火)のレポート】天気:晴  走行102km

<行程>

道の駅:カモンパーク新湊 →(R8他)→ 高岡市内重伝建探訪(金屋町・山町筋)→(R8)→ 道の駅:メルヘンおやべ →(R8他)→ 粟津温泉総湯 →(R8他)→ 道の駅:こまつ木場潟(石川県小松市)(泊)

 <レポート>

 旅に出てから3日目を迎えた。2泊したが、毎夜10時間以上もの睡眠となり、何だか脳みそがふやけてしまう感じがする。今朝はどうしても歩こうと思い、6時過ぎに付近を散策する。暗かった空もやがて明るくなりだし、6時半を過ぎた頃から遠くに見える立山連峰のつい立ての向こうが明るくなりだした。日の出が近づいたのだ。少し待っているとやがて真っ赤に染まった太陽が山の端を輝かせてせり出し上って来た。電線が邪魔になったけど、旅する者には一瞬の感動の時間だった。早起きは三文の得というのは本当だなと思った。

     

 射水市の道の駅:カモンパーク新湊の近くで見た立山連峰から上る旭日。

 今日は直ぐ近くの高岡市の重伝建エリアを探訪するのがメインの目的である。今までこの近くを何度も通っているのだが、高岡では瑞龍寺を訪ねただけで、それ以外は何処へも寄っていない。重伝建の指定地区があるというのも知らなかったのである。今日はたっぷり時間を用意しているので、この街の古い伝統文化などを垣間見ることができると期待している。

 9時少し前に道の駅を出発して直ぐに高岡市内に入ったのだが、全く土地勘がなく、取り敢えず古城公園というのを目指したのがが、ナビがいい加減なガイドをしてとても通れそうもない道を指示したので、何処をどう通っているのか判らなくなり、やむなく一度訪ねたことのある瑞龍寺に行ってどうするかを考えることにした。案内板に従って間もなく到着。

 駐車場に着くと、和服を上掛けした同世代と思しき方が方が先着されており、何を思ったのか相棒がつかつかと歩み寄って、目的の重伝建エリアへの行き方を訪ねたのだった。ご迷惑にならなければ良いがと心配したのだが、結果は想像よりも奇なりという感じて、何とその方が案内して下さるという。願ってもないこととなった。富山市の方からお越しの方で、この辺りの様子にも詳しい方だった。Mさんとおっしゃるそのお方は、瓢箪に格別の思いを寄せておられて、ご自分の展示ギャラリーまでも持っていらっしゃるとのこと。それは措いて、その後重伝建の金屋町エリアまで車の後に従ってご案内頂いたのだった。どうしようかと迷う思う間もなく、このようなお方に巡り合えたのは、何という幸運なことなのだろう。ありがたいことである。

 金屋町の通りは生憎と道路の工事中で、満足な写真を撮ることは叶わなかったが、Mさんにご案内頂いて、大体の状況は確認することが出来た。今日は下見ということにして、次回はしっかり見ることにしようと決めた。Mさんにはお礼を申し上げ、一回りした後にお別れを告げる。その後はもう一つの重伝建の山町筋を歩いて訪ねる。金屋町からは10分くらいの距離にあり、こちらは少し雰囲気の違った蔵の町だった。金屋町は鋳物町であり、昔の工業地域ということになるのであろうか。山町筋は商業エリアであり、いずれも往時の経済や産業の核となるエリアだったといえるように思う。それにしても、高岡という所にはこれほどの昔がこれほどの範囲で残っていたとは、今まで全く知らなかったのを恥ずかしく思った。

以下にその主な様子を写真で示すことにしたい。

        

金屋町の表通りの景観。この日は生憎と道路の大修理工事が行われており、落ち着いて見聞することができなかった。今回は下見のつもりで、凡そのコースを辿った。

     

唯一残っているらしいキュポラとそこにある煙突。鋳物町なのに他に見られないのを不思議に思った。今頃は別の方法で鋳鉄を行っているのかも。次回までの課題である。

     

     

蔵の町、山町筋に残る重文菅野家の様子とその説明書き。100年と少し前ほどに造られたというから、比較的新しい建物のようだ。

     

この山町筋の蔵屋敷の造りは、間口も広く奥行きも深い。この家は、奥行きの半分くらいを別の時代に造り直した(?)らしい。 

探訪を終えた後は、金屋町の町の駅の鉄瓶屋さんで教えて頂いた地元のスーパーに行き、新鮮な海産物類などを求めた後、高岡に別れを告げて、隣の小矢部市の道の駅:メルヘンおやべに行き昼食休憩とする。その後はR8を金沢市方面に向かい、金沢を通過して小松市の郊外にある粟津温泉に行き、総湯という浴場で温泉に浸って、旅の疲れを癒す。そこから10分ほどの近くにある道の駅:こまつ木津潟に行き、今夜はここに泊ることにする。出発の数日前から風邪に取りつかれて、入浴もままならなかった相棒もようやく本調子に戻れたらしく、ビールなどもチョっこし身体に取り入れて、ご機嫌麗しく熟睡の途に就いたようだった。

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‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第3回>

2014-11-11 07:44:33 | くるま旅くらしの話

【今日(11/11)の予定】 

  道の駅:カモンパーク新湊 →(R8他)→ 高岡市内重伝建探訪(金屋町・山町筋)→(R8)→ 道の駅:こまつ木場潟(石川県小松市)(泊)

 【昨日(11月10日:月)のレポート】天気:晴  走行159km

<行程>

道の駅:あらい →(R18他)→ 春日山城跡探訪(上越市)→(R8)→ 道の駅:うみてらす名立 →(R8他)→ 道の駅:ウエーブパークなめりかわ →(R8他)→ 道の駅:カモンパーク新湊(富山県射水市)(泊)  

<レポート>

昨夜は、一時雨は止んだようだったが再び降り出して、明け方近くまで天井を叩いていた。ようやく朝になって降り止んだようで、8時頃には青空も見えだしてきた。この後すっきりと晴れて、西の方に聳える妙高山が見えればいいのにと期待したが、高山には雲が絡んで結局見ることは叶わなかった。

今日は念願の春日山城跡を歩く日である。この辺りは何度も通っているのに、まだ一度も訪れたことがなかった。春日山城は勿論戦国時代末期に名をとどろかせた上杉謙信公の居城だったところである。武田信玄との何度かの合戦が有名だけど、上杉謙信という人はそればかりではなく、越後の国の統一者、統率者としても治世に優れた人でもあったという。更に守護という役割のみならず、関東管領としての務めも律儀に果たしたようで、真に義を尽くして人生を縦横に走り回った人だったと聞いている。天下を取れなかったのが何故なのかなどという話などには、ここではあまり入りたくはない。

9時頃に出発して、9時半には春日山神社の下にある駐車場に車を停める。先ずは134段の石段を上って、謙信公を祀った神社に参拝する。その後城跡を本丸まで登って歩き2時間近く散策した。巨大な山城で、如何にも戦国時代の要塞だったことを語っているのが解った。何しろ急坂ばかりで、登るのにも下るのにも結構な厳しさだった。以下に印象に残った場所などを少し紹介したい。

        

古城への上り口にある 謙信公の銅像。城下を見下ろす目は、遠く関東一円までも見通しているようだった。

   

 上り口近くから見上げた古城の景観。写真では判りにくいが、でこぼこした塊は要塞の形をしており、それぞれの場所に夫々の役割を持った武将たちが詰めていたのかも。てっぺんに本丸と天守閣があったという。

     

左は毘沙門堂。出陣の前に謙信公はここに籠もり戦勝を祈願したという。右は祀られている毘沙門天の尊像。

     

春日山城本丸跡の様子。この左手の小高い丘に天守閣があったという。いづれも面積は100坪あるかないかの広さだった。

     

本丸付近から直江津港あたりを俯瞰した景観。この右手にも平野が広がっているのだけど、大きすぎてカメラには収まらない。

     

本丸のすぐ下にある井戸曲輪。この井戸は今でも清水がこんこんと湧き出ているという。この高さにあるのになんとも不思議な感じがした。偶然なのか、奇跡なのか、それとも意図的に造ったのか。

     

上杉家重臣、直江家の屋敷跡。二の丸の脇の方にあったが、その広さは150坪ほどか。山城の中にこれだけの広さを持つ屋敷が与えられていたのは、相当に信頼が厚かったのであろう。

     

春日山神社。ここには上杉謙信公が祀られている。質素な社殿にはこの人の人柄が表れているのだろうか。

     

神社の境内では、地元の小学生の子供たちが、謙信公の一生を描く寸劇を行っていた。参拝者を対象にしたおもてなしの一環として、社会科の勉強の一端を披歴していたようだった。なかなかいい企画だったが、ずれている演技が多くて分かりにくいところが面白かった。

今日は春日山城跡の探訪以外は特に予定していないので、終わった後は今夜の宿を予定している氷見の道の駅に行くだけである。先ずは上越市街を抜けてR8に入って、名立港近くにある道の駅:うみてらす名立に寄り昼食・休憩。その後は再びR8を富山方向へ走り続けて、相棒が疲れた風なので、氷見に行く前に休憩しようと、滑川市にある道の駅に寄ったのだが、ここは工事中らしくて落ち着かない雰囲気なので、休むのを止め、氷見の手前の射水市にある道の駅:カモンパーク新湊に行くことにした。途中の道が結構混んでいて着いたのは16時近くになってしまった。もう氷見に行くことは止め、今夜はここにお世話になることに決める。

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