山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第6回>

2014-11-14 07:54:26 | くるま旅くらしの話

【今日(11/14)の予定】 

  道の駅:若狭おばま →(R27)→ 舞鶴市街 →(R175・R178)→ 宮津 →(R176)→ 道の駅:シルクのまちかや(京都府与謝野町加悦)(泊)

 【昨日(11月13日:木)のレポート】天気:雨風強し。夕刻雨降り止む。  走行164km

<行程>

道の駅:山中温泉ゆけむり健康村 →(R364他)→ 坂井市・丸岡城 →(R8・R158他)→ 福井市郊外・一乗谷遺跡 →(R158・R8)→ 武生IC →(北陸道・若狭道・R27)→ 若狭美浜IC →(R27)→ 若狭町・瓜割名水 →(R27)→ 道の駅:若狭おばま(福井県小浜市)(泊)

<レポート>

 昨日も付記したのだが、昨夜はとんでもない荒天だった。朝方には一時青空も覗いていたので、これで回復に向かうのかと思っていたら、とんでもない甘い考えで、その後も天気は豹変を繰り返して風雨が木々や生き物を痛めつける悪天候が終日続いたのだった。朝の散歩も不意になり、今日は運動不足になりそうである。

 今日の予定はメインが二つあって、一つは坂井市にある丸岡城の天守閣を見ること。もう一つは福井市郊外にある戦国時代の朝倉氏の居城があった一乗谷遺跡の探訪である。このうち一乗谷遺跡については、何年か前に訪ねたことがあり、今回が二度目となる。もし天気が悪ければ取り止めてもいいという考えでの出発となった。

 先ずは山中温泉の道の駅を出発してそのまま山の方へR364を通って、途中から右折して丸岡城の方に向かう。山あいの渓谷沿いに走る道には、何箇所もの洞門があって、がけ崩れなどの危険の多そうな場所だった。5~6kmほどそのような場所を通った後は、平地に出で展望が開け、田畑の向こうに丸岡城が見えてきた。実に判りやすい景観である。心配していた駐車場も難なく車を停めることが出来た。雨の方は依然止む気配はないが、目の前の城に上るにはそれほど苦労することはない。入口で入場券を買った後、近くの小屋で地元の高校生たちが作った丸岡城紹介のビデオを見せて頂いた。郷土を愛する高校生たちの気持ちがよくあらわれているいいガイド資料だった。

  

山城天守閣の雄姿。日本に現存する天守閣の中で、本物として最も古いものだという。

 丸岡城というのは、戦国時代の彼の織田信長の重臣柴田勝家が甥にこの地を治めるように指示して、それが築城の初めだったとか。その後この地を治めるに功績があったのが、徳川家康の元に鬼作左として名を馳せた本田作左衛門重次だという。この人については、その昔先輩からこの世で名最短文の手紙の著作者であると教えられた。その文章とは、「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」である。簡明の最高の境地とも言えようか。駄文で冗長の極みともいえる文しか書けない自分には頭の痛い人物である。

 その後、写真などを撮りながら城に上る。城といってもここにあるのは天主閣だけが残っており、城郭全体は明治の初めに棄却されてしまっている。残存する天主閣は日本では最古の本物であり、それだけ文化財としての価値が高いということになる。この天守閣は野積みという工法で造られた石垣の上に作られており、その屋根の瓦は足羽の山から切り出される笏谷石(しゃくたにいし)を加工して造ったものだという。重量があって、それを支える6本の主柱を含めて天主閣の重さは75トンにも及ぶというから驚きである。福井地震で倒壊したものを丁寧に修復して現在に至っているとのこと。以下、その様子を写真にて紹介したい。

   

   野積みという自然石を積み上げる工法で造られている丸岡城の石垣。

   

天守閣は三層となっているが、これを支えているのは6本の主柱だという。これは2層目の閣内の様子。

   

天守閣の屋根を葺いているのは笏谷石の石瓦で出来ている。通常の瓦は土を焼いて出来ており、石で造られているのは珍しい。

 11時半に見学を終えて次の目的地の一乗谷遺跡に向かって出発する。かなりの雨降りで、風も強いのでどうしようかと迷ったが、とにかく行くだけ行って見ることにした。12時少し過ぎに現地に着いたのだが、とてもゆっくり探訪をする気にはなれない寒い荒れた天気である。復元された屋敷町を見学する人たちも何人かおられたけど、自分たちは一度見ているし、今日は歩くのを主目的に考えてきたので、諦めて来た証の写真を数枚撮って先に行くことにした。こんなに簡単に朝倉一族のこと済ましてしまっていいのかと、少し気にしながら、次回はないか新しい発見を心がけようと思った。

   

一乗谷遺跡の景観の一部。この小さな谷間に居を構えた朝倉氏は戦国時代屈強の実力者であった。しかし、天下統一のレベルに至らなかったのは、なぜなのか。敢え無くこの谷間に滅びたのは、なぜだったのだろうか。歴史の教訓は汲めど尽きなく深い。

 今日はもう特に予定はなく、泊りを予定している小浜市の道の駅に行ってゆっくりするだけである。鯖江市の郊外で給油をした後、食事をするところを探したのだが、適当な場所が見つからないまま武生まで来てしまったので、武生ICから高速に入ることにした。高速道を利用しなくても時間的には小浜まで充分に行けるのだが、今年の7月に開通して北陸道とつながった若狭舞鶴道を一度は走って見たくての高速道なのである。とんでもない大雨の中を走って、間もなく南条SAがあったので、ここで昼食休憩。直ぐに出発して敦賀JCTから若狭舞鶴道に入り、若狭美浜ICで下りてR27へ。ここから先はもう何度も通り慣れている道である。

 少なくなった飲料水を補給するために若狭町の旧上中町にある瓜割り名水を汲みに立ち寄る。ここを通る時はかならず寄って水を頂戴する場所である。水汲みの通行手形もちゃんと用意している。今日もタップリを名水を手に入れて満足だった。その後は、小浜のフィッシャーズマンワーフという所に近い鯖寿司の販売店に行き、夕食分をゲットし、道の駅に向かう。途中少々買い物などをして道の駅到着は15時35分だった。やれやれ。これから再び長い夜を迎えることになる。

コメント
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