山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘14年 北陸・関西・中四国への旅 レポート <第19回>

2014-11-27 02:38:02 | くるま旅くらしの話

【今日(11/27)の予定】 

道の駅:久米の里 →(R181・R53)→ 重伝建・津山市内城東地区探訪 →(R181) → その先未定なれど倉吉方面へ向かうつもり

 【昨日(11月26日:水)のレポート】  天気:曇り  走行134km

<行程>

道の駅:かよう →(R486・R180他)→ 備中松山城探訪 →(R180・県道)→ 重伝建・吹屋町並み保存地区探訪 →(県道・R180)→ 新見IC →(中国道)→ 院庄IC →(R181)→ 道の駅:久米の里(岡山県津山市)(泊)

<レポート>

賀陽の一夜は雨も降らず静かで快適な眠りを頂戴して満足だった。今日は、予報では二日連続の雨となっていたが、今朝は曇りで、もしかしたらこの後晴れるのではないかとの予感を抱かせる空の様子だった。この道の駅には地元の野菜や果物類などが豊富に並べられていて、どれも欲しいのだけど、とても調理の時間がとれないので無理。結果は白菜を一個買っただけだった。食事の前に付近をほんの少し散歩したのだが、実に曲線に富んだ農村の景観がそのまま残っており、何だか60年前の自分の田舎の故郷に戻ったような感じがした。野山の郷とかいう看板のようなものがあったが、確かにその通りだなと思った。もう一度泊りたいなと思った。

さて、今日の予定は先ず近くの高梁市郊外の備中松山城の探訪と、その後少し離れているけど、ベンガラの里である重伝建の吹屋の町並みを訪ねることにしている。備中松山城は初めての訪問、吹屋は三度目だろうか。先ずは城のある高梁市の方に向かって9時過ぎ出発する。R486というのは、初めて通る道なのだが、400番台を越えて500番に近い番号の国道には、何回か厳しい目に遭わされているので、要注意である。最初は良い道だなと油断していると、途中から突然道が細くなり、山の中に入って離合も出来ない崖っ淵の道となって、肝を冷したことがあった。まさか、ここは大丈夫だろうと思いながらの運転だったが、高梁市内でR180に出るまでは何の心配もない良い道路だった。高梁市内から城に向かう道は途中がかなり狭い所があり、心配は消えなかったが、少し坂を上ると公共の駐車場があり、そこに車を置いてふいご峠という所までシャトルバスが運行されていた。休日には大型のバスとなるとのことだが、平日の今日は小型のハイエースクラスの車だった。ふいご峠までの道はかなり厳しく、SUN号では無理だろうと思った。

ふいご峠からは徒歩で城まで急な坂道を歩くこと20分、ようやく城の大手門下にたどり着く。石垣が幾重にも見えるだけで、そこからは天主閣も櫓も見えなかった。更に少し石段の道を上るとようやく城の建物が見えて来た。天守閣と二重櫓だった。天守閣の方は補修後の時間が浅いのか、ピカピカの感じがした。後ろ側に見える二重櫓は、裏に回って見ると大きな岩盤の上に周囲に石垣を巡らして造られており、こちらの方がその昔をよく残している感じがした。写真だけ撮って、中に入るのは相棒に任せた。この城は日本を代表する山城である。幾重にも回らされた石垣の要塞は、しかし、戦国時代には本当に必要だったのか。何処の城跡を訪ねる時も何時も疑問を抱くのは、もしかしたら自分は往時の世代を錯誤して捉えているのかもしれない。一時の戦にはこのような城が必要かもしれないけど、戦の前後には治世という務めがあるのだから、このような山城はさほど必要ではないのではないか。そう思ってしまうのである。山城というのは守るための要塞であり、攻める際には不要ではないかと思う。戦国時代の歴史の中では、守りの城が勝利したという話は聞いたことがない。もし自分がその時代に生まれたのなら、決して山城などには関心を持たなかったように思う。ま、このような考えは、備中松山城に係った人たちにとっては、余計なお世話ということになるには違いはない。とにかく、先日の春日山城にも劣らない要塞だった。

   

備中松山城、大手門からの石垣の景観。上部にある城郭が見えないほどの入り組んだ石垣が敵の侵入を防ぎ守っているのがわかる。

   

備中松山城、二の丸から見た天守閣(一番上部)の景観。手前の城門が大きすぎて天守閣が少し映えないのが残念。

   

備中松山城の二番櫓の雄姿。この向こうに天守閣があるが、この城ではこの櫓が最も重要な役割を果たすことになっていたのではないかと思う。岩盤の上に造られているのがはっきりわかる。

   

備中松山城、太鼓櫓跡から俯瞰した城下町高梁市の景観。城主はこの城ではなく、この城下町の一角に館を作って住んでいた。

11時半過ぎに車に戻り、下の駐車場で昼食の弁当類を買い入れた後、吹屋に向かう。吹屋は成羽町の一集落だったが、今は合併して高梁市に属している。前回はまだ合併前だったので、まさか高梁市になっているとは思わなかった。ナビに従って走っていたら、とんでもない細い道幅の道路を走らされて、冷や冷やの連続だった。県道85号線というのは、化け物のような道で、どれが本物なのか判らない。これは細い国道どころの話ではなかった。もう二度と通ってはならない道である。やはり自分で地図を見て調べておかないとダメだなと思った。この頃は次第に横着になって来ており、要注意である。幸いに離合などの場面にもぶつからずにどうにか所定の駐車場について、食事を済ます。外に出ると、雨は降ってはいないが、何だか降り出したがっている空模様だった。その後町並みの散策に出かける。

吹屋は元々銅山で栄えた町だが、銅鉱に含まれるベンガラという顔料の生産で一世を風靡した町でもある。今回で3度目の来訪だが、この町並みの中で一番気に入っているのが、少し外れた場所にある吹屋小学校である。木造のきりっとした佇まいで、時代をしっかり証明してくれているように感じるのである。何年か前、TVを見ていたらその小学校が閉じられるという話を聞き、どうなるのかと気になり心配だった。早速そこへ行ってみたが、もはや現役ではなく、子どもたちの声はなく、無人のままにそのまま残っていた。この後、どのような形で保存されていくのか、見守りたいと思った。高梁市の対応を注視したい。町並みの茶色い屋根とベンガラ格子の建物は以前よりも少し古くなったなと感じた。一通り町並みを往復して車に戻る。

   

吹屋の町並みの様子。今日は平日で、天気も良くないとあってか人通りはほとんどなかった。

  

ベンガラ格子の吹屋郵便局。もちろん現役であり、局の前のポストには明治時代に使われていたのと同じタイプの書状集箱が置かれていた。

  

吹屋小学校の景観。今は現役を引退して無職のままという感じだったが、数年前にここを訪れた時には、元気に動き回る子供たちの歓声が聞こえていた。子供の数が少なくなっているのは、歴史の必然なのかもしれないけど、なんとも寂しく残念なことだ。最高の保存策を期待したい。

その後は、今日の宿は津山市にある道の駅:久米の里にすることとして、新見市の方に出て新見ICから中国道に入り、院庄ICで下りて、間もなく到着。途中で買い物をしたので、到着は16時近くになってしまった。ここに泊るのは、明日津山市内の重伝建エリア探訪に都合が良いためである。道の駅は国道に面しているので、今夜はもしかしたら騒音に悩まされるのかも知れない。

ところで、この後ハプニングがあった。嬉しくもありがたい出来事だった。今日の出来事を整理していると、車の外から声がかかり何だろうと外に出て見ると見知らぬ方が自分の名を呼ばれており、何と自分のブログを読まれていて、わざわざお訪ね下さったという。岡山市内在住のKさんとおっしゃる方で、何と自分の著書まで持参されておられ、サインを求められたのにはびっくりした。先日大三島の時にもびっくりしたのだが、これでこの旅二度目である。ありがたいことである。ブログは、ボケ防止の意味合いがだんだん強くなって来ているのを自覚しているのだけど、よりまじめに取り組まなければいかんなと、ますます反省の意を強くした。Kさん、ありがとうございました。

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