山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

CMの自粛に思う

2011-04-18 05:53:25 | 宵宵妄話

  この度の未曽有の大震災は、我が国のみならず世界の多くの様々な関係先に多大の影響を及ぼしています。改めて今の世の中が一国だけで成り立っていないのだということを実感させられています。そのようなグローバルの話だけではなく、国内という狭い視点の中でも、様々な出来事が生起していますが、その中で人々の日常の暮らしや考え方に大きく影響を及ぼしているCMについて、被災後の自粛の動向を通してあれこれと思うことがあります。

昨日の産経新聞の報道によれば、この度の大震災の直後から各民放局はCM無しの放送を行い、その時間は60~70時間にも及んだとのことです。この結果各局の広告収入は各局の業績に大きく影響を及ぼし、10億円を超えるほどの減収となった局もあるとのことでした。15日までにはCMの放映回数は元に戻ったということですが、その内容はスポンサー企業の自粛からACジャパン(=日本公共広告機構)のCMが全体の約8割を占める状況が続いているということです。

この記事を読むと、民放の経営というものが、如何にスポンサー企業に依存しているかということが良く解ります。70時間ほどのノーCMで10億円の収入減なのですから、1時間当たり1400万円強、1分間で25万円近くにもなり、これはもう相当に決断のいることでしょう。しかしあの大震災はそのノーCMという決断を余儀なくさせたのでした。民放によらずNHKにおいても被災者からの受信料の徴収は困難となるわけですから、広告収入とは無関係であっても、TV事業の経営にとっては甚大な影響を被っていることは変わりないことかと思います。

ところでCMの話に戻りますと、被災後しばらくのノーCMの時期を経て、ACジャパンのCMが登場しました。何種類かのCMが放映されたようでしたが、いつもの賑やかで度を過ごしたシッチャカメッチャカな、奇をてらって何としても印象付けようとするばかりの内容と比べれば、概ね妥当な内容だったと思います。金子みずゞの詩などは、その後再注目されて本の売り上げを増したとか。ずっと以前からこの詩人のファンだった私には思いもよらぬ嬉しい出来事などが生まれました。

しかし、大衆というのは飽きやすいというのか、常により強い刺激を求めるというのか、あるいは又変化を求めるというのか、どの局でもACジャパンの同じCMが何度も何度も繰り返し放映されると、次第に見えない不満を募らせ、やがて好感が薄れてしまい、その内に元々共感の少なかったCMに対しては、様々な批判から非難へとの感情を持つようになるようです。昨今のCMの乱れに対しては、元々否定的な受け止め方であった私でさえも、何だか息苦しくなるような感覚を覚えて、もう少し気のきいたというか、ホッとできるような内容のものが無いのかと不満を感ずるようになったのは、やはり私も又大衆の一人に過ぎないのだということでありましょう。

非常時や不祥事などでCMを自粛するような場合は、ACジャパンのCMに代替されることが多いようですが、それがどのようなものであっても、もう少しCMのメニューの中身を広げて本当に人々の心を元気づけられるようなものを用意して欲しいものだと思います。ACジャパンは、元々業界の行き過ぎた個性のCMの乱れなどを是正するために設けられた業界の機構であり、マナーや道徳などをテーマとしたCM作品づくりが中心だったのだと思いますが、今回はまさに想定外の出来事だったのだと思います。大惨事が起こって、世の中がCMに浮かれているどころではないという自粛状況の中で、代替役としての働きを求められる立場であるとするならば、この後は用意するCMの内容を工夫する必要があるように思います。真の意味で公共に資するCM作品をより多く用意して欲しいと思うのです。

また、放送事業が企業スポンサーなしでは成り立たないのであれば、スポンサーとしての力のある企業は、自社の製品の宣伝広告だけに専心するばかりではなく、このような時こそ自粛などの理由で逃げるのではなく、人々に生きる力を、生き続ける力をふり起こさせてくれるような内容のCMを放映するように、これからは用意して欲しいとも思いました。スポンサーに耐えられる状況でないほど直接の被害を受けられた場合は論外ですが、そうでない場合は、ACジャパンに頼らない自前の社会的な支援の材料としてのCM作品を用意すべきと思います。

もう一つ思うのは、有名人などの口頭での支援宣言CMや或いは文字による数秒のお見舞いと元気づけのことばなどのCMとも言えないようなものが多すぎるという感じがします。「頑張れ」「元気を出そう」「大丈夫」という励ましの言葉は決して虚しいものではなく、好きな有名人からのエールとして力になると思いますが、そればかりを繰り返されても、画面の向こうの人たちにはやがては虚しく消えゆくものとなってしまいかねません。一時的には良いと思うのですが、更に画面の向こうの人たちが自らを奮い立たせるようなメッセージや画像が大切であり必要なのだと思います。それはこれからのこの業界の課題なのかもしれません。たとえば、金子みすゞの詩が多くの人たちの心に届いたように、何か心に残る、残り続けるものを届ける努力をして欲しいと思います。

CMが許されない世界は絶対主義の世界です。そのような国も幾つか存在しますが、情報をコントロールし、人々を狭いエリアの中に閉じ込めておくのは物理的には可能に見えても、人々の心の世界までをコントロールすることは不可能です。コミュニケーションツールの発達、すなわち高度情報化社会の到来は、絶対主義国家の存在を根本から揺るがし、崩壊させてゆくに違いありません。

しかし日本はもはやCM抜きでは成り立たない国となってしまったようです。これはある意味では絶対主義国家よりもより多くの課題を抱えることになるように思います。CM業界が、銭さえ出せば己だけを目立たせる作品を形振り構わず作って放映しろ、というようなスポンサーの意のままに動いていたとするならば、この国はいずれは自堕落に崩壊するに違いありません。その意味でACジャパンの存在は大切だと思いますが、何よりも大切なのは、CMの内容、質そのものです。時には座興的なものも必要だと思いますが、最終的にはCMはスポンサーのためのものではなく、消費者であり受け手である一般大衆のための力となる何かを伝える努力を一層積み上げて欲しいと願っています。今回の大震災では、この業界の未熟さが露呈されたのではないかと私は思いました。

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金村別雷神社に参拝する

2011-04-17 05:09:22 | くるま旅くらしの話

  このところ旅に出かけるのができなくなっています。旅車などで悠長に旅を楽しむなどというのは、非国民の為せる行いだと自分で決めてしまっています。普段通りの暮らしをしてくれないと被災地の経済が却って困難な状況に追い込まれるのだという話もありますが、その中にはくるま旅くらしなんぞという話が含まれるはずがありません。被災地に出かけて何か少しでもお手伝いができないかと思ったりもするのですが、避難所で苦労されている皆さんの前にキャンピングカーなどで行こうものなら、手伝いさせて頂ける前に、拒否や反感を頂戴するのは明らかです。自分が反対の立場に立てば、やはり同じような反発心を抱いてしまうに違いないからです。今回のような大災害時にキャンピングカーが役立つとすれば、それは個人ではなく、チームでの支援活動の際の自活の場としてくらいしかないと思います。それで、今年は長期間のくるま旅を自粛しようと考えています。唯一のチャンスは夏の間に計画停電や放射能等の汚染状況が問題化した場合には、関東の現地から立ち去り、北海道でひっそりと現地暮らしを送ることにでもしたいと考えています。

 で、今のところは、近場の気づかなかった歴史・観光・名所等のスポットへ出かけて見聞を高めようと考えています。それで、今日はその初めに隣の常総市にある吉野公園の桜を見がてら、その近くにある金村別雷神社というのを訪ねて見ようと思い立ちました。この神社のことは地図で見ているだけで、一度も行ったことがないのですが、その名称が珍しいのでどんなところなのか訪ねて見たいと予てから思っていたのでした。

 小貝川というのは、利根川の支流でその源は栃木県の那須エリアにあるようですが、この地域に大雨が降ると下流では洪水となり堤防が決壊するなどして、つくばみらい市や取手市などでは、その昔はかなりの被害を受けている暴れ川なのです。今は大分鎮まっていますが、過去から数多くの堤防工事などが行われており、その後に植えた桜の木々たちが今では幾つかの桜並木の名所をつくっています。吉野公園というのがあり、そこは小貝川が流れを変えてくびれたような形の池となって残った箇所に作られています。ここは川釣り公園として有名で、フナなどの釣り人が多い場所です。その釣堀公園にはたくさんの桜があって、この季節はそれを見に来る人も多いのです。ところが、公園に行く途中にある4kmに及ぶ桜並木のソメイヨシノは既に開花の峠を超えており、葉桜に近くなっているのも見受けられる状況でした。これじゃあ行っても仕方がないと、吉野公園に行くのを止め、そのまま金村別雷神社に向かったのでした。

 この神社が珍しいと思ったのは、その名称から推して祭神が雷ではないかと思ったからでした。雷を祭る神社というのは今まであまり聞いたことがありません。まず金村別雷神社を何と読むのかが判りませんでした。金村というのは文字通り「かなむら」であり、これはこの辺の昔からの地名でありましょう。さて、次の別という字ですが、これは「べつ」ではなく「わけ」ではないかと思いました。今は「わけ」という読み方は使われていないと思いますが、昔であればこの字はむしろ「わけ」と呼んで使っていたように思ったのです。それは奈良県の吉野に旅した時に「水分神社」というのがあり、これは「みずわけ」ではなく「みくまり」と読むのを知ったからです。今の当用漢字は底が浅いので、日本の歴史や伝統を正確に伝えないような文字ばかりとなっている感じがします。あとで神社の由来書きを見て「わけ」が正解であるのを知りちょっぴり嬉しくなりました。次の雷ですが、これはもう勿論「らい」や「かみなり」などではなく「いかずち」に決まっています。つまりこの神社の名称は、「かねむら・わけいかずち・じんじゃ」と読むことが正解となります。但し、「かねむら」か「かなむら」かは地名なので判りません。

 というわけで、その神社に向かったのですが、何と小貝川の土手をあがると、古い橋があって神社はその橋を渡った小貝川の川原と思しき場所にあるのです。しかもその橋は先日の大地震で橋げたの一部が損傷したらしく、通行止めとなっていました。幸い人の通行は大丈夫ということでしたので、歩いての参拝には支障はありませんでした。

 

  

神社に向かう橋。この橋を渡った左手に鳥居があって参道が続いているのだが、この橋は車の通行が禁止されていた。大地震で橋の左のコンクリートの端が傾いているほか、道の舗装にもひび割れが走っていた。

 

暴れ川と言われている川の川原の中に神社があるというのは不思議にして豪胆な考え方だなと思いました。熊野の熊野大社もその昔は熊野川の河原にあったようですが、洪水で流され、今は山の手の方に移されていると聞いています。祭神がよほど豪胆でないと、なかなかできない振る舞いだなと思いました。小貝川には小さな水神様は数多く祭られていますが、こんなに大きくてしかも雷を祭った神社というのは珍しいと思いました。恐らくここは洪水も恐れて避けて通るために、今日までその姿をとどめているのかもしれません。

鳥居をくぐってすぐ傍の左手にケヤキの大木が二本ありました。幹のふもとは(うろ)になっていて、この神社とともに歩んできたのを誇りに思っているよう空に聳えっていました。樹齢は五百年を越えているのではないかと思います。いつも思うのは、巨木というのは歴史の証言者なのだということです。

 

     

2本のケヤキの大木。神社の建物が造られた後の建て直しや大補修の後で一緒に植えられたに違いない、兄弟の樹だと思った。

   

100mほどの参道の両側は草地になっていてその中に何本かの桜が植えられていました。ソメイヨシノの他に大山桜に似たあでやかな色の花の桜の木も何本か混ざっていました。イチョウやケヤキの大木に取り巻かれて、古びた社殿がどっしりと落ち着いた構えを見せていました。

   

   

金村別雷神社の正面からの景観。規模は大きくないけど落ちついた歴史を感じさせる雰囲気に満ちた建物と空間がそこにあった。 

  

拝殿にて参拝を済ませ、社殿の周りをぐるっと見て回りました。大木に覆われた神社の空気というものは、真に清涼感に溢れており、何とも言えない落ちついた味わいがあります。何か珍しい野草はないかと探してみましたが、目ぼしいものは見当たらず、ヒメオドリコソウの群落が幾つかあった程度でした。社殿の裏側の方の土台の一部が崩れているのに気付きましたが、これは先日の大地震の被害に違いありません。そういえば、先ほど通ってきた参道の両側にある幾つかの石燈籠の上部が崩れ落ちていたり、ズレているものがあったのもやはり地震の仕業であり、千年に一度と言われる大地震は、千年以上の歴史を持つこの神社の境内を大揺すりして傷つけたということです。

由来書によれば、この神社の創設は932年といいますから既に千年以上を過ぎています。元々はこの地を領していた桓武天皇の孫である豊田氏が、京都の賀茂別雷大神の分霊を奉迎し、この地に鎮祭したとのことです。豊田氏のことは良く解りませんが、常総市の石下町にはその豊田氏の居城を模した豊田城が造られており、その緑青色の(たたず)まいは近くを通る時は目立った存在となっています。その豊田氏のご先祖がこの神社をつくられたのだということが解り、一つ又この地の歴史の一端に触れた思いがして嬉しい時間でした。

帰りの道の脇に淡い紫色のカキドオシの花の群落と関東では珍しい白花タンポポの群落を見つけて、更にここに参拝したことの満足が膨らみました。

 

  

関東には珍しい白花タンポポの花。関西以西の方から見れば、大して珍しくもない花だと思うけど、そのうちに見られなくなるかも。

 

と、ここで終われば良かったのですが、この後車に戻ろうと橋を渡り終えた途端に、ドーンという地鳴りと共にぐらっと一揺れきたのには驚かされました。震度5のレベルだったとのことです。橋が落ちなかったのは幸運でした。雷神の力で、この地震を何とか鎮めて頂きたいと切に思ったのでした。

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大山桜 灯る                                                                                              

2011-04-16 04:55:01 | ホト発句

 

                

 

   陸奥(みちのく)の 希望(のぞみ)を灯し 大山桜(さくら)咲く

                            

 

コメント:

 

 我が家の前庭のど真ん中に6年前の東北の旅で買ってきた大山桜が育っている。東北の山には、大山桜と呼ばれる桜が多い。山桜に似ていて葉が先に芽を出すのだが、花びらの色が山桜よりは濃くて、その分(あで)やかさが加わる。山道を通っていると、突然その大木に出会ったりする。思わず車を止めて道に降り立ちしばらくその優美さに見とれる。そんなみちのくの山桜我が家にも欲しくなって、その年には東北中を走り回って、秋田県の阿仁町(現在は北秋田市の苗木屋さんでようやく見つけて買ってきたものだ。苗木1mったが、もう4mえ、両手り、メインツリ一本デンている。

 桜の木の生長は早いのだが、その花の咲くのを待つ気持ちよりはずっと遅くて、5年経った去年の春ようやく初めての花をたった3輪咲かせてくれたのだった。今年は昨日初めての花を開かせてくれたが、この他にもまだまだ多くの花を咲かせてくれそうで嬉しい。

 おりしも今年の春先には東日本大震災が発生し、陸奥(みちのく)被災避難所暮ている。大山は、陸奥う。被災地各所点在ていない。我が家開花ど、陸奥である。一足先復興被災地る。

 

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風評被害の犯人はどこに

2011-04-15 03:53:40 | その他

  東北南部及び関東一円の農家は、現在そしてこれから甚大な人災をこうむり続けることになるのではないかという非常なる心配があります。これはもしかしたら農家にとってTPPを超えるほどのものとなる危険性があります。それは風評被害と呼ばれているものです。

今回の原発事故によって、大気中に放出された放射能物質がどれほどの量になるのか見当もつきませんが、はっきりしているのは間違いなく放射性物質が地面まで降ってきており、その量も確実に増え続けているということでしょう。なぜなら、放射性物質を発生させているその根源の原発施設は依然として深刻さを増し続けているのですから。

今日(4/13)の新聞に載っている頭狂電力のトップの言では、今回の事故に対して現在まで適切な対応をし続けてきたということのようですが、大変な信念の人だなと思う反面、何とまあビジネスライクの人間知らずの人としか思えません。成り行きに任せて右往左往の処置をとり続けることが、適切な対応ということになるのであれば、どのような想定外の大問題が起きても心配ご無用となってしまうことになり、(げ)に恐ろしき判断と思わずにはいられません。原発というのは、従来の既存ビジネスの発想を超える問題(=危険性を)(はら)むものだということを改めて感じています。

一般的にビジネスの世界では事故(=アクシデント)というのは初めに罪ありの問題事項と捉えられます。それゆえ問題解決において重要なのは、起きた問題の事後の処置ではなく、その問題を起こした要因の追求とその対策による問題発生の予防ということになるのですが、今回の頭狂電力のトップは、そのことには言及しないことを厳守しているように思えます。大衆の見えない世界でのしがらみががっしりと取り巻いているのだと思います。

ところで、今回のテーマは風評被害ということなのですが、そもそも風評ということばが私は大嫌いです。こんないい加減なことばはありません。正体不明でありながら被害を及ぼすというのは、卑怯者の行為です。その卑怯者が風ということになると、これはもう手の打ちようがありません。こんなバカなことがあって良いのかと心底腹が立ちます。

それで、今回の農産物や海産物に対する風評被害の犯人はどこにいるのかについてあれこれ考えてみました。風ならば、その正体を科学的に分析できるかもしれませんが、その風を誰が起こし、使っているのかとなると、これはもう至難の解明となります。私の分析はもしかしたら見当違いなのかもしれませんが、何も考えずに風評に乗っているよりは少しはマシなように思っています。

先ず真犯人は、これはもう誰にでも明らかです。放射性物質を撒き散らしている事故の震源地に真犯人がいることは明白でしょう。何よりもこの事故を収束させ、放射能物質の飛散を止めることが最緊急の対処必要事項であることは間違いありません。しかし、風評災害そのものは、この収束に対する期待の前に広がっており、これには幾つかの原因が絡んでいると思われます。

風評被害の源となる要因を幾つかあげると、次のようなものが係わっていると思われます。

①放射性物質の測定のあり方

②出荷制限指示のあり方

③流通プロセスにおける関係者の動向

④消費者の購買行動

⑤マスコミ等の報道のあり方

野菜や海産物が吸収した放射能が、人体にとって危険であるかないかは、いわゆる基準値というバロメーターに拠るわけですが、そもそもこの数値がどれほどの信憑性(しんぴょうせい)を持つものなのか一般人には判断できず、学者先生たちの正義の味方としての安全値なのだと思います。ま、その数値は良いとして、問題はモニタリングといわれる測定のあり方です。どのエリアで、どれほどの規模で、どのような測定機器を使用しての調査なのか、どうもはっきりせず一般人には信用してよいのかどうかが判りません。たとえば測定の場所が限定された狭いエリアであるとか、或いは任意の点的な地点に限られているとしたならば、残された広範囲の汚染状の確認は不確実なものとなるのは当然ですし、測定機器の精度に狂いがあったとしたら、極めて細かな数値である以上、その信憑性は極めて多大な不安を含む感じがします。これらの調査測定の条件が相当満たされていない限り、とても一時的なデータ判断結果そうだなどと思いこむわけにはゆかず、不確実なデータによる判断が風評の根源となる可能性は大きいように思われます。

次に政府による出荷制限の指示のあり方ですが、前項のモニタリングの結果の妥当性と相俟って、その制限の指令と解除のタイミングのあり方が一層に風評被害を拡大させているように感じます。現在の政府の出荷制限指示とその解除のあり方は、極めて曖昧だと言わざるをえません。なぜならば、同じ土地に同じ時期に生育した野菜をある時は出荷を制限し、しばらくして大丈夫と制限を解除しているからです。たとえば、ホウレン草やカキ菜を取り上げて見るなら、制限の対象となったものと解除となった物とは同じ野菜であるからです。3週間ほどで以前と違う新しい物を出荷できるほど野菜の生育は早くはないからです。同じタイミングで育った野菜をある時は制限対象にし、3週間経ったら数値が基準値を下回ったから出荷してもOKというのですから、消費者サイドから見れば、どちらの方を信用して良いか判らないことになります。この論理で行けば、風評災害は政府自らが積極的につくり出していることになります。

3番目は、生産から消費に至るプロセスの中で、一体どこが、誰が風評の生み出しに力を入れているのかという問題です。これには生産者を除くすべてのプロセスに係わる人たちが関与していると思われますが、私が思うのには、最大の犯人は農家に対する野菜の発注者の立場にある者ではないかと思っています。消費者でも販売者でもなく、仲介業者として農家に対して野菜の買い上げを担当する発注者の立場にある者です。具体的にどのような人がそれに該当するのかは現在の市場の細かな仕組みを知りませんので、何とも言えませんが、一口でいえばバイヤーという役割を担う連中だと思っています。この人たちは常に消費者の味方を自認し、生産者の思いなどは無視する傾向があります。生産者がつぶれるよりも消費者の不要な満足までをも満たすことを考えてばかりいる輩が多く、日本の野菜がだめならば、海外から輸入すればそれで事足りるなどと考えている連中です。この連中にかかると消費者は誤った購買行動に駆り立てられ、知らず愚か者に(おとし)められることが多いように思われます。特に今回の風評災害ではその傾向が強く表れている感じがします。つまり、消費者が買わないだろうという勝手な思い込みから、安全といわれるレベルでもその野菜や魚の不買行為に走るからです。その結果消費者は買うこともできず、又その理由を知れば一層危険なのだと判断し同じように不買の心理が働くのは当然です。

4番目は消費者の購買行動ですが、私はある意味で消費者は風評被害の加害者側ではなく被害者側にいると考えても良いのではないかと思っています。消費者というのは一般大衆であり様々な価値観を持つ個々人の集合体ですから、購買行動における選択の自由が保障されるのであれば、どのような商品であっても買う買わないは常時消費者の自由なのです。この中から買わない者を犯人と決め付けるのは不可能です。むしろ自分の信念よりも周辺の歪んだ情報に踊らされて不安を覚えて買わないというのは当たり前と考えるべきと思うのです。先にむしろ被害者ではないかと言ったのは、現在風評被害の対象となっている野菜類の直売所には、大勢の人が押し掛けてそれを買っているという現実があるのですから。購買者が風評被害をつくっている側にあるよりも、その野菜を売らないようにしている連中の被害を受けていると考えてよいと思うのです。

最後にマスコミ等に登場頂くことになります。私はマスコミの報道は、それがどんなものでも注意を持っての受け止めが大切だと思っています。マスコミというのは正義の味方を語らって、己の意図の下にある時は被害者の側についた報道を、ある時には加害者の弁護に走る報道を行うことがあるからです。その内容は作り話ではなく、現実の事実に基づくものなのだと思いますが、視点(=意図)を変えれば同じ真実は毒にも薬にもなるという扱いを平気で行うからです。マスコミの報道には、常に相対的とか客観的とかいう内容扱いの考え方が付随していると思いますが、それをどう使い分けてゆくかはあくまでも報道主体の意思や意図によって為されてゆくわけですから、これを見抜かずに受け止めると、何でもマスコミの言う通りと信ずるご都合主義者になってしまいます。風評被害についていえば、マスコミは野菜に含まれる放射能の値が基準を超えたという時点で生産者の味方よりも消費者に(くみ)し、それが解除されると今度は気の毒な生産者に味方する記事を増やすということになります。しかも自らが風評作りに加担していることなどはそよ風が吹いているくらいにも思わず、次のステージでは風評被害の批判を書くといった次第です。我々はこれに踊らされることに馴れて来てしまっている感じがします。要注意だと思います。

ざっと風評被害の犯人の潜んでいると思われる5つの要因について述べましたが、そのどれもがひと癖ありそうなものばかりです。推理小説風にいえば、この5者が複合して犯行を行っているということになるのでしょうか。つまりは生産者を除く社会の全ての人々が何らかの形で犯人の一端を担っているということになるのかもしれません。実に難しい出来事です。

これからの人生の残りの時間を野菜作りなどの農耕作業により多くふり向けようと考えている自分には、野菜作りを生業(なりわい)としている生産者の被害者としてのやりきれない無念の気持ちがじくじくと伝わってきます。風評被害は、自分自身犯人であないいう厳粛って物事真実見極努力ず、ベスト選択す。

それにしても真犯人には、1日1時間1分1秒でも早い根本原因の収束をお願いしたいものです。直接間接に現場で大変な危険にさらされながら作業に従事される方々のことを思いながら、そしてこれから先新しい風評被害などが生まれてこないことを願いながら、一先ずこれを書き終えることにします。

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慈悲の花 

2011-04-14 00:00:13 | ホト発句

                                                         

 

               

 

     被災地の 民にも届け 慈悲の花      

     群れて咲く 枝より愛し 幹の花

 

コメント:

 

今日は風もなく暖かい穏やかな天気で、花見には絶好の日和だった。しかし、この季節は花粉の飛散量の最盛期でもあり、毎度花見はマスクとメガネ必携の大冒険ということになるのだけど、やはり花は見ておきたい。ということで、今年も近くのつくばみらい市の小貝川にある福岡堰の桜並木を訪ねた。

 小貝川をせき止めた福岡堰の歴史は古く、寛永2年に灌漑用として造られたというから、ざっと380年以上が経っている。この間大補修があり今日に至っているけど、灌漑用に作られた導水の築堤に沿って1.5kmほどの桜並木がある。ソメイヨシノが数百本植えられており、なかなかの桜の名所となっている。

 毎年お邪魔しているけど、今年はいつも行われているお祭りのイベントが中止されたようで、訪問者もいつもの半分ほどの静かな花見となっていた。花は今が丁度満開を迎えており、中には早や散り初めという樹もあった。桜の花のトンネルは見事なものだけど、気を惹かれるのは、群れ咲く花よりも忘れられたように大樹の幹にふと見かける花の方だ。小さく可憐でも疑いもなく大樹の花の一つなのである。身近に見られるだけ、その可憐な花の眼差しに愛おしさを覚えるのである。

 東北被災地では桜はどうなっているのだろうか。咲いていてくれれば、それは人々の悲しみを癒す慈悲の花に違いないと思った。幹に咲く小さな花の心が、遠い被災地の方々の慰めに、ほんのわずかでもいいから届けばいいなと思った。

 

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買いだめをしない勇気

2011-04-13 06:39:05 | その他

  東日本大震災に出くわして早くも1カ月が過ぎました。未だにその被害の全容もつかめず、行方不明の方々の消息も途絶えたまま、被災地で厳しい避難所の生活を余儀なくされておられる方も大勢おられるという現実が続いています。一方で大地震がもたらした原発事故という不気味な二次災害が深刻さを増す中で、新たな避難生活を強いられる方たちも続出しており、この大事件はこれから一層の難題を膨らませつつあるような思いがしています。現地に出向くこともままならず、遠くから小さな祈りを奉げるだけしかできない己の無力さを感じながらの毎日が続いています。

今回の大震災の出来事の中で、自分自身にも直接・間接に係わることが幾つかあります。その一つに買いだめという行為があります。私自身が買いだめをしたという思いはないのですが、ともするとその方向にブレかけたことが何度かありました。このような感慨を持たれている人はかなり大勢おられるのではないかと思います。

地震が起きて真っ先に感じたのはこれから先の暮らしにどのような影響が出るかということでした。これは津波に襲われた地域以外に住む人たちには共通の気づきではなかったかと思います。私の場合真っ先に思ったのは、とにかく車の燃料だけは入れておこうということでした。ひどい揺れが収まった後、しばらくTVを見ていましたが、ハッと気づいて直ぐに給油スタンドに直行しました。その時は給油のために車が列をつくるなどという気配は全くありませんでした。軽自動車ですから満タンにしても20L足らずです。旅車の方は未だかなり余裕があり、旅に出る予定もありませんでしたので、給油は見送ることにしました。その他のものについては、食料も水も全く考えませんでした。

ところが夕方になって外を歩くと異常事態が始まっていました。まずは給油所に車の列ができていたことです。そしてスーパーへ行くとパンや牛乳、インスタント食料品などの売り場の棚が空になっていたり、なりかけた状態となっていました。そして翌日はこの状態が益々酷くなり、米すらも売り場から消え去っていました。いわゆる非常時に必要と目される物の殆どが買いだめの対象となり、無くなり出したのです。それは被災地の現状が明らかになり出すと共に益々ひどくなっていった感じがします。滑稽さを覚えるほどのひどさでした。

このような事態が1週間以上続いたと思います。我が家では多少在庫もありましたので、そのような動きに振り回されないように努めることにしました。このような時には、概して家庭内の権力を握っている主婦といわれる立場の人が大騒ぎして走り回る傾向が強いのだと思いますが、我が家の主婦はそのようなタイプでないのが幸いでした。物不足で困っているのは被災地なのですから、被害にも遭っていない者があわてて余分な買い物をする必要はないのです。そのような理屈は解っていても、それは一般論であって、自分の家だけは別であり、少しでもいいから安全・安心を確保しておきたいというのが多くの人々の気持ちなのだと思います。そして、その積み上げが売り場を空にするという結果につながっているのだと思います。

このような人たちの心の働きを止めるのは至難のことだと思います。先行きが見えない非常時の心理は、人間から大局的な見方や思考を失わせ、当面の自分の安全をどう確保するかに目一杯走らせるようです。これはもしかしたら本能の働きでもあるような気もします。ですから幾ら自制を呼びかけ、非難しても届かないのだと思います。何しろそれとこれは別という受け止め方なのですから。

3週間ほど経って、ようやく給油所に並ぶ車の列は消え、スーパーの売り場の状況も元に戻りつつありますが、現在でも単1の乾電池や水などは殆ど見かけず、あったとしても限定販売となっています。現在まで残っている買いだめの対象品は殆どが二次災害である原発事故に起因するもののようです。

買いだめの心理というものは、少しばかり先の将来に対する不安に発しているのは明らかであり、その解消のためには何よりも不安の原因を無くすことが肝要です。少なくともその原因を取り除く見通しくらいは明確にしなければ、口先だけの大丈夫では人は決して納得しないように思います。今この国に求められるのは、早急な原発事故の収束です。

もう一つ買いだめについて思ったのは、それに振り回されないために必要なのは、正しい知識と正確な情報なのだということです。前述の目の前の将来に対する不安を解消するためには、その原因を無くすことが第一であると同時に、その問題がどのようなものかに対する正しい認識なのだと思うのです。そのためには正確な知識と情報が不可欠です。そしてそれは与えられるのを待つのではなく、自ら求める必要があります。何といっても問題は他人事ではないのですから。

更に最後に最も大切なのは、これらの問題に対する正しい認識に基づいた信念ある行動だと思います。それを生み出す心の働きを勇気と呼ぶのだと思います。勇気は覚悟によって支えられているとも考えます。買いだめをしない勇気と覚悟を持てるように心がけることが何よりも大切だと思いました。

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余震の日

2011-04-12 02:41:00 | その他

 東日本大震災から丁度1カ月が経ちました。あっという間です。しかし残念ながら一向に事態は収まってはいません。被災の全容も未だ判っていませんし、原発事故の成り行きも不明です。

 それなのに今日は追い打ちをかけるように余震という奴が何度も襲ってきています。今日は明らかに余震の日です。特に午後からはその強さや回数が悪化の途をたどっている感じであり、不気味さを加えています。関東以西に住まわれる方にはピンと来ないかもしれませんが、関東以北に住む人には今日は異常日だということは誰もが実感しておられるのではないでしょうか。

地震の怖さは、世の中の怖さの中でも第一等のものだというのは、「地震、雷、火事、親父」という世の真面目な戯言(ざれごと)の中に明らかです。地震の怖さは何の前触れもなく突然やってくるところにあります。原因が判るのはすべて後になってからであり、事前にはさっぱり判りません。雷も火事も親父も怖さも、その前触れには原因があってある程度は見当がつきますので予め防ぐとか覚悟するのもしやすいのですが、地震だけはどうにもなりません。地震の予知というのは普段の暮らしの中では全く当てにならない感じがします。

今日は何度も震度4レベル以上の地震が起こっていますが、ふと思うのはもしかしたらこれは余震などではなく、何か新しい大地震発生の前触れなのではないかということです。今回の大地震が引き金になって、別の断層が動き出しているのではないかという恐ろしい予感のようなものを感じています。

学者先生方の話は皆本当のことだと思うのですが、それらの理論理屈は理解できても、そのことがいつどこでどのように起こるのかという、我々が一番知りたい具体的な事柄は何一つ明らかにはなりません。起こりそうだという話は、東海大地震などの話が毎年9月1日の防災訓練の際などに話題となり、プレートがどうとかの話が出ますが、それが明日なのか1週間先なのか、ということになると何の明示も不可能です。要するに大自然の動きには人間の能力は遠く及ばず、計算では計り知れない何らかの力が秘められているということなのでしょう。

日々を動物として生きている我々人間には、コンセプトレベルの理屈では安全や安心をものにすることは不可能なようです。未来を正確に予知することは、人間の力では無理があるようです。大ざっぱにならできるとしても、それは限られた小さな範囲の中のことであり、総合的には無力に等しいような気がしてなりません。

ま、このようなことを言うと、科学者の方たちからはその無知を(わら)われるのは必定なのだとは思いますが、私としてはこれだけ毎日住まいを揺さぶり続けられると、科学の力などよりも大自然の力の方に圧倒されて、もう恐れ入るしかないように思うのです。

それにしても、不気味です。これを書いている今も2度ほど机が揺れ、窓ガラスが震えました。日本沈没というSF小説がありましたが、もしかしたらまさに今それが起こりかけているのではないかと思うほどです。東北から関東にかけての大地震が引き金になって、次に東海沖での大地震が起こり、更には南海沖でというふうに連続して大地震が起こらないという可能性はないとは言えないような気もしてくるのです。

もしこうなったなら、もはや国内のどこへ逃げたって無駄というものでしょう。国外へ逃げられる人は限定されますから、私などは最初からそのようなことは考えないことにしています。今、東日本大地震で被災された方々と同じ状況起こらないとも限らないのです。なんともはや不気味な一日でした。もうこれ以上の悲劇が起こらないことを祈るばかりです。

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大根の正体 

2011-04-11 00:45:00 | ホト発句

                                                         

 

               

 

      ど根性 やがて必ず 花は咲く

                    二面性? どちらがホント この姿

 

コメント:

 

 散歩をしていたら、強烈な大根さんに出会って思わず足を止めシャッターを切らせてもらった。採り残された大根が花を咲かせていたのだが、何とこの大根は根をむき出しにしていた。しかも同じくらいの太さの四本の脚が絡み合っているのである。そしてその上に楚々たる白い花を咲かせていた。

何年か前の旅で、兵庫県は相生市の道の駅でど根性大根の話を聞いたことがある。こぼれていた大根の種がアスファルト舗装された道路を押し割って成長したという感激の美談が新聞に取り上げられ、その大根は大ちゃんと名付けられ、バイオ技術で二世も生みだされているとか。道の駅にはそれにあやかった「ど根性」という酒も売られており、買ったのを覚えている。

この大根が大ちゃんほどの逞しさがあるのかどうか判らないけど、太った脚が四本もあるのだから、引けを取らないかもしれない。もしかしたら、コンクリィトでも破ってしまうかも。

植物には不思議な力がある。それにしても脚に比べて、この涼しい花を咲かせている姿は驚きである。すずしろ(清白とも書く)というのは大根の別名だけど、それは白く清らかな根のイメージから呼ばれたものであろう。だけどこの大根を見る限りでは、脚の方は清白ではない。それでも花の方は紛れもなくすずしろだなと思った。

 

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根のいのち

2011-04-10 10:48:30 | ホト発句

     

       

                

 

      春は(また) 吾を見捨てず 此処に咲く 

 

コメント:

 

 守谷市に越してきてから2年目くらいだったか、アネモネの鉢を買って来て見終えた後に、前庭の片隅にそれを地植えにした。それから毎年、春の初めに、その生き残っている株から、たった一輪だけ小さいけど真っ赤な花を律儀に咲かせてくれている。 そして開花期が終わると、そこに植えていたことも忘れてしまい、その存在は秋から冬にかけては全く忘却の彼方に消え去ってしまっている。

 だけど、人間の身勝手な思いとは係わりなく、どっこい、その分だけこの花のこの庭での印象は益々強烈となって来ている。

 植物というのは、根が何よりも大切なのだと思う。同じように人間も根の部分が大切なのだ。

 東北の被災に遭われた方々の根っこが、力強く再生の息吹を躍動させてくれることを心から願っています。

 

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日本的思考は日本人のもの

2011-04-09 05:43:55 | 宵宵妄話

  ブログを書いているといろいろな方からコメントを頂戴することがあります。その方々がどのような人物なのか判らないので、コメントを頂いて気にするのは、せいぜい私に対して好意的なのか悪意なのか、はたまたまともではない別世界の変人なのかと判断するしかないわけです。その中でも、どう受け止めていいのか判らない方に時々出会うことがあります。出会うといっても直接お会いしていないので、その真意は勘ぐるほかありません。そのお一人に「noga」というハンドルネームの方がおられます。このお方には2度コメントを頂戴しました。

私のブログは、もともとくるま旅くらしのあり様を綴ろうと始めたものなのですが、今は家内の体調のことなどもあって旅が自在にはできないため在宅がほとんどで、身近の出来事や世間のありようなどの感想を書き綴っていることが多いのですが、それらの出来事に心を共振したり反発したりすることがあり、時々我ながら少し度を越したかなと思うことを書くことがあります。たとえばこの国の在り様とか、あるいは今回の東日本大地震では、様々の驚きとともに心を揺すぶられる報道などにぶつかってその思いなどを書いています。その時にこのnogaという方からの言葉を頂いています。それがどうもよく分らないのです。

多分に私のものの考え方に対する批判なのだと思いますが、それはどうやら私が日本人的な曖昧な発想でものごとを述べていることに対するご批判のようなのです。この方の日本人に対するご意見は厳しく、日本人の使っている日本語には時制というものが無く、未来も過去も皆それらを一緒くたにして現在で括って表現し、思考しているということのようです。時制を大切にする(というよりも当たり前とする)国においては、ものごとの真実がクリアーに見える生き方が可能となるけど、日本語に埋没している日本人にはそれができないようだという様にも聞こえます。それが本当なのかどうか私には解りません。日本語に時制が無いということは明らかですから、そうなのかもしれません。

今の世界は英語が中心となっており、真の開国のためには英語を身につけ英語圏での発想を理解し、英語を通して日本人というものを理解してもらわなければならないというご意見です。それはそうかもしれません。また、時制を持つ言葉であれば、英語以外の国でも良いということなのかも知れません。とにかく日本語ではだめなのだということのようです。

私は外国語のさっぱり判らない生粋の日本人の田舎者ですから、この方(nogaさんというのは寺島眞一というお名前らしい)の理解では、どうやら得体の知れない意思のない恣意ばかりの人間となるようです。そしてブログに書いていることは大方(あるいは全部)単なる愚痴のようなものに過ぎないということになるようです。これは的を射ていますね。宵々妄話として括ってあるのは、もともと自分でもこれらの話は妄話なのだと、そう思っているのですから。くるま旅くらしの話だって、その他の話だってブログなどというものは、せいぜい妄話の類に過ぎないものでしょう。

一国の言語がその国の国民性とか精神性を表すというのは当然のことだと思います。開国のためにはそれらを捨てて世界に共通する言語を身につけ、それに基づく新たな国民性と精神性を作りなおさなければならないというのならば、私は鎖国を選びます。今も現実に鎖国を続けているのかもしれません。子供のような日本人で良いと思っています。英語を話すことによって、日本人のメンタリティや国民性が英語圏に同化し、彼らと同じような発想、思考体系を持たなければならないとしたら、日本人はどこへ行ってしまうのか。日本語はアイヌ語と同じように地名くらいでしか残らなくなってしまうのではないか。そして同じように日本の文化なども観光用に残るだけのものとなってしまうのではないか。日本人の田舎者には、そのような開国の条件はとても飲めるものではありません。

私は英語が我が国の第2公用語として取り上げられることに反対するものではありませんが、それが日本人の国民性や精神性をなくすためのものであるならば、反対せざるをえません。日本語が日本人の曖昧思考と行動を生み出しているとしても、それは日本人の一面を観念的に強調しているだけであって、日本語しか話せない日本人にも意思はあり、意思決定もあり、他力本願や神頼みではない現実の暮らしがあると思っています。効率的、合理的な生き方に慣れると、それが至上の生き方なのだと思うのが人間の常だと思いますが、得体の知れない生き方の中にも過去、現在、未来につながる筋道はあるのであり、時制の言語とは違う良さもあるのだと思うのです。私は日本人の田舎者として日本語に基づく曖昧思考をこれからも生きている間は図々しく続けてゆくつもりです。

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